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診る人

 深夜の病棟に搬送されてきた急患は、初めて出会う症状だった。

 先天性の奇形か、過度の人体改造か。前者であれば患者が成人女性であることに説明がつかない。後者であれば患部以外も無残な縫い傷だらけに違いない。


 だが彼女は、顔じゅうに汗をびっしりかいて、いびつな目玉をぎょろぎょろと動かしている。

 かつては美しい女性だったに違いない。均整のとれた顔がバランスを損なって、必死で重心を制御しようともがいているようにも見えた。


「元に戻してください。元に戻してください」


 道端で倒れているところが見つかり、救急車に通報が入った。彼女はうわごとのように同じ言葉を繰り返し、介助する人たちにはなんの反応も見せなかったという。


「彼女を助けた通行人の勇気を讃えたい……」


 皮肉めいた言葉が口を突き、言ってしまって後悔する。しかし、それほどまでに彼女の顔つきは恐ろしかった。眼球が肥大し、癒着した……? そもそもこの位置があり得ない。こうなっても尚、眼球として機能しているのが信じられない。


 僕は興奮して取り乱す彼女に麻酔を打って眠らせ、レントゲン室に運んだ。

 静かになった彼女から人を超えた静謐を感じ、畏怖の念がこみ上げてくる。

 巨大な一枚のまぶたが、彼女の一つ目をしとやかに包み込んでいた。


 彼女の骨格は、眼球に寄り添うように自然な形を描いていた。

 仮定するならば、人類が単眼に進化していく、その過程で少しずつからだの組成が変化した結果出来上がったようなデザイン。細胞単位での人体改造が可能ならば、こんな形も有り得るだろう。もちろんそんなの無理だ。しかし、現実に、こうなっている。


 社会的な矛盾を無視して、先天性の奇形を背負って生きてきたと考える。そこで初めて彼女の存在に納得できる。彼女の手荷物から身元がわかり、そんな仮説はあっという間に否定されるだろうが。


 それに彼女は、元に戻すことを頼んでいる。

 つまり、ふつうの目を、ふたつの眼球を持っていたってことだ。


 医学的に、彼女を健常者に戻す術はない。細胞単位で顔をいじくって、彼女の顔をもう一度リライトすることが可能ならやってあげたい。細胞をなぞって思うままに動かせる筆のようなものがあれば、彼女を治せるのに。


 ――そうすれば治せるということは、そうした結果こうなったとも言える。


 なんとなく、連想される噂があった。自他共に認める変人、精神科の藤堂先生に見せられたアングラ週刊誌のとある記事を思い出す。



▼『連載第一回:寄せても、いいですか――連続通り魔事件と不可思議な都市伝説』


――「(ⅰ)連続通り魔の奇妙な殺害方法」

 S県H市で発生した連続通り魔事件は、日本全国を震撼させた。顔面の皮膚を剥ぎ取るという残忍な手法で殺された被害者の数は、わかっているだけでも十二名に上る。マスコミ各社もこぞって報道したが、総力を上げての報道体制は、かえって国民の不安を煽ることになった。犯人に繋がる証拠は一切見つからず、犯行の動機も不明。無差別に行われる通り魔殺人に、警察は手をこまねいているのが現状である。一連の犯行は約二週間で終息したが、翌月になると別の場所で同様の通り魔事件が発生した。その事件が数週間で収まったかと思うと、また別の町で事件が起こった。舞台は次々と移り、これまでにY県S市、K県H町、T県M市、C県N市で被害が確認されている。


 犯人が移動したとも、模倣犯が発生したとも言われているが、前者=犯人移動説に対しては否定的な報道が多い。インパクトのある殺害方法は強い影響力を持っており、同様の事件は全国どこでも起こり得るものだとして警鐘を鳴らしている。


 しかし、我々編集部は独自の取材を行い、模倣犯説はありえないと結論するに至った。

 上に示すのがS県最初の被害者、Aさん(仮名)の遺体写真である。あまりにも凄惨な遺体写真のため細部には画像加工を施してあるが、顔面の中央に巨大な「穴」が開いている様子がご覧いただけるだろう。この「穴」の形状に注目して欲しい。一般に、「顔面を削ぎ落とされる」場合、鋭利な刃物等で皮膚や肉をえぐり取られることが想像される。しかし写真の「穴」には「損傷」と呼べるような傷跡はなく、ただ「穴」が開けられているのだ。


 よほど熟練した技術を持った人間であれば、皮膚だけを切り取って殺害することも可能かもしれない。しかし、相手は人間である。抵抗もすれば、逃走も試みるだろう。突発的な「通り魔」事件においてこの傷口が形成された裏には、何か特殊な状況が発生していたとしか考えられないのだ。少なくとも凶器は刃物ではない。そして、殺害方法に感化されただけの模倣犯が同様の事件を引き起こすことは不可能なのである。


 各県の事件について、警察は「同様の遺体が発見された」と報告している。新たな被害者も、顔面に「穴」を開けられた状態で見つかっていると考えるのが妥当であろう。また、被害者の死因のほとんどは「出血多量によるショック死」とされている。しかし、傷口を見るに、ショックで即死するほどの大量出血を伴うとは考えにくい。犯行途中での目撃談がいまだにゼロである点も含めて、被害者の死は謎を残している。


 我々はこの不可解な事件について、事件発生と同時期に広まったと見られる都市伝説との関連に注目している。この都市伝説とは第一の事件現場S県H市に端を発しやがて全国へ広まった「ヨセルヒト」と呼ばれる噂のことだ。都市伝説の詳細について、地方伝承を題材とした著作を数多く持ち、民俗学研究家でもある作家、鱗谷瓦うろこだに・かわら氏に話を伺った。



――「(ⅱ)都市伝説・ヨセルヒト」(作家・鱗谷 瓦)


 「ヨセルヒト」、漢字表記では「寄せる人」と呼ばれているこの都市伝説は、事件発生もしくはその直前から語られ始めた現代型都市伝説の一種である。ネットを中心に全国に広がっており、その過程ですでにさまざまな肉付けが行われている可能性が高い。よって、信憑性が疑わしい部分もかなり多い。最初にヨセルヒトとみられる情報が書き込まれたのは、某巨大掲示板内の地方板、「S県H市について語ろう その112」であることがわかっている。私は第一の事件が終息する前に現地を訪れて取材を試みたが、「実際に遭遇した知人がいる」という話す幾人かに出会った。その証言内容とネット上の情報を照らし合わせるに、都市伝説の内容は以下のように纏めることができる。


・一人で歩いているとヨセルヒトと呼ばれる人物が出没する。出没時間は夕刻から深夜にかけてと言われているが例外もあり定かではない。


・ヨセルヒトは中年男性のイメージが定着しているが、その顔をはっきりと見たものはいない。見る事ができないのではなく、認識できないといった印象らしい。


・ヨセルヒトに出会うと、「××、寄せてもいいですか?」と訊かれる。「寄せる」ことを受け入れれば、その通りに何かが寄せられる。この「××」に入るのは「顔にある何か」とされており、一説では「顔の中でいちばん目立つもの」と言われている。


・「寄せる」とは顔のどこか一点にその対象を寄せ集めるという行為。痛みは伴わない。物理法則を無視して、顔面のパーツが移動していく。


・ヨセルヒトの申し出を断ってしまうと、顔に大きな「穴」を開けられて殺されてしまう。


 私の現地取材では、実際にヨセルヒトと出会い「寄せられる」ことで死を免れたとされる人物には辿りつくことができなかった。その点において、ここに記す情報はすべて噂の域を脱しないものではある。しかし、連続通り魔事件の殺害方法と「顔に大きな穴を開けられる」といった都市伝説の内容は奇妙なほどに共通している。


 私は通り魔事件の犯人がこのヨセルヒトではないかと睨んでいる。彼は各地で十二名の被害者を出し、それ以上の人と出会いながら、北上し続けているのではないだろうか。


 私はもう一度S県に向かい、「生き延びた被害者」を探して取材を試みる。私はこの取材が「連続通り魔事件」解決に繋がるものだと確信している。



――「(ⅲ)今後の展望」


 我々は今後も独自の取材を敢行し、他誌にない情報を読者諸君に提供したいと考えている。鱗谷氏の分析は正確だが、都市伝説と事件内容があまりにも合致しすぎている。都市伝説が事件に合わせて創作されたものであるという可能性も否めない。しかしこの都市伝説が事件に秘められた謎を解き明かす大きな鍵であることは間違いないだろう。


 鱗谷氏の取材には本誌記者も同行する。次号での特報を期待されたし。

(週刊栗栗眼鏡編集部)



 僕は医療従事者だ。非科学的なオカルトの類には興味がない。だが、頭ごなしに否定するわけでもない。背後にある事情を探っていけば、何らかの根拠を見出せると考えている。


 さいきん巷で広がっているヨセルヒトという都市伝説。彼女の症状が、そのまま噂に当てはまる気がしてならない。それこそ、いま記者たちがやっきになって探しているであろう「生き延びた被害者」なのではと思えて仕方がないのだ。


 とはいえ、そんな噂に振り回された処置をするわけにもいかない。

 僕は彼女の患部を包帯で覆い、隔離病棟で静養させる道を選択した。彼女にはまず、精神面のケアが必要だろう。彼女をモルモットにしようとする研究医の奴らからも守らねばならない。


 レントゲン撮影を終えた彼女は、隔離された病室で静かに夢を見ている。僕はその大き過ぎる一つの瞳に、白い包帯を巻きつけていく。彼女を襲ったすべての恐怖を遠ざけるように、丁寧に、いたわるように処置していく。


 彼女は、美しかった。


 彼女を目にしたとき、僕は最初に恐れを抱いた。続いて、僕は彼女に畏れを抱いた。治療するうち、それらの印象は解体されて憧れに変わった。


 見た目を以て恐ろしいとまで評した僕が彼女を美しいと思うのは、ひどく矛盾した話かもしれない。しかし、醜美の価値観は十人十色だ。何を以て美しいとするかは、個人の主観に依るところである。僕は彼女を美しいと思った。スタイル、立ち振る舞い、声、全体的な雰囲気。そのひとつひとつに、不思議な魅力を感じている。


 見たこともないサンプルに興奮する、医者の変態性か。はたまた、純粋な好奇心なのか。彼女への思いに歪んだ根拠を求めることは簡単だ。しかし、何故だろう、そんなところに理由を求めたくはない。客観的な分析を、心が強く拒絶している。……涙に塗れるいびつな目が、大きなまぶたに包まれたあの瞬間。僕は彼女に見惚れてしまったのだ。


 彼女が目を覚ましたら、いったいどのように話すのがよいのだろう。

 彼女の顔を治すことはできないけれど、処置することはできる。ただ、彼女には「治る」という言葉で伝えて安心させてやりたい。変形した額の骨格は、簡単には戻らない。でも、眼球さえ取り除けば見た目を元のように整形することはできる。眼窩は元の位置に残っているから、切り開いて義眼を入れる。たぶんそれで、彼女は元のような社会生活を取り戻せると思う。表向きは通り魔事件、顔を切りつけられて失明といったところ。この場合、「治す」ことと引き換えに彼女は光を失ってしまう。


 額の目玉は残して、義眼を入れる。普段は額を隠して生きる。こんな選択肢も考えられる。どちらにするかは、彼女の意志が決めることだ。僕はただ、与えられる選択肢を、最善の形で提示するだけ。


 やがて夜が明けて、朝の病棟を僕は歩く。

 カーテンの隙間に覗いた陽光が、彼女の白い肌をやさしく包んでいた。


「あー。あー。あー」


 赤子のような声だった。


「あー。あー。あー。あー。あ」


 僕は異変に気付いた看護師から知らせを受け、昼食を放棄して駆け付けた。


「先生。彼女、目覚めてからずっとこんな調子なんです」


 怪訝な顔の看護士が声をひそめて僕に言った。


「何か、話しかけてみた?」

「いえ」

「そっか」


 僕は彼女のベッドに腰かけて顔を覗きこんだ。看護師がそそくさと退室する。強くドアを閉めすぎて、ガタンと跳ね返ってまた開く。ゆっくり、ゆっくり、スライドしていく。


「あー。あー。あー」


 その声は、何の意味もない信号だった。控えめなソナーで、彼女は世界を探っている。


「えー。こんにちは」

「あ」

「桐野さん。ここは病院で、僕はあなたの担当医です。気分はいかがですか」

「あー。あー、ああ……そう」


 彼女はむくりと上体を起こして、僕のほうを向いた。


「遊佐と申します。遊佐佑央ゆさ・ゆうおう。あなたの担当を任されました」

「私は桐野なきりです」

「知っていますよ」

「私の持ち物をみたのね」


 彼女の身元は、財布の中に入っていた運転免許証で明らかになった。すでに家族も連絡がいっているはずだ。


「財布の中に、免許証が入っていましたから」

「男の写真も入っていたでしょう。あれ、こないだ別れた元カレなの。捨てておいて」

「わかりました」


 彼女はきょろきょろと首を動かし、改めて僕に向き直る。


「……先生、どうして何も見えないの」


 たしか、彼女は二十二歳。働いているし、独りで自活している。しかしその声は少女のようだった。ちょっとしたきっかけで赤子に戻ってしまいそうな、儚い声だった。


「目を怪我していたから、応急処置をして包帯で保護しているんです」

「そうですか。やっぱり、夢じゃなかったんですね。あれ」

「『あれ』……?」

「あー。あー。あー。私、本当に生きてるんですか?」


 通報時の状況から、彼女は通り魔の犯行に遭ったものと考えられた。近頃この町はとても物騒で、学校が休校になるほどの厳戒態勢なのだ。襲撃されたときの記憶がよみがえるといけない。でも、話を進めるには、避けられないかもしれない。


「目の怪我以外は、異常ありませんでしたよ。一応、あとで精密検査もありますが」

「――『ヨセルヒト』に会ったら、どんな問いかけにも『はい』で答えること」

「えっ?」


 彼女は口角を少し上げて、いたずらに微笑んだ。


「ちゃんと対応すれば殺されはしないって、本当だったんだ」


 彼女はころんとこちらへ寝がえりを打った。包帯の向こう側にある瞳で、僕を見つめている。


「ずっと考えていたの。あのあとどうなったんだっけとか、自分はどこにいるんだろうとか、これからどうしたらいいんだろう、とか。周りがどうなってるかも、自分が生きてるかもはっきりしなかったから、なんとなく声を出してた。それが気持ち良かったから」


 精神的なケアが必要だ、という想定は僕の杞憂だったのかもしれない。彼女は穏やかで、どこか楽観的で、とにかく素直な喋り方をしていた。

だから僕もリラックスして話すことができた。


「なかなか良い発声でしたよ」

「あら、そう?」


 彼女はまんざらでもない様子で、もう一度「あー」と言ってみせた。

 くすくすと笑いながら、ぺたぺたと顔を触る。触ってみて、また、「あー」と言った。


「ねえ、目がなくなったように思えるのだけど。触ってものっぺらぼう」

「怪我をされていますね。治療が必要です」

「ねえ、ねえ、どうなってるの? わたしの目」


 僕は返答に窮した。あまりにも素直に問いかけられて、見たままの感想を喋りたい衝動にかられる。しかし、言葉を選ばずにそれを語ることは、彼女の素直さを差し引いても適切でないように思えた。


「わたし、覚えてるの。目が上のほうに動かされていった感覚。怪我っていうか、上のほうに移っちゃっているんじゃないの? ねえ、どんな感じなの。鏡が欲しい、包帯をとってくれないかな」


 彼女は包帯を解こうともがいた。勝手に外されないよう厳重に取り付けてあるが、無理やりにやれば取れてしまうだろう。


「包帯をとっては駄目だよ」


 僕は彼女の手を掴み、布団の上へ誘導して上から押さえた。抵抗がなくなったのでそっと力を抜く。静かな色をした白い肌なのに、その手はとても暖かだった。


「あ、先生、セクハラですよ」

「えっ。も、申し訳ない」


 状況に酔いかけていた自分を戒めて、僕は迅速に手をひっこめた。患者と主治医だなんて、そんなベタな関係性が許されるのは二次元の病棟恋愛に限るのだ。


「申し訳ない。申し訳ない」

「いえ、冗談ですから」


 彼女はさらさらと笑いながら、真剣味を持たせて再度問いかける。


「どうなっているのか、教えて下さい」

「……目玉焼きのようです」

「ふーん。先生、ボキャ貧?」


 吹き出して笑う彼女は、しかし、少し悲しげに見えた。


「そうだとしたら、やっぱり、包帯は取るべきではないのね。見たらたぶん、笑いが止まらなくなるもの」

「いや、あの、ショックを受けると思います」

「出来損ないの一つ目小僧って感じなんでしょ?」

「君の辞書も薄っぺらですね」


 冗談で流れるならそれでいい。だけど、おそらく彼女は大真面目に「取らないほうがいい」と言った。僕も大真面目に、そう思う。


「ここから少し、医者としての話をさせてください」

「じゃあいままでの話はなんだったんですか、先生」

「ここからも少し、医者としての話を続けさせてください」

「事務的な口調になるのはよしてね」


 僕は彼女に二つの選択肢を提示した。整形して元の顔にするか、視力を残して額を隠すか。

 彼女は即答し、後者を選んだ。


「目が見えなくなるのは嫌だもの」


 どちらの案にも納得できない、たいていの患者ならそういったところへ追い込まれる。

 彼女は強い。


「かわいい目もとに整形してね。いままではちょっと、きつい感じの目だったから」

「その点に関しては、包帯を取って、ご自身で確認していただきます。額の目に関しても、できる限り目立たないよう手術するつもりです」

「先生の主観でいいよ」


 僕は昨夜拝見した彼女の免許証写真を思い出した。

 かわいい目もとにして。僕の主観だと、前と同じに戻すことになる。


「とくに希望がなければ、原状復帰するのが原則です。僕の主観でも、以前と同じ形がいちばん自然に治せると思いますよ」


 無駄な理由を装飾した僕の返答は、彼女の機嫌を損ねてしまった。


「事務口調はやめてって言ったじゃない」


 ため息をついて、彼女は寝てしまった。



 桐野なきりの手術は無事終了した。

 手術前、彼女はしきりに「食べる前に目玉焼きを拝みたい」と訴え、執刀医はしぶしぶそれを承諾した。彼女は笑っていたが、きっと、我慢して笑ったのだ。色々な感情をセーブして、笑顔をつくって気遣いできる。僕はそんなに強くない。ときどき出会うそんな「強い」人たちを見ると、自分の弱さに情けなくなってしまう。


 彼女の入院から手術日までに、似たような急患が何人か運ばれてきた。命が助かった人ばかりではない。いや、助かる例のほうが稀だ。同様の事件はなおも続いていて、警察も半ばお手上げ状態である。ひょっとすると、この町から離れていく人まで出てくるかもしれない。事態はそれだけ大事になってきて、ヨセルヒトの噂を知らない者はこの町に居なくなった。


 それでも僕は医者として、目の前の症例に毅然と立ち向かわねばならない。

 警察から事情聴取がきたときも、彼女は朗らかに笑っていた。親族が見舞いに訪れて、複雑な表情で帰っていった。


 彼女はずっと明るかったので、本当に彼女はなにも苦しんでいないのではと思うときもある。だけど深夜、彼女の病棟の前を過ぎるとき、かすかに「あー。あー」という声が聞こえてくる。現実を捉えるため、現実と向き合うために、彼女は必死で距離を測っていた。


「先生、昨日、職場の人が来てね。わたし、クビになっちゃった」


 ある日の昼下がり、いつかと同じような明るい部屋で、彼女は俯いていた。


「目は見えるし、義眼にしたところも……たまに不気味だけど、昔の私とおんなじなのに」


 僕は言葉が見つからない。保険金で生活できると伝えたところで、むしろ彼女を傷つけてしまうことになるだろう。


 下ろした前髪の奥に、彼女の目がきらりと光っている。


「どうせなら目を取っちゃえばよかった。みんな私の目をみて怖そうにするもの。見られていることがすぐにわかっちゃうんだよ。目だから。目が、合っちゃうから」


 たったいまの僕の視線も、彼女を傷つけていた。僕はあわてて目をそらす。こうして目をそらすのがいけないんだとわかっている。それでも、見つめ続けていられなかった。


「わたし、引き籠って孤独に暮らすことしかできないのかな。私の人生は、もう元に戻らないんだよね。視覚障害者として生きればいいの? 私は目の見えない人の人生を否定しない。でも、見えている目がちゃんと付いているのに、それを取るなんて決断はできない。まっくらな世界が怖い。あー、あー、あー、って、もう癖になっちゃった。見えているのに、世界との距離がわからない。現実がどこにあるのか、わからない」


 彼女の額から一筋の水が流れ落ちた。汗じゃなくて、涙だ。


「先生、わたしを見てよ。わたしの、目を見て」


 僕と彼女は見つめ合った。視神経が通っているのは上の目だけなのに、義眼のおさまった眼窩からも、涙が溢れていた。額から落ちた涙が眼窩にひっかかってこぼれただけかもしれない。でも、彼女は三つの目で泣いていた。


「先生は、私の目を気味悪いと思う?」

「そんなことないよ」

「目玉焼き、好き?」

「毎朝食べてるよ」

「じゃあ、退院したら、いっしょに暮らしてよ」


 僕は驚いて、一瞬、彼女の瞳から目をそらしてしまった。


「あの……それは、医者という立場では……」

「やっぱいい」


 それきり彼女は黙ってしまい、僕の言葉は届かなくなった。


 重苦しい沈黙を背負って、僕は翌朝を迎えた。

 僕は夜じゅう、彼女にどう応えるべきだったかを探していた。次に彼女と話すとき、どうやってその心に触れていけばよいのか。イメージの中の彼女は不鮮明で、いまだ僕は彼女の姿を捉えきれていないのだと自覚した。


「先生、桐野さんが」


 寝不足の僕はまどろみを咀嚼しつつカルテを眺めていた。彼女の他にも、考えなければならないことはたくさんあった。その忙しさに埋もれて、彼女から少し離れていた矢先だった。


「どうしたの」

「どこにもいないんです」


 彼女は病室から消えていた。

 病院内に、彼女が外出する姿を見た人もいなかった。夜のあいだに抜け出したのだろうか。巧妙に姿を隠して、病院のどこかで息を潜めているのかもしれない。僕は院内をくまなく捜した。それでダメだったから、彼女の実家や、独り暮らしの部屋、職場に及ぶまで連絡をとった。

 しかし、どんなに必死で探しても、見つけられなかった。


 彼女が失踪して二週間ほど経った頃、通り魔事件は新展開を迎えた。犯人の目星がついたわけではない。事件の舞台が再び移動したのだ。

 警戒は段階的に緩められていき、町には平穏な日常が戻ってきた。


 だが、被害にあった人たちが元通りになったわけではない。一度病状が落ち着いた患者が精神のバランスを崩す例もままあった。それだけ凄惨な体験だったということだ。事件前後の記憶が混乱し、自分の境遇を理解できずに悩む者も多い。


 僕は医者として、すべての被害者を「治す」術を探さなければならない。後手に回ってばかりではなく、ヨセルヒトの謎を突きとめて、すべての根源を断ちきってやりたい。


 あの時点で、僕は彼女を治せなかった。

 治せなくても、受け止めることはできたはずだ。


 彼女を見つけ出し、治す。そうしないと僕の後悔は死ぬまで続くだろう。

 それから僕は彼女とヨセルヒトを追う日々へ歩み始めた。行く先々で、彼女の姿を探してしまう。雑踏のなかに、あの瞳を探してしまう。


 なんとか、彼女と再会する。そして僕がモルモットになってもいい。

 絶対に、彼女を治すんだ。

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