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たたかう給食室  作者: 杉背よい
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5. 食べることは戦い ~吉田未来の場合~

「空気がきれいなところがいいと思うのよ」

妙にテンションの高い声で母が言い出し、未来は嫌な予感がした。

 母が不機嫌なときは注意。でも、機嫌がいいときはさらに要注意だ。これまでの経験則から、未来は母の行動パターンを読み取っていた。

「ねえ未来。今の学校、あんまり好きじゃないって言ってたわよね?」

 母はトーンの高い声で未来に話しかけてくる。母が近づき、顔を覗き込まれたことなんて、何か月ぶりだろう──。未来は思わず心配事とは焦点のずれたところで妙に感じ入っていた。

「……うん、まあ」

 今の学校、も何も今までいたどの学校にも未来はうまく馴染めなかった。母が一つ所に落ち着きたがらないので、友達ができる前に転校してしまうこともあった。

 母が引っ越しを繰り返す理由の大きな一端は、沙理のアレルギーが原因だろう。

未来の四歳年下の妹、沙理は病気がちな子だった。ミルクばかり飲んでいた時代から離乳食へ移行すると、様々な食べ物を沙理の体が受け付けないことがわかった。

その度に母は青くなって、沙理を病院に連れて行った。幼い未来にも、母が慌てていることと困っていることは理解できた。

アレルギーを軽くするために、沙理はあちこちの病院に連れて行かれた。泊りがけでなければいけないような遠くの病院もあった。

未来は時に一緒に病院に付き添い、時に留守番をした。

未来にはアレルギーはなく、何でも食べることができた。

──でも、母さんのためには俺は食べられないものがあったほうがいいのかもしれない。

未来は罰当たりだと思いながら、時々そんなことを考えた。

沙理が食べられないものを他の家族が口にすることは、雰囲気的に憚られた。

幼い沙理は、未来が食べているものと同じものを欲しがった。

当然のことだ、と未来は思う。

「おやつは外で食べてきて」

母は困惑した顔で未来の頭を撫でてくれた。

しかしこれは昔の、母が優しかった頃の記憶だ──。


最初は母が沙理に付き合って、沙理が食べられないものは口にしなくなった。

それでも最初のうちは、母は父親と未来のために、様々な別メニューを作ってくれていた。

けれども、沙理の食事と未来たちの食事を作る二倍の負担で、明らかに疲れていく母を目の前にして、父親も未来も普通の食事を取ることは気持ちの上で難しくなっていた。

「どうぞ召し上がれ」と言われても気が引けて喉を通らない。

 母が食べることのできない食事を、痩せ細った母に勧められる。

──どうしたらいいんだろう。

 未来は気が引けたが、結局母の労力を察して、なるべく美味しそうに、だけど一気に手早く食べる術を身に着けていった。そして食事を終えるといち早く退席し、自分の食器を洗った。

どうやら気詰まりだったのは父も一緒であるようだった。父は夕飯時にあまり姿を見せなくなり、深夜に帰ってくると言い訳のように「夕飯は済ませてきたから」と言った。

 自分のベッドの中で、未来は父と向かい合う母の顔を想像した。

 想像の中の母は、疲れ切って何かを言い返す気力もなかった。


未来は伸び切った髪を風になびかせて、校庭に立っていた。もう授業時間は終わったが、積極的に家に帰りたくはなかった。

高学年になってからの未来は、特に母親から放置されていた。髪が伸び切って顔を隠すほどになれば気付いてもらえるかと思ったけれど──。

 髪は伸び続けている。それが現実だ。

未来は校庭の砂に混じっていた小さな砂利を蹴って、少しだけ前に進んだ。


「未来、私たちには外の世界がある。

今は苦しいかもしれないけれど、外の世界は広い。もっと広い世界に目を向けるんだ。きっと、外の世界がお前を助けてくれる」

父はそう言った。

 母の行動が少しずつおかしくなってきた頃。研究者である父は、できる限り母の引っ越しの要望にも応えていた。

「お母さんがそうしたいなら、すればいい」

 寛容な父のようだが、放任しているだけとも取れる。

 未来は、言い終えた父に曖昧に頷いた。理解できるような気もしたが、

──父さんは助けてくれないの?

未来には父の言葉が「外の世界」に全てを任せようとするかのような、無責任で冷たい発言に思えた。

「外の世界か……」

例えば学校。

そこではクラスメイト同士のしがらみや、先生との相性などの問題があったけれど、確かに基本的には逆に未来は自由だった。

給食は普通に食べられる。家では絶対に登場することのないパンが、当たり前のように食べられる。

それなのに、いつからか未来は自分だけが好き勝手をしているような気がして、申し訳なくなるのだった。

自分はどう行動するのが正解なのかわからなかった。


 母は一人で本を買い込み、インターネットで調べ上げ、沙理の治療にいよいよ情熱を傾けていた。それが熱心になればなるほど、母自身の身なりはすさみ、顔つきも憔悴してきた。いつも疲れているようでため息をつき、未来が予想しないところで激昂した。

──これは、このままにしていてはまずい気がする。

 何とかギリギリのバランスで日常は進み、しかしいよいよ未来が家の様子を危惧し始めた頃、今の学校への転入が決まった。

期待はしない。

 未来はどこへ行くことになっても、そう決めていた。

裏切られた時に苦しいから。

どんなに髪が伸びても、母親には気付いてもらえなかった。

 期待はしない。家でも学校でも、それは同じだ。

沙理は悪くない。沙理自身が一番辛いし、たくさん我慢をしていることもわかっている。

──この子がいなくなれば、母さんは俺を見てくれるだろうか。

 しかし時々、魔がさすようにそんな考えが頭をよぎり、未来は自分の髪を掻き毟った。伸びきった髪が幾筋も指に絡まった。

──ダメだ、しっかりしなくちゃ。


 ある日家に帰ると、母が沙理に手をあげようとしていた。沙理は怯えてうずくまり、母は今にも掴み掛ろうとしていた。

 未来は母と沙理の間に割って入った。

 そして我に返った。

──母さんが、モンスターになってしまう。

 沙理をかばい、母を制しながら、沙理を恨みそうになった自分を省みてぞっとした。

──俺までモンスターになる前に、この家をどうにかしなくちゃ。

 未来は目を閉じて、母の笑顔を思い浮かべようとした。

 記憶の中の母の笑顔がどんどん薄れていく。


とうとう耐えかねて、未来は父に助けを求めた。いつものように残業で遅くなるという父を待ち伏せし、玄関に人影が現れると、たまらずに飛び出した。

 それほどに切羽詰まっていた。

「お母さんが変なんだ!」

冗談のつもりではなかった。未来としては我慢に我慢を重ねて限界に達したから相談したのだ。

しかし、父親が見せたのは苦笑だった。

「お母さんはちゃんとお医者さんにかかってるじゃないか」

未来は父親の言葉を疑った。

「薬ももらってるし、やれることはやっているから大丈夫だよ」

──な、にを言ってるんだ? この人。

未来は絶句した。あまりに話が噛み合わずに思考が停止しかける。

それでも悪化してるから、相談してるんだろうが!

「でも……」

未来は食い下がった。心の中では怒鳴り声を上げていたけれど、実際に口に出すことはできなかった。

それすらできないほど、あまりにも疲れていたのだ。

「お父さんは仕事が忙しくてね。疲れてるんだ……だから、未来がお母さんを助けてあげておくれ」

仕事が忙しい。

疲れてる。

父親の言葉を頭の中で復唱すると、目の前が暗くなった。口調は優しいけれど、父さんは厄介ごとから逃げようとしているだけだ。

思考が停止しているのは父さんのほうだ、と未来は悟った。

「……わかった」

本当は、未来はわかっていなかった。わかりたくもなかった。

──タスケテ

未来の中の、本心が叫んでいた。しかし、現実にはそこで父親を頼るという方法を機械的に断ち切った。


学校では友達ができなかった。けれども、誰も未来が存在しないかのように放っておいてくれるから楽だった。 母さんに放置されるのは苦しく、学校で放置されるのは気楽、なんて矛盾している。

「外の世界ねえ」

未来は父親の言葉を思い出して苦笑した。

父親の言う通り、外の世界は広い。母のように突然理不尽に怒り出したり、かと思えば放置したりはしない。

「忘れてないか?」

未来はわざと声に出して言った。

──俺は子どもで、妹を守りながら母さんの面倒まで見られない。

 そこまで俺は万能じゃない。

誰か助けて。

気を緩めると、泣崩れそうになるところを未来は必死に耐えていた。


週に一度、母の病院に付き添うことに決めたのも未来の気遣いだった。

自分が見張っていなければ、勝手に薬を捨てたり、下手をすると病院自体に行かないかもしれない。

 母の病院に付き添うため、毎週未来は学校を早退した。

 母は「ちゃんと授業に出なさい」と言ったけれど、それほど反対はしなかった。

家にいるときは恐ろしくちぐはぐな格好をしている母も、外出となるとまともな服装をする。化粧もきちんとする。人と会うことで、唯一緊張を保てるのかもしれない。

外出するときの母を見ると、昔の母に戻ってくれたようで未来は嬉しかった。

──付き添いを断らないのは、一人だと不安だからなのかな。

未来はきれいに化粧で整えられた母の横顔を眺めた。きちんとして優しい、きれいな母親にしか見えない。

 未来はタクシーで学校に乗り付けてくる母と一緒に、かかりつけの心療内科に通った。

母は安定剤を飲み始めてから、車の運転を禁止されていたのだ。

 未来は待合室でただ母を待ち、終わるとまたタクシーに乗って家に帰った。


 未来の家は、仕事で忙しい父が稼いでいるだけあってかなり裕福だった。

 家族の診療代も心配なく使うことができたし、

「そんなに子育てが大変ならシッターでも何でも雇えばいいじゃないか」などと平然と

父は言うのだった。

「家事が大変なら業者を呼んだって、家電を買い換えたって好きにすればいい」

──そういうことじゃない。

 幼いながらに未来は違和感を覚えたが、父には話しても理解できない気がした。

 こんな家庭の状態から目を背けて平然としていられる人間と、話が通じるわけがない。


「どうしたの?早退?」

今まで、未来がどう行動しようと誰も気に留めなかったはずなのだが、校庭で声をかけられて驚いた。

聞けば給食室で働く人だと言う。

 しっかりと未来の目を見て、少し心配そうに見つめている。母とは違ってカジュアルな服装をした、きれいな目の女の人だった。

──話が通じそうな、大人だ。

未来はそう判断して心底安堵した。家にも大人が二人いるはずなのに、未来は孤立していた。

「ちゃんと食べてる?」

 声をかけてくれる人たちは、絵に描いたようなおばさんもいたし、フリフリのお姉さんもいた。しかし、未来がそこにいても無視することは一度もなかった。

奇跡みたいだ、と未来は感動していた。

「あ、病院なんで」

 早退の理由を答えると、皆の顔に同情の色が浮かんだ。

──俺の病気じゃないんです。

心の中で、未来は補足する。

──この人たちになら言えるかもしれない。

 未来は縋るように、真実を口にしかけた。けれども、とうとう声に出すことはできなかった。

 それでも、未来はわずかでも誰かと会話できたことが嬉しかった。

「また明日」

 笑顔で手を振ってくれることが嬉しかった。

──また明日も、ここに来ていいんだな。

 未来は明るい響きを心の中に刻みつけた。


 その日は、朝から母が妙に上機嫌だった。

──嫌な予感がする。

 未来は逆に不安な気持ちになった。母が上機嫌だった翌日は揺り戻しがひどかった。

「今日ねえ、お母さん、未来と沙理の学校に行ってみようと思って」

言いながら、鏡の前で朝から念入りに化粧をしている。

「え?なんで?」

未来は、真新しく見える半袖のブラウスに着替えようとしている母に尋ねた。

──今日は父母会でも面談でもないはずだけど。

「先生に呼び出されたの?」

母は真っ赤な口紅を引きながら、首を横に振った。

「いいえ。見てみようと思って」

弾んだ声で母は言った。

「何を?」

未来の質問には答えず、母はブラウスに袖を通す。なんだか着替えの順序もめちゃくちゃだったが、ブラウスにはきちんとアイロンがかかっていたし、眩しいほどに白かった。

未来は何かを言いかけて、口をつぐんだ。

漠然とした、嫌な予感が残った。


午前中。授業を受けていた未来は、何気なく窓の外を見て驚いた。

母が、校庭をふらふらと歩いていたのだ。

強い日差しの中、日傘をさした母は、恰好こそきちんとしていたが昼間の幽霊のようにどこか虚ろで、風景から浮いていた。しかも、校舎を目指して歩いてくるのではなく、給食棟の方向へ向かっている。

──どこへ行くつもりなんだ?

未来は気がつくと立ち上がっていた。

「先生、すみません。ちょっと気分が悪くて……」

クラス中の生徒たちが冷めた視線を送る中、未来は席を立って教室を出た。

病気のふりをしてしばらくよろよろと歩いたが、人目につかないところまで来ると走り出した。

──給食室?

 未来は胸のざわつきを抑えられなかった。

「見てみようと思って」

そう言ってにっこり笑った母が、ふいに頭の中に浮かんできた。


そして次に未来が見たものは、母が給食室の人たちに向き合っている場面だった。咄嗟に何をしているのか、理解できなかった。

──挨拶をしてる?

目を凝らすと、母の手に何か光るものが見えた。母の手元がぼやけて、うまく焦点を結ばない。

──何だあれは?

 包丁。疑問と答えが同時に頭の中に立ち現われ、未来は肌が粟立った。

「母さん!」

未来は大声で叫んだ。

──振り向いてくれ!

一瞬のことなのに、未来は強く願った。

母さん、これ以上遠くに行かないで。

俺たちを置いて、一人でどこかに行かないで。

もう一度、母を呼ぼうと息を吸い込んだ瞬間、母がゆっくりと振り向いた。

震える手で包丁を握りながら、未来を見つめ返した母は、ほんの少しだけ諦めにも似た微笑みを浮かべていた。

──ああ、母さんも限界だったんだ。

 そんなことにも気付けずに俺は。


未来には、そこから先の風景がスローモーションに見えた。

母に体当たりして、一緒に壁に叩きつけられた女の人が母を抱きしめる。

「大丈夫だから」

その人は子どもを抱きしめるように、母を抱きしめていた。

母が持っていた包丁が床に投げ出され、もう一人の女の人がそれを拾って走り出す。

同じ時間のはずなのに、すごくゆっくり流れているみたいに感じる。

未来は少しずつ、体の力が抜けていくのを感じた。

──よかった。

 的外れな感想だ、と未来は独りごちた。

 それでも、そう思った。

これで、わかってもらえる。

困ってるのは冗談じゃないって、わかってもらえるんだ。

──何だか、急に眠くなってきた。前が見えないや。

未来の意識は急速に遠のいていった。


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