8. ようこそ給食室へ
小峰は、達夫が帰って来なくなったきっかけとなる出来事が思い出せない。
達夫と同居していた当時、小峰は主婦だった。基本的は家庭に入ってくれ、と言われたが特に抵抗はなかった。
しかし真由が生まれると途端に育児に追われ、長いような短いような日々を過ごしていた。
やることはたくさんあって、記憶もないくらい分刻みの雑事に追われているのに、体感はひどく長いのだ。
真由は勘の強い子だった。夜泣きがひどく、真由が泣き始めると達夫はあからさまに嫌悪感を顔に出した。
小峰は夫の安眠のため、真由をつれてベランダで寝付くまであやした。それでも泣き止まないときは夜でも構わず外に出た。
小峰の感情は、日々の中でしだいに鈍磨していった。娘と二人で誰もいない夜の公園をさまよいながら、不思議と「怖い」とはまったく思わなかった。
──今、通り魔にでも襲われたらどうするんだろう。
他人事のように、小峰は自分の感情を見下ろしていた。今時誰が使うのかと訝るほど、荒れ果てた電話ボックスの前を通過しようとした小峰は、ガラスに映った自分の姿に見惚れた。
目が落ち窪み、頬がこけ、髪の乱れた女がそこにいた。
「ははは」と小峰は乾いた声で笑った。
──おもしろい。
誰か別人を見るように、改めて小峰は自分を客観視した。悲しい、というよりは同調したのだ。
ガラスに映った自分の疲れた姿が、戦友のように見えた。
田所は息子を思って泣き明かした後、暗闇の中で立ち上がり、カーテンを開けた。朝焼けが広がっていた。カーテン越しに朝の光が差し込み、田所はふとカーテンの裾を手にした。純白の、レースのカーテンだと思っていたがいつの間にか煤けて汚れていた。
田所は反射的にカーテンをレールから外すと、洗濯機に放り込んだ。洗濯機の渦の中で溶け落ちていく汚れを見ながら、田所は砂粒のように自分が下半身から崩れ落ちるところを想像した。
小学生の野間アキは、時間割を揃えるときが何よりも嫌いだった。
破られてしまったノートやグズグズに崩された消しゴムなどを一つ一つ点検し、親に心配をかけないようにそっとゴミ集積所にもっていく。地域のゴミ収集日のスケジュールポスターをこっそり書き写した野間アキは、熟読して内容を諳んじている。
衣服を破られた場合だけ少し困る。こっそり捨てたところで、「あの服はどうした」と母親から追及されてしまうのだ。
──いつになったら、こんなことが終わるのだろう?
野間アキは、ゴミを抱えて夜道を走った。
小峰は声を上げて笑い続けた。背中の真由が引きつったように一泣きした後、ぴたりと泣き止んだ。小峰はいつまでも笑いが止まらなかった。
田所はカーテンを干しながら、野間アキは坂道を駆け降りながら、
それぞれ別の場所で、髪を風にかき乱され、或いは自分で掻き毟り、体をのけ反らせて、自棄になって笑っていた。
金切り声を上げて笑ううちに、目尻から涙が流れ出た。それでも、
笑え、笑え。笑えば何か変わるかもしれない。
そう、思うしかなかった。
現実を笑い、吹き飛ばせ。そして、風に半分体を千切られたとしても、
「進むしかない」
呟いて、小峰は背負っていた真由を下ろし、ぎゅっと強く抱き締めた。
鮫島は夢を見ていた。
広い広い校庭。時間は夜だ。月明かりに浮かび上がる校庭の白い砂に、人影が映っている。目を凝らすと、ゆらゆらと体を揺らす柔らかな線が女のようだ。鮫島は影に近づく。
女たちの顔を一つずつ確かめるうちに、鮫島は拍子抜けする。
小峰に、田所、野間アキ、顔なじみの面々が、珍しくお互いに談笑しながら立っている。
──なんだ、給食室の人たち……。
以前なら彼女たちの顔を見るだけで、腹に鉛を入れられたような緊張感を覚えるのに、今の鮫島は確実に三人に愛着を感じていた。
突然、小峰が暗闇に向かってソフトボールほどの大きさのボールを投げる。
投げたボールを田所が受け止める。田所が振りかぶってボールを投げると、その先に野間アキがいる。三人とも動きにキレがあり、次の動作に迷いがない。
鮫島は気付くと三人のボールを夢中で追いかけていた。ボールと一緒にどこまでも伸び上がり、ゴロの時には自在に体を縮めた。
どんなにボールのスピードが速くても鮫島は俊敏に反応した。自分の体が思いよりも先に動く。
鮫島は満ち足りた気持ちになった。口を大きく開けて息を吸い込んだ。
その口の形は、笑顔に似ていた。
「夢占いででも調べてみるかな」
その日の給食を作り終え、片付けも終えた鮫島は、職員室へ向かっていた。
昨夜見た夢の余韻を、鮫島はずっと引きずっていた。
けんちん汁を作る間も、頭の中で夢の中の色合いが蘇ってきた。
──何かの暗示かな。
この先もずっと、この人たちと一緒にいるっていう。
鮫島はそう考えて携帯を確認する。
事実、この一ヶ月で「煮え切らない彼氏」とのやり取りは劇的に減っていた。
吉田未来の一件があった日も、何の連絡もなかった。
普段ならやきもきするはずなのだが、鮫島は彼氏のことをさっぱりと忘れていた。
それどころではなかったのだ。
「もういっそ終わってもいいかな」
妙に和やかな気持ちで、鮫島はそんなふうに考えていた。
つい最近まで、固執していたものが急に色あせて見えたが、不思議と寂しくはなかった。
鮫島が勝手に今までいた場所から流され、違うものに意義を見出すように変化しただけだ。
ゆっくりと考え事をしながら職員室へ向かうまでの校舎の窓から、見慣れた生徒が近づいてくるのが見えた。
──おや。
職員室は一階なので、鮫島も窓に近づいた。同じぐらいの速度で、生徒と鮫島は窓越しに対面した。
「未来くん……だよね?」
恐る恐る声をかけたのは、吉田未来の容貌が著しく変化していたからだった。
近付いてきた生徒は窓すれすれに鮫島に頭を下げた。
「あっ、はい。そうです」
「ずいぶん髪切ったね」
多すぎる髪に覆い隠されていた顔が、すっきりと露わになっていた。
それで気付いたのだが、ずいぶん整った顔立ちをしている。
──急に女子にもてるかもしれないわね。
鮫島は、意外な逸材に感心した。
いい男は案外気付かないところに転がっているかもしれない、などと都合のいいことを考えながら。
「バッサリやっちゃってください、って母さんが。それで本当に」
未来は短くなってしまった髪に不満が残るらしい。髪に手をやり、顔をしかめている。
「またすぐに伸びるよ」
鮫島は慰めるつもりで言ったが、未来にため息をつかれてしまった。
「そう言えば……」
鮫島が言いかけると、未来は大きく頷いた。
「何か今でも信じられませんが、よろしくお願いします」
未来は体をほとんど二つ折りにするような勢いで、頭を下げた。
吉田未来の母、吉田蓉子が給食室の短期パートに入ることになったときは、その場にいた誰もが絶句した。
「えええ、あの、お母さんが!?」
野間アキもすっかり素直なキャラになり、日々皆につっこんだりつっこまれたりしている。
「仕事を希望しているとは思えなかったねえ」
田所は腕を組み、唸り声を上げる。
「鮫島さんも、人事に関わったんですか?」
冷静な表情で小峰に訊ねられ、鮫島は曖昧に頷いた。
短期のパート職員を増やす案が決定したのはひと月前だった。募集を出すとぽつぽつと応募が集まり、その中に吉田蓉子を見つけたときに鮫島は息を呑んだ。
全員に反対されるだろうと思いながら、しかし鮫島は吉田蓉子となら一緒に働いてみたいと直感したのだ。
──短期間だから大丈夫だと思います。
そう言って応募案件の中から、吉田蓉子を押したのは鮫島だった。
「ええ。先に聞いていました。皆さんに相談しなくてごめんなさい」
鮫島は頭を下げた。
こんなふうに堂々と三人の前で自分の意見を押せるようになったことが、自分のことながら誇らしく感じた。
「まあ、いいか」
田所はあくまで上から、というように言い放つ。
「ここのカレーを食べさせてあげましょうよ!」
野間アキも鼻息を荒くて、賛同するように言う。
「皆さんの判断で採用されたわけだし、私も賛成します」
落ち着いた口調で言い、小峰も片手を上げた。
実際、吉田蓉子の体調は落ち着いていた。彼女は調理師の免許も持っていて、大学では栄養学を専攻していたことがわかった。
──料理上手な、完璧なお母さんだったわけだ。
鮫島は吉田蓉子の履歴書を眺めながら、上司である栄養士を説得した。
「皆さんありがとうございます!」
一人一人に頭を下げ、鮫島ははっきりとした口調で言った。
「吉田さんは明日から初出勤です。覚えるまでは大変だと思いますが、皆さんでフォローしてあげてください」
よろしくお願いします、と鮫島は深く頭を下げた。
「もちろん!」
「任せときなさい」
「喜んで」
野間アキも田所も小峰も笑顔を見せた。
その笑顔を見て、鮫島は思った。
──私がやりたいことは、給食を作りながらお母さんたちのサポートをすることなのかもしれない。
もやもやと像を結ばなかった思いがふいに鮫島の中に芽生えた。
この人たちとなら、やっていけるかもしれない──。
コツコツとヒールの音を響かせて、吉田蓉子は給食棟へ続くコンクリートの廊下を歩いていた。
「母さん、本当に大丈夫?」
しつこいくらい繰り返す未来に、蓉子はいちいち「大丈夫よ」と答えたが、自分がいちばん緊張していた。
「ジ・おばちゃん、て感じの怖そうな人もいるよ?」
未来が失礼なことを言うので、蓉子はたしなめることも忘れてつい笑ってしまった。
笑ったおかげで緊張がいくらか解ける。
「ありがとうここで大丈夫だから」
うん、と未来は頷いた。
「今日は母さんの給食食べられるんだね」
そう言って笑った未来は、妙に大人びて見えた。当分散髪の心配もないと思っていた髪も早くも伸び始めている。
「いい?吉田さんが来たら笑顔でようこそ!ですからね」
野間アキは後輩ができるのが嬉しいのか、一人で張り切っていた。
「サプライズパーティーじゃないんですから」
小峰は呆れ顔をするが、まんざらでもなさそうだ。
「初日で根を上げなきゃいいけどね。ま、お手並み拝見だ」
「ちょっと田所さん、初日はお手柔らかに……」
鮫島と田所が言い合っていると、給食室の入り口でおずおずと中を伺う吉田蓉子の姿が見えた。
「は、早く入って入って!!」
四人は散々話し合った段取りも忘れて、蓉子を引き入れた。
せーの、と野間アキが一方的に台詞の頭出しをし始めた。
「ようこそ給食室へ!」
言い終えた後、恥ずかしそうにうつむく小峰、口をへの字にする田所を見て鮫島は苦笑していた。
「今日からこちらでお世話になることになりました。吉田蓉子です。改めまして、よろしくお願いします!」
はきはきと自己紹介をし、頭を下げた蓉子に皆の温かい視線が集まる。
「じゃあ、早速だけど始めるよ!」
田所が腕まくりをすると、全員が頷いた。
今日も給食室は戦っている。
子どもたちと母親たち、みんなのお腹と心を満たすために──。
了