縁
翌朝、私は始発電車のシートに揺られながら、一路山梨を目指していた。冷静になって考えれば、102号室の住人の実家へと向かったところで、何か良い解決策が見つかるのか、と言う考えも、正直芽生えている。それとも、お寺と言うワードに知らず知らずの内に、妙な期待を寄せていたのかもしれない。が、一年にわたりほとんど外出しない男性が、決まった僅かな日数とは言え、そこへ足を向けていると言うのならば、それにはそうさせる相応の理由があるはずだとも思った。無論それは、男性が毎年向かう先が、実家であるその寺だと言う前提の上ではあるが、その推測は間違ってはいないだろう、とも私は心の中で思っていた。
3時間程して列車は甲府へと到着した。それから更に電車とバスに揺られること2時間近く、ようやく私は『明院寺』へと続く、長い石段の前に立っていた。久しい長旅に加えての運動は体に鍛えるが、まさかここまで来て引き返す訳にも行かない。私は意を決して石段を登り始める。
何とか体に鞭打って、石段を昇りきった先にある正門をくぐると、ちょうど境内で、住職らしき年輩の男性が掃除をしているところに出くわした。その男性は、私の気配に気付いたのか、ふとこちらに顔を上げるーーと、途端目をカッと見開いて、私を見据え「・・・お前!?」と、声を上げた。
しかし、一瞬後には我に返ったのか、半ば驚いた表情で「あっ・・・」と一言だけ呟くと、ばつの悪そうに軽く頭を下げた・・・。
その後、簡単に事情を説明した私を、住職は本堂へと通した。対面に座る住職は、長らく仏門に仕えて来たことが伺える厳かな佇まいを感じさせて、口を開いた。
「そうですか・・・あいつと同じところに・・・ええ、あいつは確かに私の身内の者です。正確には・・・私の甥ですな。」
甥・・・?ここは実家と言う話では無かったのか?心の中に生じたそんな疑問を見透かしたかのごとく、住職は続ける。
「あいつの両親・・・私の弟夫婦でしたが、彼らはそれぞれ、あいつが小さい頃に亡くなりました・・・。父親は事故、母親は病気で・・・。それからは私があいつを引き取って、親の代わりのようなことをさせていただきました。それでもやはり、本当の親に比べて力が及ばなかったんでしょうな。若い頃はヤンチャばかりやっていたものですよ・・・ただ、唯一血を分けた妹には優しくしてしましたね。妹の奴も、あいつを頼りがいのあるお兄さんだと思っていたようです」
「妹さんが居らっしゃったんですか?それで、その人はーー」
「・・・亡くなりましたよ。あいつが十八の時です・・・。白血病でした。発見が遅れてしまったんですな・・・。それ以来、あいつは憑き物が落ちた様にまじめになって、東京で就職が決まった時は私も喜んだものです」
住職は心の中で当時を思い出したかのように、感慨深げにそう語った。ーー両親と妹・・・そのどちらも亡くす・・・何だろう、ここに来て何かが頭の奥底に引っ掛かる。だが、それが何なのかが今一つのところで分からない。
「・・・あいつが変わったのは・・・数年程ぐらい前のことです。安くて、職場からも近い家を見つけたから、来月には引っ越すと言われました・・・その翌年の冬のことでしたーーあいつが帰ってきたのはーー師走の刺すような冷気に覆われていた寒い日のことでした。私が、ちょうど先ほどのように境内の掃除をしていると、いつの間にかフラリと正門の前に現われたのですよ・・・。時期が時期ですので、一瞬里帰りかと思いましたが・・・ーー次の瞬間には、そうじゃない、と直感的に分かりました。なぜと言って、鞄一つ持たぬ手ぶらでしたし、適当にそこらにあるものを羽織って来たような、着の身着のままのような身なりをしてましたからね・・・それにーー」
「それに・・・何ですか?」
住職はほんのしばらく無言で目を伏せると、意を決したように口を開いた。
「それ以前に・・・あいつを視た瞬間、何かーー異様な雰囲気・・・空気のようなモノがあいつから感じられたからです」
・・・。一瞬今聞いた言葉が、何か悪い冗談のように聞こえ、私は言を繋ぐことができなかった。住職も気持ちは同じなのだろう、お互いの間に気味の悪い静かな空気が流れる。私はつばを飲み、何とか意を決して尋ねた。
「その・・・異様な・・・空気?雰囲気?ですか?それは・・・悪いものなのでしょうか?」
聞かなくても当たり前だろうと思いながらも、私は念のためにそう質問する。だが、住職の口から出た言葉は、予想していたものではなかった。
「ーーそうとは言えません」
「え・・・?そうとは言えないって・・・?では良いものなんですか?」
そんな訳は無いだろう、と私はその先の言葉をを心の中でだけ呟いた。
「・・・陰陽ですよ、この世の万物はーーただ、何が良い、何が悪いと、簡単に分けられるものではありません。森羅万象、陽ーー良い側面もあれば陰である悪い側面も、またあるものです。そうですな・・・昨今の時節がらに例えてみれば・・・原発なんかがそうです。事故が起れば多くの人が土地を離れることとなり、人々の健康を損なう・・・が、その一方で、そこから得られるエネルギーで多くの人たちの暮らしが支えられ、日々の生活を送ることができるーーモルヒネや大麻と言った法律で禁止されている薬物ですら、痛みに耐えかねている病人や怪我人の心を救い、安らがせると言うこともあります。ですから、多くの国の病院では、多くの人にそれを処方しているのですーーアレもそう言った類のものなのです・・・ただーー」
住職は続けた。
「人がーー特に身内がそれに関わろうとしていれば、私だったら止めます。私が言えるのはそれだけです・・・」
再びの沈黙が本堂に流れる。ハッキリと良くないもの、と言われた方がマシだった言葉を聞かされ、私の背筋に冷たい何かが走った。
「そ、それで・・・その、甥子さんは結局その時どうなったんですか?」
恐る恐るそう聞くと、住職は先ほどと変わらず、落ち着き払った声でこう言った。
「あの後ーー私はとりあえずあいつを寺に招き入れました。思ったとおり、あいつはただの里帰りではなく、逃れようと思ってここにやって来たのです」
「逃れる?何からですか?」
「・・・あいつの居た土地からですーーあそこにいたら俺はダメになるーー自分が自分じゃ無くなるーーそうあいつは呟いていましたーー」
聞きながら私は、一言も発することが出来ず、住職の言葉に耳を傾けるーー自分が自分では無くなる、と言葉で、まったく人が変わったと言う、先日聞いた言葉を思い出しながら。
「で、その日はそのまま本堂に泊めましたーー私としては、あいつがこちらで心機一転、やり直したいのなら出来る限り力になろうと思っていたのですが・・・翌日、目を離した隙にあいつは居なくなっていました・・・そして去年の同じ日、あいつはまたも同じ様に帰ってきたのです。その前の年と同じ事を言いながら・・・。今度こそは帰すまいと、あいつを見張っていましたが、あいつは普通に帰ろうとして、止めようとする私と揉み合いになりました。その時あいつは言ったんですーー妹を待たせちゃいけない、妹と一緒に過ごすんだ、と・・・」
住職がそう話し終えた瞬間、晴れていた空は、いつの間にかどんよりと曇り、遠くの空から雷鳴が轟いてきた。程なく、僅かな雨音が聞こえたと思うと、すぐにそれは大粒の雨となって地面を際限なく降り注ぎ始める。
その時、暗くなった本堂の中に座る私の頭の中で、何かが繋がった。ーー『裏野ハイツ』の住人たちは、みな近しい人たちを亡くしているーーどの部屋の住人もーーいや、それ以前に唯一長年住み続けた人間、『伊東』ーー復縁の神ーーそこまで考えた時、すぐ窓の外で雷光が光った。そしてその瞬間、かつて編集が言った言葉を思い出す『一年一月願を掛ければなんびととりとても縁を取り直さん』ーーなんびととりとてもーーまさか・・・そんなっ・・・死人とてもーー
「あの、ご住職さんっ!・・・これは、先日調べて分かったことなのですが・・・」
私は、編集と共に調べた『裏野ハイツ』とその土地の過去に付いて話した。浦弥神社のこと、『伊東』のこと、人が居つかないこと、そして・・・『裏野ハイツ』の住人たちについて・・・。
話を聞き終えると、住職は最初驚いていたが、すぐに納得した、と言った様子に立ち代り、口を開く。
「なるほど・・・神社・・・恐らく昔の人々は、直感的にその土地の性質を悟っていたのでしょう。だからこそ神社を建てた・・・水害の多い場所に、水を司る神様を祀った神社を建てるのと一緒です。」
「だからこそ?神社の・・・神様とか祟りとか、そういうものではーー」
その様な神・・・と言うか、そう言ったモノを祀る神社の跡地に家を建てたのが原因だと思っていた私は、疑問に思ってそう聞いた。
「神様など居ませんよ。これは何も私が僧侶だから言うのではなくーー少なくとも、人が考える人為的な意識を持った存在としての神様は・・・ね。神の興りは自然です。ただ、現象としてそこにあるーー水害が起こりやすいのは、何かが意図した訳ではなく、たまたま偶然、氾濫の起きやすい地形だったからに過ぎません。そして、あの土地もそれと同じモノなのです・・・」
「・・・あ、あの・・・その影響を・・・どうにかして祓うことはできないんでしょうか!?」
叫ぶように言った私と対照的に、住職は落ち着きはらった声で静かに言った。
「アレは、自然のものであり、ただの現象です。祓うとか祓えないとか、そう言った存在ではそもそもないのです。洪水やこの雨を止められないのと同じことです・・・」
本堂を出ると、雨は先ほどより小降りになっていた。私は内心の落胆を抑えながら住職に礼を述べる。
彼が私を正門まで送って行くと、別れ際にこんな言葉を聞かされた。
「実は・・・今の今まで言うかどうかを迷っていたのですが・・・最初にあなたをお見かけした時、私はあなたをあいつの姿と見間違えました。それと言うのもーーあなたから、二年前のあいつと同じ空気を感じましたからーーどうか息災を祈ります」
東京へと向かう上り列車、窓際に肘を掛けながら、私はぼぉっと、車窓から流れる風景に目をやっていた。ずいぶん前に県を跨いだはずだが、目にする光景はずっと雨空のままだ。それを見ていると、まるで雨雲が私を追いかけてきているような思いに囚われる。
囚われる・・・土地に・・・。『人を選ぶ土地』・・・ふいに老婆の言葉を思い出す。では・・・選ばれた人間はどうなるのだろうか・・・。そんなことを考えながら、いつのまにかウトウトと意識がぼやけてくる。眠りに落ちる瞬間、窓ガラスを打ち付ける雨粒と同時に、無性に部屋に帰りたい、と言う感情が私の中に起ったことに気がついた・・・。
私が居るーー私の目には、今より幾分か若い自分の姿が映っている。そして、今目にしている『私』は、傍から見ても哀れになるほど狼狽しながら、携帯に耳を傾けている。一瞬後、まるでドラマのシーンが切り替わったかのように、『私』は白い廊下を走り抜けている。そして、一つのドアの前で止まり、それを開け放つ。先の出来事を知る私は、思わず目を逸らそうとしたーーが、できない。私と『私』の眼前には、顔に白い布をかけられた女性が簡素なベッドに横たえられていた。ーー止めろ・・・止めろ!声に出せないその思いを無視するように、目の前の『私』は、恐る恐る白い布を捲った。そこには、まるで眠っているように瞳を閉じた、私が愛した女性の姿があった・・・。
最寄駅に着くや否や、私は駅前のタクシーを拾い、脇目も振らず『裏野ハイツ』の自室へと急いだ。依然雨が降り続いていたが、不思議なことに、あれほど恨めしく思えていた梅雨空を、私はまったく意にしなくなっていた。ただ、一刻も早く部屋に戻りたいと言う気持ちが私の心中を占めていた。
急いで部屋のドアを開けて中へ入ったーーそこでまた、彼女が付けていた懐かしい香水の香りを感じて、はっと我に帰る・・・。さっきまで私は何をしていた・・・?ふと玄関からリビングに目をやると、テーブルに一人の女性が座っている。女性はこちらに振り向くと、にこりと微笑んだ。それは以前、私が夢で見た女性のそれとまったく同じものだったーー。
はっと気が付くと、すでに女性の姿はどこにもなかった。にも関わらず、確かに彼女が今の今までそこに居た気配を感じる・・・。
「おかえりなさい」
瞬間、私の全身に怖気が走った。今の声は・・・?空耳ではない、それは確かにハッキリと、直接私の脳内に響くように語り掛けてくる。
「どうしたの?疲れてるんでしょ?早く上がったら?」
ーーここに居てはいけない!心臓が早鐘のように脈打ち、脳はシグナルを発している。それは明らかに警告だった。
私はドアに持たれかけながらも、何とか後ろ手でドアノブを回し、倒れ込むように部屋の外へと踊り出る。
そのまま、全力でアパートを出ると、雨粒を搔き分けるように駅の方面へ向かおうとする・・・が、そこで私の足はなぜか止まった。どころか、まるで身体が私の意に反する様に、自分自身の思いとは裏腹に、足が自然と向き直り、つま先がアパートへと向けられる。
依然、私の脳からはアラームが鳴り響いていたし、理性も全力でそれに私を従わせようとする。が、それ以前の、私の心の最も深いところから、それとは反対の思いが沸き出てきていることにも気付いていた。
ーー帰りたいーーふと路上から『裏野ハイツ』の私の部屋を見上げると、街灯の僅かな光が窓に映る女性の姿を照らし出す。・・・彼女だ。
その瞬間、私ははっきりと思い出す。
例年続いた空梅雨が嘘のように、連日の雨が続いた梅雨の季節、滑りやすくなったアスファルトにタイヤを取られた車・・・スリップしたその車は、ちょうど斜め前を走っていた彼女のスクーターに・・・!
それを思い出しながら、私は先ほどから自分の体に降り注ぐ雨を、まったく意に介していないことに気が付いた。彼女の命を奪う遠因となったこの梅雨の雨をーー。
自然と足が『裏野ハイツ』へと向かう・・・。なおも逃げようとする思考とは裏腹に、私の感情と体は、自室へと歩みを進める。相反する二つの意思のせいか、私の足元は定まらず、まるで酔っ払いのようにフラ付きながら、時に止まり、時に小走りで廊下を進む。もたつきながらも階段を昇りきり、夢中で目の前のドアを開けた・・・。
そこは、私の部屋ではなかった。
見覚えのある質素な室内ーー201号室ーーそして、なぜか照明の付いていない真っ暗なリビングの椅子に座る老婆ーー手には・・・写真・・・?それをじぃっと見つめる彼女は、ふとこちらに気付いて驚くと、静かな声色で言った。
「・・・あら?部屋を間違えたのね?ダメよ。ここは私の居場所なんだから」
思わせぶりにそう言うと、彼女はふと何かに気付いたのか、どことなく悲しげな口調で続けた。
「・・・あなたも選ばれたのね・・・。私より強く・・・」
その言葉を聞いた瞬間、全身に悪寒が走り、私は慌てて、転がり込むように隣の部屋へと駆け込んだ。同時に足が縺れ、私はリビングの敷居に倒れこむ。
ふと、目の前に女性の足が見えた。ゆっくりと顔を上げると・・・
「どうしたの?いきなり出て行っちゃって?」
愛する女性が、そこには居た。
「・・・・・・いや・・・・・・何でもないよ、心配かけさせちゃってごめん」
私は笑顔でそう答えた。不安はもうどこにも無く、逆に安らかな気持ちが私の心を占めていた。
・・・・・・あれからどれだけ経っただろう。私はあれから一歩もこの部屋を出ていない。
しばらくの間、編集から引っ切り無しに着信があったが、全て無視した・・・。今の私にとっては、この部屋で彼女と一緒に過ごすことだけが唯一の幸せで、それ以外は心底どうでも良かった。
ふと、ずっと空室だった、隣の部屋のドアが開けられる音が聞こえた。
「こちらのお部屋になります・・・どうですか、築30年にしては中々の・・・角部屋ですから、環境もよろしいですよ・・・」
どうやら業者が、新しい入居者を連れてきたらしい。今度の人間もこの土地に合うだろうかーー