由来
「はははっ!なるほど、要は住人達たちの中でちょっと・・・おかしい人が居るってことですねっ!いやぁしかし、そこに一年も暮らしていて、やっと今ごろ気付いたセンセイも中々アレですねぇ。ははっ!まあでも別段困ることもないんですからいいじゃないですか。アパートの住人が病気だろうと引き篭もりだろうと。世の中にはですねぇ、薄い壁や天井の向こうから、夜通し赤ちゃんの泣き声やら、ケンカの怒鳴り声やら、後、アレしてる声なんかがしょっちゅう聞こえてくる、なぁんてところもゴマンとあるもんですよ。それに比べりゃセンセイのとこなんて、そう言ったトラブルも無い上に、皆さんフレンドリーだし快適そのものじゃないですか。第一ですねぇーー」
駅の正面にある、とある全国チェーンの喫茶店、その中のテーブルの一つで私と向かい合って座っている、若干二十を超えた程度の、幼い面持ちを残す男ーー私の担当である編集者は、立て板に水と言った感じで話し続ける。彼は一年ちょっと前、ちょうど私が『裏野ハイツ』に引っ越す少し前に私の二人目の担当となった男である。
明るく人当たりの良い彼は、それでいてそこそこ気が利くところもあって、私もかなり気に入っていたのだが、それもひとえに彼と彼の前任者の落差が大きかったところもあるからかもしれない。何せ最初の担当者と来たら、ただ徒に歳を重ねたベテランであることだけが取り得の様な、陰気でいけ好かない男で、打ち合わせをしたらしたで、私の様な小物作家には礼儀など不要、と言わんばかりに、やれこんな遠くまで来るのは時間の無駄だの、私の方から出向くのが立場上正しいだのと言いたい放題、原稿を見せれば、延々何時間も細かくグチグチとダメ出しをし続ける。それでいて、こちらが内心書き直しかと思いきや、「まあそれでも今回はこれでいいでしょう。」と原稿を持っていく始末だった。正直何度、水を顔面にぶちまけて怒鳴り散らしてやろうと思ったか知れたことではない。その他にも・・・と関係の無い話はこれぐらいにしておこう。とりあえずその男に比べれば現担当の彼など正に聖人に等しい。ただ、今回の様な話し出すと止まらない、やや饒舌過ぎるのには時折ゲンナリするが・・・。
「・・・はぁ、そんなもんですかねえ」
わざと呆け気味な声でそう言うと、彼は意に介した様子も無しに続ける。
「僕はそう思いますけどねぇ・・・・・・そうだっ!そんなに気になるなら・・・・・・調べてみる、ってのはどうですか?」
「・・・調べる?」
思いもよらない彼の言葉の真意を図りかねていると、彼は先ほどとは一転、小声で顔を近づけるようにしながら先を言う。
「えぇ・・・そんなに気になるんだったら、その住人のことについて調べればいいんです。いやね、さっきまではああ言ってましたけど、でもそう言いながら僕もふっと思ったんですよ、やっぱりおかしいって。だって、さっき僕が言った様な住人が居るとこなんて、それこそよくあるご近所トラブルとして聞きますけど、先生のところみたいな住人が居るなんて話は、あんまり聞いたがないですから。もしかして、次の小説の良い題材になるかもしれないですよ?いやいや、何も興信所がやるみたいな身上調査じみたことまでやれって訳じゃなくてですねぇ、事情通のお婆さん何かから、それとなぁく聞いて探ってみればいいんですよ。それと・・・これは根拠も無い、完全に個人的な直感ですけど、そうすれば何か本当に作品に出来るぐらいの面白いことが分かる、ってそんな予感もするんです」
「それでは来週の月曜にまたお会いしましょう。その間、僕はセンセイの住んでるところのアパートや土地柄についてリサーチしておきます。何か分かったり、急ぎの用件があれば携帯の方にご連絡入れますんで、よろしくお願いします」
結局、私は彼の提案に同意していた。彼の真剣な面持ちに飲み来れたと言う訳ではないが、その後に「センセイがゴーサインを出してくれるんなら、僕も空いた時間に色々とお手伝いします。とりま、センセイが住人について調べてる間に、僕はセンセイの今住んでる住居や土地について調べときます。そのーー何とかって言うおばあさんの言った言葉も気になりますしーーもちろん、それぐらいならそう手間も時間も掛からず調べられると思いますので」とまで言われては、断るのも何とはなしに気が引けた。・・・それに、彼の直感したいわゆる「勘」が、話している内に私の中にも生じたことが、それ以上の理由でもあった・・・。
ピンポッーン!目の前にあるブザーを押すと、間髪要れずドアの向こうから小さくそんな音が漏れ聞こえる。それから間を置かず、「どなたですか?」の声と同時にドアが開いた。
「あら、今日はどうしたんですか?何か御用?」
目の前に現れたこの部屋ーー201号室の主である老人はそう心配そうな声で私に話しかける。
「いえ・・・特別何か差し迫った用件がある訳ではないんですが・・・、お時間があるんでしたら少しお聞きたいことがありまして・・・」
「まあ、そんなことを言われたんですか・・・あの人にも困ったものだねぇ・・・」
リビングのテーブルに座りながら、102号室に暮らす男のことを話すと、彼女はお茶を入れながらそんな返事を返した。元々、玄関でほんの少し話をしようとしていただけだったのだが、彼女に強引に部屋へ上がるよう勧められ、結局言葉に甘えることになってしまったのだ。恐らく、歳を取った老人の一人暮らしは、私が想像するより寂しいものがあるのだろう。
そんなことを考えていると、彼女は淹れたばかりのお茶を私の前に出しながら続ける。
「いえね、以前ーーあなたが引っ越してくる半年ほど前だったかしらねぇ・・・その時、103号室に住んでいた人も同じようなことを言ってたんですよ。ちょっと友達を入れて話していたら、隣から思いっきり壁を蹴りつけられたんだとか。それほど大声で話してた訳ではないらしいのによ?普段の様子も全然分かんないから、何だか気味が悪いって言ってみえたわ」
そう言って彼女は、はぁっとため息を一つ付く。
「結局、その人は翌月には引っ越していったわ。お隣さんのことも含めて、何だかここは居心地が悪い、って言ってね」
彼女は飽きれたような表情でそう言った。
「あの人は四年ぐらい前にここに越してみえたんだけど、その当初はとても感じの良い方だったのよ。ちゃんとお勤めもしていて・・・。それが一年ぐらい経った時だったかしら、何だか急に様子がおかしくなっちゃってね、勤め先もやめてしまったらしくて、部屋からほとんど出なくなっちゃったのよ。以前にお話したかもしれないけど、年末の二日間を除いてね。だから、あの人に付いては私もほとんど分からないのよ」
「決まって二日なんですか?日付も含めて?」
私がそう聞くと、彼女は静かに頷いた。
「そう、毎年同じ、師走の29日にふらっとどこかへ出かけるのよ。でも大晦日には決まって帰ってくる・・・・・・そう言えば、引っ越してちょっとした時に、山梨の方に実家があるって言っていたわね。もしかしたら里帰りしているのかも知れないけど、年末帰りにしてはちょっと中途半端よね。普通だったら正月はそこで過ごすものだろうし・・・」
「確かに不思議なものですね・・・そうだ、不思議と言えば、その隣のおじさんも、何とはなしにミステリアスじゃないですか?」
出来るだけ自然に話を変える。
「奥さんと二人暮らしだって聞いてましたけど、よくよく考えたら一年間一度も姿を見たことがないなって・・・病気らしいって話は聞きますけど、それでもたまには病院とかにも連れて行かなきゃいけないでしょうし・・・」
「あんまりそう言ったことを詮索しない方がいいわよーー寝たきりで声も上げられないってこともあるだろうから・・・でも考えてみたら・・・そうねぇ・・・」
彼女は、ふとここで何かに気付いたかのように、少しだけ口を閉ざす。そして次の瞬間にこんなことを話し始めた。
「そういえばあの人・・・三年ほど前だったかしら?引っ越して来てすぐの時には、確か独り身だって言ってたわ。何でも、岩手の方からやって来たとか・・・こないだの震災で家が流されて、職場も無くなってしまって、それで、職を探しに上京してきたって聞いたから、大変な目に遭われたのねえ、って心配してたのを何となく覚えてる・・・奥さんのことを聞いたのは、それから一年以上経ってからよ。たまたま買い物に行こうと思って下に降りたら、ちょうど彼が外出する時でねぇ、開いたドアの向こうに、『それじゃあ、行って来るよ』って話しかけてたの。どなたか見えてるのかと思って、ちょっと聞いてみたら、何だかばつの悪そうに答えたわ。『病気の妻がいる』って・・・」
「ええっと・・・結局はこっちで結婚なされたってことでしょうか?」
「さあ・・・本人もあんまり詮索してもらいたくないみたいだったから、私もあんまり深くは聞かなかったわ・・・。でも、結婚してすぐに姿も見せれないぐらいの病気になるってのもさすがに無いだろうし、生活が落ち着いてきたから、岩手の方に残してきた奥さんを呼んだんだって、私は勝手に思ってたんだけどねぇ・・・」
違うーーあの記事に書かれていたことが事実なら、彼は妻を息子と一緒に亡くしていたはずだーーそして、彼女の言う様に、彼が三年前に引っ越してきたのが事実だとすると、彼が越して来たのは、記事の日付からして、その取材を受けて間もない直後だったはずである。だがあの記事には、未だに亡くした家族のことを忘れられないと書かれていたし、再婚を匂わせるようなことも載っていなかった。
あの時私が想像していたことは案外当たっていたのかもしれないーー気さくな表情で、常に愛想の良い彼の心中に秘められた、真っ黒な闇を想像し、一瞬だけ身が震えるーーふと、リビングから、開け放たれた戸の向こうにある彼女の居室が視界に映った。必要最低限の家具だけが置かれ、質素な佇まいを感じさせる室内、そこの壁際にある小さな小物入れの上に、写真が立て掛けられている。ぼろぼろになって色あせた、小さな男の子の写真・・・。私の視線に気付いたのだろうか、彼女は寂しげに微笑みながらこう言った。
「・・・ああ、その子は孫ですよ・・・私の・・・もう・・・この世には居ないんだけどねぇ・・・」
「いやぁセンセイ、意外ですよ。僕はてっきり、墓場とか刑場とか、そんな由来でもあるんじゃないかと思ってたんですけど、調べてみると、近所も含めて全然そういったのと無縁、何にもないんです。本当に好条件好立地、いやいや、逆に怪しいぐらいですよ、これ」
この日、私は先週と同じ同じ店、まったく同じテーブルで同じく、向かいに座った彼の話を聞いていた。違うところがあるとすれば、傍らの窓から見える光景ぐらいだろうか。店内からアーケードの先を見ると、どんよりとした鼠色の雲が空一面を覆い、無数の雨粒がアスファルトを切り無く打ち叩いている。梅雨入りしたと言う発表はまだ無いが、それも遠いことではないないだろうーーまた、私の最も憂鬱で苦痛に苛まれる季節がやってきてしまうーーそれを想像しただけで、私の心の中まで、今見ている曇天と同じ色彩に塗り替えらているみたいな、どうにもやるせない気持ちになってくる。
「ーー・・・ェイ・・・センセイっ!」
そんなことを思っていると、ふと、我を忘れていたらしい。向かいに座る彼の声で、はっと現実に引き戻される。
「一体どうしたんですか?いきなり上の空になっちゃって?あ?もしかして外にカワイイ子でもいましたか?センセイ好みの?」
一瞬、目の前にあるコップに入った水を、彼の顔面に浴びせ掛けたくなる衝動が沸いてきたが、グッと堪えると、僅かに睨むような目付きで彼の方向へと直る。
「・・・あぁすいません、ちょっと疲れてるのかな?この頃色々考えることが多くて・・・」
「あっ・・・いやあ、そうでしたか。すいません、お疲れのところを無神経に・・・」
言って彼は頭を軽く下げると、本筋へと戻った。
「ああそうそう、それでですね、センセイの暮らしている土地に付いてはですね、古い住宅地図を幾つか参考にさせてもらいましたよ。これなんですがね」
そう言いながら彼は、隣の席に置いてあった紙袋の中から何枚かの用紙を取り出し、それをテーブルに広げる。どうやら各々年代の異なる住宅地図らしい。
「これがその住宅地図です。確かセンセイが言うには30年前に建てられた物ってことでしたから、それ以後、1986年から先は省略しています。念のため当時の地図で確認したら、しっかり『裏野ハイツ』と記載されていたんで、それ自体は間違い無いでしょう。問題なのはそれ以前ですーー」
彼は、広げられた地図の一点を指差す。
「あのアパートが建てられる以前ですが、幾つかの商店があったらしいですね。靴屋とか雑貨屋、居酒屋にラーメン屋と、常時三、四軒の店名が確認できます」
「・・・何だか入れ替わりが激しいですよね?」
何枚かの地図を確認すると、それぞれあまり年代を経ていないにも関わらず、次々と屋号が変わっている。ほとんど毎年のように、だ。
「ええ、それなんですよ。80年代以前、70年代だったら大手チェーンもそんなに多くないですし、今と比べて、そんなに競争も激しくなかったでしょうに、ほぼ毎年の様にテナントが入れ替わっています。ただ、立地が良いせいか、あまり間を置かず、次の店子が入って来てたみたいですね」
更に何枚も地図を捲る。その度に、あの土地に建てられた店名がコロコロ移り変わっていく。
「で、これですね。62年度版です。土地の一角に、個人宅があります。『伊東』ですかね?隣二件はそれぞれ本屋と喫茶店ですか。それ以前だと・・・」
更に年代を遡り、60年度版の地図を示す。
「『伊東』と『高橋』さんの二軒があります。一番角は何も書かれていないんで、恐らく空き家でしょう。ただ、ここでやっと複数年を経ている家を見つけます」
「60年度版と言うことは、ざっと二年は暮らしていたってことですか」
「いえいえ、この『伊東』さんは、それ以前から確認できます。これが56年度版ーーね?『伊東』と『田中』『斉藤』の三軒の住宅があるでしょう?『高橋』さんは確認できませんが・・・で、これが52年度版ーー」
そこでやっと、住居の名前が全て入れ替わる。
「それ以前、40年代は空き地になってますね。恐らく、空襲によって更地になってしまい、そのまま何も建てられていなかったんでしょう」
「戦前は?」気になった私はそう尋ねた。
「一応、一枚だけコピーさせてもらって持ってきました。これです」
彼が最後の一枚を捲ると、その区画は空き地・・・いや、何かの神社らしき名前が見えた。
「どうも、戦前まではあそこに小さな神社があったらしいですね。そのまま幕末までまったく変化が見られなかったので、生憎割愛しました」
神社・・・そう言えば、以前『裏野ハイツ』の裏手を通りかかった際、祠の様な物を見かけた覚えがある。一瞬、その様な神的な場所の上に家を建てたことによる、何らかの祟りと言うか、呪いと言ったものが私の頭をよぎった。特に神道には祟り神、と言う概念もある。だが、祠があると言うことは、お祓いや分祀もせずにその土地を利用した訳ではないし、例え往年に比べて比較にならないほど小さくなったとは言え、御神体を祀っていればその様なことを心配する必要もないだろうと思い至る。実際に、そう言った土地はーー都市部ではなおさらーーありふれている。だが、やはり少しは気に掛かる。
「その神社が何を祀っていたとか、何を司る神様なのか、ってことは分かりませんか?」
念のためにそう聞くと、彼は胸を張って答える。
「それも聞かれると思って、一応この町の郷土史を軽く調べておきました」
そう言いながら、また別の資料を鞄から取り出す。
「浦弥神社ーーそれがあの神社の名前だったらしいですね。祀神は大国主命ーー何でも縁結び、復縁を取り司る神社だったとか」
「縁結びに復縁ですか、それだったら全国的にはありふれてはいますね」
「ええ・・・ただ、その中でもかなりご利益があったらしいですよ?『一年一月願を掛ければなんびととりとても縁を取り直さん』と言う言い伝えがあったぐらいです。と言っても正式な伝承って訳じゃなくって、市井の人たちが勝手にそう言っていた・・・まあ噂ですね。この噂は文政年間辺りに発生し、明治の初め頃まで伝えられていたそうです。その後は文明開化の機運に呑まれて、急速に人口には上がらなくなったらしいですが・・・センセイの方は何か分かりましたか?」
そう聞かれて、私は先日、老婆から聞いた話を伝えた。
震災で家族も家も職も失い単身上京してきたはずの男が、不思議なことに何時の間にか病気の妻と共に暮らしていたと言うことーー最初はまともだった男が、突如引き篭もり、攻撃的になったことーーそれらを話していると、目の前にいる彼が、何か考え事をしているように顔を伏せていることに気付いた。
「・・・あのどうしたんですか?」
私がそう声を掛けると、彼はおもむろにこう述べた。
「・・・いえね・・・その、102号室の男性が引っ越して来たのって、確か四年前だって言ってましたよね?で、一年ほど経ってから仕事も辞めて引き篭もっちゃったと・・・もしかしてですよ、その人の同僚に心当たりがあるかもしれません」
「心当たり?どう言うことですか?」
思いもよらぬ言葉に私が身を乗り出すと、彼はそれを制するように話続ける。
「いやね、僕の大学時代の友達が、四年前にこっちで就職したんですよーーでね、その時から仲の良かった同僚の先輩社員の一人が、一年ぐらい経ってから急に来なくなったって話しをしてたんです・・・時期的に一致してませんか?しかも友達がその人から聞いた話だと、出身は山梨のどこかのお寺ーーね?何となくそれっぽいでしょ?」
「いや・・・しかし、それだけで同一人物だと決め付けるのは早いのでは?」
山梨出身で、ふらりとどこかへ居なくなる人間なぞ、そうそう珍しくも無い。一千万都市である東京だったら尚のことだ。そう言った私の疑問に対して、彼は続ける。
「ですが・・・『裏野ハイツ』から、そいつの勤めている職場も近いんですよ」
「ーー近い、って住所は?どの辺りなんですか?」
「ここです。この町の、センセイの住んでいるアパートから徒歩で5分も掛からない場所ですよ」
それからしばらくした後、私たちは駅前から歩いて10分するほどの場所にある、小さな町工場の前に立っていた。
あれほど土砂降りだった雨はほとんど上がりかけ、遠くの空から眩しいほどの日の光が差し込み始めていた。
しばらくすると、工場の中から一人の男性が出てきた。作業着を身を包み、どことなく編集と同じような雰囲気を漂わせている。
「よっ!久しぶり!」
編集がそう声を掛けると、工員の男も同じ様に返す。
「久しぶり、元気してた?さっきLINEに送ったから知ってると思うけど、こちらが俺が今担当させてもらってる小説家の先生。ほら、お前がここに入ってすぐの時に仲良かった先輩、その人のこと聞きたいんだってさ」
「光栄です!まさかプロの小説家さんから取材を受けるなんて思ってもいませんでしたからーー」
そう言って彼は、ややはにかんだような陽気な笑みを私に見せたーー。
「そうですね、愛想も良くって、面倒見の良い先輩でした。他の上司や先輩たちもウチで一際働き者だって、そう言ってましたよ」
敷地内にある自動販売機の隣に設置されたベンチに腰掛けながら、彼はそう話す。
「様子が変わったのは・・・うん、確かに三年前ですね。細かい時期までは覚えてませんが・・・そのちょっとぐらい前から、段々様子が変わっていったのは憶えています。元々、食事や飲みに誘ったら、ほぼ百%付き合ってくれる人だったんですが、徐々にそういったことを断るようになっていって・・・仕事中にも上の空になってることが多く目に付くようになりましたね。それで事故になりかけて、上司から怒鳴り散らされてたこともあります。最後にはほとんど会話もしなくなって・・・それっきりです」
「そうですか・・・。その他に何か妙なことって思い付きませんか?」
「ううん・・・ああ・・・そう言えば、これは様子がおかしくなってきた時なんですが、飲み会に誘ったことがあるんですよ。そしたらあの人言ったんです『早く帰ってやらなきゃいけないからーー』って。でもあの人、確か一人身だったはずなんですよ。同棲するような彼女が出来たら、聞かなくても自分から話し始めるのは間違い無い人だったし、動物嫌いだったから、ペットを飼い始めたって訳でも無いと思うんですが・・・」
彼はそう、少し不思議そうな表情でそう話した。だが、聞いている当の私は内心焦りのような感情を憶えていたーーそれはひとえに、101号室に住む、震災で家族を亡くしたはずの男性を連想したからに他ならない。だが、当の102号室の住人が本当に『彼』なのかは分からない・・・。
「・・・なるほど、それで・・・どこに暮らしていたかってことまでは分かりませんか?」
嫌な予感に支配されつつも、私は肝心の質問を目の前の男性に投げ掛けた。
「さすがにそこまでは・・・。でも確かこの近くだって言ってましたよ。確か、歩いてすぐの・・・そうそう、何かこの辺りの相場としては信じられないほど家賃が安いアパートだって言ってたな。それでいてなぜか人も少ないから、多分昔事件でもあったんだろう、って笑いながら言ってましたね」
「いやぁセンセイ、ビンゴ!ビンゴでしたねぇ」
他人事のように嬉しそうな笑みを浮かべた編集が、妙なハイテンションで騒ぐ。
「ね?やっぱ調べてよかったでしょ?怪談話としてはありふれてますが、それを実際に体験できることなんてそうありませんよ?実際のところ、センセイも、もう何かインスピレーションが浮かんでるんじゃないですか?」
彼は無邪気にそうはしゃいでいたが、その『ありふれた怪談話』の舞台で実際に暮らしている私としては、無条件に喜ぶ気持ちにはなれない。だが、正直なところ、彼の言っていることもあながち的外れとは言えなかった。
実際その時、私の脳内では半ば自動的に今回の一件を小説にするにあたってのプロットが組み立てられ始めていた。
復縁を司る神社、そのご利益を頼りにある若い女性がやってくる。しかし、願い叶わず傷心の彼女は社の前で自死する。死後願いは適えられ、彼女は同じ地に住む恋人の面影を残した人間をーーと、そこまで考えた時、これも一種の職業病だな・・・そう言った思いが浮かび、瞬間、自嘲的な笑みが私の顔に浮かんでいた。