捜す人
実験用マウスの死骸が山を作っている。腐っていて猛烈に臭い。
僕は桐野なきりを捜し続けている。
あれから病院を辞めて、いまは彼女の追跡と自宅での研究に没頭する毎日だ。ヨセルヒトと同様の操作ができないかと何百匹もマウスをいじったが、ついに最後の一匹を死なせるまで彼女ような目玉焼きはつくれなかった。大学病院からくすねてきたマウスもこれでお終いだし、纏めて供養してやろうと思うがその気も失せるほど無残な死骸ばかりだ。
実験に夢中なあいだは臭いも空腹も気にならなかったが、いまは一秒でも早くここを出たい。近くの住民もそろそろ警察に苦情を入れる頃合いだろう。僕はマウスの山をゴミ袋に突っ込んで、庭に掘った大穴に埋めた。郊外だから良いものの、住宅地ならすぐに殺人の嫌疑をかけられる行為だ。盲目的な日々に、少し、反省する。
最低限の情報はネットで収集できた。信憑性は疑わしいが、辻褄は合っていた。特に、やがて記憶を失うという説。病院の入院患者が精神を患っていった状況に説明がつく。ああ、桐野が心配だ。処置してあるとはいえ、ヨセルヒト無しであの瞳にどう説明がつくだろうか。
栗栗眼鏡の続報は、恐ろしい可能性に満ちていた。やはり鵜呑みにはできないが、ある程度僕の行動に指針ができた。僕はB村に行くかいまの舞台へ赴くか迷っていたが、後者を選ぶ踏ん切りがついた。なんとなくだが、桐野はヨセルヒトのほうへ引き寄せられていったという気がしている。自分自身がヨセルヒトに遭遇し、真実を見定めたいという気持ちもある。手がかりもなく実験を繰り返しても、彼女を治す術には辿りつけそうにない。ヨセルヒトの背景を掘り下げるのは編集部に任せておいて、僕はまっすぐ成果を求めるべきだ。
旅へ出る準備をしに街へ出ると、首筋に奇妙なほくろを蓄えた少年とすれ違った。桐野を追うようになって以来、僕はヨセルヒトの被害者に敏感である。街で歩いていて、ふとそれらしい特徴に出会ったとき、見境なしに声をかけている。街に居るような被害者は記憶を失って、それでも問題なく過ごしていられる程度の症状に限られる。本人は忘れているわけだから、僕がヨセルヒトの話題を振るとみな怪訝な顔をして去っていく。自分が被害にあったことを忘れていても、話題として非常に敏感に反応する人がほとんどだ。かつて事件が多発したN市にあって、僕のようなふるまいをする人間には強い警戒心が働くらしい。
しかしその少年は様子が違った。自身がヨセルヒトと邂逅したことは否定しながらも、友人の一人が殺された事実に対し強い執着を見せた。
「俺の周りじゃ他に被害者はいない。それらしい変化があった奴もいたが、みんな当たり前に否定する。超常的な現象だし、そりゃそうだと思う。俺もたぶん自分の思い込みだろうと思う。俺は『栗栗眼鏡』の読者だけど、あくまで都市伝説のひとつとしてすごく興味を持っている。自分の友達が例の通り魔に殺されたんだ、もしかして、と思って可能性を探ってしまう」
坂口と名乗ったその少年は奇妙に密集したほくろについて一貫して否定した。
「そもそも、被害者はみんなおかしくなってるんだろ。おかしくなるくらい悲惨な目に遭うってことだし、自分がもしそんな目に遭っててそれを忘れるだなんてあり得ない」
「記憶を忘れるところも含めて、『ヨセルヒト』だって言われているけど」
「そんな噂を鵜呑みにしてるようじゃダメだと思うよ」
彼はソーダフロートを二つ注文し、両方ともまずアイスクリームだけを食べ尽くした。喫茶店の従業員が怪訝な目でこちらを眺めている。僕は二杯めのコーヒーを頼んだ。
「俺は、友達の死体をこの目で見た。葬式のとき、どうしても我慢できなくて棺を開いたんだ。顔に大きな穴が空いていて、そこからひとしきり流血したあとの姿だった。だからちゃんと顔はわかった。そして、人間業じゃないと思った」
「僕はそれ、顔じゅうの『穴』が集まったせいじゃないかと考えているんだ。『ヨセルヒト』の特徴にも合致するし、人間の顔には約二十万個の毛穴がある。一点に密集させることがもし可能なら、皮膚を剥ぎ取ったような姿になるんじゃないかな」
皮膚を多少剥ぎ取られただけでは、人間は死なない。放っておいたら死ぬけれど、止血の手段を講じればどうにかなる場合もある。しかし死亡した被害者はすべて既に死亡した状態で発見されている。死因は失血性のショック死とされているが納得いかない。そこから常識的な理由を削って、単純な「ショック死」が妥当だろう思う。
「どこまでも都市伝説に準拠して考えるんだね。そういう姿勢は嫌いじゃない、むしろ好きだけど。ところで、なんでおじさんはそんなにヨセルヒトに執着してんの?」
「僕は医者だったんだ。大きな被害を受けた患者が入院していてね。僕の失敗で、結果的に彼女は行方不明になってしまったんだ」
僕がこう言うと、彼は「ふうん」と小さく反応して口元をゆがめた。
「要するに惚れたってこと?」
「いや、まあ」
「でも被害者に惚れるってモノ好きだなあ。近所にひとり被害者がいるけど、顎から鼻が垂れ下がってたよ。言い方は悪いけど、酷い奇形って感じ。医者だからそういうのは割り切れて、内面的に惚れるだけの時間があったってこと?」
僕は少し逡巡して、彼女との出会いを振り返る。むしろ、僕は彼女の内面をよくは知らない。わかるのは、自分の境遇に動じず、それでも生きていこうとする彼女の強さと、その裏にある繊細で儚い心。僕は彼女の姿に畏怖を感じて、そしてたまらなく美しく思って、たぶんそこから入って彼女に惹きつけられていった。いま思えば彼女とあんな会話をしたのは少しおかしい。患者は医師に惚れやすいと言うが、彼女の立場から言えば、すがれるものをすべて削ぎ落され、そこにちょうど僕が残っていたというだけのことかもしれない。いわば僕は、彼女が最後に頼ろうとした相手であり、愚かにもその手を握れなかったのだ。
「……美しかったんだよ」
「なに、過去形? 元は美人だったこと?」
「ちがう。傷ついたあとも、いや、傷ついて、なおさら。すごく不思議な魅力があった」
「へえ……」
彼はまるで納得していないようだった。ソーダだけになったグラスを二つ、一気に飲み干すと、小さくため息をついて席を立った。
「俺はあんたが言うような被害者じゃないし、これ以上話せることもない。その女の子を捜すのを応援したいけど、具体的には何もできない。それにあんたも、安っぽい慰めなんか求めちゃいないでしょ。とにかく頑張れ。自分が思うように、考え、悩み続けながら、進んでくれ」
僕は話に付きあってもらえただけで凄く嬉しかった。こうなって以来、ちゃんと向き合って話をしてくれる相手に出会えなかったからだ。彼は否定するけど、たぶん被害者だ。記憶を失ったケースを確認できたという意味も含めて、とても意義深い語らいになった。
「本当にありがとう。気の迷いがなくなった。僕はすべてを投げ打って彼女を捜し続ける。しかし君、高校生にしては妙に大人びているね。味覚以外は」
恥ずかしげに笑いながら彼は言う。
「俺さ、こんな感じに話す人間じゃなかったんだけど、友達が死んでから妙に言動が老けこんじゃったんだよね。あ、ソーダフロート? これは元々カラオケで飲み放題つけたときにやってた癖なんだけど、それが友達との最後の思い出でさ。忘れないためにも、頼めるとこでは絶対に頼むようにしてんの」
最後に会った日にカラオケに行って、ソーダフロートを食べながら何か打ち明け話をした彼は言ったが、肝心の内容がいつまで経っても思いだせないと言う。
「こうして繰り返してれば、いつかあいつと最後に話したこと、思い出せる気がしてさ」
僕は勘定を払って喫茶店を、そしてこの街を後にした。
後ろ姿で小さく手を振った彼に、ヨセルヒトの影が重ねて見えた。