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たたかう給食室  作者: 杉背よい
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2. 竜田揚げって、何? ~田所善恵の場合~

 田所善恵は、毎朝同じ時間に目が覚めてしまう。それもきっかり早朝五時。

「ああ嫌だ。年は取りたくないもんだ……」

 田所は寝床の中で横になったまま呟く。寝起きの声は枯れていてがさがさだ。

 家の中には、田所一人しかいない。

 博打にはまり、家庭を顧みなくなった夫と揉めに揉めて離婚し、数えてみたら二十数年を超えていた。

 そんなに、と田所は自分のことながらぞっとする。

 夫と別れてから、田所は夢中で仕事をして一人で息子を育てた。

 毎日何かを考える暇もなく、仕事と家事、育児に追われた。田所は自分の全てを犠牲にして、息子に愛情を注いだつもりだった。

 それなのに。

 息子は小学生のうちに、ふいに亡くなってしまった。

 何の前触れもなく。夢のように。

 幾通りの言い方で表現しようとしても、言い尽くすことはできない。あまりにも衝撃が大きすぎて、田所の当時の記憶は所々断絶している。


 それからずっと、田所は一人だ。

 もちろん息子が亡くなった後も、生活は続いた。ギリギリとは言え、息子を養っていた田所には自分一人食う程度は余裕のはずだった。

 しかし、田所はなかなか動けなかった。急に目的を失ってしまったのだ。


 それまで保険のセールスレディとしてトップの成績を誇っていた田所は、惜しまれながら退職した。

「まあ事情が事情だからね」

 そう言って、仲間たちは多くを語らずに田所を見送った。田所と似た境遇の母親も少なくなかった。

「いつでも戻っておいでね」

 優しい言葉が、疲れきってむしろ鈍っていた田所の心に染みた。


 そして田所が選んだのは、肉体的にきつい仕事だった。

 気が触れないために、時間を潰すことに決めたのだ。できるだけきつい仕事を入れて、考える時間をなくす。考える余地が生まれれば、たちまち田所は息子がいない悲しみで精神が崩壊してしまうだろう。

──あたしにはお金も入るし、考える時間も潰れる。その上、ひょっとしたら人の役にも

立つ。

 一石三鳥だ。

 そんなふうに明るく考えた後、田所は少しの間泣いた。

 人生には思ってもみない不幸がある。

 今がそのときなんだ──。じっと身を縮めて嵐に耐えていればいつかはーー。

晴れ間が訪れるのだろうか?


 給食調理員の仕事はすぐに見つかった。「これはきつそうだ」と田所は飛びついた。

 思った通り、いや想像以上のきつさだった。

 実際肉体労働は苛酷だったが、気持ちの弱っていた田所にはいいリハビリになった。

 先輩にどやされ、仕事を覚えるうちに生来の負けん気を発揮してどんどん料理の腕が上

達していった。

 おまけに一人だといい加減になってしまう食事も、出来上がった給食を食べられるので

むしろ田所は健康になった。痩せ細っていた体がいつの間にか逞しくなっていた。

 気がつくと勤続年数は十数年となり、大ボス的ベテラン調理員の田所善恵の出来上がり

だった。

「さあ、そろそろ出勤するかね」

 職場までは徒歩で約七分。田所の身支度は光の速さだ。別れた夫の身支度は異常に遅く、田所はいつも先に玄関で待っていた。

 珍しく若い頃を思い出して、田所は甘い感傷に浸る自分に笑ってしまった。


「ああ、あっつい。おはよー!」

 田所が体を揺すりながら給食室に入っていくと、小峰絢が「おはようございます」と、キビキビした挨拶を返してくれた。

 二十代の野間アキは、いつも軽く頷く程度の会釈をするだけだ。

 野間アキくらい若いと、何を考えているのか田所はさっぱりわからない。

 何度か田所なりに話しかけようとしたのだが、野間アキの重々しいオーラに遮られて、さすがに挫折していた。

 正職員の鮫島は、自分で指揮すべきところを田所に委ねている。田所が怖いのが半分、甘えているのが半分だろうか。

 ひょっとしたらベテランで年上の田所の顔を立ててくれているのかもしれない。

──そう思うと申し訳ないけどね。

 田所は周りの人間に始終気を遣いながら過ごしている鮫島が心配だった。

 田所自身、若い女の子に苦手とされて当然だという自覚はあった。

 この仕事を始めたときには既に若くはなかったが、さらに年上のパート達を何度も煙たいと思ったし、恐れてもいた。

 しかし手を動かし、口を出さなければ仕事は回らない。もっと優しい言い方で、と思っても作業スピードと配慮が噛み合わない。

──あたしは嫌われ役でも仕方がない。

 開き直ってそう思うとき、ふと先輩たちの顔が蘇る。口うるさかった先輩たちも、みな同じ思いで過ごしてきたのかもしれない。

それがわかるようになっただけでも、大人になったのだ。田所は自分にもまだ成長の余地があるのだとわかって、密かに嬉しかった。


「昨年までは、西小にいました」

 年度始めに小峰は突然配属されてきて、飄々と自己紹介をした。

──へえ。

 田所は、無愛想にも取れる小峰に、すぐに興味を持った。外見は三十代前半、と言った

ところか。服装にも髪型にも無頓着、声も低くて表情が乏しいが、「何だか気になる女だ」

と思った。時々追い詰められた野生動物が見せるような、切迫した目をする。

 西小と言えば給食量も市内一、職員も勝気なベテラン揃いで、根性なしはすぐに辞めて

しまう。経験者の田所でさえ、何度も音を上げそうになり、どうにか区切りまで勤めると

異動を願い出た。

 小峰は一年勤め上げると、市の要請でここ「かもめ小」に異動してきたらしい。他の小

学校で急に欠員が出ると、ヘルプ回りもしていたというから頼もしい。

「西小でやれれば、どこでだって働けるよ」

 田所が声をかけると、傍らの野田アキが一瞬小峰に尊敬のまなざしを向けた。小峰は照

れたように目を伏せて笑った。

 二人ともマスクをし、髪をすべて白い帽子で覆われ、表情らしい表情はわからない。

「さっき、若い男の先生に挨拶されちゃったよ」

 生きていたら息子と同じくらいだろうか。

 咄嗟に田所はそう考えていた。恐らく新任のセンセイだろう。不慣れな感じでキョロキョロと周囲を見回していた。

「あ、私も……挨拶されました」

 控えめな口調で小峰が言い、野間アキはわずかに顔を上げて、何となくもの言いたげな顔をした。

「臨時採用の職員です。ほら、渡辺先生産休に入られたので」

 さり気なく質問に答えたのが、正職員の鮫島だ。実質上のリーダーである栄養士と連携を取って、田所たちに指示を出すのが彼女の役目だがまだ二十代後半なので、こちらを伺いつつやってくれている。

「そうか……もう、そんな時期になったんだね」

 田所は渡辺先生の大きなお腹を想像し、和やかなような物寂しいような気持ちになった。

──子どもたちも大きくなって巣立っていくし、変わらないのはあたしばかりだね。

 そんなふうに田所は心の中で、独りごちた。


 調理の手順は体が勝手に覚えていた。大量の野菜を猛スピードで刻み、時折時計を確かめながら各料理の進捗を確認する。他のメンバーが頼るように田所を見てくるのに、頷きながらチェックして回る。

──よしよし、今日も時間通りにアガリだね。

 給食時間が近付くと、さざめきにも似た子どもたちの嬌声が響く。

──何人くらいの子どもが、給食を楽しみにしていてくれるんだろう。

 田所は出来上がった給食を食べながら、ぼんやりとそんなことを考えた。

 今日の献立のメインは鯖の竜田揚げだった。魚が苦手な子どもにも食べやすいメニューだと田所は思う。

 竜田揚げは、亡くなった息子の好物だった。魚はもちろん、鶏の竜田揚げも。

 子育ての最中は仕事が忙しく、家でゆっくり揚げ物をしてやることも少なかった。でも、こんなことになるなら、もっとあの子のために時間を割けばよかった。

 悔やんでも悔やみきれない思いが、時々蘇り、田所を責める。未来を予見することができるなら──そんな詮無いことが頭をよぎる。

 いつもの通り、出来上がった給食を食べ終え、手早く片付けると田所は一番に給食室を出た。これも慣例通りだった。

 次に出るのは子どものいる小峰、その次が職員室で事務作業のある鮫島、最後は隅々まで完璧に片付けて終える野間だと田所は知っていた。

 作業中口うるさい自分がせめてできるのは、さっさとこの場を立ち去ることだ。

先輩たちもそうだった。残った若い者?たちで帰り支度をしながらそれとなく今日の愚痴を言い合う──。

 懐かしく思い出しながら、給食室を出て校庭を横切ろうとした田所の目に見覚えのない少年の姿が飛び込んできた。


「竜田揚げって何ですか?」

 男の子が田所に向かって、やおら質問を投げかけてきたので驚いた。

何を聞かれて何が起きたのか、田所にはすぐには理解できなかった。

「はあ?何って……」

 田所は急に話しかけられたことよりも何よりも、質問の内容に思わず泣き崩れそうになった。

──お母さん、竜田揚げってなあに?

 そう、亡くなった息子も聞いてきたのだ。無邪気な目で田所を見上げていた。

 竜田揚げは息子の好物だから、意味が知りたかったのだろうか。

 一瞬、田所はわからなくなってしまった。

 今がいつなのか。ここはどこなのか。

 どうして息子はいないのか。


「……今日、給食で食べたでしょう?」

 どうにか理性をかき集めて、田所は答えた。

「はい。でも、唐揚げとどう違うんだろうって」

 男の子は鬱陶しいほど髪の量が多く、顔の造作のほとんどが隠れてしまっていた。

 それで頭全体が大きく見えるのに、身体は反比例して細い。

 男の子は、見れば見るほど田所の息子とは似ていなかった。

 逆にそれに救われ、田所の頭は次第にしっかりしてきた。

 これは現実だ。田所は老いていて、息子はいない。

「そうだねえ……竜田揚げは片栗粉を使っていて、サクサクしているかねえ。唐揚げよりも」

 田所は調理過程を思い浮かべて答えた。

 男の子は納得したのか「なるほど」と頷いた。

 男の子の細い体を見ていた田所はふいに心配になってきた。

「……あんた、ちゃんと給食食べた?」

 なおも説教をしかけて、はたと思い至る。

「そう言えば、どうしてこんなところにいるの。授業中でしょ?」

 鬱陶しい髪の毛に覆われた下からわずかに見える目が輝き、口元が微笑みを作ったのがわかった。

何故笑うのか。田所は軽く動揺した。

「あ。今、体育で……見学してて、トイレだと言って抜けてウロウロしてました」

 田所は呆れた。しかし、見学と言う割には元気そうだ。

 確かに色白で、華奢で病弱には見えるが。

「そんな……ちゃんと早く戻りなさいよ」

 男の子はニッと笑った。

「転校してきたばかりで、いろいろ知りたいんです」

「ああ、そう……」

 学校職員として、もう少しまともに説教しなければならないところだったが、思わず納得させられる田所だった。

「早く戻んなさいよ」

 田所が促すと、男の子は素直に頷いて校舎のほうへ歩き出した。

「さようなら」

 男の子が、律儀に立ち止まって頭を下げる。田所はそれだけで、何故か胸がいっぱいになった。

「また明日ね」

 自然に、田所はそう口にしていた。


 たくさんの子どもたちが、元気に走り回っている姿を見るのが最初は辛かった。

──あたしはどうしてこんな職場を選んでしまったんだろう。

 給食室への行き帰り、何度となく田所は後悔した。

同じ肉体労働でも、ビル清掃やホテルの客室清掃など他の仕事ももっとあったはずだ。

それでも吸い寄せられるように、この仕事を選んで打ち込んだのは、人と触れ合いたかったからなのかもしれない。

──あんたと別れて清々する。

そんな憎まれ口を叩いたときには、まだ息子がいた。一人になるなんて、思っていなかったんだ。


そう言えば、こんなこともあった。

「おばちゃん、ごちそうさま」

田所の耳に、小さな子供の声がよぎる。振り向くと、小学校低学年くらいの男の子が一

人分のトレイをささげ持ち、ぽつんと立っていた。

──そうだ、昔は給食が全部食べられるまで、居残りさせられる子がざらにいた。とっく

に給食の時間が終わり、田所たち調理員も仕事を終えて帰ろうとする頃、一人で心細そう

に片づけに来る子供がいたのだ。

「はーい、ごくろうさまね」

 田所は笑顔を作り、遅れて給食を下げてきた子供から空のトレイを受け取った。

「頑張って食べてくれたんだね」

田所が言うと、男の子ははにかんだ笑顔を見せた。笑顔を見た田所はほっとした。

泣きながらトレイを下げに来る子もいたが、あの子はそこまで給食に嫌な思いをしなかったんだ。

男の子が戻ってしまうと田所はトレイをいつまでも見つめていたが、ふと天啓のように閃いた。

 そうか。

──ここには、子供がたくさんいる。あたしの料理で大きくなる子がたくさんいる。そう

思えばいいんだ。

あたしはたくさんの子どもを、今も育てているんだ、と。

心の中でそう思うくらいは、許されるだろう。


田所が顔を上げたとき、誰かが名前を呼んだ。

「田所さん、あの……忘れ物ですよ」

そう言って鮫島が追いかけてきてくれた。手には、田所の帽子が握られている。もう買って数年は経つ、くたびれた帽子だった。

「ああ、よかった。間に合って……」

鮫島は息を切らしていた。

「走ってきてくれたの?」

「はい。まだ、日差しが強いですからね。熱中症にでもなったら大変です」

普段は言いたいこともろくに言わない印象の鮫島がすらすらと喋るので田所は驚いた。

「あ、ありがとね……」

「では、また明日!」

鮫島は先程の少年のように頭を下げた。

「また明日ね」

田所は笑って片手を上げた。こんなに素直に鮫島と挨拶を交わしたことはなかった気がした。

 給食室の女の子たちもあたしの娘みたいなものだ。

──口うるさがられても、明日は一人ずつに話しかけてみるかね。

田所は鮫島が届けてくれた帽子をちょこんと頭に乗せ、照りつける日差しの中を歩き出した。


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