寄せる人
授業が午前中で打ち切りとなったため、僕は友人の坂口とカラオケ店へ直行した。
特例の下校措置は、巷を騒がせている通り魔事件によるものだ。全国で断続的に発生している無差別殺人は、舞台を転々としながらこの町にもやってきた。最初の事例からすでに半年。殺害手口が共通していることから、同一犯の仕業とも、模倣犯の仕業とも言われている。恐ろしい殺害方法と無差別な犯行に恐怖し、住民が屋内にひきこもりがちだ。保護者からの要請で、学校は本日より事件解決まで無期限の休校に追い込まれた。
しかし、ワイドショーやPTAが騒ぎ立てたところで、高校生の危機感はたかが知れている。いざとなったらダッシュで逃げればいいなどと笑い飛ばしながら、大半の生徒が遊びに繰り出していった。平日の昼間だというのにカラオケ店は大繁盛。とはいえさすがに日が暮れるまでには帰るだろうし、僕らもそのつもりだ。
歌いたかった新曲とひととおりの持ち歌を消化して、僕らはしばし雑談に興じていた。坂口はソーダフロートから溶けかかったアイスクリームをすくい取りながら、ぴたぴたとスマホをいじっている。僕は酷使した喉をほうじ茶でいたわりながら、通り魔事件についての見解を漫然と語っていた。
「あの事件はどうもおかしい。かなり派手な犯行なのに、いまだ誰一人として目撃者が見つかっていないんだ。皮の剥ぎ方だって、人間わざとは思えないほど完璧らしい」
坂口は視線を画面に落としたまま「うーん」と気の抜けた相槌をした。
「まるでフィクションの世界だよ。動機がわからない犯行に『通り魔』と名付けるのは安直だし、むしろ本来の恐ろしさがぼやけてしまっていると思う」
アイスクリームを回収し終えた坂口は、ソーダには口をつけずに備え付けの電話をとった。新たなソーダフロートを注文するのだろう。これで今日五杯目だ。
「なあおまえ、『ヨセルヒト』っていう噂知ってるか?」
右手に電話を構え、左手にスマホを握ったまま坂口がこちらを向いた。
「なにそれ」
「あ、ソーダフロートひとつ」
電話を戻した坂口はスマホをテーブルに置くと、カラオケのデモ映像を切って改まった。静かになった部屋の隙間に、隣室の歌声が流れ込んでくる。
「通り魔事件の犯人じゃないかって噂されている謎の男だよ。一人で歩いているとどこからともなく近寄ってきて、『寄せてもいいですか』と聞いてくるんだ」
「どこからの情報だよ」
「無論、ネットでの噂に過ぎないけど」
「口裂け女レベルのくだらない都市伝説だな」
僕がそういうと坂口は黙ってうつむいた。机の上のスマホを裏返して、無機質な背中を人差し指で撫でる。わさわさと頭を掻いて、崩れた前髪をまた整えて、やはりこちらを向いた。なにやらわけありのように見える。
「山田が先週から不登校になっただろ」
「ああ、ぐろぱん」
山田はある日、目の周りに大量のにきびをこしらえて登校し、同級生の容赦ない視線を浴びた。彼女の目もとには無数の出来物がひしめいて腫れあがり、その模様がさながらパンダのように見えた。彼女はそのせいで「ぐろぱん」という不名誉なあだ名を得ることとなった。それは傍目にみても耐えられない状態だったし、肌荒れというよりは病気に近かった。彼女は翌日から不登校になった。
「あのときは気がつかなかったけど、たぶんあいつも『ヨセルヒト』にやられたんだと思う」
「はいはい。で、ヨセルヒトっていうのはどんな奴なんだ」
「ヨセルヒトに出会ってしまうと、必ず『××、寄せてもいいですか』と問いかけられる。その『××』には首から上の表皮にある何かが指定されるらしい」
「山田がその不審者に攻撃されたって推理してるわけね」
能天気なのにどこか理屈っぽい。だからなのかいまいちモテない。そんな坂口が大真面目にカルトな話をはじめたので、僕は真面目に聞いてやることにした。
「たぶん山田は『にきび』だったんだろう。彼女はもともと肌荒れに悩んでいたし、顔じゅうのにきびが目もとに集中したらああなるんだと想像できる」
「そんなバカなことがあってたまるか」
たぶんそれは物理的にありえない。それに、山田の症状は他に幾らでも説明をつけられる。通り魔の不安が蔓延して、正体の掴めない犯人像が都市伝説化した。その内容に偶然彼女の症状が結びついただけだ。
「あの日の山田、目もと以外はつるつるの肌になっていたのを覚えてないか」
「そういえばそうだったな。だから余計にパンダみたいに見えたんだ」
「あいつだけじゃない。国語の稲穂を思い出せ」
「禿げが毛根に諦めをつけただけじゃないか」
稲穂は僕らのクラスの国語教師だ。年齢のわりに頭髪がみすぼらしく、それを自虐ネタに出来ないタイプの教師だった。生徒から散々頭髪をからかわれており、ついに決心したのか先週になって突然スキンヘッドにして現れた。その代わりにずいぶん濃いあごひげをたくわえており、「ぜんぶ髭に吸収されたらしい」と笑える推測を誘ってくれた。
「稲穂は、毛根を『寄せられた』んじゃないかと思うんだ」
「まあ、そうこじつけることもできるかもしれないけど」
流行りそうな都市伝説だなあとは思うが、辻褄の合うサンプルが二例あるだけでは到底信じるには及ばない。しかし坂口の口調は真剣そのもので、僕は少しその雰囲気にのまれつつあった。
「失礼いたします」
五杯目のソーダフロートを運んできた店員が、うんざりとした笑顔で入室してきた。
「お時間残り三〇分となっております。飲み放題のラストオーダーはよろしいですか」
「ほうじ茶ください」
「ソーダフロートもう一杯」
坂口の無遠慮なオーダーにも笑顔を崩さず、「かしこまりました」と言って店員は退室した。溶ける前のアイスクリームをひと口にほうばって、坂口が続ける。
「信じてくれなくていい。ただ、筋が通っていることは理解してほしいんだ」
「たしかに、矛盾はしてないな」
「噂によると、ヨセルヒトの『寄せてもいいですか』に『はい』と答えなかった場合、顔の皮を剥がされて殺されてしまうらしい」
「通り魔の手口がオチになってるわけだね」
「奴の犯行に謎が多いことは、奴の存在を認めることで説明がつくと思わないか」
「そりゃまあそうだけど。その噂はいつからあるの?」
「広がったのは最近だけど、最初に通り魔が発生した頃からそれっぽい情報はあったらしい。少なくとも、噂が『ネット上のデマ』を脱しようとするレベルになってきてるのは確かだよ。『週刊栗栗眼鏡』が特別連載を組んで事件を追っている。その記事にヨセルヒトも出てきた」
週刊栗栗眼鏡というのは坂口が愛読するマイナーかつアングラな週刊誌だ。一度読ませてもらったことがあるが、『ムー』に勝るとも劣らない胡散臭さに辟易とした覚えがある。とはいえたまにスクープを飛ばすこともあるから侮れない。
「でも、噂が先なのか通り魔が先なのかがはっきりしないな」
「仮に真実なら通り魔とヨセルヒトはイコールで結ばれる。だから『同時』ってことでいいんじゃないかな。まあ俺も、事件に合わせて作られた都市伝説だろう思っていたんだけどさ」
坂口は口調を暗くしてテーブルに視線を落とした。そしてまだ冷えているソーダをぐびりと飲み、ためた息を真下に吐きだした。
「俺、ヨセルヒトに会ったんだよ」
彼はそう言って首を後ろにひねり、襟足をたくし上げて僕にうなじを見せた。
「これ、奴にやられたんだ」
彼の首筋には巨大なほくろがひとつ――いや、ひとつの塊ではない。
点描のように貼りついたその染みは、一か所に「寄せられた」無数のほくろだった。
強力な証拠を見せ付けられて、僕は言葉を失った。
「これ、フツウじゃないだろ?」
体勢を戻した坂口の顔を眺めてみる。右眉の横にあったはずのほくろがない。頬にも一つか二つ、あったはずだ。それもなくなっている。
「自分で塗ったとか……そういうおふざけじゃないよな」
「ガチです」
彼の首筋にあったのは、紛れもなくほくろだった。高さのあるものから染みのようなものまで、とにかく皮膚にあった黒い点を全部かきあつめました、という感じ。
「会ったって……、つまり、『問いかけ』もあったのか?」
坂口はおびえた目で僕を見据え、少し黙った。僕に信じてもらえるのかどうか心配している様子だった。少しでも説得力を持たせようと、慎重に言葉を探しているのだろうか。
「昨日の帰り道だった。帰っていたら、奴はいつの間にか目のまえにいた。顔はよく覚えていない。逆光でもないのに、暗くて見えなかったような気がする。この暑いのに重そうな上着をはおっていた。俺が気づくと、奴は『ほくろ、寄せていいですか』と言った」
店員が入室し無言でほうじ茶とソーダフロートを置いた。僕は軽く会釈して空いたグラスを渡した。坂口は店員の存在など意に介さず、静止していた。
「それで、『寄せられた』のか……?」
「俺はすでになんとなく噂を知っていたから『はい』と答えた。幸い対象がほくろだったから大事にはならないと思ったんだ。場合によっては目や耳が対象になることもあるらしい」
目や耳をいじられると思ったら、咄嗟に対応できるわけはない。なにより、噂を知らなかったら、無視するか断るかしてその場を立ち去るのが普通だろう。
「返答した瞬間、奇妙な感覚に捉われた。周りの音が聞こえなくなり、景色が見えなくなり、時間が止まったような気持ちがした。残っていたのは触覚だけで、奴の指先が、皮膚をすべるようになでていくのがわかった。しばらくして気を失い、気づけば奴はいなくなっていた」
彼の証言はリアルだった。言葉のひとつひとつが、体験者のみが語り得る迫力に満ちていた。僕は頼んでもう一度ほくろを見せてもらった。一か所に密集していることを除けば、それらはただのほくろに過ぎなかった。
「なあ、こんなことってありえるのか」
症例を目の前にしてなお、飲み込みかねる話である。
「わからない。ただ、実際にこうなっているんだから、確かにあったとしか言えない」
信じられない存在と、現実に目にしたものとが共存している。
あたまが爆発しそうだ。僕ですらこれだ、坂口はもっと恐ろしいに決まっている。
「まあ、首筋に集まってくれてよかった。不幸中の幸いだよ。隠すのも簡単だし、実害もない。寄せられるものも寄せられる場所も向こう次第で決まるって考えると、俺は相当ツイてるのかもしれないな」
坂口はようやく調子を取り戻した様子で、最後のソーダフロートに手をつけた。
緊張して喉が渇いたので、僕もほうじ茶に手を伸ばす。彼が明るくしていられるのは、結果に恵まれたからだけではないだろう。超常的な現実に、感覚が追い付いていないのだ。もっともこいつのことだ、根っからの能天気と考えることもできるが。
「なあ、そろそろ日が暮れるぜ。さっさと帰ろう」
「そうだな」
僕らはカラオケ店を出て帰途についた。分かれ道が来るまで、お互い口数が少なかったように思う。街に人はまばらで、閉まっている飲食店も多かった。
坂口にさよならを告げたあと、僕は家への道を急いだ。
黄昏の住宅街を、早足で通り抜ける。見えない影におびえながら、前だけを見て毅然と歩き続ける。家まであと五分というところまで来て、前方から何者かが近付いてくるのに気づいた。
まさかと思い目をこらしたが、女性のような背格好だ。服装にも妙なところはないし、ただの通行人だろう。ふらつきながら歩いているのが少し妙ではある。
僕はうつむき気味に首を折り、目を合わさないですれ違おうとする。
彼女は近づいてくる僕に気がついたのか、こちらに向かって一目散に走り始めた。
動揺した僕は視線を落として彼女を見ないようにするので精一杯だった。しかし相手は僕に近づくとスピードを落とし、道の反対側からこちらへ歩いてきた。
「あの、あの、すいません、私の目、どうなっていますか?」
彼女は取り乱した声で僕に話しかけ、反応がないとみるや肩を掴んで揺さぶってきた。
僕が顔を上げると、奇妙な顔つきの女性が涙を流してこちらを見つめていた。
目が、繋がっている。
彼女の目は本来あるべき位置になかった。残された眼窩はわき腹のくびれのように落ちくぼんでいて、おでこに眼球が盛り上がっていた。そしてその眼球は、なんと言ったら良いだろう……黄身が二つ繋がった目玉焼きのように、「寄せられて」いた。
「ええと、ご、ごめんなさい!」
僕はかける言葉を見つけられず、彼女の手を振りほどいて走った。彼女から少しでも離れたくて、地を蹴り、腕を振って体を前へ進めた。後ろから彼女の叫びが聞こえた。彼女は目をやられたのだ。自分で見るのが恐ろしくて、道行く人によりすがったのだ。怪談のような現実。言葉を選ばなければ、化け物と形容するのがいちばん的確だ。ヨセルヒトに触れられた体は、常識を無視して変貌する。彼女は治るのだろうか。彼女は、どうなってしまうのだろうか。僕はただただ恐ろしくて、無我夢中で走り続けた。
遠くに家が見えてきた。ゴールはもうすぐだ。僕はスピードを落とし、肩で息をして呼吸を整える。ここまできたら、もう家の中みたいなもの。温かい安心感が僕を包み込む。
なんだか怖かったが、少しだけ後ろを振り返ってみた。
あの女性はもう居ない。
ふうとため息をついて前に向き直ると、目の前に男が立っていた。
男はいつからそこに居たのだろう。
さっき見えていた景色に、人の姿はなかった。振り返っていたのはほんの数秒だ。
男は突然「出現した」としか言えない。
坂口の話にあった通り、男は分厚い外套をはおっていた。浮浪者のような出で立ちだが、全身から発するオーラは人間ばなれした不気味さを宿している。「なにかよくわからないものだ」と僕は思った。それ以外の感想が出てこなかった。眼の前の物体を、その存在を、理解することを全力で拒んでしまった。
男の顔は影になって見えなかった。彼はちょうど夕日を背負う形で僕の前に立っている。そういえば坂口も帰宅途中に会ったと言っていた。奴が出現するのは、夕暮れの時間帯に限定されるのかもしれない。
「……寄せてもいいですか」
「……えっ」
「耳、寄せてもいいですか」
僕の脳裏にさっき会った女性の顔が浮かんだ。続いて、顎の下にいびつな耳をぶらさげた、象のようなシルエットの顔が思い浮かんだ。強い吐き気がした。
「いや……です……」
顔を剥がされるというのは都市伝説だ。この現実も都市伝説だ。ならばこの体験は妄想なのか? 脳内を情報が錯綜する。冷静に思考できない。
あ、断ってしまった、んだ。
男は少し落胆した様子を見せたが、その表情はすぐに不敵な笑みへと変わった。
「穴、穴、穴、穴、穴を寄せます」
次の瞬間、僕はまどろみのような空間に捉われていた。
音がなく、光もない。あるのは触覚だけで、しかし、足が地についている感覚はない。
坂口も言っていた、時間が止まったような感覚。動けない僕の上を、男の指が滑る。
磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、からだの部品が引き寄せられていく。
男は指先の感触を愉しむように、少しずつ作業を進めていく。
僕はその過程を、まるで自分が操作しているかのように体感していた。
細かく散らばった水滴をひとつに集め、大きな水滴にするような些細な遊び。
ラーメンのスープに浮いた油を、箸先でくっつけていくようなぼうっとした時間。
僕の組織は皮膚の上にうかぶ藻くずとなって、指が作るうねりに吸い寄せられていく。
首筋から顔にかけての僕の皮膚、そこにある穴という穴――目の穴、鼻の穴、耳の穴、口の穴、無数の毛穴を集めていったら、どんなに大きな穴になるだろう。そこだけ「剥がされた」ように見えるかもしれない。穴が開いたら、たぶん、血がたくさん出る。
散らばっていた穴が、ひとつに纏まっていくのがわかった。
丁寧に、ほどけないように、慎重に集められていく。
指の動きは繊細さを増し、どんなに小さな穴も漏らさず掬い取っていく。
顔の前が涼しくなってきた。
そろそろ、仕上げに入ったのかな。
僕は考えるのをやめることにした。
《N市連続通り魔事件》
――二日夜、連続通り魔事件の新たな被害者が発見された。四人目の被害者となったのは高校生の藤野克也さん(一七)。下校途中に襲われたものとみられ、他の被害者と同様、顔面の皮膚を大きくはぎ取られた状態で発見された。死因は出血多量によるショック死。現場に争った形跡などは見られず、付近の住民もそれらしい物音は耳にしなかったという。N市では同様の殺人事件が先月末から断続的に発生している。警察は捜査本部を設置して本格的な捜査に乗り出すとともに、付近の住民へ強く警戒を呼び掛けている。
(朝読新聞 八月三日朝刊)