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たたかう給食室  作者: 杉背よい
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4. 私は何を食べればいい ~鮫島有美の場合~

 鮫島有美は重い足取りで歩いていたが、今日が欠かさずに読んでいる女性月刊誌の発売日だと気付いて、少しだけ気持ちが和んだ。

──よっしゃ、今日は夕方まで何とか頑張れそう。

 鮫島のモチベーションは単純なことで上がる。

 購読しているファッション雑誌に載っている洋服や小物を隅々まで目に焼き付けて、よ

く似たデザインの品物を探し回って月に一つだけ買う。

 それが毎月の鮫島の楽しみだった。

 商品協力のブランド品を問い合わせて買うのではなく、あくまで似たような廉価品を買

うのだ。鮫島には高価なブランド品を買う度量はなかった。が、似たような流行商品を持

っていたいという思いはあった。

 いつか誕生日やクリスマスに、雑誌の掲載商品のうちの一つを恋人にねだることを想像

する。本当の、本物だ。でも──。

 自分には決して出来そうにない、と鮫島は思う。

 鮫島は気が弱かった。

 付き合ってもうじき二年になる彼氏にも、いつも本当に欲しいものを頼んだことはない。彼氏の懐具合と常識の範囲内から、それに見合った欲しいものをお願いする。

 そう考えてみると、デートの内容もいつも鮫島が本当にやりたいことではなかった。

 しかし、それは鮫島の性分のようなもので、どんな相手に対しても常に一歩引いてしまうのが自然なのだった。


 現在働く「かもめ小学校」の調理員に赴任してやはり二年になるが、未だに職場内で自分がヒエラルキーの一番下にいるような気がしている。

 年齢が一番下、ということもあるだろうが。

 月ごとの献立を考え、食材を発注する栄養士は給食室の実質上のリーダーだが、調理に

は関わらない。調理は鮫島を含む四名で行い、その中で唯一の正社員の鮫島は現場を取り

仕切るチーフのはずだ。しかし、その役をこなすには頼りないと自分でも感じる。

 二つ年上のパート職員野間アキは、なんとロリータファッションで通勤してくる「我」の塊だ。白衣に着替えるので問題はないが、同年代の鮫島としては複雑な思いがある。

 年上のロリータ少女?に仕事上の注意をするのは、やりづらくて仕方がない。

 こんなことを言うのは偏見かもしれないが、ちょっと通常とは違った方法で恨まれそう

で気味が悪い。

 しかし野間アキの仕事はきちんとしており、向上心もあるため特段文句はない。

 田所善恵はとにかく恐い。鮫島を「鮫島センセイ」と呼び、表向きは何かと立ててく

れるが、実権は田所ががっちりと握っている。

 仕事の速さと無駄のなさは、さすがとしか言いようもないし、頼れるベテランに甘えている節もある。

 そして小峰絢。

 鮫島は田所と違う意味で小峰が恐かった。まだ一年半しか経験がないと言うが、初日から小峰にはただならぬ玄人感が漂っていた。一児の母で、すべてを超越した雰囲気を身につけていた。上手く言えないがいつも殺気立っていると言おうか隙がなく、

「殺し屋」

 そんな綽名が自然に浮かぶほど殺伐としているのが小峰だった。

──彼女たちをまとめるなんて、私には無理だ。

「私が一番キャラ薄いし……」

 冗談で口にして、思わず苦笑する。否定しようのない事実だった。

 鮫島は毎朝、同じ結論に辿り着く。が、立場上空回りしてでも強気に振舞わなくてはな

らない場面が沢山ある。

「取りあえず今日を乗り切ろう。おー」

 一人で小さく自分を鼓舞する。夕方まで頑張ろう。そして雑誌を買おう。

 鮫島は自然に前かがみになっていた姿勢を、意識して正した。


「おはようございます」

 鮫島が給食室に入っていくと、いつもの通り野間アキが一番乗りで仕事の準備をしていた。鮫島を見るとぺこんと会釈をする。

 几帳面な性格なのだろう。調理器具もきれいに磨き上げてくれる。鮫島は沈黙に耐えられず、

「今日も早いですね」などと話しかけるが、野間アキは困惑したような表情を浮かべるだけだ。そうされることをわかっていながら、鮫島はやはり今日も時候の挨拶などしてしまう。

 野間アキと一緒に準備をしていると、小峰絢がやってくる。

「おはようございます」

 小峰絢はキビキビと挨拶をし、無駄のない動きですぐに作業に入る。こちらはこちらで、緊張を強いられる。

「おはよー」

 そして最後に田所が来るに至っては、鮫島の緊張も最高潮だった。ただ、田所と二人きりになることは少なく、一番最後に来てくれるのがありがたかった。

「鮫島センセイ、おはようございます」

「あ、田所さんおはようございます」

 もう二年も一緒にいると言うのに、鮫島は声を震わせないように注力することで必死だった。

「ちょっと気になったことがあったんだけどね……ほら、あのお弁当の子、どうしてる?」

 田所に言われて、鮫島もすぐに思い当たった。

鮫島のまぶたの裏に、ほっそりとした少女のシルエットが浮かんだ。

「ああ……お弁当を持ってきてはいますが、食べられるものが少ないのでごはんと、中身はきゅうりとウインナーぐらいですね……」

 鮫島は、話しながらも複雑な心中だった。

 食べられる食材が少ないため、毎日ほぼ同じ弁当を持参しているアレルギー持ちの子の存在を、鮫島も忘れたことはなかった。

 アレルギーがある上、極端に小食で偏食で、毎日小さな弁当箱を持参してくるのだった。

 もちろん、母親が並大抵ではない苦労を強いられていることは、鮫島にもわかっていた。

 田所も、同じように考えてくれたのかと鮫島は感じ入った。


 その日鮫島は、人口が密集した体育館の壁面で、ぼんやりと立っていた。

 立場上壁にもたれることはできないので、神妙な表情で固定したまま、例年のようにただ傍聴していた。

 新入生の入学ガイダンス。四月から新一年生として入学してくる子供の母親たちが、や

はり神妙な表情でパイプ椅子に腰かけている。気合いの入った格好の保護者もいれば、近

所へのおつかい感覚の気楽な服装の保護者もいた。

 調理員の鮫島は、栄養士の行う新入生の母親向けの諸注意に立ち会う役目がある。

 栄養士が一通り説明し、最後に質問の段になると、母親たちの波の中から、すっと一本

の手が伸びた。きれいな手だ、と鮫島は咄嗟に思った。

「娘がアレルギーを持っているのですが」

 明瞭な声音だった。その場に居合わせた全員の視線が声の主に集中した。小柄で細おも

ての、整った顔をした女だった。小学生の母親にしては、年若い部類に入るのかもしれな

い。鮫島は自分より年上か年下かを最初に検分する癖があった。それに、ずいぶん高級そ

うな服だ。

「うちの子は、小麦粉とエビ、カニ、卵と乳製品を口にすることができません」

 淀みなく母親は述べた。鮫島は食品名が一つ挙がるたびにため息をついた。

 除去食にはいくつも前例がある。現代の子供はアレルギーを持つ子も少なくない。エビ、

カニであれば別の鍋を使い、作り分けることができるが、小麦粉のように空中に飛散して

しまうものに関しては除去が不可能だと判断し、依頼を断っている。 栄養士がさらに前に

進み出て、質問者に謝罪した。鮫島も我知らず、体が一歩前に出ていた。

「申し訳ありませんが、小麦粉アレルギーのお子さんは、個別の除去食を作れないんです」

 栄養士ができない具体的な理由を告げると、見る見る母親の顔色は青くなっていった。

「大変申し訳ないのですが、昼はお弁当を持参するようにしてください」

 最後まで聞き終える頃には、母親の顔色はどす黒く淀んで見えた。

「子供には、皆さんと同じ給食を食べさせたかったのですが……」

 母親は表情が抜け落ちた顔で言い募った。栄養士が沈鬱な表情で詫びる。その同じ

タイミングで鮫島も、少し離れた場所で深く頭を下げた。


──何とか力になりたい。

 鮫島は無力な一職員としてそう思った。しかし、安易に引き受けて万が一その子の命に関わるような問題に発展することもあるかもしれない。

 責任が取れない以上、迂闊に関わることはできないのだ。

 それでも、何とかできないものだろうかと鮫島は毎日給食を作りながら考えていた。

 個別食対応が可能な子であっても、おかわりの要求には応えられない。

 せっかくその子が「おいしい」「もっと食べたい」と思ってくれたのに、応えてあげられないことがもどかしかった。

 鮫島は、うまくメンバーを捌き切れないなどと思っていても、結局のところは仕事が好きだった。調理が好きで、子どもに関わる仕事を探していた鮫島にとっては両方を叶える絶好の仕事場だった。

 厳しい倍率を勝ち抜いて得た今の職を、もっと生かさなければならない。

 現実は理想と違ったとしても──。

鮫島は悶々とした思いを抱え、日々のストレスを雑誌や服や小物などの小さな代替品でカバーできるているつもりだったが、

「これでいいのかな」

ぽつんとつぶやいてしまうこともよくあった。

何が「これで」なのかは、自分でもわからない。

仕事をする態度なのか。漠然とした未来への不安なのか。それとも、ゆるやかに行き詰まっている恋人との関係なのか。

とにかく何か、がいけない。何かを変えなければいけない。そう鮫島は思っていた。


 その日は、よく晴れた日だった。

気温は正午に近づくにつれて、順調に上昇していた。

アスファルトの照り返しが眩しかった。蝉が羽根を擦り合わせて鳴き、体操服の子供た

ちが校庭に散ると、暑さのかげろうの中で白く揺らめいた。

給食棟の入り口に、一際濃い人影が写り込んだ。

 小峰は、汗だくになりながら、鯖を揚げていた。

 野間アキはやはり大鍋の前に立ちはだかり、汁物をかき混ぜていた。

 ホールを片付け、牛乳を準備していた田所は人影がゆっくりと、壁を横切り、自分たち

のいる調理室に近づいてくるのに気付き、鮫島の肩を叩いた。

 鮫島先生、お客──。

 田所が囁きかけた時、

「今日はカレーですか?」

 入口で甲高い声がした。高く、可愛らしい女の声に、全員が作業の手を止めて顔を上げ

た。

 女の声は無機質で、抑揚がなく、聞いているものを不安にさせた。

 鮫島は女を見つめた。

 口角の上がった笑みを顔に張り付かせているが、全身からどこか異様な雰囲気を漂わせ

ている。鮫島は無意識に女の顔や、服装を点検していた。髪も手入れが行き届き、服装も

乱れがなく上品だった。しかし一つだけ──鮫島はタイトスカートの裾が汚れていること

に気付いた。赤黒い点がいくつか、こびりついている。

女の手には包丁が握られていた。

 全員の目が吸い寄せられるように包丁に注がれると、刃先が鈍く光った。

「!」

 鮫島が声にならない叫び声を上げたとき、給食棟の入り口に再び人影が映った。

「母さん!」

 声のするほうへ、女はゆっくりと振り返った。包丁を持つ手が小刻みに震えていた。

 鮫島は、叫んだ少年の顔を見ていた。

 四月から転校してきた五年生の男の子だ──確か、名前は──。

「吉田未来」

 鮫島が心の中で呟いた瞬間に、小峰が女に体当たりした。小峰と女は壁際まで一緒に弾き飛ばされ、包丁は床に取り落とされた。

 鮫島ははっとして、咄嗟に包丁を拾い上げると、給食室を抜けて走った。

 警備員を呼ぶために。


 警備員の男性と共に鮫島が戻ると、吉田未来の母は小峰に肩を抱かれたまま放心していた。田所と野間アキも、見守るように小峰のそばに付き従っている。

 そばでは吉田未来が、取り乱す様子もなく座り込んだ母親を立ったまま見下ろしていた。分厚い前髪はほとんど目を覆い隠し、表情が見えない。

 どこか気になる子だと思っていたが、そうか──。

 小麦粉アレルギーの娘を持つ母親の息子。あの女の子の兄なんだ。

 そこから先は大騒ぎだったが、出来上がった給食は子どもたちに届けられ、その後すぐに全員が下校することになった。

「校内の周辺で不審者が目撃されたから」という曖昧な理由がまことしやかに伝えられた。

鮫島たち給食調理員と警備員の男性以外は、仔細を知るものはいない。

 吉田未来の母は学校との話し合いの末、警察には連れていかれなかった。

精神的に追い詰められ、通院を続けながらも時折家庭でも奇行を繰り返していたことがわかった。虐待などはなく、病院にもかかっているという理由で、さらに調査などに踏み込むことは保留されていたのだ。

未来の父親に引きずられるようにして帰って行ったが、入院を余儀なくされるらしい。

──あの子はどうなってしまうんだろう。

 鮫島は、悟りきったような雰囲気を漂わせる吉田未来を案じていた。その妹のことも。

そしてもちろん、母親のことも。


鮫島たちは、呆然としながらも出来上がった給食を食べ、片付けをした。

皆で小峰の行動を賞賛すると、小峰は真顔で「よく覚えていません」と言った。

包丁を拾って警備員を呼びに行った鮫島の行動も褒められたが、鮫島も同様だった。

ただ夢中で、自分の行動を思い出せないのだった。

「今日は本当にみんなお疲れ様」

田所がそう言うと、皆はそれぞれ安堵のあまり涙ぐんだ。

──怖かったんだ、みんな。そしてきっと、あの子もあの母親も。

鮫島は強くそう思った。

私はあの瞬間に何ができたのだろうか。


鮫島は、嵐のような一日を終えて、コンビニで楽しみにしていた雑誌を手に取った。「厳

選!差がつく秋色コーデ」と書かれた表紙をぼんやり眺めた後、棚に戻し、真っすぐ酒の

売り場に進んで缶ビールや酎ハイをぽんぽんとカゴに入れた。続いて菓子と乾き物が並ぶ

小路に分け入り、つまみを物色してまたもやカゴに放り入れる。

 鮫島はふだん飲めるほうではなかったが、今日だけは酒を飲みたい気分だった。

 今日は楽しみにしていたファッション誌を読むよりも、慣れない酒を飲みながら、給食

室にやってきた母親の内面を慮りたかった。

 誰かと話しながら飲もうかと、鮫島は一瞬迷い、携帯を取り出しかけた。

──彼氏を誘おうか?

しかし鮫島はすぐに思い直して ショルダーバッグの奥底に押しやると、強い目つきでレジへと向かった。

 今日一日は考えるともなく考えて、あの母親に向き合うつもりだった。


コンビニを出たところで、鮫島は立ち止まった。見慣れたずんぐりとした体軀。普段ならさっとコンビニの中に引っ込んでいたかもしれない。

しかし今日は、この偶然の瞬間に感謝した。

「あ」

相手も鮫島を見つけると目を見張り、「あ」と短く言った。

「ずいぶんたくさん買ったんだねえ」

そう言って両手に提げた袋を凝視してきたのは田所だった。しかし人のことは言えない。田所も大きな袋を提げている。

鮫島の視線を察したのか、田所は照れ笑いをした。

「まあ、あたしも同じようなもの」

衝動買い。そんなところだろうか。言葉足らずな田所の発言を、鮫島は想像で補った。

「うちで一緒に飲みませんか」

鮫島は気付くとぽろりとそんな誘いの言葉を口にしていた。あまりにも自然に出たので、自分でも驚いた。

「え、いいの?」

予想以上に、田所は嬉しそうな顔をした。その笑顔を見て、鮫島は自分の行動が間違っていなかったと安堵した。

「あの、言いにくいんだけどさ、他の子も誘っていい?さっき、ドーナツ屋にいるの見かけたんだ」

田所の申し出に、鮫島は驚いた。

「あの、何とかロリータとかいう格好の子だよ。鮫島センセイのお家なのに図々しくてごめんね」

田所は手を合わせる仕草をした。

「もちろんいいですよ」

鮫島は強く頷いた。微妙に困惑していたが、それ以上にワクワクした気持ちが強かった。まさか、こんな急な機会が訪れるとは思っていなかった。

「小峰さんも呼びましょう」

鮫島が言うと、田所は自分で提案したくせにたじろいだ。

「でも小峰ちゃんは子どもが……」

「小峰さんがよければ、連れてきてもらいましょう。今日は金曜日だし、少しくらい遅くなってもいいでしょう?」

そう言って鮫島は携帯を取り出した。実に楽しそうに田所がそれを見ていた。嬉しそうな視線を感じるのは、悪い気分ではなかった。

──私は、こんなふうに誰かを誘って喜ばれたことなんてなかったかもしれない。

鮫島は突然気づいてしまった。鮫島を縛り付けていた何かが、少しずつほどけていく。

「センセイ、意外と柔軟なんだね」

田所はそう言ってニヤリと笑った。

鮫島は久しぶりに浮き立った気持ちで、携帯の連絡帳を探った。


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