前編
2003年作品
小窓から覗くゆかりの表情は、過酷な仕打ちを耐え過ごし、ようやく解放されたあとの静かな寝顔のようにも見えた。もともと色白な顔は、今その乾いた肌を包む百合や菊に劣らぬほど白く、花々に覆い隠された頭部を巻く包帯だけが悲劇の爪痕を偲ばせた。施された化粧の下から、小指の爪ほどの小さな痣が頬に透けていた。
これもそのときの傷だろうか。
友人を襲った、ほんの数日前の運命に思いを馳せ、桜庭陽子は胸を震わせた。
「最後のお別れです」
小窓が閉じられると、ゆかりの納められた白木の棺は、斎場職員の厳かで手慣れた営みで、扉を開いた火葬炉の奥へと滑っていった。厳重に閉じられた重い扉の向こうから伝わる地響きのような轟音に、親族や同級生たちのすすり泣く声が一瞬静止し、そして煽られた。居たたまれない沈鬱な空気の中で、同道した住職の読経の声だけが高い天井に朗々と響いていた。
間もなく参列者の一団は係の職員の誘導で控え室へと移動した。陽子も友人たちと、それに続いた。落とした視線には参列者たちの喪服の後ろ姿が見えていたし、耳には高い靴音が響いていた。よそ見をしていた覚えはない。
それなのに、なぜ自分一人が列を離れ、そこに足を向けたのか、陽子にはどうしても思い出すことができなかった。
もっとも理由の詮索に意味など感じなかった。それ以前の足取りなど掻き消してしまう、その凄絶な光景は、見るべくして見た、いや見せられたとしか思えない。
引き寄せられた。それが実感だった。
気づいたとき陽子は、近隣の建物から視界を遮る高い塀を背に、筒抜けの轟音に包まれて一人立ち竦んでいた。小春日和の陽光を浴びながら、体の震えに膝を落としそうになっていた。
そこは斎場の裏庭だった。最前、ゆかりの棺を飲み込んだ火葬炉の裏手に陽子は立っていたのだった。
コンクリートの外壁を四角く穿つ、むき出しの窓の列。それが陽子の目の前に、横一列に口を開いていた。その無機質な口腔の奥で、炎の舌が死者を転がし、舐め回している。この世で唯一、此岸と彼岸を隔てる窓の奥で。
平日の穏やかな昼下がり、悽愴な非日常の光景に陽子の視線は釘付けになった。煙や臭気は高い煙突に吸い上げられていたが、視覚から想像させるに余りあった。
陽子はあまた並ぶ炉の一つに当為のごとく向き合っていた。その奥で炎に巻かれているのが誰であるかをたがわず感じ取っていた。
炎は文字通り葬っていた。うつむきがちで目立たないながら美しく整った顔立ちも、大人の輪郭を造形し始めた細身の肢体も、生前に享受したすべてがいま燃え朽ちようとしていた。猛る炎は、陽子の記憶の中のゆかりの姿まで突き崩していくようだった。
目の当たりにした場面が紛れもなく日常と空間を一にするものであることに、陽子の生活感覚は俄かに馴染むことができなかった。法律が死者に課すその凄惨な苦役は、陽子を芯から怯えさせた。
暗く狭い炉の中にたった一人で押し込まれ、劫火に揉まれるその姿は、生者の意識を移入したとき、例えようもない恐怖を呼び起こす。
いつか自分にも同じ日が訪れる。もしそのとき自分が本当は死んでいなかったとしたら…
その想像に陽子は総毛立った。
次の瞬間、兆した恐れを爆発的に煽り、胸が爛れるほどの恐怖を焼きつける場面が陽子を襲った。
陽子の視線は微動もできず、炎に巻かれるゆかりの亡骸に固定されていた。眼窩がまるでギプスのように眼球の自由を奪っていた。その見つめる先で、炎を纏ったゆかりの上半身が、腰を支点にバンと跳ね上がった。
陽子は仰天し、吸い込んだ息でのどを詰まらせそうになった。
跳ね上がった上半身は、その勢いで腰をひねり、肩越しに振り返るようにして、陽子の立つ屋外へと顔を向けた。それは火勢の仕業でありながら、陽子の目には、自分の存在に気がついて、むっくりと起きあがり、徐に振り向いたように感じられた。火に食い破られた顔面は、もはや誰とも識別できない有様だったが、陽子にはそれが非業な運命に対する、ゆかりの恨みの形相のように思われた。
ねじれた首が傾げ、死者の瞳が陽子の視線と重なった。いや、重なったのではない。死者が陽子を『見た』のである。そして再び火の床に崩れ落ちる刹那、露わになった上下の歯並びが小刻みに揺れた。陽子はそこに、すでに焼け落ちた唇の動きを感じとった。
「…て、が、み……」
声が届いたはずはない。しかし陽子の耳には、それは確かに音として響いた。
魔界を覗き見たような、言い知れぬ戦慄が陽子の全身を貫いた。許容量をはるかに超えた真性で無欠の恐怖。陽子にはそれをまともに受け止めるしか術がなかった。立ち去ることはおろか、吐気さえ、失禁さえ、失神さえも封じられ、陽子は石のようにその場に立ちつくした。視線も釘付けにされたままだった。髪の毛から色素も水分も抜けていく気がした。
時間の経過の埒外に置かれ、静物のように佇んでいたのは、どのぐらいの間だったろう。突然視界の奥から小さな赤熱の物体が弾き出され、陽子の胸にぶつかった。当たった痛みは感じなかったが、それは上着の襟元から滑り込むと、白いブラウスを瞬時に焦がした。その熱さが陽子の硬直を解き、止まっていた秒針を動かし始めた。
「あ、つっ…!」
ことばが十分に巡らない。思考の切れが戻らず、状況の把握に手こずりながら、陽子の体は身を焼かれる苦痛にだけは鋭く反応した。
灼熱の異物が上着とブラウスの隙間で、噛みつくように暴れていた。火の粉のような、立ち消えしそうな物ではない。陽子は上着の前身頃を狂ったようにバタバタ叩き、外敵を払い落とそうとした。
腹部に熱の軌跡を伝え、それはようやく上着の裾から滑り落ち、足許の土を黒く焦がした。陽子はとどめとばかり、本能的に何度もそれを踏みつけた。そして、その正体をあらためるより先に、ボタンが弾けそうな勢いで上着の前を開き、創部の具合を確かめた。
痛みをこらえながらブラウスの胸のボタンを一つだけ外し、前立てを左右に広げて中を覗くと、覚悟した通り小さいけれども生々しい火傷が肌に点々と跳んでいた。
痕が残ってしまうかも知れない。
けれどブラウスの腹部に、黒い焦げ目に縁取られた硬貨ほどの穴を見つけたとき、ブラウスの内側に滑り落ちなかったことは、まだ幸運だったと思い直した。
炉の奥から、いったい何が飛んできたのだろう。
改めて目を向けると、それはまわりの土に熱を移して、わずかに煙を上げてはいたが、すでに十分冷えた様子で土に埋もれていた。しゃがんでよく見ると、そこに留め金らしき針を認めた。金属のバッジのようだ。小石でつついて表を返し、恐る恐る見つめて分かった。陽子の通う、そしてゆかりの通った私立聖淑女子学園高校の校章だった。ゆかりは参列した陽子たち同級生と同じ紺のブレザーの制服を羽織って棺に横たわっていた。襟に挿した校章だけは燃え尽きる前に、炉の中から爆ぜて出たのだろう。
そう合点して陽子は、はっと炉の口に視線を戻した。しゃがんだ姿勢から奥の様子を窺うことはできなかったが、異界の光景を脳裏に呼び戻すには、それで十分だった。
震えが走り、体温を飛ばした。硬直の解けた体に恐怖はよく馴染み、素早く活性化した。体の外に吐き出そうにも、悲鳴はのどに貼りついて、声帯をすり抜けるのは喘鳴だけだった。
炉の口から、全身を火膨れにしたゆかりが今にも飛び出して来そうな気がして、陽子は狂わんばかりに駆け出した。
だが、その場を立ち去ろうと急く思いに、ばらばらになった運動神経がついて来れない。体が前につんのめり、ジャッキで上げた自動車のように蹴り足を空回りさせ、徒らに焦りを募らせた。
一刻も早く日常へ戻らなければ、ゆかりに道連れにされてしまう。
そんな理屈も常識も超えた恐怖に怯え、陽子は懸命に走った。
命からがら斎場の近代的な建物に駆け戻り、どこかの葬列の黒装束の一団と出会ったとき、陽子は慈母に抱かれたような安心を覚えた。それがたとえ冷血なテロリストの集団であったとしても、此岸の人でありさえずれば、それで良かった。
間に合った。…のだろうか?
「陽子。あんた、一体どこに行ってたの?」
後ろから肩を叩いた同級生は、陽子の示した一様でない狼狽ぶりに、かえって自分が驚かされた。
「準備ができましたって、声がかかったんだよ。行こう」
別の誰かがそう言った。
それが収骨を指すことに一テンポ遅れて理解が達し、陽子は蒼白になった。収骨室へ向かう流れに体が自ずと抵抗した。その様子を見た担任の教師が、
「桜庭。気持ちは分かるが、みんなで最後まで見送ってやろう。それが大西への供養にもなる」
そう優しく声をかけた。亡くした教え子を悼み、自身もやつれた表情ながら、残された同級の仲間たちをいたわり励ます誠に教師らしい懐深さが、陽子には恨めしく感じられた。
「これも一つの経験だよ」
あんな体験はもう御免だったが、友人たちに囲まれて、わずかに怖じ気が薄らいだことも事実だった。一人逃げ出す体裁の悪さを慮るゆとりができてしまい、また何より一人になることへの不安から、そのまま列に加わった陽子だったが、設えられた祭壇にゆかりの遺影を認めたとき、その痩せ我慢もあっけなく潰えた。気を失うのが遅すぎたが、それでも恐怖をいったん断ち切ることができたのは、まだ幸いだったのかも知れない。
騒然となった参列者の一団は、陽子の過剰な反応に些か冷淡な不審を抱きながらも、慣れない緊張に幼い精神が耐え切れなかったのだろうと寛容に解釈した。
陽子は一夜を病院のベッドで過ごすことになった。退院後、悪夢は陽子の床に眠気を寄せつけなかったため、この喪心状態が彼女にとって最後のまとまった睡眠となった。
※ ※ ※ ※ ※
大西ゆかりが消息を絶ったのは、告別式の6日前、下校後のことだった。
両親は夜が更けても帰宅しない娘の身を案じ、駆けつけた担任教師と手分けで、学級の連絡網を通じ同級のすべての生徒に情報を求めたが、虚しく終わった。
このとき陽子は交際相手の伊勢上聡とひとしきり話し込んで帰宅したばかりで、待ち合わせ時間の行き違いから帰宅の遅れた次第を母親に釈明している最中だった。
電話口に立った陽子は、何ら手がかりとなる回答を示せずに短い通話を終えたが、事態の深刻さに思いも到らず、ただ母の小言を逃れるタイミングの良さに、ほくそ笑んだのみだった。
ゆかりは気質の穏やかな安心できる友人ではあったが、活動的な性格の陽子とは特に気が合うわけでなく、校門の外で行動を共にする機会はほとんどなかった。
ただ、ゆかりの方では陽子に関心を寄せていたらしく、
「このキーホルダー、かわいいね。いいなあ」とか
「あれ、ちょっと焼けた?どこかに遊びに行ったの?」とか
「携帯、新しくしたんだね。あ、ごめん、メール打ってたんだ。待ち合わせ?」とか、
ありきたりではあるが、陽子の身なりや挙措に細かく注意を向けていた様子に気づかされ、時に軽い当惑を覚えることもあった。
もっとも概して気に留めもせず、問われれば隠さず答えていたが、ボールを打ち返しても、それで会話が展開した試しはなく、陽子にすれば特に興味を引く相手ではない、要は無害な友人の一人に過ぎなかった。
だが、そのゆかりが失踪の翌朝、学校からも自宅からも遠く離れた雑木林で、縊死した姿で発見されたと聞いたときには、さすがに衝撃を禁じ得なかった。
いかに興味を引く相手でなかったとは言え、決して疎遠にしていたわけではない。同じ教室で接していたのだから、思い詰めた様子でもあれば気づきそうなものだ。学校や警察から問われるまでもなく、陽子自身、記憶を隅から浚ってみたが、それでも思い当たる節はなかった。
だが、もどかしい自問もほどなく意味を失った。発見されたゆかりの様子を伝え聞くなり、陽子は自分の記憶に問いかける無駄を悟った。
ゆかりの身につけていた制服は損傷こそなかったが、全体に汚れやしわが目立ち、着衣の不自然なずれ、例えば、
リボンの結び目が団子のように不格好だった
ブラウスのボタンを途中から掛け違えている
スカートのジッパーを上げきっていない
ソックスが靴の中でたわんでいる…
など、『自分で着たのなら』こうはなるまいと思われる状態が多数認められたという。
そのうえ、一筋の血が内股に伝って凝固していたと聞けば、陽子のような一女子高生にも『自殺』より『他殺』の方が文脈に合う状況であることが容易に想像できた。
司法解剖はただちにそれを裏付けた。擦過傷や内出血が至るところに残されていたほか、頚部の策条痕には生活反応がないうえ、挫滅の度合いは自己の体重を吊した負荷を大きく超える力が加えられたことを顕著に示していた。
学校は生徒たちの動揺を憂い、全員を体育館に集めて、及ぶ限り簡潔に事実の説明をした。そして一日も早く、もとの生活リズムを取り戻すようにと諭したうえで、同種の事件の再発を防ぐため、外出の際の注意を喚起した。
ただ死の意味を教育するのに、天国とか神様とか心の中に生きているとか、つかみ所のない子供だましの観念を多用したことは保護者の不興を買い、却って学校側を動揺させる結果になった。
事件はワイドショーの好餌となった。テレビでよく見るレポーターが校門の前で待ち受けるのみならず、入手した名簿を頼りに同級生ほぼ全員の自宅にマイクとカメラを持ち込んだ。学校側の抗議など歯牙にもかけぬ取材ぶりが、陽子たちに惨劇が揺るぎない事実であることを認識させた。
死も殺人も巷間に溢れてはいるが、身近に接する機会は多いものではない。死という、すべての消滅の意味が自分の中で熟さないうちに、それが殺人という実感しづらい特殊な事態に置き換えられた衝撃は、陽子たち同級生の若い感受性を深く抉った。
ゆかりが殺された、殺された、殺された。
陽子は何度もそう呟いて、理解に呼応する響きを探したが、それは虚しく立ち消えるばかりだった。それでも、斜め後ろのゆかりの席の虚ろな気配が気になって、ふと振り返ってしまうのだった。
告別式の日、陽子は本来焼香のみで帰るつもりだった。それなのに喪主の挨拶を聞いていたはずの自分を火葬場へ向かうマイクロバスの中に見出し、愕然とした。
思えば、あのときすでに抵抗し得ない何かに導かれていた。その後、豁然と開けた地獄絵に導く何かに。そしてそれは今も自分のそばにいて、今度こそ想像も及ばぬ魔境へ追い込もうとしているのではないか。そんな言いしれぬ不安に陽子は怯えた。
※ ※ ※ ※ ※
「事件当日の夕方4時前後にJR北村山駅の改札付近で、被害者の通う聖淑学園の制服とよく似た服装の女子高生の姿が目撃されています。連れはなく、待ち合わせの風情だったと言うことです」
「同様の情報が数件あります。ただし時刻は5時頃だったという話も含まれていますが」
「一時間もその場にいたというのか。だとしたら、ずいぶんと健気な話だが別人である可能性もある。両者の外見上の特徴は?」
「いずれも身長160㎝前後、細身で肩に掛かる程度のストレートヘア、紺のハイソックスにナイロン製の通学鞄を提げ…」
「話にならんな。石を投げれば当たるようなスタイルだ。それから?」
「それよりやや遅い時刻ですが、同じ北村山駅の地下アーケード内の喫茶店で、聖淑学園の生徒と思われる女生徒が県立池浪高校の男子生徒と二人でいたという情報があります。喫茶店のウエイターの話ですが、男子生徒の方は池浪高校の制服に間違いないとのことでした」
「池浪と言えば、あの辺では有名な進学校だからな。で、容姿はどうなんだ」
「女生徒の方は先ほどの報告とほぼ同じ外見ですが、男子生徒の方は利発な顔立ちで175㎝以上の長身。肩幅もあり、スポーツ選手のような引き締まった体格だったそうです」
「それはある程度絞り込めそうだな。北村山なら聖淑、池浪のちょうど中間あたりだ。待ち合わせた可能性は十分ある」
「実は同じ二人かと思われる男女が、北村山駅から2つ下った小金原駅前のファーストフード店でも目撃されています。10時の閉店間際まで話し込んでいたとのことです」
「喫茶店からファーストフードへのはしごか。芸のない話だが高校生だからな。会いたいけれど金はないとなれば、それもありかも知れん。ただ同じ二人だとすれば、どうしてわざわざ、そんな中途半端な移動をしたのかだ。ほかに目撃情報は?」
「あとひとつ、いま話のあった男子生徒とは明らかに別人と思われますが、赤いスタジャンに綿パンツ姿の10代の太った男が被害者らしき若い女性と、こちらは北村山駅から見て上り方面の電車の車内で並んで座っていたとの話です。時刻は午後7時から7時半の間で、お互い何やら親密そうに『てがみ』がどうとか『メール』を見たとか、言っていたそうです」
「手紙とメールは同じ意味だろ。もっとも今時の子がメールと言えば、携帯電話かパソコン通信のことだろうが」
「パソコン通信とは古いですね。いや、失礼しました」
「北村山の喫茶店から、別の男と7時過ぎに上り線に乗り、再び下って、もとの男と10時近くまで小金原のファーストフード店へ。十分可能な移動だが行動としては不自然だな」
「現場から見つかった例の金属片についても報告があります」
「聞こう」
「製造元は本川口市の㈲山下徽章。各種徽章のほかに金属製工具類などの製造販売を手がける小さな会社です。ここの社長の話によれば、…社長と言っても要は工場の親父ですが…、発見された金属片は同社が製造している汎用タイプの徽章の基部に間違いないそうです。発見されたネジ状の軸と円盤状の固定板がボルトとナットの関係で、折れて失われた前部、つまり組織のマークを象った部分ですね、それにつながっているわけです。申し上げたように汎用の型ですので、これを使った製品を複数の企業や学校に卸しているそうですが、ここ数年の受注に限れば納品先はいずれも県内で、松島電子、城北物産、立英女子短大、そして県立池浪高校…」
「…、特定はできないのか」
「これ以上は無理だそうです。折れた前部があれば、すぐ分かるとは言っていましたが」
「当たり前だ。それがあれば誰も訊きやしない。だが、よし、目撃情報との接点が浮かんだ。北村山の喫茶店と小金原のファーストフード店にいた池浪高校の学生を洗い出せ」
※ ※ ※ ※ ※
「信じられない。聞いてなかったの?」
手をかけていたお冷やのグラスでテーブルの表面を打つと、注文したまま口をつけずにいたオレンジジュースの氷が涼しい響きとともに浮かび上がり、対座する伊勢上聡の瞳とも共鳴した。
「え?いや、ちゃんと聞いてたよ。大西さんの家に行くんだろ。大西さんのお母さんに、お線香を上げに来てもらいたいって言われて」
うわずった声でそう答えると、聡は自分を見据える陽子の目を避け、その場を取り繕うようにアイスコーヒーのストローに口をつけた。すでに空になったグラスの底が鼻をすするような音を立て、ばつの悪さを引き立てた。
「やっぱり聞いてなかった。あのね、私が倒れたとき、ゆかりのお母さんが心配して病院までお見舞いに来てくれたんだって。だから一度きちんと訪ねて、お線香の一本も上げてくるのが礼儀だって、親に言われたの」
「あ、ああ、そうだったね。それが大西さんの、供養って言うのかな、にもなるのかも知れないね」
「うちの担任みたいなこと言わないで」
「行ってあげれば?大西さんのお母さんも喜ぶと思うよ」
聡はゆかりの話題になると、ときおり上の空になりながら身の入らない返事を繰り返した。慰めにも励ましにも意識が留守で、自分たち二人の間にゆかりの一件を持ち込むことを避けようとする気配さえ窺われた。
交際相手である自分に、よすがと頼る優しさを示してくれない。
いたわりの欠落はそのまま陽子の気持ちの洞となり、そこに孤独が吹き抜け、すぐさま恐怖が溢れた。
ケロイドのように脳裏に焼きついた、あの酸鼻な光景のことを陽子は聡を含め誰にも話していなかった。
奇異に思われることを恐れたためではない。口に出そうとすると、あのときのゆかりの姿がすぐさま記憶に呼び出され、身が竦んでしまうのだ。それを押して話し続ける自信が持てないばかりか、再び意識のスイッチを切られ、今度こそ幽界に道連れにされてしまいそうな気さえする。強迫観念は徹底して陽子に口をつぐませた。
聡は陽子のただならぬ憔悴ぶりを、友人を無惨に失ったショックによるものと安直に決めつけているようだった。それは無理からぬことと陽子にも理解はできた。それならそれで構わない。せめて聡と一緒にいることで、衰弱した神経を少しでも癒し、安心を得たい。ひたすら縋っていたい。そんな切なる願いも叶えられず、陽子は泣きたい思いがした。
しかし孤独も虚無も、たちどころに掻き消された。恐怖は他の感情に居場所を与えず、潜入さえも許さなかった。感傷的な寂しさに浸れるのなら、まだましだった。
「気が進まないの?それなら、もう少し気持ちが落ち着いてからにすれば。何にせよ、陽子の思うとおりにすればいいよ」
字面だけの思いやりが抑揚のない声に運ばれてきた。それでも陽子は勇気を出して食い下がった。
「ねえ、伊勢上くん、私のお願い、聞いてくれる?」
「何?言ってみな。陽子のためなら、たとえ火の中、水の中」
話題の転換を期待して、聡はわざとおどけてみせた。
「火の中は、いい」
「?、そう…」
「伊勢上くん、お願い。私と一緒に来て」
「俺が!?どうして俺が。いや、俺は遠慮するよ。だって変じゃないか。学校だって違うんだし、第一そんなに親しかったわけじゃない。大西さんとは数えるほどしか、…会ったことがないんだし、それに…」
「もう、いい!ああ、言わなきゃ良かった」
陽子は情けなくなって、聡の弁解じみた言い条を遮った。怒りが涼風のように心地よく陽子を満たした。陽子にとって、怒りは恐怖を押し返す力を持つ唯一の感情だった。怒りだけが唯一の救いとなった。
「怒るなよ。だから無理して行くことないって言ってるだろ。いったい何をそんなに怖がっているの。気にしすぎだよ。大西さんが化けて出るとでも思ってるの?」
「やめてよ!」
怖がっている。そこまで様子に気づいていながら、どうしてもっと優しくしてくれないのだろう。恐怖に一人で耐えねばならない。そう思うと絶望に似た気持ちになった。陽子は愁然と席を立った。
聡は釈然としないながら、この成り行きには不安を覚え、足早に去る陽子を追った。支払いを済ませている間に開いた距離を意識的に保ち、手頃な場所に到るまで追いつかずに待った。そして陽子がブロック塀に挟まれた住宅街の路地に踏み入ったとき、一気に距離を詰め、陽子の前進を遮った。
「あんまり考え過ぎるなよ。考えたって悔やんだって、俺たちにどうにかできる問題じゃないだろ。陽子が気に病むことじゃあ、…ないんだから」
聡は陽子の肩に手をかけ、抱き寄せようとした。機嫌を繕う演出だったが、この際これは安易に過ぎた。
「やめて。そんな気分じゃないの」
陽子は身を反らし、聡の胸を強く押し返した。
「痛っ」
聡を押し返した右手の甲に、小さいが鋭い痛みが走った。見ると小さく皮膚がめくれて、傷ついた毛細血管から細かい血の玉がいくつも浮き上がっていた。何に擦ったのかは、すぐに分かった。傷は何度も顔を埋めて間近で見た、聡のブレザーに挿さる校章を象ったから。
陽子はハンカチで傷口を押さえながら上目遣いに聡を睨んだ。拒絶に会った当惑と、怪我をさせてしまった気まずさから、聡は思わず後ずさりした。
陽子は嫌悪を隠せなかった。自分たちは確かに数え切れないほど抱擁を重ねてきた。でもそれは愛情の表現であり、互いの気持ちを確かめ合う手段であったはずだ。それを流用して感情の行き違いを手っ取り早く糊塗しようとしたこと、また本来秘匿すべき行為を、いかに人目につかないとは言え、白昼臆面もなく持ち出したこと、すべてが不快に感じられた。痛みがさらにそれを煽った。
「最低!」
吐き捨てるようにそう言った。
このひとことは聡の気後れを一掃し、先刻から胸に立ちこめていた苛立ちに着火した。
「ああそう。じゃあいいよ、勝手にすれば」
「言われなくても勝手にするわよ。もうついて来ないで」
売り言葉に買い言葉で応え、今度こそ二人は行動を別にした。踏みつけるような足取りで去る陽子の後ろ姿がまだ近いうちから、聡は憤然と背中を返した。
ただ聡にしてみれば、演出こそは裏目に出たものの、このときのことばそのものは真情の流露したものに他ならなかった。ゆかりに関して聡が唯一思いを込めたひとことは、こうして陽子の心に届かず消えた。
このとき陽子が、もう少し労を厭わずに聡の心底を窺っていれば、聡が悲劇の直前にゆかりと顔を合わせていたことまでは見抜けなくても、怯えたように思い詰め、悔恨さえ滲ませた苦渋の面持ちに気がついたはずだった。聡が陽子の怯えた心に思いが到らなかったのと同様、陽子も自身の心労から聡の様子に十分な注意を払う余力が持てなかった。
陽子と聡は、ゆかりという巨木を挟んで、幹に隠れる後ろ姿を追っているようなものだった。若い二人は立ち止まって相手が近寄るのを待ってみたり、別の方向から歩み寄ってみたりする思慮を持てないまま、根を尽きさせてしまった。
※ ※ ※ ※ ※
陽子はゆかりの家へ向かう電車の中で、聡の様子を思い返していた。
思えば去年の秋、陽子は同級生数人と隣町の進学校である県立池波高校の文化祭に遊びに行ったとき、聡と初めて出会ったのだった。あのときは珍しく、ゆかりも行動を共にしていた。
陽子たちは、空手着を身に纏って型の演武を披露していた聡の峻烈な表情に目を奪われ、力感溢れる身のこなしに嘆息し、裂帛の気合いに度肝を抜かれた。好みの問題は別として、女子校に通う陽子たちにとって、それは普段望んで満たされることの少ない『男性的なもの』の象徴だった。聡の精悍な姿は、異性への旺盛な好奇心を満たして余りある鮮烈な印象を陽子たちに焼きつけた。
その後、音楽室を利用した模擬ディスコで見よう見まねのダンスを楽しんでいるときだった。胸から突き抜けるほどの衝撃が背中に刺さり、陽子は目から火花を散らせて、床にもんどり打った。椎骨がダルマ落としのように打ち抜かれたかと思った。
「ああ!すみません!大丈夫ですか」
慌てて膝をつき、自分を抱え起こそうとした人物の顔が、ミラーボールの照明と激痛による眩暈で三重、四重に視界を舞っていた。
「どうしよう。猿ぴ(肘)で叩いちゃったんだ。病院に連れて行かなきゃだめかな。悪いけど誰か、先生を呼んできてくれる?」
痛覚に総動員していた陽子の神経が、意識の遠くから聞こえる声にわずかに呼び戻された。受像状態の悪い視界に一瞬捉えられた人物が、先ほどの凛とした表情の持ち主とは思えないうろたえようで陽子の顔を覗き込んでいた。それが陽子と聡の初対面だった。
神経も浸透圧のように関心の濃い方に密度を移すものらしく、陽子の視神経は見る見る精度を上げ、聡の顔は至近距離でくっきりと像を結んだ。
恋物語を思い描きたがる世代は、偶然の出会いに甘い筋書きの動機を期待せずにいられないものだ。出会いは必ず意味あるもので、夢と理想と憧れと祝福と、波乱と悲しみの情景までも凝縮した序章でなくてはならない。天球の無数の星々の中で、星座の相関を成す運命的なものでなくてはならない。
陽子は胸のときめきを覚えた。現金に高鳴る鼓動を聡に知られるのが恥ずかしくて、「大丈夫です」とうわずった声で言い、起きあがろうとした。すると、ししおどしが石を打つように、途端に神経が患部に逆流し、陽子は再び聡の腕の中に沈むことになった。体全体が心臓になったような激しい鼓動はもはや隠しようもなく、陽子は恥ずかしさの余り、顔を真っ赤に染めて泣き出しそうになった。
この一幕は一方の聡にとっても印象的なできごとだった。羞恥と苦痛から涙混じりに歪めた顔を見られまいとしながらも、自分の腕から起きあがることのできない陽子を見つめて、聡はそれまであまり意識することのなかった『異性』というものを実感し、胸が熱く潤む思いがした。
経緯はどうあれ、女性を腕に抱くという初めての体験は、聡に事そこに到った責任をいっとき忘れさせ、戸惑いと歓喜で胸をいっぱいにさせた。腕からじかに伝わる陽子の体温と鼓動に、聡はそれまでつい置き去りにしていた青春の血を呼び覚まされた思いがした。まるで二人の血流がひとつになったように感じられた。
出会いから再接近を果たした二人は、こののち約一年の間に、ときに幼く、ときに大胆に、互いにとって多くの『初めて』を共にした。
いまや聡は陽子にとって、どのような関心事よりも大きく心の内を占める存在であり、親よりも親友よりも理解し合える相手になっていた。
はずだった!
陽子の回想は再び最前の聡に突き当たった。自分が一番苦しいときに、聡が期待通りの包容力を見せてくれなかったことは、陽子には大きな衝撃だった。態度の訳を求めるよりも、現に示した言動の方が陽子には重要だった。
17歳の陽子にとって、常に豊かに注がれるもの、それが愛であるはずだった。陽子を惹きつけ、自慢でさえあった聡の英気もしこなしも、すべてが皮相に感じられ、色褪せていく気がした。
考えているうちに、また癪に障ってきた。陽子は首を振って頭の中から聡を追い払った。そして何も考えまいと目をつぶった途端、底の見えない眠気に飲まれた。
この数日というもの、陽子は就寝後まともに眠れない日々を過ごしていた。昼間は何とか気を紛らわせても、夜になると待ちかまえていたように記憶から恐怖が甦り、仰向けに放ったくしゃみのように、そのまま陽子に返ってきた。
厚い掛け布団を頭から被り、電気やテレビをつけっぱなして、ひたすら恐怖が去るのを待ったが、それは寝苦しさを増すばかりで逆効果にしかならなかった。
睡眠薬は、いつも翌日の授業中に効き目を顕わした。若い体力は日中の小刻みな居眠りで辛うじて保たれてはいたが、目が覚めるといつも絶望的な疲労感に襲われて、体は粘土のようにだるく感じられた。
この日、陽子は電車に揺られながら、隣に座った中年男性に腿をさすられている夢を見た。その手をはね除けて逃げ去ろうとしても、滑り台を這い上がるようにもどかしく、両者の距離は一向に縮まらない。これは夢だと分かっていても、あまりに真に迫った感触に耐えきれなくなって、とうとう貴重な眠りを放棄した。
断腸の思いで瞼を開けると、眼下で薄い頭髪のすだれが巻き上がり、濁った双眸と視線がぶつかった。
ぎょっとした目にぎょっとして跳ね起きた途端、胸焼けするほどの怒りがこみ上げた。不徳な行為に対してではない。貴重な睡眠を妨げられたことが許せなかった。勝ち気な性格は容赦を知らなかった。
「やめて下さい、痴漢のおじさん!」
踏切で待つ人まで振り返りそうなその声が、他の乗客の眠気をも吹き飛ばしたことにまで気を回すことはできなかった。
ほうほうの体で車両を移るおじさんを憤然と見遣り、陽子は長嘆息してスカートを整えた。寝直そうにも降車駅はもう間近だ。陽子は捨てた眠りを諦めきれない思いだった。今日はどうして、どいつもこいつも神経を逆撫でる真似ばかりするのだろう。
気の重い訪問なのだ。お酒で酔うわけにもいかない以上、このぐらいの怒りは、かえって恐怖を牽制できて良いかも知れない。
陽子はそう考えることにした。痛憤の余り、鼻息が荒くなった。
※ ※ ※ ※ ※
聡は動揺していた。鍛錬で得た強靱な肉体には不撓の精神も備わっているものと自負していた。だがそれは所詮、道場という深窓に育ったものに過ぎないことを思い知らされ、彼の矜持はカップに沈んだ角砂糖のように見る見る崩れていくようだった。
「俺のせいだ。俺が大西さんをあんな目に遭わせてしまったんだ。俺があのとき、まるで厄介払いでもするように別れさえしなければ、彼女を死なせるようなことにはならなかったはずだ」
聡は最後に見たゆかりのさまざまな表情やしぐさを思い出しては、自らを苛んだ。
上目遣いに問いかけるような気弱な話し方。気の利いた返答をし損ねて、おどおどした表情。遠慮がちに投げかけた話題に聡が快活に応じたときに見せた、ほっとした笑顔。すべてが胸を締めつけた。
あの日、聡は午後5時に北村山駅の改札付近で陽子と落ち合う約束だった。時刻と場所は陽子がメールで指定してきたものだった。
なのに陽子は現れない。一方的な約束の取り付けはいつものことだったが、そのために急いで駆けつけた自分が待たされるのは、さすがに気分の良いものではない。15分ほど回ったところでようやく近づいてきた人影を威嚇せんばかりに見据えると、射すくめられて怯えた顔が目に映り、反対に泡を食った。
それがゆかりだった。
ゆかりとは陽子を通じて面識はあったので、それで悶着することはなかったが、面識があればこそ脅かしてしまった不体裁はその場限りでは済まなくなる。取りなすためにも、自然とその場で立ち話という次第になった。
ゆかりは駅前の本屋に参考書を探しに来たということだった。確かにそこは沿線有数の大型書店であり、学習書コーナーも充実している。聡に言わせれば、目移りがして参考書選びには不向きなのだが、品揃えの豊富な店を好む人の考えも理解はできる。いろいろと手に取って見ているうちに勉強に興味が湧いてきて、ひいては成績が良くなったような錯覚を楽しめるのもまた事実だ。聡は高校生にとって最大公約数の関心事である受験を振り出しに、無難に会話を滑り出した。
そうこうするうち時間は経ったが、一向に陽子の現れる気配はない。これには聡も、いい加減腹が立った。思わず言った。
「良かったら参考書選びにつき合おうか。陽子と待ち合わせだったんだけど、あいつ来ないみたいだから」
面当てのつもりだったが、陽子にはない、ゆかりの柔らかな物腰に惹かれたことも事実だった。陽子への腹立ちが、それを増幅して見せた。
ゆかりは意識的に表情に出すまいとしたのだろうが、喜びが皮膚を透けて見えるようだった。聡はそれに満足した。ゆかりの口にした儀礼的な遠慮を振り切って、聡は昂然と先に立った。
だが時間が経つにつれ、満足は次第に負担へと変わっていった。
書店で時間を潰しているうちは書籍という、要は話のネタが無数に用意されているので、話題に事欠くことはなかった。特に参考書コーナーでは、進学校に通う聡はゆかりに優越する立場から、いささか自負を満たすこともできた。ところがそのあと入った喫茶店では話の展開に苦しんだ。
ゆかりは聡の繰り出す話題をひとつひとつ丁寧に拝聴するのだが、もうひとつ手応えに乏しく、本当に話が通じているのか、ゆかりの感性や価値観に響いているのかが掴みづらかった。贈り物に丁寧な礼だけ言って、中を開けずにしまわれてしまったような肩すかしが何度も続いた。女の子らしい、いじらしさ、かわいらしさは感じられたが、どうもそれだけで物足りない。こういう女の子が好みの男もいるだろうが、どうやら自分には合いそうもない。少なくとも陽子を知る自分には。
小癪ではあるが丁々発止の会話を楽しめる陽子。気兼ねなく、からかうことのできる陽子。馬鹿にすると十倍返しに遭いそうな陽子。
そんな陽子に慣れきった聡には、おっとりして、からかうと泣いてしまいそうなゆかりは面白みに欠けた。
だから7時過ぎに携帯に入った陽子からの着信を聡は歓迎した。
「伊勢上くん?私だけど、今どこ?」
謝るのでも釈明するのでもなく、自分の用件を真っ先に切り出す陽子の口調が懐かしくさえ感じられた。それで聡は陽子を赦した。快活に答えた。
「どこって、まだ北村山にいるよ。」
「ええ!そうなの。もしかして、ずっと待っててくれたの?」
「まさか。すぐに帰る気もしなくて、喫茶店で休んでいるところ」
「いままでずっと?」
「いや、そのまえに本屋をぶらぶらしてから」
「そうなんだ、ごめ~ん。私、4時に待ち合わせるつもりで、間違えて『5時』ってメール打っちゃったみたい。4時過ぎても伊勢上くん来ないから、頭に来て地元のデパートをうろついてたんだけど、いま見直してみて間違いに気づいた。なにこれ~って感じ」
「え、一時間まちがえて打ったの?」
「うん。でも私、絶対『4時』って打ったと思うんだけどなぁ」
「でも『5時』になってたよ」
「うん…、確かになってた。これじゃ、会えないはずだよね」
「会えないはずだよ」
ゆかりの耳には、もちろん聡の返答しか聞こえていまい。しかし聡は通話の中で、ゆかりの存在をきれいに無視してしまったことに気づき、若干気が差す思いがした。ゆかりはそれがマナーのつもりか、よそに目を向けて通話が耳に入らないふりをしていた。
「伊勢上くん、そこにいて。私、これから行くから」
「え、ああ、それなら俺がそっちに行くよ」
「でも、それじゃ悪いよ」
「それなら、そうだな、小金原まで来てよ。そこなら、ちょうど中間あたりだし、時間も無駄にしなくて済む」
「分かった。じゃ、そうしよ」
携帯を切ると、ゆかりはそれが合図のように、そろそろ帰ると席を立った。気を利かせたものと解釈したが、まるで逃げるようなそのしぐさに、聡はゆかりの自尊心を傷つけてしまったかと胸が痛んだ。一瞥したゆかりの顔は青ざめているようにも見えた。
ただ聡にすれば、約束の時間に遅れた陽子に憤っていた自分が、連絡ひとつでころりと豹変した姿を見られたことの方が不面目に感じていた。ゆかりには済まないことをしたけれど、この埋め合わせは陽子と一緒のまたの機会にでもすればよい。またの機会にでも。そう思った。
「あの浅薄な判断がいま俺を苦しめている。あのあと彼女は魔の手に落ちた。俺が大西さんを悪魔に引き渡したようなものだ。せめて途中まででも送っていけば良かった。そうすれば、こんなことにはならなかったかも知れない」
内気な微笑が再び脳裏に甦った。聡は悶えんばかりになった。
「悔やんだって仕方のないことを俺はいつまで思い悩んでいるんだ。あのときに戻って、やり直しができるわけでなし」
そう考えても、淀んだ胸の内は一向に換気が利かない。肺に汚泥がべったりとこびりついているようだった。
「あのあと大西さんは、一体どこであんなことになってしまったのだろう。いまだに手がかりも目撃情報もないのだろうか」
そう考えたところで聡は、はっと気がついた。事件ぎりぎりまでのゆかりの行動を特定できる人物がいるではないか。ほかでもない自分が。
聡は罪悪感に懊悩するあまり、警察から見た自分という存在の意味をそのときまで見落としていた。
しかし、この場合、自分は有力な情報提供者であると同時に、真っ先に嫌疑を受ける第一の被疑者になる。もしも万が一、それを晴らすことができなかったとしたら。
冤罪、ということばが心に浮かび、聡を内部から脅かした。立ちこめた不安が毛穴から出るや、瞬時に冷えて肌を流れた。
「落ち着け。落ち着いて考えるんだ。俺はあの日、大西さんと2時間近く一緒にいた。しかも駅や本屋や喫茶店、いずれも人目につく公共の場ばかりだ。事件からもう一週間以上経っている。見られていたなら、目撃情報があったなら、すでに警察から何らかの接触があるはずだ。…いや、すでに俺の身辺を見張っているのかも知れない。泳がせておいて、遠巻きに俺の挙動を探る腹かも知れない」
胃がずしんと重くなった。新たな脅威が罪悪感に取って代わった。
「疑いがかかったとしたら、どう晴らす?」
陽子の顔が脳裏に浮かんだ。聡の潔白を最も有効に証明してくれるのは陽子をおいて、ほかにいない。ゆかりと別れたあと、小金原のマクドナルドで閉店まで一緒にいた陽子しか。
陽子との先刻の気まずい経緯が思い出された。なぜか、ゆかりのことで異常に神経質だった陽子。聡がゆかりの悲劇のお膳立てをしたと知ったら、いったいどう思うだろう。聡はそれが怖かった。今更どの面を下げて自分の弁護を頼めるだろう。
それに陽子の証言さえ、どこまで効果があるものか定かではない。陽子と一緒にいたのは3時間足らず。そのあとの行動は家族しか知らない。公正な第三者の記憶には収まっていない。
「陽子…。あいつも大西さんのことを、なぜあんなに過剰に意識しているんだ。俺に助けを求めるようなことを言われても何もできるはずがないじゃないか。助けてほしいのは、こっちの方なんだ」
才気走る聡の英姿はここにはなかった。空を裂く拳も拱く以外に術を知らなかった。もはや崩れ去った誇りを惜しむより、何かに縋ってでも、この難局を逃れたいのが本音だった。泣きが入った。
「どうして、こんなことになってしまったんだ。そもそも陽子が約束の時間を間違えさえしなければ、こんなことにはならなかった。せめて、あのあとの連絡さえなかったら、こんなことにはならなかったんだ」
陽子からの連絡に自分が飛びついたことを聡は忘れていた。
幽明の違いこそあれ、ゆかりの死は陽子と聡、2人の神経をひび割れた輪ゴムのように疲弊させていった。ゆとりを欠いた心と心は、古びた弦と弓のように、触れ合うたびに不快な音を立て、互いの嫌悪を募らせていった。
※ ※ ※ ※ ※
各停しか停まらない最寄り駅から駅前の商店街を抜けると、景色は奥行きのあるひなびた街並みに変わっていった。
ターミナル駅ではなくベッドタウンでもない。人が集まるところでも帰ってくるところでもない。
大きなマンションもなく、住居はほとんど一戸建てで、家屋と家屋の間隔も広い。
寂しいなあ、と思った拍子に陽子の気持ちは萎えかけた。閑散とした雰囲気に感染してしまったのは手痛い不覚だった。
怒りの残滓で怖じ気を押し返しながら、自分を騙し騙し進んできたが、次第に足取りは鈍くなり、気分に忠実な歩調を刻み始めた。首をうなだれ肩を落とし、深いため息を何度もついた。視線まで重く軸を下げていった。張りのある怒りはもはや失われ、聡や痴漢のおじさんからは豆電球を明滅させるほどの怒りを絞り出すのがやっとだった。その最後の灯し火も、いまや臆病風に吹き消される寸前になっている。あらゆる感情は時間に対する免疫を持たない。ただ恐怖を除いては。
「帰っちゃおうかな…」
道すがら何度も心に浮かんだことばをまた繰り返した。このまま帰ってしまうとすれば母に嘘をつかなくてはいけなくなる。託された手土産も処分しなくてはならない。それもまた陽子を重い気分にさせた。気が強い一方で、嘘をつくことに躊躇する小心さが陽子にはあった。
時刻は5時を回っていた。日の短い季節だ。すでに夜のとばりが降りている。逡巡がため、家を出る時間からして遅かった。今にして思えば、聡と会ったことも時間の無駄でしかなかった。行動型の陽子としては遺憾なことに、優柔な足踏みの連続だった。暗い夜空は気鬱に拍車をかけた。嫌なことはさっさと済ませてしまうのだった。色濃い後悔が胸を満たした。
「今頃の時間に訪ねて行っても、かえって迷惑かも知れないなあ」
そう思って、はたと気づいた。そうだ、これだ。
今頃は、ゆかりの家でも母親が夕飯の支度にかかっていることだろう。そんな時間に訪ねて行くより、日を改めて明るい時刻に出直した方がよい。幸い手土産の羊羹は一日ぐらい置いても傷んだりはしない。
母に対するより、自分に対する説得力に溢れた口実だった。しかもこれなら嘘ではない。とりあえず今日の負担を先延ばしにできれば、それで良いのだ。少々の叱責は甘受できるし、自己欺瞞にも目をつぶろう。
陽子は、この魅力あるひらめきに欣然と飛びつき、決意に水を差されないよう素早く踵を返した。萎えた体は突然潤滑した活気を持て余し、ウイリーしたオートバイのように胸を張り目線を上げて、大股に始動した。とぼとぼと地面を見て歩いていれば、あるいは次の展開はなかったのかも知れない。足下に、はっとする何かを感じたのは、この直後だった。
「あら、あら!」
陽子は身に起こったことを知るより先に、その叫び声に驚かされた。足下からかけ登る感覚を声の勢いに吹き飛ばされた。
反射的に振り向くと、飲み込まれそうなほど大きく目を見開いた、太った中年女性が間近に迫っていた。緊張は陽子より背の低いその女性を熊のように大きく見せた。
「ごめんねぇ。まさか急に回れ右するなんて思わなかったもんだから。あら!あら!どうしよう、こんなに濡れちゃって」
何を言っているのか、初めは分からなかった。ただ殺されるわけではなさそうだと知り、陽子は身構えた力を抜いた。こんなところで新たな戦慄に見舞われるとは思わなかった。
陽子は正常な五感を取り戻すとすぐに足下の冷たさに気がついた。見ると舗道が水浸しで、そこから吸い上げたかのように靴下がぐっしょりと濡れている。反射的に跳ね退いてみたところで今さら何の意味もなく、ただ靴の中で生き物を踏みつけたような嫌な感触を味わっただけだった。
そこは個人経営らしい小規模スーパーの店先で、もとは八百屋だったのだろう、商品の大半は野菜と果物だった。女性の気質は今も八百屋のおかみさんのままらしく、舗道を水で流していたら歩行者にひっかけてしまい、大慌てで飛んできたという風情だった。蛇口を開けたまま放り出されたホースが水圧で蛇のように躍っていた。
女性は陽子のよそ行きらしい身なりと荷物を一瞥して言った。
「どこかへお出かけの途中だったのかしら。お届け物?何にせよ、このまま行くわけにはいかないわね。ちょっと中にお入りなさい。なに、遠慮しなくていいのよ、おばさんが悪かったんだから。さあ早く早く」
「あ、いえ、あの…」
口ごもっているうちに陽子はレジの脇から奥の家屋に連れ込まれ、居間のソファーに沈められると、まるで犯されるかのように濡れた靴下を剥ぎ取られた。
「あ、あの、大丈夫ですから気にしないで下さい。もう帰ろうと思っていたところなんです」
「本当に悪いことしちゃったわね。待ってね、いま娘の靴下を持ってくるから、とりあえずそれを履いていてちょうだい」
陽子の弁明になど耳も貸さず、女性は陽子も舌を巻く行動の早さで部屋を出ると、隣の部屋から箪笥をひっくり返す様子が目に浮かぶような騒々しい音を立て、一足の靴下を手に舞い戻った。
「娘の靴下なんだけど、少し小さいかしら。ちょっと合わせてみてくれる?」
そう言って手渡された靴下は一見して小さいばかりか、そもそも娘とは何歳なのかを疑わせる、かわいらしいキャラクターが描かれたものだった。履きたくないなあ、と思ったが、傍らで結果を待ちわびる視線をはね除ける勇気が持てなかった。案の定、それは陽子には小さく、伸縮の限界で足を包むとギプスのように関節の自由を奪い、つま先を窮屈に締めつけた。
「どう?」
「あ…、ぴったりです。ありがとうございます」
こんなときだけ嘘が出た。
「そう、よかった。」
女性は満足げに目を細めた。が、それにつられて陽子が笑顔を作ったときには、もう目を見開いて、穿つような視線で陽子を見据えていた。その表情の変化に陽子はついていけなかった。
「いま思い出した。あんた、どこかで見たことがあると思ったら、大西さんとこのお嬢さんのお葬式に来てた娘じゃない?ね、そうでしょ」
今度は嘘が出なかった。斎場で気を失ったとき耳にした遠いざわめきが聞こえてくるようだった。あの騒ぎの中にこの女性もいたのだろう。もしかすると今日のように、漲るお世話をしてくれたのかも知れない。
「やっぱりそうだ。それじゃあ、大西さんのお宅を訪ねる途中だったんだ。それは申し訳ないことをしたねぇ」
「あ、いえ、でも今日はもう遅くなってしまったので、また日を改めようと思っていたから大丈夫です」
図星でがんじがらめになりながらも陽子は抵抗を試みた。
「どうして?そんな気を遣うことないわよ。死んだ娘の友達がお線香上げに来てくれるって言うんだ。あそこの奥さんだって、どんなに嬉しいか知れやしない。時間なんて構うことないよ」
「でも…、今日は…、本当に…」
「靴のことなら心配いらないよ。お詫びに大西さんちまで車で送って上げるからさ。その間は悪いけど、うちのサンダルでも履いててよ。どうせあちらのお宅に上がっちゃえば同じことなんだし。そうだ、先に大西さんちに電話しておいてあげるよ。事情をちゃんと話しておけば、何の気兼ねもいらないじゃない。帰りも、うちに連絡もらえれば迎えに行くからさ。それまでに靴も乾かしておくよ。ね、そうしよう」
ひとことひとことが陽子の手足をもいでいった。相手の身動きを封じてでも自分の思った親切を尽くすことが、この人の身上のようだった。強く拒めば拒めただろうが、好意から来る申し出を断れないのも陽子の小心な一面だった。
「もしもし、大西さん?八百七ストアーですけどね。実は私のおっちょこちょいでね…」
とうとう逃げ道を塞がれた。女性が電話をする声を聞きながら、陽子は諦念にも似た心境に落ちた。引き返した途端に水をあびせられた間の悪さに、ほとほと呆れる思いだった。
が、そのとき、はっと気づいた。
そうではない。また導かれたのだ。与り知らぬ怨念が射程に入った獲物を巣に引き寄せたのだ。陽子は体温が流れ去るのを感じた。
どこかで聞いた覚えのある、地響きのような轟音が迫り来る気がした。光も射さない樹海で一人、山鳴りに怯えるような徹底した孤独な恐怖が陽子を襲った。できるならば、また気を失ってしまいたかった。
しかし失われていくのは抵抗する気力だけだった。そして体が傾いてゆくのも気づかず、抜け殻のようにソファーに背をもたれかけていた。
※ ※ ※ ※ ※
大根の葉やタマネギの皮が散乱した業務用車に乗せられて、陽子が大西ゆかりの家に着いたのは午後6時を過ぎた頃だった。
車の中で八百七ストアーのおかみさんは、ゆかりの事件から口火を切るや、当世の殺伐とした気風や希薄な人間関係を嘆いては、自分の生まれ育った下町の人情を恍惚と懐古した。
「私の生まれた家ではね、始終知らない誰かが入れ替わりで寝泊まりしてたもんだよ。何でだか分かる?私の父親が分け隔てのない人でね、駅や公園で行き場のなさそうな人を見かけると、連れ帰ってきては泊めてあげてたんだよ。あの頃はまだ世の中が貧しくてね、困った人を見かけると他人とは思えなかったんだろうね」
昔のアルバムをめくるような遠い眼差しでそう言うと
「私なんか、とてもそこまではできやしない。本当は迷惑がられているんじゃないかと思うと、つい遠慮して腰が引けちまう。私にできるのは、人にうるさがられない程度のお手伝いだけ」と続け、「親切ってのは言わば勇気だよ。父のように、ある程度厚かましい人間でないとできないことなのかも知れないね」と結び、哄笑した。
この女性の長広舌は、恐怖で萎縮した陽子の神経をいくぶん正常に戻した。つまり、うんざりしたのだ。
急ブレーキを踏み、「さ、着いたよ」と言うなり運転席のドアを開けて体を乗り出し、後ろ手に叩きつけるようにドアを閉めたと同時に、空いた右手でチャイムを鳴らし、すぐさま門扉を押し開けて玄関前に突き進むと、扉を叩きドアノブをがちゃがちゃと捻って、「ごめん下さぁい」と大声で呼びかけた。猿が枝を伝うように二本の手を無駄なく繋いだ手練の業だった。間もなく玄関の奥からスリッパの足音が近づき、誰何もせずに扉を開けた。
「奥さん悪いね、夕飯時に。さっき、お話しした娘。帰りに電話ちょうだいね。また迎えに来るからさ」
そう言って、陽子の礼も聞かずに踵を返し、ゆかりの母が陽子を招き入れるより先に、表の排気音は遠ざかった。
狐に摘まれたような顔で立ち竦む陽子に、ゆかりの母は苦笑しながら、上がるように促した。
「あの奥さんに捕まってたんじゃ大変だったでしょう。気持ちはありがたいんだけど、そっとしておいてくれることが一番の思いやりだってことが分からないのかしら」
「あの、本当にご迷惑だったんではないですか?」
「あら、ごめんなさい。そんな意味で言ったんじゃないのよ。桜庭さんに来てもらえて、ゆかりも喜ぶと思うわ」
ゆかりの母を見るのは葬儀の日に続き二度目だった。優しそうな品の良い面立ちには憔悴の色は隠せなかったが、概して落ち着いた態度で、亡き娘の友人を迎え入れた。
予想した陰鬱な空気が感じられず、少し気持ちを楽にした途端、陽子は廊下の奥から漂う線香の匂いに気づき、再び身を固くした。
「ゆかりはね、あなたに憧れていたみたいなのよ。桜庭さんはいいなあ、桜庭さんみたいになりたいなあって、口癖みたいに言っていたものだわ。だから、あなたに来てもらえて、あの娘もきっと喜んでいると思う」
緊張の中で唐突に聞かされたことばの意味を陽子はうまく飲み込めなかった。
「あの子は引っ込み思案な子だったから。ゆかりから聞いた話では、あなたはなかなか積極性のある人らしいから、あなたみたいな性格になりたかったのでしょうね」
「いえ、私なんか、そんな…」
そう謙遜しながら、陽子はゆかりが母に語ったということばの真意をつかみかねていた。
確かにゆかりは自分に何某かの関心を寄せていた様子だった。いま思えば髪型や持ち物など、陽子を意識的に真似ていた節もある。もともと背格好が近かったので、傍目には似て見えたかも知れない。あのおとなしい性格では損をすることも多かったろうから、自分の外向的な気質に憧れたとしても、それはそれで納得できる。でも、そういうことなのだろうか。
いくら自問を繰り返したところで、もはや、ゆかりが胸に秘めた思いには届きようがなかった。
通された応接間で手土産を渡し、型どおりの挨拶を済ませたところで、ゆかりの母は陽子の靴下に目をとめた。
「あら、かわいらしいソックスね。そういう女の子らしい趣味にも、ゆかりは憧れていたのかも知れないわね」
それは違うと思います。
陽子は赤面した。が、口ごもってしまい、釈明はならなかった。代わりに用意してきた挨拶を口にした。
「あの、ご葬儀のときにはお騒がせしてしまって、本当にご迷惑をおかけしました」
「ううん、とんでもない。こちらこそ申し訳ないことをしてしまって。せっかく、あそこまで見送って下さったのに。お前が無理に誘うからだって、主人にもずいぶん叱られたわ」
陽子は目から鱗の落ちる思いだった。火葬場まで葬列に加わった訳がようやく分かった。あのとき自分は喪心状態だった。正常な判断ができる状態だったら辞儀していただろう。
いや、喪神していたから断れなかったのだろうか。
そうとは思えない。したくても、それができないように意識を奪われていたのだ。
そう無理なく納得できて、陽子は力を落とした。そうだ、過去の仮定は意味をなさない。まして事実は変わりやしない。
「どうなさったの。」
ゆかりの母が案ずるように覗き込んだ。
「あ、いえ、何でもありません」
慌てて笑顔を繕うと、ゆかりの母も莞爾と応え、
「そうそう、ゆかりの部屋に案内するわ。整理もしていないから汚れているけど、お線香だけでも上げてちょうだい」
そう言って立ち上がった。
来訪の目的とは言え、ゆかりの仏前に参ずることは陽子にとって気の重いことだった。僅かな逡巡が、ゆかりの母を扉の傍らで振り返らせた。陽子はこれも試練と意を決した。足が痺れたふりをして重い腰を上げると、ゆかりの母の先導に従って部屋を出た。
廊下の一隅に、柄を外したモップのような白い固まりが目に入った。初め、見るともなしに目に映していたその物体が予期せず突然動き始め、陽子は肝を冷やして立ち竦んだ。すぐに犬だと分かったが、動悸は長く余韻を引いた。
犬は待ち焦がれたような甘え声を出して、欣然と足踏みをしたり足許に縋ったりして、陽子に対し全身で熱い行動を示した。長い体毛の隙間から、陽子を見上げる黒い目が覗いていた。自分を映した黒い目から、脈打つほどの切ない愛情が伝わり、陽子は当惑した。
「これ、ペス、だめよ。お客様に失礼でしょ」
犬は脇を抱え上げられ、意外なほど長く伸びた体を無力にぶら下げて、居間の奥に置き去られた。短い足をバタつかせて再び寄ってこようとする姿が、一歩及ばず扉の向こうに消えた。
呆気にとられる一幕だった。
人なつこい犬は珍しくはない。しかし他人の飼い犬から、これほど切なる感情を示されたのは初めてのことだった。ゆかりと間違えたとは考えにくい。犬は嗅覚や気配で人を見分けるはずだ。見かけが少々似ている程度で主人を見紛うはずはない。
では動物の直感で自分にゆかりを嗅ぎ当てたのだとしたら。
体の芯に震えが走った。扉に爪を立てながら鳴きしきる声が鬼哭のように思え、一刻も早く遠ざかろうと気が急くあまり、陽子は先導する母親の背中にぶつかりそうになった。
家は間口に比べ奥行きが浅く、外観よりは狭く感じた。一階はリビング・ダイニングと応接間しかなく、二階の部屋数も少なかったが、兄弟のいないゆかりには自分の勉強部屋が与えられていた。いまは仮の仏間となって、そこで起居した人を静かに祀っている。少女の容止は残影に代わり、若い熱れが線香の香りに代わっていた。勉強机がかりそめの祭壇となり、主の遺骨と遺影を頂いていた。鏡台が、かつてそこに映した人を虚しく空に追い求めているようだった。
「散らかしたままで、お恥ずかしいわ。慌ただしくて、つい手をつけられずにいたものだから」
そう言って通された部屋は、カーディガンが椅子の背に掛かったままだったり、おそらく中身がプレーヤーに入ったままのCDの空ケースが置き去られていたりと、確かに片づいた様子ではなかったが、どこを見ても埃がきれいに拭ってあり、決して放っておいたわけでないことは陽子の目にもよく分かった。
陽子も中学生のとき、死んだ文鳥の鳥籠を長い間、窓辺に置いたままにしたことがある。肝心なものがいなくなった悲しみは、いや増して実感されたが、愛した生命の存在の跡をどうしても取り払うに忍びなかった。
ゆかりの母もことば通り、この部屋に手をつけることができなかったのだろう。陽子は初めてゆかりの両親の愁傷に思いを馳せた。その大きさまでは想像に余ったが。
陽子は誘われるまま仮の祭壇に歩を進め、引いてもらった椅子に腰掛けた。勉強机についた感覚そのものだったが、目の前にあるのは教科書でも辞書でもない、遺骨と位牌と遺影だった。鬼形が嫌でも脳裏に浮かんだ。陽子は軽いめまいをこらえながら、恐る恐るゆかりの遺影に視線を這わせた。ガラスに映った光を透かし、清潔で幼いゆかりの笑顔が現れた。
陽子は安堵の息を落とした。頬の緊張が緩み、目鼻が流れ落ちるかとさえ思った。これが仮にも友人の仏前に参る心境なのだろうかと思うと気持ちが滅入った。
焼香を済ませ、ふと位牌の横を見ると見慣れないものが目に入った。仏式に不案内な陽子にも、それは仏具には見えなかった。赤いガラスでできた手帳ほどの大きさの物で、小さな脚部のついた衝立のような形をしていた。衝立と違うのは額縁のような四辺を残し、それに囲まれた部分がすっぽり空洞になっていることだ。もちろん衝立の用など、まったく成さない。
陽子の視線に気づいたゆかりの母が傍らから、それを手に取り、
「これね、『願いの窓』とか言うんですって。ご存じかしら。あの子が雑誌の通信販売で買って大事にしていたものなんだけど、何でも、この穴を通して願い事をすると、それが叶うっていう触れ込みだったらしいわ」
と、穴を通して陽子を見ながら、いささか決まりが悪そうに説明した。
「私達にも触らせないぐらい大事にしていたから、初めは怪しげな宗教じゃないかと心配もしたけど、どうやらそんな様子でもなかったから、好きにさせておいたんだけどね…」
「はあ、そうなんですか」
陽子には、それしか答えようがなかった。
『願いの窓』
言われてみれば、確かに窓枠のようにも見える。これにゆかりは、いったいどんな願い事をしていたのだろう。陽子のようになりたい。そう祈っていたのだろうか。
情を欠くとは知りながら、陽子はゆかりの児戯にも等しい行為に嗤笑を誘われそうになった。
ただ、ゆかりの願いがどんなものであれ、それが叶わなかったことだけは今や疑う余地がない。そう思うと哀れを感じ、その場にふさわしい気分に持ち直すことができた。
「あの子は臆病なわりに思い込みの強い子だった。さっきの犬ね、ゆかりがすごくかわいがっていた犬なんだけど、前に一度いなくなったことがあったの。探せるところは手を尽くしたけど見つからないし、ゆかりはすっかりやつれちゃって、そっちの方が心配だったぐらい。
それが何日後かに偶然帰ってきたの。たまたま家の改築をしていたときで、作業に来ていた職人さんに犬のことを話したら、もしかしたら最近店の近所に迷い込んできた奴じゃないかって言うのね。聞いてみると特徴が一緒だったから、取って返して早速連れてきてくれたの」
犬。ぞっとする思いが息を返した。ゆかりの性癖の話が、どうして犬の話になったのか脈絡を読めなかったが、話の腰を折るわけにもいかず、陽子は黙って話の帰趨を待った。
「その職人さんがペスを店のワゴン車に乗せてきてくれたとき、あの子、まるで何かに打たれたような表情を見せたわ。喜ぶ顔を期待していた職人さんが不服そうにしたぐらい。
その職人さんね、建具屋さんだったんだけど、ペスを乗せた車に商品のアルミサッシを積んでいたのね。車のドアを開けたとき、ペスはガラスを嵌めていないサッシの枠をくぐって駆け出てきたらしいの。分かる?窓枠から飛び出てきたってこと。それを見て、あの子、願いが通じたんだって思ったらしいわ。あとから、そのことを話したときの興奮気味な表情が今でも手に取るように思い浮かぶわ」
陽子はそのときのゆかりの様子を想像した。恍惚と愛犬を腕に抱いた様子や、声を熱くして語る上気した表情を思い描いてみた。自分の接した、どの場面にも登場したことのない、おそらくクラスの誰も知らない、ゆかりの素顔のワンシーンを。
「それ以来、この『窓』を神様か何かのように思い込んでいるようだったわ。確かに不思議な偶然だったんだけど、それを意味あることだと捉えてしまう性格が、あの子の視野を一気に狭めてしまった。その一途さで自分を鼓舞するのならいいんだけど、自分から行動する勇気は持てない。代わりに、こんな『窓』への依頼心ばかりが強くなって、自分の望みに結びつく何かを見つけるたびに、それが吉兆であるかのように都合良く解釈する。そうして閉じこもった殻の中で理想の世界を作り上げる。臆病な自分を守る術だったんでしょうね」
問わず語りな調子で話し終えると、ゆかりの母は、ふっと震えた息を吐いた。行く末の案じられた娘の性格を今は心から愛おしみ、その来し方を慈しむ様子が痛ましく伝わってきた。
陽子は聞き終えた話を自分の知るゆかりの姿と思い合わせた。
少女らしい夢も望みも得体の知れない窓枠に託し、プラネタリウムのような美しい空想を映し出す殻の内側に閉じこもって、どんなに暖めても孵ることのない妄想を育てていく。
ゆかりは、この窓枠に視野を仕切って、その向こう側に夢の世界を築いて生きた。こんな狭い窓枠をくぐって行けるはずもないのに。
ゆかりの母が『窓』を見て、胡散臭い宗教ではないかと危惧した理由が分かる気がした。自我に籠りがちな人ほど、宗教に唆されやすい。陽子にとって、それはどう好意的に捉えても受け付けることのできない、自分と異質の人間像だった。
身も心も剖検に曝されたゆかりの悲遇は、自分の身に置き換えてみれば同情を惜しまないが、若い情熱を内向させて現実を逃避するゆかりの性行には、とても共感することはできない。それが陽子の偽らない思いだった。
「ごめんなさい、繰り言みたいな話をお聞かせして。良かったら、お夕飯を一緒にどう?このままお帰ししたら、また主人に怒られちゃうわ」
「あ、はい、ありがとうございます」
「それじゃあ、すぐに支度するから、ちょっとだけ待っていてね」
足止めを食うのはありがたくなかったが、せっかくの好意を断るのも気が引けて、陽子はもうしばらくの辛抱を自分に課すことにした。ゆかりの部屋に取り残されるとは思わなかったが、心細さはさほどでもなかった。母親の口から、ゆかりの行状や人となりを聞いたことで、『人間』としてのゆかりの足跡に触れたせいであろう。陽子はこのごろ、ゆかりのことを化け物か何かのように考えていた。
あらためて部屋を見渡すと、そこにはゆかりの生活の跡がよく保存されていた。ここに暮らしたゆかりの息づかいが、だんだん聞こえてくる気がしたほどだった。
六畳間に勉強机とベッド、本棚、鏡台、洋服ダンスがぐるりと並び、歩ける部分の面積はほとんどなかったが、生活マニュアル雑誌にでも紹介されそうな使い勝手の良さを想像させた。ベッドの縁に腰を掛ければ、正面から姿見に映り、座ったままでミニコンポに手が届き、ごろりと横になれば机の明かりで本も読めるといった具合に、履き慣れた靴のような馴染みの良さを感じさせた。
背格好こそ似ているが正反対な性格である、ゆかりの生活様式の所産に、このような居心地の良さを覚えたことは意外でもあった。ただ線香の煙だけは文字通りの抹香臭さを否めず、ここが仏の居所であることを意識させずにはおかなかった。
陽子は再び例の『窓』に目をとめた。『願いの窓』とは、よく名づけたものだ。部屋に引きこもりがちな人が架空の世界に思いを馳せるのに、いかにもぴったりな代物ではないか。人の内向癖からも購買力を掘り起こす商魂に陽子は嫌気がさした。
椅子に腰掛け、机に肘をつきながら、陽子は『窓』を手に取った。狭い窓枠の向こうを覗いてみても、ゆかりの胸の内は窺えない。
「ゆかり。あんた、こんな窓枠にいったい何を祈っていたの?」
そう呟いて、ファインダー越しに被写体を見るように、何の気なしに『窓』を遺影に向けたときだった。『窓』の隅に、ちらりと炎の舌先が躍った気がした。そう気づいたときには猛火に巻かれた亡者の姿が窓枠に滑り込んでいだ。
陽子の表情は一瞬でゆがみ、そのまま真空包装されたように強張った。ガラスにひびが走るように、恐怖が全身を突き抜けた。無警戒を悔いる間もなかった。
忘れもしない地獄絵が陽子の手許に展開した。身が焼け崩れるたび、流れた脂肪が自らを焙る火勢を煽り、それは見る間に人の姿から遠ざかって鬼面を成していく。妄執のこもった魂が、塩を振られたなめくじのように惨苦に悶え、煙と化していく。陽子はその有様を文字通り手に取るように見た。
夕餉どきの生活空間の一角に魔窟の入り口が開いている。陽子は錯乱しそうになった。自分が今いる世界がどこなのか、それさえも分からなくなった。逃げ出したくても神経は意志を伝えず、体は微動もならない。震えだけが体の芯から押し寄せて、掴んだ窓枠を細かく揺らせた。
瞬間、亡者の双眸に焦点が宿った。陽子の心臓は太鼓のように、どん、と一発大きく鳴って、クレシェンドで連打していった。
眼窩からこぼれ落ちそうな露わな両眼が、陽子の気配に気づき徐に向き直った。陽子は硬直したまま涙を滲ませた。全身の毛穴から、体温が音を立てて逃げていくようだった。
亡者の視線が陽子を捉えた。陽子には、その視線を正面から受け止めることしかできなかった。目を逸らそうにも磁力で吸い寄せられるように、両目の自由を奪われていた。
亡者の口であった部分が上下に細かく揺れた。それは物理的には顎関節の開閉でしかなかったが、両目に宿る情念を見れば、思いをことばにしようとしていることは疑いなかった。
亡者の顎の動きに合わせて、陽子は知らぬ間に自分の唇を動かしていた。思い出せない人の名前を探り当てたときのように、それは陽子の記憶の中で突然音声化した。
「…て、が、み…」
異界との交信は、満杯の恐怖にさらなる一掬を注ぎ足した。陽子は溢れ出る恐怖と一緒に、自分の生命力まで流れていった心地がした。
『窓』の内から轟音とともに熱気が上がり、陽子の顔に噴きつけた。手に持った窓枠が銑鉱のように熱していた。
熱い、熱い、
そして陽子は気づいた。『窓』を持つ左手が燃え上がっていることに。
陽子は身に起きた事実の認識に苦しんだ。我が身を焼かれる苦痛さえ、自分のものではない気がした。
袖口に着いた火は、見る間に手の平を包んでいった。
陽子は目を剥いた。ここに至って、ようやく苦痛が恐怖に勝り、陽子は全力で引き合っていた綱を離されたときのように、突然亡者の呪縛から解き放たれた。火葬炉から弾けてきた校章の熱で我に返ったときと同じだった。
正常に戻った神経は、皮膚を焼く猛烈な熱さを直ちに感じ取った。口を開けたが悲鳴が出ない。壊れた管楽器のように、空気の抜ける音に混ざって、ところどころが声になるだけだった。
陽子は『窓』を放り投げ、炎に包まれた左手を狂ったように振り回した。が、ひとたび対象物に根を張った火は、マッチを吹き消すようには簡単に消えなかった。それは叩いても襲いくる猛禽のように、火勢を煽ったに過ぎなかった。
陽子はベッドの上に転がり込んで、左手を枕に乱暴に叩きつけたり、布団にくるんで抱きかかえたりして、必死に消火を試みた。
敵の首でも絞める勢いで自分の体に押しつけているうちに、左手をくるんだ掛け布団の中で次第に炎が牙を緩めていく感触があった。その感触を十分に確かめるまで待って、陽子は恐る恐る布団を剥いだ。
焦げた臭いが漏れて出た。布の焼けた臭いに、疑いなく肉の焼けた臭いも混ざっていた。自らの放つ異臭に陽子は鼻を曲げた。
皮膚に癒着した生地を剥がしたとき、陽子は激痛から思わず身を反らせた。途端に背中や肩にも痛みが走った。『窓』を覗いていた間の極度の緊張から、全身の筋肉が強張っていたことを知った。
焼け焦げと血で赤黒く染まった布団の中から、俄には自分のものとも信じられない、変わり果てた左手が姿を現した。陽子はそれを潰れた蛙でも見るように目をすがめて見た。滑らかだった手の平は、いまや全体が創部と化して、透明な体液が一面に滲み出ている。それが血と入り交じり、縮れた表皮の残骸を浸していた。栗のイガを握りしめているように鋭く痛み、血流が無数のガラス片を運んでくるかのように、脈打つたびに激しく疼いた。
超常体験から現実の被災という大胆な転調で、陽子の神経はすっかり消耗し混乱していた。状況の実相を見分けるだけの余力を持たず、知覚したものが正確な認識に辿り着く前に迷子になってしまうようだった。悪い夢でも見ている心地だった。変色し熱を湛えた患部も、ぺろりと剥けば、中からもとの綺麗な肌が現れるのではないか。そんな気さえした。
漠然と頭を巡ったのは聡のことだった。聡と握り合った手。聡の頬を撫でた手。聡の背中に回した手。それがこんなになってしまった。聡はどんな顔をするだろう。前と同じように暖かく包んでくれるだろうか。唇を寄せてくれるだろうか。
ひとつだけ分かったことがあった。この火傷はオカルト現象でも何でもない。ゆかりの母が焼香のために灯した蝋燭の火が袖口に燃え移ったのだと。
知らず知らずに右手を寄せて、爛れた左手と見比べていた。それが、ゆかりと自分の運命の差を象徴しているような印象を受けた。
いや、これが差と言えるだろうか。この熱傷は疑いなく我が身に受けた災禍ではないか。ゆかりを襲った運命が確実に自分にも押し寄せている。新たな獲物に乗り移ろうとしている。
芽生えた疑塊は陽子を震撼させた。火傷の痛みも動揺も、恐怖の前に霧散した。
次の瞬間、その運命と感じたものは、陽子に痛みも感傷も、恐怖に浸ることさえも許さずに畳みかけてきた。
鏡台の隣に置かれたロッカー箪笥の扉が、ばんと大きな音を立て、弾かれたように開いた。
陽子は心臓を吐き出しそうになった。鼓動が喉からこみ上げて、頭蓋の内でどん、どん、と響いた。
幅60センチほどのロッカー箪笥の口から、秋冬物のコートやジャケットが外にはみ出て袖を揺らせていた。詰め込みすぎた衣類が扉を内側から押し開けたのだ。
しかし、そんな力学的な説明は陽子に何の安心も与えなかった。陽子は確信していた。あの扉は意志を持って開けられたのだと。
空気が押し寄せて、まとわりついてくる感触があった。いや、空気に身を隠した何かが忍び寄ってきたのだ。陽子はそれを盲人の指先のように敏感に感じ取った。
そして空気のうねりの中に身を置いているうちに、この非日常の気象空間にも気圧の違いがあることに気づいた。
気流は件のロッカーに近づくにつれ密度を上げていた。見慣れた紺の制服が、開いた扉から袖を揺らせていた。陽子にはそれが、おいでおいで、と手招きしているように感じられた。気流は制服の胸ポケットの辺りで、空間が歪んで見えるほど濃く渦巻いていた。
陽子は気流に飲まれるようにロッカーの前に歩み寄った。そして、ゆかりの制服を間近に見るなり息を飲んだ。
肩も襟も型くずれして、全体的に張りがないうえ、生地の目に詰まった汚れがあちこちに見られた。
あのとき身に着けていた制服なのだ。
そう知った途端、その場の空気が粘り着くほど濃密になった。
ゆかりの母は、なぜこの場所にこれをしまっておいたのだろう。ゆかりが最後に身に着けていたものを捨てるに捨てられず、かと言って忌まわしい出来事に直結するこの制服を始終眺めるには耐えられず、さしあたり目につかないこの場所に押し込めておいたのだろうか。
それとも、そうさせる何かが彼女に働きかけたのか。陽子の目に触れる機会をこうしてじっと待つために。
胸ポケットから、ほんの数ミリ、糸が解れているのが目に入った。それをほとんど操られるまま右手で摘み、軽く引っ張ってみると、予期せぬ魚信が指先に伝わった。凧を泳がす糸のように、引っ張りすぎても緩めすぎても落としてしまいそうな微妙な張力だった。陽子はそれを慎重に引き上げた。糸を摘んだ指先が脈打っていた。
釣り上げた物は小さな金属片のようだった。顔の高さに持ってくると、捻れた糸が反転し、陽子の目の前で表を返した。それが何であるかを知って、陽子は再び息を飲んだ。
それは陽子にとって、自分の物のように馴染みある品だった。
「夢と希望を表したデザインなんだって」
聡は可笑しそうに、そう説明したものだ。
そのまま陽子の夢と希望の象徴にもなったそれは、聡の通う池浪高校の校章だった。鬆でもできていたのか、ネジの部分が途中で折れて、留め具と一緒に失われていた。
いったいなぜ池浪高校の校章がゆかりの制服のポケットから…?
その疑問は新たな発見にすぐさま掻き消された。じっと眺めているうちに、糸だと思って引き抜いた物がそうではないことに気がついた。
それは人の髪の毛だった。
陽子はぞっとして、それを取り落としそうになった。色や長さや髪質から見て、ゆかりの髪の毛に違いなかった。何より直感がそう教えた。
ゆかりの制服のポケットに、ゆかりの髪の絡まった池浪高校の校章が…。
そうなり得る状況を想像のうちに組み立てるより早く、ひとつの答えが雨粒のように心に落ちるや、見る見る波紋を広げていった。ゆかりと池浪高校との接点はひとつしかない。聡だ。その直感に陽子は震えた。
先刻の聡の様子が思い出された。常にどこか上の空で、ゆかりの話になると落ち着きさえ保てなくなり、あまつさえ、それを避けようとした。その浮ついた態度の訳が、いまさらながら分かった気がした。
傷ついた左手の爪で校章を摘み、右手の甲の擦り傷と合わせてみた。悲しいぐらいに一致した。それをじっと眺めているうちに記憶の中の何かとシンクロした。これに似た何かをどこかで見ている。どこで?なにを?
陽子は、はっと思い出した。棺に横たわるゆかりの頬に残された小さな傷跡を。
漠然とした印象が冴え冴えと甦った。現像液に浸したように、記憶の中のうっすらとした傷跡が色濃い像に変わっていった。
これは聡の校章なのだろうか。今日も聡の制服の襟には几帳面に校章が挿してあった。現に自分の右手の甲に、それと擦った傷を受けた。でも校章の替えぐらいは持っているだろう。これが聡のものでないという証拠にはならない。
陽子は校章の表を返し、もの問いたげにそれを見つめた。下端部分にアルファベットで校名が小さく刻まれていた。
IKENAMI。イケナミ。いけなみ。
そう小さく呟いているうち、その発音に思い当たるものがあった。いや、唇が覚えていた。道順が既視感を呼び起こすように、唇の動きが切迫した不安に結びつく、あることばをなぞっていることに気がついた。
何だろう、何だろう…
陽子は、いけなみ、いけなみ、と呪文のように唱えながら記憶を浚った。英単語の意味を思い出そうとするときのように慎重に記憶との接点を探った。そして軽い苛立ちを覚えた矢先、求めた答えは、ふいに唇に貼りついた。
「て、が、み、」
その三文字を発した途端、唇が凍りついた。ゆかりの亡霊が伝えようとしたことばは『手紙』ではなく『池浪』だったのでは?
斎場の炉の中から飛んできた物が何であったかを思い出した。あれは陽子たちの高校の校章だった。ゆかりは最後の念を振り絞って、池浪高校の校章の存在を知らせようとしたのではないだろうか。
メッセージの意図は明白だった。ゆかりをあのような目に遭わせた人物は、いまだ彼女本人しか知らない。それを何とか伝えようにも、ことばも文字も失った以上、手段を選ぶことはできない。犬が人に危険を知らせようと一見凶暴に吠え猛るように、無理にでも相手の注意をひく以外に方法がなかったのだろう。陽子の心身を苛んだ、これまでのできごとは、すべてそこに収斂する。陽子はそう考えた。何某かの解釈を得て安心したかった。
この部屋には初めから、ゆかりの息づかいが感じられた。それが錯覚ではなかったことが、いま分かった。『ここにはゆかりの息づかいがある』。
陽子は確信した。ゆかりは今でも生きている。化生に身をやつし、夜闇に隠れる人影のように、この部屋に漂っている。
食事の支度ができたと知らせに来たゆかりの母は、異臭を放つ部屋の真ん中で、左手から血を滴らせている陽子を見て絶叫した。陽子はそれさえ意に介さず、血の気をなくして呆然と立ち竦んでいた。
※ ※ ※ ※ ※
夕食を済ませた聡は、自室で怯えながら悶々とした時間を過ごしていた。切迫した不安は、払っても不快な羽音を立てて舞い戻る蚊のように、一向に胸の内から離れてくれない。泥水のような汚濁した心には蚊柱が立って、聡の平静を休みなく蝕んでいだ。何も手に着かず、かといって、じっとしていると気が変になりそうになる。その苦しみに叫び出したい思いだった。
考えまいとすることの無駄を悟ると、それなら何とか不安を和らげようと思考の転換を図った。宥め、すかし、尻を叩いて、自分を力づけようと試みた。
いずれ真犯人は捕えられる。必ず尻尾を掴まれるに決まっている。それまで暫しの辛抱に過ぎない。
実際、俺は何もしていない。どこに濡れ衣を被るいわれがある。何を恐れる必要があるというのだ。
さあ勉強を始めよう。来年はもう受験だ。空手の稽古でも良い。それも気が進まなければ、たまにはテレビでも見て気楽に過ごすのも悪くはない。
だが、どんな処方も束の間の効き目を示すとすぐに、肥大した病巣に飲み込まれた。
聡は無為な時間の長さに倦んだ。時を過ごすとは自分自身を消化することだ。心身ともに健全ならば速やかに消化して、食っても食っても食い足りないが、消化不良に陥るとすぐにもたれて持て余す。虚しい時間は煩い事の培地にしかならない。
つばを飲み込むと胸一杯に酸が広がる感触があった。体まで蝕まれ始めている。それが不安の増幅にフィードバックした。
俺は今まで何を鍛えてきたのだろう。筋力や格闘技術を磨いたことで、どう強くなったつもりでいたのだろう。
俺はもともと弱虫だった。小さいころは、いじめられてばかりいた。学校の友達にも近所の幼なじみにも、玩具を取られ、ノートに悪戯書きをされ、仲間はずれにされて泣いてばかりいた。
いじめられるのが辛くって、中学に入ってから空手の道場に通い始めた。それがたまたま肌に合って、首尾良く自分を改造したつもりが、とんだところで綻びが出た。社会の煮え湯に揉まれることなく、道場という安全な戦場で固茹でに仕上がったつもりが、ぬるま湯から上がった半熟卵に過ぎなかった。ほんの僅かな衝撃でヤワな中味が流れ出てしまった。
他者に傷つけられまいと、ややもすると誇示しがちになる若いプライド。それを最も傷つけるものがほかでもない、それを支える自分自身の脆弱な人間性であることに聡は気づいた。
俺は柔弱な岩盤の上に重すぎる建造物を築いていたのだ。建物が傾いて初めてそれが分かった。
陽子と過ごした楽しい時間が急に懐かしく思い出された。懐かしいと言っても、それはほんの数日前まで疑いなく自分のものだった。ゆかりの事件という突風に根こそぎ持っていかれ、苦悩と嫌悪と愁嘆がそれに取って代わった。あのような事件を起こした犯人を呪い、無警戒に巻き込まれたゆかりの軽率を呪い、その直前にゆかりと出くわした不運を呪い、そう思う自分の身勝手を呪った。
陽子との甘いひとときが胸に甦るや、熱い感情が涙腺を伝った。滲んだ視界には、心が投射した陽子の躍動する姿が映っていた。昼間の気まずさも苛立ちも忘れ、たまらなく陽子が愛おしく感じられた。陽子と一緒なら、理解し合うことさえできたなら、この苦しみからも救われる。それは閃きでも確信でもない。祈りだった。
ひとたび思い込んだら、実行を明日まで延ばすことはできなかった。つまずきそうな勢いで携帯に手を伸ばすと、陽子の携帯のダイヤルを呼び出した。
ところがいざとなると、昼間の経緯が頭をかすめ、開始キーに置いた親指に力が入らない。ディスプレイには愛しい名前と電話番号が手招きするように浮かんでいるのに、もう紙一重の勇気が足りない。このキーを押しさえすれば、二人の間の衝立を外し、空間を穿つ窓を開けることができるのに。
結局、陽子の反応を窺うためにメールを送ることにした。面と向かったコミュニケーションに踏み込めない臆病者には便利な時代になった。
以前、陽子と二人で喫茶店に入り、メールを送り合って遊んだことを思い出した。目の前で顔を合わせていながら、互いに無言でメッセージを送り合うことに夢中になった。送信から数秒遅れて目の前で着メロが鳴ると、メッセージを読む相手の表情をいたずらっぽく、じっと見守り、相手が笑うのを見て、満足して目を見合わせる。そんなことに熱中した。
聡の作った文面は四角四面で芸のないものだったが、陽子が鮮やかな運指で打ち込んだメールは、女の子らしい茶目っ気に溢れ、さまざまな記号や顔文字で飾ってあった。
『このパフェ、すっごくおいしい(^^)。もういっこ食べちゃおうかな。そのぐらい口で言えって?』
『伊勢上くん、入力するとき、唇が尖ってるよ。空手じゃないんだから、キーはムキになって打たないようにネ』
『いまのシャレ?親父ギャグだよ、完全に(*_*)』
最後は受け狙いの悪ノリになり、飽きてやめたが、それでも楽しい一場面だった。聡はあのときに戻りたいと切実に願いながら、赤心をキーに託した。
『いま、どこにいるの?どうしても会って話したいことがある。昼間のことも謝りたいし。何時でもいいから連絡を下さい。待ってます』
送信キーを押すと、自然と携帯を額にかざし拝むような姿勢になった。
陽子の携帯に着信する様子が目に浮かんだ。陽子は常に聡の知らない最新ヒット曲を着メロに設定していた。17歳にして、すでに流行に遅れがちな聡の『空手バカ一代』の着メロは、陽子に「なにそれ」とバカにされたものだ。
いまもどこかで知らない曲が豪華に鳴っていることだろう。あとは返事を待てばよい。返事をくれるかどうか自信が持てなかったが、今できることをまずは済ませた安堵感で、いったん重荷を下ろした心地になれた。不安の水位が下がっていく実感が嬉しかった。それが一時的なものと知りながら、聡は敢えて騙されてでも、得た平静に身を委ねたかった。
気持ちが落ち着くと、部屋の中に居続ける閉塞感が苦になって、部屋着と兼用のトレーニングウェア姿のまま、ふらりと外に出た。もちろん携帯を携えて。行く先を求めず、ただ商店街や大通りなど往来の多いところを意識的に避け、住宅街の奥の方へと歩みを進めた。
歩きながら今の心境を顧みて、自分の内に占める陽子の存在の大きさにつくづく思いを致した。親にも友人にも相談できなかったことを陽子になら打ち明けられる。そう自然に思えたことに、あらためて新鮮な喜びを感じた。
陽子、陽子、陽子!。
歌うようにその名を口にすると、思わず我が身をかき抱いた。まるで彼の心が、聡という着ぐるみにそうさせているように。
そんな感慨にうっとりと身を包んでいたため、玄関を出たときから正確な距離を保って後をつけてくる人影に、聡はまったく気づかずにいた。
ほどなく小さな公園が目に入った。呼び起こされた童心に手を引かれ、ふらふらと足を踏み入れ、ブランコに腰をかけた。ブランコなんて何年ぶりだろう。尻を収めた台の狭さに自身の成長を感じ取った。地面を擦った小さな靴跡を見つけ、それを残した子供の姿を思い描いた。
童心が先刻からの法悦に快い色を添えた。一本の街灯だけに照らされた無人の公園。その静寂に心が同化した。
そのとき、公園の入り口に二つの人影が立ち、こちらの様子を窺っているのに気がついた。いや窺っているのではない。背広姿の男が二人、身を隠す様子もなく、視線をはっきり聡に向けて、その場に立ちふさがっている。レンズで集めた光のように、注意も姿勢も聡に焦点を合わせたものであることは疑いなかった。神経がちりちりと焦げつく感じがした。
二人の男が目顔を示した様子が暗がりの中でも、はっきりと捉えられた。同時にまっすぐ、こちらに踏み出した。
静かな空気に鞭が入った。聡は即座に身構えた。相手の動きを牽制するため、敢えて視線を二人に向けず、気取られぬようブランコに座った姿勢のまま、脇を締め、腰を溜めて臨戦体制を整えた。甦った武道家の魂に聡は満足した。
二人の男の確かな歩調は、見る間に彼らと聡との距離を縮めた。一本きりの街灯は男たちが近づくにつれ、逆光で彼らの姿を影に染めた。
二人は聡とわずかな距離をおいて立ち止まった。保たれた間合いと言い、姿勢と言い、集中と言い、聡を逃がさず、反撃にも応じられる十分な技量が感じられた。その隙のない陣容に聡は緊張を高めた。
威風が聡を圧した。それは聡のまだ知らぬ『実戦』が人に授ける気迫。聡はほぞを咬んだ。見当に反して、追い詰められたことを知った。
向かって左に立つ一人が上半身を乗り出して語りかけてきた。反射的に握った拳に汗が滲んだ。
「伊勢上聡くんですね」
穏やかな問いかけに緊張のバランスを崩しかけたが、続いて上着の内ポケットから覗かせたものを見て聡は戦慄した。逆光は彼らの背後からわずかに回り込み、男が手に持つ身分証の金色の紋章に厳かに宿った。
鼓動が駆け出した。聡はそれを気根の駆け去る足音のように聞いた。動揺を見せてはいけない。理知がそう命ずる声を遠くに聞きながら、聡は蒼白になっていった。武道家魂はあえなく萎えた。
「少し聞きたいことがあるんだけど、一緒に来てもらえるかな。家には、こちらから連絡しておくから」
そのあとのことばは鼓動の音に掻き消されて、耳に届かなかった。促されても立ち上がる気力もないほど悚然となりながら、ひとり心臓だけが活発に動き続けた。まるで閉じこめられた小部屋の内側から、逃がしてくれと必死に戸を叩いているかのように。
それまで無言でいたもう一人の男が、しびれを切らせたか、聡の脇に手を挿して、いささか乱暴に体を引っ張り上げようとした。気力の支えを失っていた聡の体はブランコから腰を滑らし、前のめりに崩れそうになった。
聡に話しかけていた男が相方の手荒さをたしなめながら、手を差し伸べて聡を抱きかかえた。その揺れで、脳から電池が外れたかのように、聡は生まれて初めて気を失いそうになった。
ああ、俺は警察に連れて行かれるのだ。それは家族にも親戚にも学校にも隣人にも、あまねく知るところとなり、嗤われ、罵られ、白い目で見られるのだ。
その考えさえも尻切れに、聡の意識は遠のいていった。
そのとき、夜の公園に不似合いな無機質な電子音が鳴った。聡の今の心境にも不似合いな『空手バカ一代』の力強い旋律だった。
(中編へ続く)