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女子高生、坂東蛍子

坂東蛍子、バスを待つ

作者: 神西亜樹

 夏のある朝のことだ――などと始めると、曖昧な物言いに怒る人が出てくる。世の中は曖昧な物言いが嫌われる。議会や会見ではいつだって言葉尻が正されているし、夫婦喧嘩の場でも「はっきりしなさいよ」はお決まりの定型文だ。この物語の舞台は修羅場でなくバス停なのだが、しかし多くの人を巻き込む物語として、あらゆる立場に配慮していきたいところである。

 というわけで、まずはいつの朝なのかという話をしよう。その日は日本においては全国的に学生達の夏休みが始まる直前日であり、大人達にとっては愈々夏の本領を垣間見る真夏日であり、蟻によく似た絶滅危惧種『クセルクセスモドキ』の最後のメス個体が絶命する日であり、坂東蛍子にとっては林間学校三日目の朝のことを指していた。彼女の高校の林間学校は早朝に自由時間があり、蛍子は今その時間を使って少し遠出をしている。その帰り道の朝である。


 しかしながら、山中並樹(やまなかなみき)にとっては何てことのない平生通りの朝であった。いつもと変わらぬ目覚ましの音に急かされ登校の途についた彼は、生まれ育った山間の村を、これまた普段通りの視線で流し見ている。並樹はこの寂れた村があまり好きではない。なんというか、夢がないのだ、と少年はため息を吐く。まず流行というものに疎い。都会と呼べるところまで出るには一時間はかかるため、最先端を生きる若者という実感が持ちづらい。彼の学校の東側には新幹線の線路が縦断しているが、どんな偉大な文明が身近にあろうとソイツがこの村に止まることはないのだ。

 ならば逆にその不便な環境からノスタルジックな何かを得られるかというと、そういうわけにもいかないのである。村の中は適度にITで革命されており、隣人の木村の婆さんなどはアップル社のハードウェアを一通り持っていて、孫の家に行く際に音声認識ソフトと会話しながら支度をしている。「天女の降りたつ地」などと大層なキャッチコピーを謳う村であるが、実際に降りたっているのは囓られた林檎なのだ。外部や時代への順応性が高いため、「閉鎖的な村」とか「民俗学的狂気」とも縁遠い。

 つまり、夢がないのだ。並樹にはそのことが残念に思えてならないのだった。きっと都会の連中はこんな不満が存在することなど夢にも思っていないことだろう。渋谷や新宿といった都市に気分でふらっと出て行って、そこで夢のような体験をするのだ。ロボット・ディスコやスペース・カルビ・スシのような、近未来世界を満喫しているはずである。

 安穏とした山の緑は飽き飽きだ。少年は欠伸をしながら、己の頭をガツンと揺らすような、衝撃的な朝の目覚めのきっかけを待っていた。


「!?」

 目覚めはすぐに訪れた。高校に向かうため、並樹がバス停に辿り着いた時だ。この村のバス停には幾つか小屋の形をした待機所が設けられている。雪を避けるためだとか理由をつけて、県から金を引き出して建てたものだ。並樹の使うバス乗り場にも、木造カマクラに窓をつけたような待機所があり、彼が目を奪われたものはその内部にあった。恐る恐る、もう一度、少年は中を覗き込む。

 中には見たこともないような美少女がいた。見たこともないし、恐らく常人が一生かかっても見ることすら叶わないだろう美少女だ。端整な顔立ち、長く艶やかな黒髪、それを掻き上げる指先は白く細く、睫毛の奥にはそれだけで心の空白を埋めてしまえる瞳が穏やかに輝いている。人形的な鋭さと人間的な温かさを兼ね備えている。瓶底が抜けたように、どれだけ言葉を尽くしても一杯にならない容積を彼女の姿は持っていた。インテリと揶揄される山中並樹を持ってしても言語化出来ない美しさである。旅行者がすごいすごいと持て囃す旅先の名物とはわけが違う、間違いのない名品の美しさがそこにはあった。

 並樹は思わず腰を抜かした。

「何やってんだ、並樹」

 地面にへたり込んだ彼を上から覗き込むのは、友人の長瀬と六波羅である。長瀬は金髪で背が高くおしぼり集めが趣味、六波羅は料理が得意で昨晩はキエフスキーと呼ばれるロシアのカツレツを家族に振る舞った。二人は並樹を幼少から知る間柄であり、彼が尻を地面につけ足を広げながらぷるぷる蠢動することを好む人間ではないことを知っていたため、その尋常ならざる所作に真剣な顔になる。

「何があった」

 並樹が震える指先で小屋の中を指した。二人は慎重に内部を覗き込み、数秒後、長瀬が並樹の隣に倒れ込んだ。白目を剥いている。

「な、並樹、なんだあの子」と六波羅が鼻息荒く振り返る。

「わからん。俺は何らかの奇跡がこの村に起こったと考えている」

 並樹は立ち上がると、六波羅の隣に並び再び中を覗き込む。小屋で休む女の子は本当に美しかった。清楚で凜としている。歳は恐らく自分たちと同じぐらいだろう。学校の制服を着ている。「他県の人間・・・旅行者かな」「空から降ってきた可能性もまだある」二人は密やかに話し合い結論の出ない議論に腕を組んで唸った。

「そういや今日、祭りの日だよな」

「六波羅よ、動転のあまり目の前の事実から逃げてるだろ」

 少女は椅子に礼儀正しく座っていた。小屋の中を見回してみたり、携帯の画面を確認してみたりなどしているその姿はどことなく儚げで、大和撫子という言葉がぴったりだ。

 並樹は少女の頬がほんのり赤くなっていることに気づいた。呼吸する胸も少し穏やかさを欠いているように見える――並樹は胸を見ていたわけではない。胸の上下を見ていたのである――。もしかしたら具合が悪いのかもしれない。並樹が声をかけるべきか考えていると、少女は徐に立ち上がり、今度は奇妙な姿勢をとり始めた。すっと姿勢を正し、足を伸ばし、手を上げるそれらの挙動に並樹は心当たりがあった。

「バレエだ」

 それは実に美しいバレエの所作だった。大和撫子は芸能にも秀でているのだ。そしていつだって鍛錬を欠かさないのだろう、と感服する。

 ふと少年は彼女と目が合った。視線が交錯したことに動揺した並樹は再びの尻餅をつき、蟻か何かを踏み潰した。

「どうしたの、並樹君」

 彼の背後にはいつの間にか人の列が出来ていた。並樹と六波羅、それに倒れた長瀬が偶然にも一列になっていたものだから、バスに用のある村人達はそれに倣うように彼らの背後に並んでいたのだ。「あらまぁ、綺麗な子」と主婦が言い、他の隣人たちも小屋の中を覗き始める。一人が「テレビで見たことあるような」と呟き、もう一人が何かに気づいたように「違う」とそれを否定した。

「天女だ」

 村の最長老であるその老人は語り始めた。六波羅の言う通り、村では今日、祭りが行われる。一人の女性を村から選んで讃えるその祭りは今でこそミスコンのような形へと形骸化しているが、古くは千年の歴史を持つ民間信仰であり、全国に散らばる天女伝説の一つの原型となった祭りだった。そんなことは初耳だと傾聴する若衆達と、小屋の彼女こそその天女の生まれ変わりではと息をのむ老人達。胸の内に仄かに灯った彼らの興奮は今夜の祭りに向けてそのボルテージを上げ続け、結果として途絶えていた信仰に再び火をつけることになる。その後、「バス女」という独自の天女を祀り始めた村は閉鎖的色合いを強め、いつからか外部との交流を拒むようになり、十年の後に、不穏な噂を耳にした市役所の要請で査察に入った民間の警備員二人が行方不明となる。

 皆の動向に構わず、並樹は先程の彼女の表情を思い出していた。それは縋るような瞳だった。何かに窮するような緊張感のある視線に、上気した頬、そして僅かに覗いた白い歯だ。顔に出さないようにしているようだが、俺には分かるぞ、と並樹は思った。俺には君の気持ちが確かに伝わった。君は俺に恋をしたんだな。俺と同じように。

 理解を示すため、並樹が少女に頷く。彼女の「ばか」という小さな照れ隠しの囁きを、彼だけは聞き逃さなかった。



 坂東蛍子はテンパっていた。

(ここってバスの待機場所じゃなかったの!?)

 蛍子はちらっと小屋の外を見た。一列に並んだ村人達や窓縁に張り付いた少年達がこぞって小屋の中を観察している。つまり、私を観察しているのだ。私がよっぽどおかしなことをしているに違いない。

 そもそもの事の発端を蛍子は思い出そうとした。朝食に信州そばを頂いた帰り、このバス停にやってきた当初の記憶だ。

 バスの待合室と思われる小屋に腰を下ろした蛍子は、満足げに膨らむ腹をさすりながら、先程堪能した蕎麦について「コシがすごい」だの「ツヤがすごい」だの、様々な角度からすごさを検証していた。概ね筆舌が尽くされると、今度はこの村について考え始めた。特徴のない村だけど、たしか絶滅危惧種の虫の目撃談があったはずだ。その虫はすり潰すと惚れ薬になると信じられていて、現代までに既に何度も絶滅しかけているらしい。ばかばかしい、と蛍子は思った。そんなので心を奪えたら苦労しないわ。恋ってもっと複雑で、とっても難しいんだから。

 十分ほどバスを待ってすっかり冷静さを取り戻した彼女は、ふと「ここって本当にバスを待つ場所なのかな」と首を傾げた。

 田舎のルールが都会のそれとはかけ離れていることを、少女はこの三日間で実感していた。東京都民の感覚ではここがバスを待つための施設だと思えたとしても、現場の感覚ではそうでない可能性もある。開放的なカフェスペースとか、家畜の休憩場とか、あるいは誰かの住居かもしれない。そんなところで呑気に座っているのかも、と一度考え始めると、どうにも心の窓から不安の曇りを払拭出来なくなってしまう蛍子だった。

 彼女の「もしかしたら」が確信に変わったのは、小屋の外に登場した少年によってだった。男子高校生と思しき少年は、どういうわけか小屋の中には入って来ず、隠れるようにしてこちらを伺っていた。尚且つ、彼は驚きの表情を浮かべている。これは完全にやばい、と蛍子は思った。

(私、絶対おかしなことしてる)

 普段すまし顔で生きている人間ほど、不慣れな環境に混乱し易いものである。坂東蛍子は飛び出したがる心臓を辛うじて抑えながら、それとなく状況を把握しようとスマートフォンを取り出し、友人へバス停に関する質問文を打った。しかし小屋の中は電波が遠く、座ったままではどうにも送信が成功しない。仕方なく彼女は、これ以上村人に変な印象を与えないように気遣いながら、窓縁に手をついて外を眺めるフリをしたり、頭上の電球に手を伸ばすフリをしたりして必死に携帯の位置を変え、電波の届く場所を探した。

「バレエだ」

 少年の言葉に蛍子は顔を真っ赤にした。頬を膨らませて、違うわよ、と少年を睨む。その時、彼女は少年の後ろに列が出来ていることに気がついた。一列になった村人達が、こぞって此方を見ている。蛍子の目の泳ぎ方は愈々限界まで極まった。

(やっぱりここはバス停と関係ない場所なんだ!だってみんな外で一列になって並んでるもの!あのお婆さんなんて拝み始めちゃってる!私が入って良い場所じゃなかったんだ!)

 はずい、と蛍子は思った。浮いてる。気まずい。恥ずかしすぎる。蛍子は真っ先に外に待機し始めた、列の先頭の少年に助け船を求め、再度視線を送った。私が何も悪いことをしていないただの旅行者だって証明して頂戴、と祈りを込める。

 少年は力強く頷いた。「ばか」と蛍子は地団駄を踏んだ。

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