3. カレーライスは味方 ~野間アキの場合~
毎朝始業の三十分以上前に、誰よりも早く到着して身支度を整えるのが野間アキの習慣だ。
白衣に白い帽子を被り、安全靴を履く。簡易マスクを着用する。
せっかくロリィタファッションで出勤してきても、すぐに着替えてしまうのだからもったいないような気もする。
それでも、野間アキは通勤時にはお気に入りの洋服を着てくることをやめない。
「それにしても今朝はびっくりした」
言葉には出さずに、野間アキは頭の中で言語化した。
校舎の前でふいに声をかけられたのだ。野間アキが家族と、職場の人以外でわずかでも言葉を交わしたのは久しぶりだった。
家から歩いて通える範囲なのに、野間アキはフル装備のロリィタファッションを着用している。ウエッジソールの靴にレースの日傘。ハットやヘッドドレスも日によって身に着けている。
「え、ひょっとして学校で働いている人?」
突然声をかけられた。こういうことは、実は時々ある。野間アキのような服装に好奇の目を向けてくるような、年齢も様々な人々だ。
──どうしよう。
振り向くかどうか迷ったが、振り向こうと決心したのは話しかけられた声音が高かったからだ。
「……そうですけど」
いつもより低い声を出し、振り返ってみると、そこには少年が立っていた。
長すぎる前髪と、妙に毛量の多い髪。体が明らかに泳ぐほど大きめの服は、ところどころにダメージ加工が施されている上に、全身が黒かった。
──あ、仲間かもしれない。
少年を見た野間アキは、咄嗟にそう思った。
「ごめんなさい……思わず言っちゃって……タメ口でした……すみません」
ぶつぶつと口の中でつぶやくように少年は謝罪した。
「まさか、学校に入られると……思わなかったので」
ひどくゆっくりと、少年は話した。しかも、声が小さく聞き取りにくい。
しかし野間アキは、ますます親近感を覚えた。野間アキも、ハキハキと話せるタイプではないし、人の目を積極的に見られる自信もない。
「君、この学校の子?」
野間アキは珍しく自然に話しかけた。子どもは子どもで苦手だった。大人よりももっと端的に攻撃されることも少なくなかったからだ。
「……はい。でも、転校してきたばかりで」
少年の返答を待って、野間アキは次なる質問を投げかけた。
「そういう服、好きなの?」
あー、と言って少年は少し困ったような顔をした。
「好き、ですけど……母が嫌いなんで、あんまり着られないです」
──わかる。すっごくわかる。
野間アキは、思わず少年の手を取りそうになるほど共感してしまった。野間アキの母もロリィタファッションに対してあまり好意的ではない。それでも自分で働いたお金で買って大切にしていることを理解してくれている。
「そっかあ。じゃあ、大事に着てるんだね」
「……そう、ですね」
言いながら、少年は首をかしげる。私が言うのも難だが奇妙な子だ、と野間アキは思った。しかし、この短時間で、しかもこんなに年下だが同志に会えたような気がして野間アキは朝から嬉しかった。
「私、給食作ってるんだ」
「きゅうしょく!?」
少年は驚いていた。それまでのスローな喋り方から一変、鋭い返しと大きな声だったので思わず笑ってしまった。
──また会えるといいな。あの子。
野間アキは少年の驚いた顔を思い出し、再びこっそり笑ってしまった。
少年とはその後にすぐ別れて、野間アキは給食棟へ直行した。
朝から嬉しい出来事に見舞われたが一呼吸置くと、作業工程に頭を切り替えようと努めた。
今日の献立を確認し、必要な調理器具を準備しながら、頭の中で手順を追う。
そうこうするうちに正規調理員の鮫島が、野間アキより十分程遅れて出社してくる。
「おはようございます野間さん、いつも早いですね」
今年で二十七歳になる野間アキより、鮫島は二歳年下だった。
野間アキは鮫島に会釈しながら、かけられた言葉が嫌味なのかどうか考えるが、のんび
りした鮫島からは悪意は感じられない。
唯一の正社員である鮫島が、自分より年上のパートたちを取りまとめるのに苦心してい
ることは野間アキにも一目瞭然だった。
しかし、お局的存在の田所や腕の立つ小峰ほど歳が離れていればまだ甘えて阿ることも
許されるが、二歳年上の野間アキへの扱いがなかなか厄介だと思っていることも、容易に伝わってくる。
年齢が近いと言うのも、何かにつけて比べられる対象になり、難儀なものなのだ。
誰よりも早く来て、細かい仕事の準備をするのは、野間アキの癖だった。
一見模範的な行為が、必ずしも褒められるものではなく、むしろしばしば嫌がられるこ
とを、これまでの人生で少しずつ学んだ。
しかし学びはしても変えることはできなかった。
先回りが過ぎて、学校やバイト先で「うざい」といじめられ、大学を中退してとうとう
引きこもりになった。
いじめは容赦がなく執拗に続き、野間アキが彼らの視界から消えるまで無くならなかっ
た。
〝野間アキが行動することで、周囲が怠けているように見えてしまう〝
それが彼ら(いじめている側)の持論だった。
どうしていい子ぶるのか。周りに合わせろ。批判の言葉は数限りなかった。
しかし批判を受け止めて、自分の行動基準を何故曲げられなかったのだろうか。暴言を
吐かれ、傷つけられてまで思った行動を押し通すことのほうが難しい気がする。
「でもなーんか、どうしてもやってしまうんだよね」
野間アキは今日も一人で早めに仕事の段取りをしながら、そんなふうに考える。
答えがわかれば、野間アキはもっと器用に生きて行けるはずだった。
野間アキは、何度目かのバイトを経て、給食室のパート職を得た。
きつい割に時給も悪い。女ばかりの職場で人間関係に苦労する。それなのに何故、給食
室に居ついたのか。
給食室は、野間アキにとっての最後の砦。確固たる唯一の居場所になろうとしていた。
長続きしない職歴の中で、そろそろ一年継続されようとしている。野間アキは、我なが
ら不思議だった。
──来たばかりの頃は、こんなところすぐに辞めると思ってたけど。
人とうまくやれない中でも、野間アキは女性ばかりの職場が特に苦手だった。
これまでは大抵、バイト内の女性と諍いを起こしたが、ここまで完全に女性だけの職場
は初めてだった。到底うまく行くはずがないと諦めて飛び込んだ職場は、意外にもドライ
な人間関係だった。
厳密に言うならば、忙しすぎて野間アキのキャラがうざかろうが何だろうが、業務を回
していくしかないのだった。
そう言えば、と野間アキはふと思い当たる。
この仕事を続けているもう一つの理由。
──わたしは給食が割と好きだった。特にカレー。
野間アキは夢見るように思い浮かべる。
あの、どろっと甘いカレーだ。家で何度も再現しようとしてできなかった、特別なカレ
ー。給食の献立表をもらうと、カレーの日は嫌な行事があっても行こうと心に誓った。
そのくらい、カレーには思い入れがある。
当時から野間アキは、既にクラスの仲間外れだった。
筋金入りの除け者人生。
大嫌いだった学校に、まさか大人になった自分が舞い戻って来ようとは。眉間に皺を寄
せた小学生の野間アキが、ふいに自分を覗き込んでいるような錯覚に陥り、仕事中に時々
辺りを見回す。
もちろん、そこには誰もいない。
「おはようございます」
今日もうだるような暑さなど微塵も感じさせない表情で、小峰が入ってきた。野間アキは小さく会釈する。本当は、小峰ともっと話してみたかった。
小峰は吊り上がった目をした三十代の女性で、野間アキとはまったく別次元に生きている存在に見える。年の差は六、七歳だと思うが、小峰が野間アキと同じ年の頃、同じように過ごしていたとはとても思えない。
滅多なことでは驚かないし、仕事は驚くほど速く、正確だ。小峰から感じるのは、重みと現実感だ。比べて野間アキは、ふわふわと落ち着かない。
「おはよー」
やがて最後にやってきた大ボス、田所は正直なところ野間アキの苦手とする人物だった。──今日こそまともに挨拶しよう。
そう思いながらも、結局は曖昧な会釈しかできない。野間アキは、自分が田所に嫌われていると確信していた。
好かれる理由が逆に思いつかない。
田所が何か言葉を発するたびに身を縮めてしまうが、その仕事ぶりはやはりさすがとしか言いようがなかった。田所に指示を仰げるおかげで、野間アキも迷わず仕事を進めることができる。
時々野間アキは、働く理由がわからなくなった。実家暮らしの野間アキは、わずかな食費と生活費しか母親に渡していない。
仕事がないのは恥ずかしいから。皆が社会に出ているのに申し訳ないから。働かなければならない理由は様々あるが、もっと何か本質的な自分でも気付いていない重大な理由があるように思えた。
野間アキは思いを巡らせる。もやもやした考えは、確たる答えを生み出さなかった。
──大好きなお洋服が買えるから。でもそれだけじゃないはずだ。
野間アキは、しかし一方で自分にはそこまで高邁な仕事精神はないとも思った。
野間アキは、下準備の済んだほうれん草と豆腐を見ながら、「今日は好きな野菜がないな」
と考えるでもなく考える。
キャベツの千切りと、玉ねぎのみじん切りは野間アキの得意な作業だった。田所と小峰
のスピード感には劣るし、鮫島の安定した動きにも敵わない。が、キャベツと玉ねぎなら
ば、そこそこリズムに乗ってこなせる。今日は野間アキ思うところの「もっさりした野菜」
ばかりだ。強いて言えばキレのある野菜は大根だが、ベテランの田所と調理のプロの鮫島
が「下処理」班として率先して切り刻む横で、野間アキは技を盗み見ようと目を動かす。
──西小では、わたしはまったく使い物にならないのかな。
野間アキは考えかけて苦笑した。
──何を目指してるんだ、わたしは。給食のプロになってどうする。
苦笑した後、次に思考をつなげようとしたが、野間アキにはその続きが思い浮かばない。
──じゃあ、わたしは何のプロになればいいの?
野間アキの思考はそこで途絶えてしまった。
潔癖症、というほどでもないのだけれど野間アキには残って仕事をしてしまう癖があった。それも、やってもやられなくても正直どちらでもいい細かな仕事──。
「そこまでやらなくてもいいんだよ」とやんわりと注意されるが、大抵は区切りまで綺麗にしたいという自分の満足感を押し通すだけなのだ。
それが今日は、珍しく早く帰るかという気になった。
「たまには寄り道して帰ろうかな」
野間アキは、毎日残って仕事をしていても心は穏やかではなかった。急いで帰る理由もなく、頭の中を整理するために残っているようなものだった。
わたしはどうして、こんなことを繰り返しているのだろう。
誰かに褒められるため?認められるため?
それとも──。
私服に着替えて給食室を出ると、校庭に差し掛かったところで、あの少年が所在なさげに立っているのが見えた。
「あ……!」
野間アキは高過ぎるヒールも忘れて、覚束ない足元で走った。
「……転びますよ」
少年は無表情で野間アキに注意を促した。自信がなさそうに見えて、妙に大人びた雰囲気もある。全てを諦めているような、達観した態度。
「もう授業終わり?」
どうにか転ばずに少年の元に辿り着く。今日は白シャツに、黒いタイを合わせていた。
「週に一回、病院に通ってるんです……」
つまらなそうに答える少年の、予想外の答えに野間アキは黙ってしまった。
「そっか……」
お母さんのお迎えを待っているのか、と野間アキは思い至った。
「ねえ君、将来なりたいものある?」
有益な返しもできず、代わりに口から勝手に先ほどの考え事の続きが飛び出した。
少年は野間アキの突然の問いかけに、驚いたように二度見した。
しかし「うーん」、と少年は腕を組み、「まだわからないです」と唸るように言った。
「そうだよね」
野間アキはため息をついた。私は何を言っているのだろう。こんな小さな子に何の答えを期待していると言うのか──。
「私も、この年でもわかんないもの」
正直に野間アキは言った。言い切る自分が情けなかった。
すると、少年は顔を上げ、ふいに指差した。
「あの人に聞いてみたらどうですか?」
少年の差した指の先には、小峰絢がいた。
──ああ。
少年の示唆は、野間アキの心にわずかな期待をもたらした。そして野間アキは、少年の言葉通りに、珍しく何の躊躇もなくふらふらと歩きだした。
いつものように駐輪場からおんぼろの自転車を押して、帰宅しようとする小峰の後ろ姿
に、野間アキが声をかけたのは初めてだった。
自転車通勤だと知ったのも初めてだ。
「あの、小峰さん」
野間アキが勇気を出して声をかけると、小峰は少し動揺した様子で振り向いた。
野間アキの履いている膨らんだスカートや、白いストラップ靴を、凝視し過ぎないよ
う小峰が気遣っているのがわかる。
「お疲れ様でした。呼び止めてすみません、その……」
顔を上げた小峰は、さっぱりとした表情をしていた。
それほど迷惑そうではなかったので、野間アキは心底ほっとした。
野間アキは、以前から小峰に聞いてみたかったことを思い切って切り出 した。
「あの、小峰さんはいろんな小学校でヘルプされてたんですよね」
「え? ああ……うん」
少々面食らった様子で小峰は答えた。話がどこに転がるのか、頭の中で推測しながら聞いてい
るようだった。
「いろんな学校のカレーを食べたことあるんですよね。いいなあ。どの学校のカレーがい
ちばん美味しいですか?」
すらすらと、野間アキの口から勝手に言葉がこぼれ出る。不思議だった。焦るどころか、小峰に話しているとどんどん落ち着いてきた。
──引かれてるかもしれない。
途中でそう思ったが構わなかった。
カレー好きな野間アキにとっ
て、複数の小学校のカレーが食べられるのは何よりも魅力に思えた。野間アキの憧れと尊敬が、小峰とカレーには詰まっていた。
「はあ。カレーねえ……」
呆気に取られた調子で野間アキの話を最後まで聞いていた小峰は、うーんと腕を組んで
空を見上げた。
「確かにどの学校も、それぞれに栄養士さんがカレーにはこだわりを持ってるね。チャツ
ネを入れるとか、玉ねぎを飴色になるまで炒めろとか、隠し味もそれぞれだし」
小峰が語るカレーの秘密に、野間アキは目を輝かせた。
「で、いちばんは何小ですか?かもめ小は何位?」
再び「うーん」と小峰は唸りながら首を捻った。
「どれも私には甘過ぎるわねえ。ま、子供向けだからね」
「夢を壊すようで悪いけどね」と小峰は頭をかき、申し訳なさそうに告げる。
「野間さんも、自分で確かめてみればいい。どこが一番か」
小峰は野間アキの目をしっかりと捉えた。野間アキは訳もなくどきどきした。田所が小
峰に肩入れする理由が、わかるような気がした。
──思ったよりも簡単だった。
小峰に話しかけ、教えてもらうことは野間アキが逡巡していた長い時間に比べると、脱力するほどに簡単だった。
「じゃあ、また明日ね」
話し終えた小峰は自転車を押しかけて振り向いた。
「野間さん、きちんと仕事できるから、ヘルプやりたければやれると思うよ」
そう言うと、小峰は野間アキの返答を待たずに、自転車にまたがって去っていった。
──きちんと仕事できるから。
小峰の言葉は、野間アキの胸の中に深く刻まれた。自分で思っている以上に、小峰の評価は嬉しかった。
「無駄じゃなかったんだ」
野間アキは嬉しさのあまり、駆け出しそうになった。しかし、また「転びますよ」と諭されそうな気がして、気持ちを落ち着かせながら歩いて行った。少年は、いつの間にかいなくなっていた。
一歩ずつ、高すぎるヒールを踏みしめて。