空虚な僕、永遠な彼女
1
よく通る鳥の声がした。青い空を縦横無尽に駆け回っているその目にも、ここは写っているだろう。細い緑が広がる崖の上。そこには、白い木で作った十字架がある。
彼女が眠る、お墓の前で手を合わせた。村のはずれにある質素なものだ。僕が作ったものだから、無骨なのは仕方がない。
少し顔を上げると、崖の下に広がる、比較的大きめの村が視界に入った。
家が円を描くように軒並を連ねている。その中心には、白く大きな、荘厳な音を響かせる金色を吊るした建物があった。
こうしていると、彼女のことを実感する。彼女は、ここが好きだった。あまり誰も来なくて、静かな場所だ。だが、自分のもの以外、どこにも足跡が見当たらないのは、それだけではないだろう。
近くにあった木から、緑の葉が落ちた。手のひらに乗せて、そのままに握り潰した。
彼女は、どんな気持ちでいたのだろう。長い間、僕が想像もできないような、ひどい仕打ちを受けていただろうに。君は、つらい様子をあまり見せなかったから。
僕も、それに近い扱いを受けるようになった。でも、彼女にはほど遠いだろう。
ひなげしの花が咲いている。あのときも咲いていた。腰の高さには届いていないが、強く伸びて、白い花を咲かせている。
ひなげしの花を見ると、彼女を思い出す。あくまで強く、決して汚れなかった、彼女のことを。
気付くのに、結構時間がかかっていた。いや、彼女のこと自体ではない。当たり前で、みんな、そのように振る舞っていたから。だから気付かなかった。それが、おかしいということに。
本人の前では、みんなと同じようにしていた。でも、ある日、両親に聞いてみた。
「ねぇ、何であの子のことは、みんなでいないみたいにするの?」
そう聞いてみても、父さんと母さんは何も教えてくれなかった。
「いいかい、もし一人の時にあれに会っても、絶対に話しかけてはいけないよ」
そう言うだけで、僕の聞いたことには答えなかった。
その後も、彼女は度々見ることがあった。例えば、みんなと遊んでいるときや、お祈りを済ませて、教会から出たときとか。
僕が初めて彼女を見たのは、まだ小さいときで、教会の近くだった。彼女は、薄手のワンピースのようなものしか着ていなかった。
むき出しにされていた、彼女の白くて細い手足は、教会の造形に溶け込んでいた。僕は声をかけようとしたけれど、神父様が、悪魔払いをするときのような目で僕を見た。なんだか怖くなって、僕はそのまま家に帰った。
ついに、僕から彼女に話しかけることはなかった。彼女から声をかけられたから。
僕は、結構成長していて、もう十七歳になっていた。その日、僕は森で木を切っていた。手頃な大きさの薪を調達する、村の仕事だ。
村からはそれなりに離れた、だからこそいい薪が手に入る、樹木が生い茂った場所。土は茶色だけでなく、所々黄色や赤色の葉が見える。あたりに人の気配は無く、静けさが満ちた、森の姿だった。
ふと、後ろから、土を踏む音がした。振り返ると、そこには彼女がいた。あの日、初めて見たときから何も変わることなく。
そう。服装だけではない。背格好まであの時の、幼い少女のままだった。
彼女が、人から避けられる理由がわかったような気がした。普通の人ではないのだろうということも。
それでも、彼女から逃げようとは思わなかった。彼女が何者であれ、彼女という存在を知りたかった。
「……あなた、何をしているの?」
それはきっと、僕がしていることというよりも、逃げないとか、彼女を直視するとか、そういった、普通の人と違った行為全体に言ったものだったのだろう。でも、僕はとにかく彼女と話せるのが嬉しくて、見当違いのことを言ってしまった。
「え、あぁ、薪を集めているんだよ。村の仕事なんだ」
そう答えると、彼女はさっきと同じく、感情の読めない声で、「……そう」とだけ答えた。
僕が薪を集めている間、彼女はずっと僕のことを見ていた。僕は、あんまり彼女を見ていると失礼かなと思い、目を合わせなかった。
彼女は木の根本に座って、両足を腕で抱えていた。その姿勢のまま、興味深いものを見るような目で僕を見ていた。
薪を十分な量集められたので、帰ろうかと思い腰を上げると、彼女も立ち上がった。僕が歩き出すと、彼女も足を動かした。
なんだか奇妙な感覚だった。
森の中をしばらく無言で歩いた。その間、彼女が顔を上げることはなかった。
沈黙に耐えかねて、僕は口を開いた。
「……ねぇ、君は、どこに住んでいるの?」
彼女はようやく僕を見た。そして左手を上げ、森のほうを指差した。だが、あんな森の奥に村があるなんて、聞いたことがない。
「……森の中に、住んでいるの?」
彼女はうなずいた。正直信じられなかったが、嘘をついている様子でもない。というか、嘘をつく理由もないだろう。
そこで僕は「一人で住んでいるの?誰かと一緒じゃないの?」と聞いてみた。わざわざこんな聞き方にしたのは、彼女の口から説明してほしかったからだ。
「……私は、一人で暮らしてる。近くには誰もいない。誰も、いなくなった」
少し驚いてしまった。確かに彼女はみんなから避けられているが、親や兄弟、姉妹がいると思っていた。だが、どうやら違うらしい。それに、この子は成長していない。例え家族がいたとしても、家族までそうとは限らない。もしかしたら、そういう意味なのかもしれない。
気付くと、彼女がこちらを見ていた。ほとんど感情のない、彼女の目が、唯一、語りかけていた。
寂しい。助けて。
そう訴えかけているように見えた。もっとも、それは一瞬のことで。僕の妄想や、見間違いだったのかもしれないけど。
彼女の乾いた、三白眼気味の目に、自分の姿が映っている。いっそのこと、彼女のことを抱き締めようか。その細い五体を、すべて自分のもののようにしようか。と、そう思った。しかし、体は、歩き続けるだけだった。
彼女がふいと目を逸らした。我に帰ったように、僕も前を向いた。
「……あなたには、いるの?一緒に暮らす人が」
彼女が不意に口を開いた。
「ん、僕?そうだね。昔はいたんだけどね。両親は旅行に行って帰ってこない。あぁ、もしかしたら旅行なんかじゃないのかもしれない。もう十年、帰ってきていない」
彼女が再び僕を見た。
「まぁ、今さらどうと言うことでもないけどね」
「……そう」
二人は、抑揚のない声で話していた。それは、どちらにとっても、あまり楽しい会話とは言えなかったからだろう。それでも、話そうとした。相手の話を聞こうとした。何故かはわからないけど。
「君は、一人で暮らしていると言ったけど、苦しいときとかってない?」
「そうね。特に不便がある訳じゃないけど、たまに、人手がほしいときがあるかも」
「あぁたしかに。一人で出来ない訳じゃないけど、誰かほしいなってときあるよね」
そんなような会話をしてしばらく歩いた。
村が近づいてきたころ、彼女が声を出した。
「……私、そろそろ戻らないと」
僕が振り向くと、彼女は下を向いていた。それにたいして、いい言葉が見つからなかった。
「あぁ、そうだよね。……じゃあ、また」
だから、それだけを言った。
彼女は布の裾を揺らして、森に消えていった。
森の緑に掻き消されて、すぐに見えなくなってしまった。
……しまった、名前聞くの忘れた。
2
そういえば、彼女に会ったのはずいぶん久しぶりな気がする。子供の頃に彼女を見て、それから、見たことがあっただろうか。まぁ、あったとしても、父さんと母さんがいなくなって、そんなに時間がたってなかったから、覚えていないだろう。
村が見えた。入り口には、扉の無い、門のようなものがある。この近隣の村に伝わる、いわゆるおまじないだ。魔が侵入するのを防ぐというが、その魔がなんなのか、実際のところ誰もわかっていない。
村に入って、薪を預けるときに、古い友人に会った。だが、彼女のことを話そうとは思わなかった。わざわざ話すことでもないだろうと思ったからだ。
「よう、久しぶりだな。どうだ、元気してたか?」
こいつは本当に元気なやつだ。もっとも、昔はこの明るさに救われたのも事実だが。
「あぁ、まぁそれなりさ」
と、当たり障りのない答えを返しておいた。
「ったく、お前は相変わらず元気無いな。良く言えば冷静ってことになるがな」
「まぁ、どちらかと言えば冷静な方かもしれんが。結構付き合い長いのに今さらかよ」
「いや、別にそういうわけではないんだがな。ところで、知ってるか。アイツの話」
少し真面目な調子と顔に変えてそいつが言った。
「……アイツって?」
「いや、アイツはアイツだよ。なんだってそんな顔をすんだよ」
そんなつもりはなかったのだが、眉間に皺をよせてしまったようだ。
「……わりぃ、ちょっとした勘違いだ。それで?」
友人は少し焦りながら答えた。
「お、おぉ、それでだ。アイツがまた最近よく見られるようになってるんだってよ。お前、見たりしたか?」
「……いや、見てないな」
嘘をついたというような感覚は無かった。
「そうか、ならいいんだが。村から出るお前は比較的会いやすいんじゃないかと思ってさ」
ちょうどいい機会だと思い、長く思っていたことを聞いてみた。
「ところでさ、みんななんでそんなにアイツを避けるんだ?俺それがわかんなくてさ」
考えてみるとあのとき、親に聞いたとき以外、誰かに聞いたことなんて無かった。
「……さぁ、そういえば俺もわかんねぇな。昔、誰かを殺したとか、そんな話は聞いたことあるが……正直、子供の頃だから信用性は無いな……」
「……そうか」
もちろん信じてはいなかったが、今度彼女に会ったときに、聞いてみようと思った。でも、どうやって聞こうか。まさか、人を殺したことがあるか。なんて、そのまま聞くわけにもいかないだろうし。
「そういえば、お前、親御さんは帰ってきたのか?」
なぜ今聞くのかと思ったが、まぁそれを聞くほどでもないだろうと思い直した。
「いや、まだだな」
「……そうなのか。わるかったな、変なこと聞いて」
それに軽く手を上げて答えた。
「いいっていいって。あいつらは旅行に行ってるだけで、そのうちひょっこり帰ってくんだからさ。じゃ、また今度な」
そのまま僕は家に向かって歩き去った。
「お、おぉ、じゃあな」
だから、そう言ったそいつの顔は見えなかった。
彼女の容姿が変わっていないことには触れないつもりなのだろうか。いや、もしくは、あいつ自信は彼女を見たことがないのではないか。彼女の話はできるだけしないようにみんな努めているから、誰が本当に見たことがあるかなんて、わかるわけがない。おそらく、子どもたちの間に、一種の怪談として伝わっていたのだろう。
しばらく歩いて家についた。正直言って、何かあったらすぐ壊れそうな家だ。もし魔物や山賊の襲撃があったら、ひとたまりも無いだろう。もっともどういうわけか、この村はいたって平和で、今まで襲われたとかって話は聞いたことが無い。
玄関を開けて、我が家に入る。
「……ただいま。父さん、母さん」
どうもこの言葉が口から出てしまう。もちろん、返事は無い。
部屋の椅子に座って、ぼんやりと時間を過ごした。気付くと、窓の外は暗くなっていた。どうやら、もうそんな時間らしい。時計も見ずに夕飯の支度をする。とはいっても、近くの畑からとれた少しの野菜を炒めるぐらいだ。
簡単に調理して、簡単に盛り付ける。一人で毎日やることなんて、だんだん簡略化されるに決まってる。その末路はこれだろう。
目の前に置かれた物体を見る。正直美味しそうには見えない。だが、食べられないものは使ってない。だから、ゆえに、おそらく、食べられるはずだ。というわけでいただきます。
先程の茶色いものはさておき、食後のお茶を楽しむことにした。
どうでもいいが、自分はお茶にはこだわっている。唯一の趣味と言ってもいいぐらいだ。ずいぶんとじいさん臭いかもしれんが。
……今度彼女を招いてみようか。なんてことをいきなり思いついて、一人で動揺する。
なんだか今日は疲れているようだ。そう思い、早めに床についた。
朝起きて、今日はなにかやることがあったかなと思う。昨日置いてきたとき、特に薪が不足している様子は無かった。こういうとき、今までなら、外に出ることはないだろう。家の中でのんびりしたり、長いこと読んでない本を読んだりしただろう。
でも、今日は、少し散歩でもしてみようと思った。期待してなかったと言えば、正直嘘になる。
まだ太陽は低い位置にあるので、本当に散歩をしてから行った。
いつも通ってない道に行った結果、少々迷って時間は充分すぎるぐらいつぶれた。
太陽が真上を過ぎた頃、僕は昨日の場所についた。
昼食は持ってきていないが、元々少食な方なので、一食ぐらいは苦にならない。今日は手ぶらで来たわけである。
やることがないので、この近くに薪になるような木はあるかとつい探してしまった。
かさかさと音を鳴らす地面を踏みながら、手頃な枝を一本折ってみたり、落ちてくる葉っぱを手に乗せたりもした。
それにも飽きて、僕は木の根本に座った。
「そこ、気にいってたんだけど」
ものすごく驚いた。肩が跳ね上がってしまった。
「……そこまで驚かなくても……」
予想はついていたが、振り返ると彼女がいた。なんというか、あきれたような顔でいる。
「あ、ご、ごめん」
「別に、謝らなくてもいいんだけどね……」
僕が笑うと、彼女も微笑んだ。
彼女がとなりに腰を下ろしながら、
「それにしても、あなた、座るとずいぶん小さいのね。なに?そんなに足が長いの?」
なんて言うもんだからもっと面食らってしまった。
「いや、いきなり何?別に、意識したことはないけど……」
そっと、柔らかくて、温かいものが、手に触れた。
「じゃあ、ちょっと立ってみてよ。どれぐらい違うのか比べたいから」
普通は逆だろうが、彼女に引っ張られて立ち上がった。
僕はそんなに背が高いわけではないのだが、それでも、彼女の方が頭二つほど小さかった。ただ、それより問題なのは、この手をどうすればいいのかということである。
指を絡めるでもなく、だからといって手を離すわけでもなく。
彼女の温もりを感じながら、それ以上の温かさを感じた。
「……背が違いすぎて、比べるどころじゃないわね……」
手を離すタイミングがいまいちつかめないまま、彼女の声が聞こえた。
「あぁ、そうだね。これじゃちょっと無理かな……」
「ぬぅ、私だってちゃんと成長すればきっと勝てるからね!」
「どうだろうね。案外ほとんど伸びなかったりして」
……彼女は冗談めかして言ったが、本当は聞いて欲しかったのだろうか。その体について。
「失礼なこと言わないでよ!きっともっとナイスバディーにもなってるからね!」
「えぇ、正直想像できないわー」
この辺りで、いつのまにか手はほどかれていた。
「そういうことは思っても言わないものじゃないの!?ちょっと!」
「ごめんごめん冗談だから」
楽しげだが、自分の体のことを言おうと思っていたのではないだろうか。そうとうな勇気を出して。
彼女は相当ご立腹のようだ。
でも、僕は覚えてる。さっきの温もりを。少なくとも、彼女は生きている。必ず。
意地悪をされた彼女は、ようやく落ち着いたようだ。
「……まぁいいわ。……ねぇ、それよりも……」
そう言うと、彼女は手を伸ばした。
「もう少し、このままでもいい……?」
「……あぁ、いいよ」
そのまま僕たちは木の根本に座った。落ち葉が自然なクッションになった。木に背を預け。空を見上げ。そして、彼女と、指と指とで繋がっている。
穏やかな午後が流れていった。
3
あのあとの事はよく覚えてない。他愛の無い会話をしていたら、いつのまにか視界が朱く染まっていて、夕方になっているのに気づいて、彼女と別れたことは覚えてる。けど他には何も覚えてない。
だから、いつから木枯らしが吹くようになったのかよくわからない。
昨日は穏やかだったはずだ。だが、今日、布団の中で意識を取り戻した頃には、すでに玄関を開けるときに気を付けなくてはいけないほどだった。扉を開けると、体ごと持っていかれた。あと少しで家の中が吹きさらしになるところだった。
こんなにも強く吹く日は今まで無かったかもしれない。毎日こんな風だったら家は潰れてる。
彼女の事が心配だったが、この天気で森に行くのは自殺行為のように思えた。森に繋がる道の途中には、崖下に落ちそうなところがあるのだ。
外には元気な子どもしかいない。いつもよりずっと数が少なかった。大人たちもほとんど見ることがなかった。農作業をする人だけでなく、水汲みをする人さえ見えない。せいぜい子どもを呼ぶ母親だけだ。
さっき外に行くのは危ないと思ったが、家が冗談ではなく軋んでいる。むしろ中にいる方が危険な気がしてきた。家が崩れて潰されでもしたら本当に洒落にならない。ただ外に出るだけよりも、森の中にいる方が風もしのげるだろう、と、無理矢理自分を納得させ、家から逃げた。
崖が近い場所も問題なく越え、森についた。道中、帽子が飛ばされそうになったのは内緒だ。
僕は、彼女とあの話をした場所に向かった。大きくなってから、初めて彼女に会った場所の近くだ。ふと見上げると、空は黒く染まっていた。少しだけ雨も降ってきた。湿った地面は、踏みしめても音を出さない。枯れ葉さえもほとんど落ちて、むきだしになっている尖った枝が頬を擦れた。
そう。ここだ。ここで、彼女は確かに向こうの方を指さした。少し薄れている記憶の中を掴む。間違いは無いはずだ。あの日だけでなく、彼女に関することは比較的よく覚えてる。
絶対正しいとは言えない情報をたよりに、また歩き出した。傷のついた頬が温かかった。
気付くと、いつのまにか水滴の感触を感じない。風は止んでいないが、雨は上がっていた。この風が雨雲を吹き飛ばしたのだろうか。空にはちぎれた雲の片鱗が見える。だが、周りにはまだ、いや、真上以外には沢山雲が見える。おそらくまた降りだすのは時間の問題だろう。少し急いで歩いた。
しばらく歩いた。また雨が降ってくるぐらい歩いた。濡れるのが気にならないくらい歩いた。今更後戻りはできないから歩いた。そして、ぽっかりと穴を開けた洞窟を見つけた。
山の麓、ちょうど切り立った場所があって、そこに空間が開けている。森の奥にあるこんな場所に来る人もまずいないだろう。他の村に行くための道からは外れてるし、この山は鉱山かなにかというわけでもない。
まさか、彼女はここに住んでいるのだろうか。洞窟なのだから、とても住めそうにないわけではないが、やはり信じがたい。
だが、このまま外にいるよりは、中に入った方がいいだろう。不思議と、得体のわからないなにかがいるかもしれないとは思わなかった。
中をしばらく歩いて、驚いたことは、光が見えたことだ。それも、洞窟の天井に穴が開いてるとか、そういう感じの光じゃない。それは遠いが、僕の目に、まっすぐと青白い光が届いている。
中は意外と暖かかったが、濡れた僕の体温は下がっていた。静かな洞窟の壁に微かな足音が反響している。それは、僕のものだけじゃない。もう一つ、余分に音が聞こえる。
「……あなた、なんでこんなところに……?」
逆光で影のようにしか見えなかったが、声だけで充分だった。
「いや、ちょっと、心配になっちゃってね」
とりあえず、自分の家が、とは言わないでおいた。
「あぁもうびしょ濡れじゃない!来るにしてもなんでこんな日なのよ!えっと、タオルどこだったっけ……」
なんか悪態をついていても、優しさが垣間見える。それにしても、彼女も変わった気がする。最初の頃は、こんなに感情的に話さなかった。もっと、静かだった。
タオルが飛んできた。
「とりあえずそれで服を拭いて。それでも駄目だったら言って。大きさが合うかはわからないけど、一応、着替えはあるから」
彼女はそう言って、奥の方に行ってしまった。
着替えがあるとはどういう事なのだろうか。そう思ったが、後でゆっくり聞けばいいと思った。
落ち着いてきて、目も慣れてくると、部屋が普通ではないことに気がついた。そもそも洞窟という時点で普通ではないと思うが。
タンスやベッド、背の高い本棚。机の上に置かれた本。これらはまだ普通なのだが、机には他に、見たことがない形の瓶がある。上の方は細い筒状で、下に近づくと広がり、三角形に近くなっている。もう一本、瓶がある。こっちは、上の方は同じなのだが、下の方が円形になっている。
他にも、ベッドが複数あるとか、本棚の本が見たこともない文字ばかりだとか、色々あるが、一番不思議なのは明かりだ。
行灯と呼ばれるタイプのものに似ているが、中からは火の色ではなく、青い色が放たれている。
「驚いた?」
興味深げにそれを見ていると、いつのまにか後ろに彼女がいた。お礼を言ってタオルを返したあと、これについて聞いてみた。
「それはね……言ってもよくわからないかもしれないけど、魔力で光ってるの」
「魔力?」
「そう。魔法の力」
魔法が使える者の話はもちろん聞いたことがあるが、この辺りでは魔法という言葉はあまり聞かない。どういったわけかここら辺の地方では、魔法を扱える者が極端に出てこない。
「私もあんまりよくわかってないんだけど……空気中の魔力を集めて、この中で圧縮するらしいの。魔力は濃くなると、こういうふうに青く光るの。ただ、その圧縮する原理がわからないんだけどね」
そう説明されたが、正直よくわからない。
「へぇ、そうなんだ」と、とりあえず言っておいた。
ここでまた疑問が出てきた。
「なんで君はここに、いや、この辺りに来たんだ?」
この地方では魔法を使える者は神聖視されるから、大抵神に仕える身分になる。そして、その子供もそのあとを継ぐことが多い。魔法の資質がないとしても、追い出されるなどという話は聞いたことがない。となると、一般の人と同じような生活をする魔導師は、他の地方から来た人達しかいない。
「……私のお母さんがね、魔法の研究をしている人だったの。でも、ある日、国から逃げるようになったの。その時はまだ、私は小さかったけどね。逃げたとき、魔力が豊富なこの地域に来たらしいの」
「ちょっと待って、この辺りって魔力が多いのか?だったら魔法を使える人が多くなりそうなもんだが……」
「ううん、そうじゃないの。魔法が使えるかどうかっていうのは血筋みたいなもので、魔法を使えない者同士の子供は使えないみたい。もっとも、まれに例外はあるみたいだけど。それで、お母さんは、私と、お兄ちゃんと、お姉ちゃんを連れて逃げたの。お父さんはいなかった」
ここまで一気に言って、彼女は黙ってしまった。その人達がもういないことは、部屋を見ればわかった。ベッドはいくつかあるのに、最近使った形跡があるのは、一つだけだった。
「そう、なんだ……」
続きを聞こうか、聞かないようにしようか。どちらにしても、彼女を苦しませてしまうと思った。
「そういえば、名前、聞いてなかったよね?なんていうの?」
話をそらそうと思って言ったことだったが、実際聞いてなかった。
「そういうのって普通、自分が先に言うものじゃないの?」
まぁ確かにそうなのだが、どうも昔から自己紹介とか、そういった類いのものが苦手だった。
「僕から、か。僕の名前は、エイデン・セーヌ」
「エイデンっていうのね。私はリーゼロッテ。リーゼロッテ・アイルトン。エイデン、あらためて、よろしく」
彼女、いや、リーゼロッテが、手を出した。今更だとは思うが、握手をした。
なんとか話をそらしたのと、やっと名前を聞けたのとで、少し放心状態だった。
だからだろうか。
「ところで、僕の家に来ない?」
なんて言ってしまったのは。
リーゼロッテが言われたことがよくわからないといった顔をしてる。
言ってからいろんな思考が駆け巡ったが、もう後には引けないだろう。
リーゼロッテはもうしどろもどろである。
「いや、別に、ここにいる必要はないから、一応、いいんだけど……」
ここまで来てしまったら最後まで押し通そう。
「じゃあおいでよ。僕もずっと一人でいるのは少し辛いしさ」
リーゼロッテの頬が少し赤くなっている。ちょっとそっぽを向いて、もじもじしてる様子がなんだかものすごくかわいい。
善は急げとばかりに外に向かったが、天気がさらに悪くなっていることに気がついた。まだ途中までしか進んでいないのに、風の音と雨の音がよく聞こえる。
「まぁ、とりあえず……、天気が良くなってからにしよっか……」
僕も彼女も頷いた。
4
なんとなく、近くの椅子に座った。
正直、気まずい。
あんなことを言っちゃったせいで、こっち向いてくれないし。なんか、これ以上、なにか言っても、墓穴を掘るだけのような気がするし。
つい、本棚の本に手を伸ばした。
「あ、そ、それは……!」
手に持ったばかりの本をリーゼロッテがかすめ取っていった。
……なんだろう。
「え?なに?それなに?」
意地悪く言って墓穴を掘っているが、気づいていないことにする。
「な、なんでもいいでしょ……?」
大事そうに両の腕で抱え込んでいる。大きさは手帳より少し大きいぐらいで、でも、厚い。おそらく、日記かなにかだろう。
「うーん……わからないよ?もしかしたら僕にとって重要なことが書いてあるかもしれない……」
「そんなわけ無いでしょ!どうして私の家のものがあなたにとってそんなに重要な可能性があるのよ!」
片方の腕で本を抱えて、もう片方の腕をブンブン振って怒る姿はすごく必死に見える。もっとからかいたくなるぐらいに。
しかしまぁ、さすがにやめておこう。かわいそうだ。
「なるほど、言われてみるとそうだね。うん」
そう言って明後日の方向を向くと、リーゼロッテが大きく息を吐いた。
……、罪悪感が……。
「それで、一応聞くけど、本気なのよね?さっきのは」
ボケようかどうか一瞬迷ったが、さっきの気持ちを忘れたわけではない。
「あぁ、もちろん。君さえよければの話だけどね」
それでも、リーゼロッテは決めきれない顔をしている。
確かに服(主に下着)の問題とかはあるだろうしな……。
「……本当にいいの?」
彼女が控えめに言ってきた。まるで、怒られることに怯える子供のように。
「なんでそう思うんだ?君の好きなようにすればいい」
優しい言葉をかけようと思ったが、これが限界だった。
「だって、だって、私なのに!」
リーゼロッテが下を向いて吐き捨てるように言った。痣ができそうなほど、自分の腕を掴みながら。
「気付いてるでしょ!?私が普通じゃないって!!あの日、あなたに初めて会ったとき、あれからあなたはずいぶん変わったのに、私はなんにも変わってない!!」
……正直驚いた。あの日のことを覚えてくれていたなんて。
「なのに、なんで!?なんであなたはなにも聞かないの!?」
彼女は、今にも自壊してしまいそうだった。僕がなにも聞かなかったから、一人で思い詰めていたのだろう。
化け物だと言われたり、珍しがられたりするときはあっただろう。それらに対して、どうすればいいかもわかっていただろう。でも、僕みたいなやつには、どうしていいかわからなかったに違いない。だからこそ、こうなってしまったのだ。悪いのは僕だ。
「どうせあなたも、私のこ、と……」
僕は、リーゼロッテを抱き寄せた。
「なん、で……?」
不器用だから、これしかできない。涙を拭ってあげることもできない。けど、なにもできない訳じゃない。
「リーゼロッテ。リーゼロッテ・アイルトン」
「な、なに……」
「僕にとって、君は、リーゼロッテという名前の女の子だ。例え何者だろうと、君は僕の初恋の相手だ。」
「え……?」
「例え、誰かが君のことを化け物と言おうとも、君が好きだ」
「え、いや、ちょっと、え、え?」
「だから、僕は聞かなかった。聞く必要も無かったから」
一旦離れて、リーゼロッテの顔を見た。
「でも、今聞く。君は、一体何者なんだ?」
リーゼロッテは一瞬目を逸らした。けれど、すぐに向き直った。
「それは……、うん、話す。あなたには、エイデンには、知っておいてほしいから」
私は、普通の子供だった。確かに最初はそうだった。家族がいて、両親がいて、兄弟もいた。お姉ちゃんとお兄ちゃんがいて、私は末っ子だった。二人とも優しくて、あの時は気づいてなかったけど、すごく幸せだった。母もお父さんも、魔法に関係する仕事だった。後でお姉ちゃんから聞いたんだけど、とっても優秀だったみたい。だからこそなのかしら。禁術に手を出したのは。
禁術には色々あって、その中でも重要度が高い、不老不死の術に関するものを持ち出したの。そのときに、邪魔をしたお父さんを殺したとか。……よく出来るよね。それで、私たちをつれてここに逃げたの。それは聞いたよね。
母さんはここに隠れて研究を続けた。実験台を使いながら。今考えると、なんで逃げなかったのか不思議なくらい。
まずお兄ちゃんがいなくなった。俺がやるって言って、部屋の奥にある地下室に行って、帰ってこなかった。なぜだか、お姉ちゃんは悔しそうにしてた気がする。その後母さんだけが帰ってきて、お姉ちゃんとなにか話をしてた。話の内容までは聞いてなかった。部屋に入ろうとしたら、なぜだか怒られた。
それから、一年ぐらい?研究が少し進んだのかなんなのか知らないけど、今度はお姉ちゃんが、母さんと一緒に地下室に入っていった。一応、お姉ちゃんは帰ってきた。私は多少成長していたけど、まだまだ子供だった。子供だったから、お姉ちゃんが倒れて、私だけになって、母さんに、私にはお前だけだよって言われても、嬉しいだけだった。あんまりほめられたりってことはなかったから。
十二歳になった年に、私が地下室に入れられた。なにか薬みたいなものを飲まされて、眠くなった。気づくと終わっていたから、何をされたかは分からない。でも、お腹の辺りに違和感があって、見てみると傷痕があったのは覚えてる。
それから半年ぐらい経って、自分がまったく大きくなってないのに気づいたの。それを母さんに話したら、色々質問された。聞かれたことは覚えてないけど、全部答え終わった後、とっても喜んでた。成功だ、って言ってたような気がする。
いつだったかは覚えてないけど、ある日、母さんが地下室に入って出てこなかった。そっと部屋を覗いてみると、母さんが倒れてた。薄々、私をこうしたのは誰だかわかっていたから、別段焦らなかった。少し部屋に入っただけで、生きてないことがわかった。床が真っ赤になってて、心臓の辺りからたくさん出てた。よく見ると、胸が大きく裂けてて、白くとがったものも見えた。肋骨なのかなってだけ、ぼんやり思った。
近くの机の上に、開いた本があったから見てみたの。そこには、今までの研究の経緯と、母さんがそうなった原因が書いてあった。
「不老不死を可能とするためには、まず、魔力を内包させる器が必要だ。しかし、それは一緒に持ってきた賢者の石の模造品で充分だろう。」最初のページには、こう書いてあった。
お兄ちゃんは単純な失敗だったみたい。「生命力を活発化させるだけの魔力に耐えられなかったようだ。」って短く書いてあった。
お姉ちゃんも似たようなものだった。「賢者の石と肉体との間に緩衝剤が足りなかった。」だって。
「リーゼロッテはまず成功だ。緩衝剤は多すぎるぐらいでちょうどよいみたいだ。あとは状況経過を待つだけ。最後だから大切にしなくてはなるまい。」なんて書かれているのを見たとき、私は泣きそうだった。完全に物としてしか見られてないのが悲しかった。
そのページから日付が飛んで、次のページに、「やったぞ!とうとう成功した!半年間、どれ程心待にしていたことか!これに書き込むのも半年ぶりだ。前の時からリーゼロッテはまったく成長していない。しかも、これといった症状も無いというではないか!永劫の時から見れば、半年などちっぽけで、取るに足らないかもしれない。しかし、半年!これほどの期間、問題が無ければ充分ではないか!?私は待ちきれないぞ。今からでも緩衝剤を取り込んでおくとしよう。この実験は何度もやってきた。」そう書かれていて、次は無かったから、その実験のせいで死んだのは容易に想像がついた。皮肉なものよね。魔力に耐えらるようにする実験に耐えられなかったなんて。
こうして母さんは死んで、私だけが残された。永遠の命と一緒に。
あれから、もう何十年と過ぎた。それでも、私はこのまま。ずっと変わらない。
全部聞いて、聞き終わって、なんて言えばいいのかわからなかった。そんな苛酷なことがあったなんて、思いもしなかった。でも、不思議なところがある。姉が羨ましそうにした理由がわからない、というところだ。不老不死は、誰でも憧れるものではないだろうか。
「そうか……そうだったんだ……」
その後、どう言葉を繋げていけばいいのか、わからなかった。だけど、思い切って聞いてみた。
「君は……その事について、どう思ってるの?」
リーゼロッテが困惑した表情を上げた。
「どう?どう思ってるかって言われても……」
「君のお母さんは、そうなりたくてその実験をしていたんだ。どちらかと言えば、そうなりたいと考える人の方が多いと思う。でも、君は望んでないように見える」
リーゼロッテの表情はほとんど変わっていないが、少し真面目になった気がする。
「だって、始まりも終わりも来ないのに、それを想いながら永遠を生きるのよ?そんなの、いいことでもなんでもないじゃない」
やっと食い違いに気がついた。リーゼロッテは不死になりたかったわけではないのだ。まったく求めていないのに、無理矢理そうされたら、嫌でも悪いことばかり目につくだろう。
第一、彼女はまだ幼い。年を取りたくないなんて思うのは、年を取った人だけだろう。リーゼロッテはただ、自分勝手な研究者の犠牲になっただけなのだ。
僕は立ち上がり、手を出した。
「じゃあ、行こう!悪い天気は終わった。僕の家に来なよ!新しい生活を始めようよ。色んなことを、一緒にしよう!」
外からはなんの音も聞こえない。雨もすでにやんでいるはずだ。
リーゼロッテが僕の手を取った。特に荷物は必要ないみたいだ。って、本当にいいのか?
最悪取りに来ればいいだけの話だが、わざわざ聞いて雰囲気を壊したくなかった。
手を繋いだまま、外に出た。空は蒼く、輝いていた。
僕は、今日歩いた道をもう一度歩いた。もちろん、リーゼロッテと一緒に。
5
村は不気味なほどの静けさだった。風の音ばかりが響き、人の気配は無い。ふと、自分の家が壊れているんじゃないかと思ったが、今さらそんなことは言えない。
誰もいないのは珍しいが、その方が好都合だ。
リーゼロッテは落ち着かないようだ。こんなところに来ることになるとは思ってなかっただろうし、見つかったらと思うと、内心穏やかではいられないだろう。
幸い僕の家は村の外れだ。こんな状況で見つかるのは、まずあり得ない。
「大丈夫、だよね……?」
幼い声は不安そうだが、僕は懸念を感じていない。
もともと人があまり住んでいないところを、その中でも見つかりにくい道を選んだ。
細い家と家の間の空間を歩く。
リーゼロッテに隠れてもらい、僕が先に進んで、誰もいないか確かめた。結局、誰にも会わなかったが。
なにも問題無く家に着いた。そう、家にも特に問題は見当たらなかった。見つからなかったことよりも、家が無事だったことに対して安堵の息を吐いた。
その様子を見て、リーゼロッテも落ち着いたようだ。緊張がとけたのだろう、いつもの調子に戻った。
「ここが、あなたの家?」
「そう、ここが我が家だよ。ボロいと思ったら正直に言っちゃっていいよ」
「え?う、うーん……」
苦笑いを浮かべている。図星だったのだろう。
「えっと……、まぁ、ボロくないとは、言いづらいかもね……」
本当に正直だ。そういうところも好きなのだが。
「でも、ずいぶん大きい。こんなのが普通、ってわけじゃないよね?」
自分の家を見上げる。確かに大きい方かもしれない。
「うん、他の家はもうちょっと小さいかな。まぁ、一人で住むぶんには、大きさなんてどうでもいいんだけどね」
「ふーん、そう。もっとも、もう一人じゃないけど?」
見ると、リーゼロッテが僕を見上げていた。押さえようとしているのかはわからないが、かすかに笑みがこぼれている。
「……そうだね」
つい、リーゼロッテの頭に手をのせて、撫でてしまった。
「わ……、ちょっと、なに?」
「あ、いや、な、なんでもないよ」
……なんというか、次から気を付けよう。
中々の音を出してきしむ扉を開ける。玄関は窓が多目に作られていて、今日みたいな曇りの日でも明るく見える。
そうはいっても、装飾品の類いは置いてないから、華美には見えない。せいぜい形見である硝子のオルゴールがあるぐらいだ。透き通った箱の上に、同じ素材のピエロがいる。その表情は、滑稽にも、悲壮にも見える。
「どうしたの?入らないの?」
後ろから声をかけられた。どうやら見入ってしまっていたようだ。
「あぁ、いや、なにか見られたら恥ずかしいものがあるかもって思ってさ」
「え?そんなのあるの?」
「いや特になかったけどさ。何を期待してるの」
「ん?別に期待はしてないわよ。ただ単に、この前の仕返しをしたかっただけ」
「あ、それはほんとごめん」
適当に嘘を並べて言い繕っておいた。
玄関を過ぎると、廊下が三本ある。奥に続くものと、左に延びるもの、斜め右の三つだ。こうして見ると、十分に広い気がする。
とりあえず使ってない部屋が多い左の方に案内した。
家のつくりは三つに別れている。かつては、僕と両親とで分けていたのだ。左は母さんが使っていた。中心を父さん、そして僕が右だ。それをリーゼロッテに説明した。
「キッチンとかリビングとか、そういうのはどこにあるの?」
と聞かれたので、左の母さんの方だと答えた。南側に位置しているので日当たりがよく、夏はとても暑いとぼやかれていたことも教えた。ちなみに、客間は父さんの管轄だ。
大体説明し終わると、リーゼロッテは散策をしに廊下を進んでいった。特に危険なものや大切なものはないことも言った後でだ。
リーゼロッテの小さい背中を見送り、僕は父さんの部屋に向かった。
父さんの部屋と言っても、実際に部屋と呼べるスペースは少ない。それは、ほとんどの場所が本で埋め尽くされているからだ。棚や机、床の上にまで沢山の本がある。その中で、ほこりも被っておらず、本も置いてない一画に、一枚の写真がある。
捨てられないが、そんなに見たくもない、そんな写真だ。僕と、まだ若い男女が写っている。あの頃はなにも気づいていなかった。いなくなったときも、本当に旅行だと思っていた。さすがに今そう信じることは出来ないが。
……母さん、父さん。二人が残した家に、息子以外の人が住むんだよ?いいの?こんな大きな家を建ててさ、何をしたかったの?結局、それも捨ててどこかに行ってさ。もう、どうでもいいよね?この家は、僕のものだ。母さんと父さんが帰ってきても、二人の居場所なんて作らないから。
写真立てを置いて、部屋から立ち去った。まるで、逃げるかのように。
そろそろリーゼロッテのほうもいいだろう。飽きてきたところかもしれない。
廊下を右に曲がって直進して、明るい部屋に入った。が、そこにはいなかった。
中央に四角い大きなテーブルがあって、周りに椅子が三脚置いてある。部屋は広くとってあり、リビングはキッチンと繋がっている。そのどちらにもいないとなると、母さんの部屋ぐらいしか残っていない。
「おーい」
と声をかけただけで、ノックもせずに部屋に入った。それは間違いだったのだろう。
「あ、ちょっと待って……!」
そう言われた時にはすでにドアを開けていた。
とりあえず、背中が見えた。
が、それは地肌だった。
ふわりとした布を持っている、白い、滑らかな腕から繋がるシルエット。そのまま、柔らかく、曲線が足にへと……。という辺りで我に返り、とっさに後ろを向いた。
「ご、ごめん!」
それしか言えなかった。その後に続いた、ちゃんとノックしてから云々という言葉にも、ごめんとしか言えなかった。
「……もういいわよ」
そう言われてから、ようやく部屋に入った。
「まぁ、人の家なのに勝手に着替えてた私も悪いけど……」
リーゼロッテの服装はいつもと違っている。上下は繋がっているが、ワンピースではなく、ドレスといった感じだ。
もっとも、具体的にどういう違いがあるのかは、よくわかってないが。もともと僕はそこまで服にこだわってない。当然、女の子の服なんて詳しいわけがない。
「けどね、女の子がいる部屋にノックもせずに入るのはおかしい!」
「すいませんでした」
僕は今、正座をさせられて説教を受けている。こんなことになるなんて思いもしませんでした。
「驚かせようと思ってこっそり着替えてたのにー……」
「申し訳ありません」
ふと、僕がこんなにへりくだる必要があるのかと思ったが、なぜだろう、反抗するつもりにはならない。
「えっと……ところで、その服はどこから?」
「え?これはあのクローゼットに入ってたんだけど……、知らなかったの?」
普通は母さんのクローゼットを探ったりはしないと思う。だが、なんにせよ、そんな小さい服が何故あるのだろう。
「いや、知らなかったし、母さんの服だけだと思ってた」
リーゼロッテは初めて気づいたように布の裾をつまみ上げた。
「ん、確かにそうね。なんでこんなサイズの服が入ってるのかしら……」
僕はさっきリーゼロッテが言ったクローゼットを開けてみた。その中に大人のサイズのものはなく、すべて、子供用の服だった。
「他に入ってるのも全部見たことない。なんだろう。母さんが子供の頃の服?それとも、誰かのお下がり……?」
「たとえそうだったとしても、なんでこんなきれいにしまっておく必要があるの?全部かけてあるけど、使う予定がないなら畳んでしまっておかない?この家ならそんなことしなくてもいいかもしれないけど……」
確かに、リーゼロッテの言う通りだ。家の大きさの問題は置いておくとして。もしそうだとしたら、僕には妹がいる?または、その予定だった?もっとも、二人ともいない今となっては、確かめる術はないが。
「うーん……、よし!わからないからこの話はおしまい!」
「えぇ!?」
「まぁまぁ、リーゼロッテは着れる服が沢山あっていいことじゃないか」
「や、まぁ、それは、そうなんだけど……」
「わからないことは考えない、以上!」
「ずいぶんとさばさばしてるのね……。そういえば、私の名前、長くて言いにくくない?」
言われてみるとそうだが、そもそも、名前を呼んだのは今日が初めてな気がする。
「言いやすいとは言わないけど、じゃあなんて呼べばいい?」
「そうねぇ。みんなが呼んでたように、リーズ、でいいかな」
リーズ。まぁ確かにこの方が呼びやすい。
「じゃあ、リーズ。」
「なに?」
「呼んでみたかっただけ」
「…………」
あれ?怒っては……ないよね?
この時、気付いていなかった。僕たちの他に、もう一人、この家にいたことに。
「エイデン?なんか声が聞こえるけど、誰かいるのか?」
その声と共に、ドアが開いた。
見つかった。こんなにも早く見つかると思ってなかった。だが、大きく心配な訳ではなかった。なぜなら、そいつは知った仲だったからだ。
6
そう、そいつは先日、薪置場で会ったあいつだった。
「ん?おい、その子は……?」
リーズは僕の後ろに隠れてしまった。服の裾から、細かい振動が伝わってくる。
「なんでもない、ただのいとこだよ、いとこ。」
わざと少し冗談めかして言った。
「いとこ?そんなの聞いたことないぞ」
だからこういうふうに聞かれることは予想済みだ。
「そりゃそうだろ。俺だって聞いたことなかったんだし。まったく、あいつらほんと無責任だよな」
すると、面白いくらい思った通りの反応をした。
「え?ってことはもしかして帰ってきたのか!?」
「いや、残念ながら帰ってきてはない。手紙とこの子が来ただけだ」
身を乗り出したそいつは、苦虫を噛み潰したような顔で床に座った。
「そうなのか。……あんまりこういう言い方はしたくないんだが、なんと言うか、薄情だな。お前の親。」
俺のことでこんなにも喜憂してくれる友達がいるのは、本当はすごく幸せなことなんじゃないかとふと思った。その後、なんか死ぬ前に思うことみたいだなとも思ったが。
「まぁ仕方ないさ。あんなにも親不孝な息子だったんだ。住むところと衣服を用意してくれただけありがたいと思うさ」
両親はやり手の商人だった。当然、そんな家に生まれたのだから、跡を継ぐように言われてきた。だが、どうも僕には向いてなかったようだ。
出不精で、家に籠もっている方が好きだった。そんな性格で商人になるなんて、自分で言うのもなんだが、無理があるだろう。
父親が集めてきた本を漁り、旅行にもついていかなかった。まぁ、その結果こうなったわけだが。
「ところでだ。なんで俺の家に来たんだ?」
いきなりな気もするが、それが本題だろう。
「おう、そうだそうだ。老人どもがさ、薪が少し不足してきてるってよ」
……そういえば、最近、あまり真面目にやっていなかったかもしれない。そもそも、確認に行ってない。
「んで、病気か何かかもしれないし、注意がてら行ってこいって言われたんだよ。ま、その様子なら心配ないな。おおかた、その子のことで遅れたんだろ」
間違いではない。間違いではないのだが。なんだろう。この気持ちは。
「じいさん達には俺から話しておくわ。その子のことを言うと面倒なことになるかもだから、適当に誤魔化しておくぞ」
まったく、気が利くやつだ。俺とは違って。
「あぁ、頼むわ」
そう言うと、踵を返してじゃあまたと言って帰っていった。
「……あの人、誰だったの?」
姿が見えなくなったあと、ようやくリーズが口を開いた。
「うん?ただの友達だよ。気のいいやつさ」
「ふーん……、なら、いいけど」
リーズがいるときに他の人と会ったことがなかったから、こんな反応をするとは知らなかった。
そう思っていると、リーズの声が聞こえてきた。
「みんな私のこと悪く言うんだもん。それ以外なら、逃げるとかばっかり」
リーズはうつむいていたが、顔を上げると、その表情は柔らかかった。
「でも、あなたは違った。あなただけは、優しかった。エイデン、……ありがとう」
そう言うと、リーズは抱き着いてきた。抱きしめながら、この笑顔を守るためなら、どんなことでも出来るような気がしていた。
「えっと、急に、なに?」
「う、べ、別にいいじゃない。たまにこんなこと言ってみても」
僕の胸に顔を埋めている少女を見た。顔を見せないのは照れ隠しか。
「まぁいいけどさ」
「む、なんだかトゲのある言い方」
「え?別に、そんなつもりはなかったんだけど……」
「冗談よ」
…………。
女の子って、難しい。
と、まぁ、そんなこんなで独り暮らしが終わったわけだ。最初のうちは色々あったりしたが、そのうちに慣れてきた。とはいっても、まだ一ヶ月ぐらいだが。
ふと、リーズの声が聞こえた気がした。
僕は今、父さんの部屋にいる。読みかけの本に、しおりを挟んで立ち上がった。
廊下を抜け、リーズのテリトリーに入ると、やはり彼女は僕を探していた。
「あ、エイデン、今日の晩ごはん、なにか食べたいものある?」
と、リクエストを聞かれても、そこまで食材がある訳じゃない。量ではなく、種類の話だが。
「そうだねぇ……。まぁ、なんでもいいかな」
「うーん、それ、一番困るんだけどなぁ……」
「だって、リーズが作る料理ってなんでも美味しいからさ」
正直、リーズは驚くほど調理が上手い。初めて食べたときは、今までずいぶん損をしていたような気になった。見たことがない料理(美味しそうだったが)が出たこともあって、聞いてみると、彼女の地方の郷土料理だという。
「ん?そう?それなら嬉しいんだけど。さて、じゃあ今日は何にしようかな……っと」
体を伸ばしながら考えているようだ。窓から入る光で、白いフリルが輝いて見える。
少し前まで、こんなことになるとは思わなかったな。昔は、特になにかがあるわけでもなく、毎日同じようなことを繰り返し、本を読むだけの生活だった。それに疑問を感じることもなかった。このまま年を取って、死んでいくのだろうか。そう思っても、別段嫌だとは思わなかった。一人で暮らして、そのうち年寄りになって、村の仕組み通り、老院会に入るだろう。そう思ってたのに、今はそう思えない。
僕は彼女と暮らしていこうと思う。だが、いつまでもここにいるわけにはいかないだろう。僕が死んだあと、代わりに養ってくれる人がいた方がいい。それに、いつ、見つかるかわからない。もっとも、見つかったとしても、その時にどこかへ行けばいいのだが。
でも、それでは意味がない気がする。それじゃあ、今までと一緒じゃないか。逃げるんじゃなく、自分で、自分の意思で、動かなくては。
「ところでエイデン、あなたって普段どこにいるの?」
突然耳に声が入った。思考を切り替えて、質問に答える。
「えーと、昼間は大体父さんの部屋の方にいるかな」
自分の部屋はあるのだが、父さんがいない今、寝るときぐらいしか自分の部屋は使ってない。
「そうだったの?どうりでいないわけ。なんで自分の部屋にいないの?」
「いや、自分の部屋にいたくないんじゃなくて、父さんの部屋の方がいいってだけだよ」
「へぇ……、そのお父さんの部屋って、私も入っていい?」
「もちろん、いいよ」
夕飯の話は置いておいて、リーズを案内した。
日当たりの悪い廊下を渡り、扉を開けると、古い本特有の匂いが鼻をついた。
「わぁ……、すごい……」
リーズは部屋に入るなり感嘆の声を出した。自慢ではないが、ここにある本の量は膨大だ。昔は、本を借りるために訪れる商人もいたほどだそうだ。今では、そういったことはないが。
この部屋は薄暗い。日光が本に悪いからこんな設計にしたらしい。本の背表紙を見るのは大変だが、読むこと事態はそう難しくない。なぜなら、部屋の奥に本を読むためのスペースがあるからだ。机と椅子が置かれたその場所には、明るい光が差し込んでいる。その正体は、天井に取られた窓から差し込む、太陽の光だ。部屋の一画だけ明るく、さながら聖域か何かのようだ。
他のところにも机などはあるのだが、ランプなどがなければ、読書など到底ままならないだろう。
「すごい量……。私の家なんか比べ物にならないわね……」
あちこちへ走り回り、手当たり次第に本を手に取っている。
「色々な本がある……。指導書から小説、魔術書まで……。あ、レシピ帳発見!どれどれ……」
なんか、聞いてるだけで整理なんてしてないのがわかる。ちょっと恥ずかしい。
「これなら作れそうかも。よし、今日はこれにしよ!」
作る料理が決まったようだ。結果オーライ万歳。
「ねぇ、ここに置いてある本ってエイデンが読んでたの?」
リーズが机の上を指して言った。さっき、リーズに呼ばれて中断した本だ。
「うん、そうだよ」
そう言いながら本を拾いに行った。
「魔法学入門……?エイデン、こんなの読むの?」
年期の入った革表紙の本を持ち上げた。
「ちょっと興味が出てきてね。もっとも、全然理解できてないんだけど」
中身をパラパラと読んでみても、本当に読んでるだけで、理解してない。
「まぁ、私もよくわかってないし……、いいんじゃない?別に」
「……そうだね。この地方で戦争なんて、ほとんど聞いたことないし。魔法を覚えても、使う機会ないかもしれないし」
そう言って本を閉じ、もとの場所に置いた。
「それにしても、よくこんなに集めたわね……。ちょっとした図書館並みじゃない?」
確かに、見渡す限り本棚と本の山(整理してないだけだが)で、その量は計り知れない。
「だねぇ……。全部読み終わるのに何年かかるやら」
「え?全部読むつもり、なの?」
リーズがちょっと驚いたような、というか、引いたような目で見てきた。失礼な。
「どうせ、最初のうちに読んだ本の内容を忘れて、また読み返して進まないんだろうけど」
「そりゃそうよね。そんなに記憶力いいわけないよね」
実際、よほど気に入ったものでなければ、一年もすれば中身は半分ほど忘れる。
「ん、暗くなってきたね。今何時ごろだろう」
「まぁ、もとから暗かったけど……。そろそろご飯の支度しようかな」
「じゃあ僕は、ちょっと、ここを整理したいと思います」
「頑張ってね。正直ここ、ちょっとほこりっぽいし」
あ、やっぱりそう思ってた?
リーズは行ってしまったので、整理兼掃除に取りかかる。まずは机や床の上の本を片付けて、掃除をしやすくする。本をしまうときに、できるだけ分類しつつ片付けたいところだが、正直そんな余裕は無い。
少し物を落としただけでほこりが舞い上がるのには閉口する。窓が無いので、掃除をするのが大変なのだ。外に掃き出すのも一苦労だ。
しばらくして、あきらめた。
居間に戻ると、ちょうど出来上がる頃だった。
「お、ナイスタイミング。もうできてるの運んどいてー」
「わかりましたー」
全部運び終えてからしばらくすると、リーズが最後のおかずを持ってきた。
「おぉ、美味しそう」
「初めてだから上手くできたかちょっと心配だけど、いただきます」
湯気を立てるスープや香ばしいパン、見た目もよく盛られた肉料理。そのどれもが、とても美味しかった。
「うん、美味しいよ。」
「えへへ、ありがと」
正直、誰かと食べるご飯の美味しさなんて、忘れてきてた。今、はっきりと実感しているけれど。
「ごちそうさまでした」
そう言って椅子から離れ、食器をリーズの分まで片付けた。
「あ、いいの?片付けだって私がやるけど……」
「いやいや、後片付けぐらいは僕がやるよ」
「そう。じゃあ私は早めに寝るね。おやすみ、エイデン」
「おやすみ」
リーズが寝室に向かったので、できるだけ音をたてないようにして洗った。
自分以外の人が使った食器を洗うなんて、初めてかもしれない。父さん達は、あまり僕に手伝いとかをさせようとはしなかったし。僕もあまりしたくなかったし。
そんなことを思っていると、あっという間に終わった。
明かりを持って、自分の部屋に移動した。明かりの光よりも、明るいものがあったけど。
ベッドに倒れこんで、明かりを消した。しばらく、目が暗闇に慣れなかった。
7
秋も深まり、冬が近づいた頃だった。その日はよく晴れた日だった。今日を逃したら、あとは寒い日だけが来るのではないかと思わせる程だった。
気まぐれで、リーズを連れて薪を拾いに行こうと思った。この季節なら木を伐ったり、乾かしたりする必要がないから楽と言えば楽だ。だが、冬に入れば当然使う機会も増えるし、拾いに行くのも大変になる。だから、この秋の季節に溜めておくのが普通だ。そうなると人手が多い方が楽なわけだ。それに、リーズもずっと家にいるのは暇なようだ。だが、そう簡単に出掛けられるわけではないので、今回の発想に至った。
窓を開けて、気温を確かめる。暖かくはないが、寒くもないので問題は無さそうだ。
台所から微かな気配を感じる。朝起きて、誰かがいるというのには、まだいまいち慣れない。
とりあえずベッドから起き上がり、着替えを置いた椅子へと這っていった。
なんだかんだ言って、自分は寝起きが悪い。しかし、もう一人ではないのだから、ある程度生活のリズムを固定する必要があるだろう。
……いや、起こしに来てもらうのもいいかな……。
というような妄想をしながら着替えた。
「リーズ、今日はちょっと出掛けてみない?」
朝食をとりながら、そう聞いてみた。聞くと言えば、昔、あいつが言ったことを聞いてみようと思ってたっけ。でも、聞く必要はないだろう。
「え?うん、いいよ」
目の前でパンを頬張る、こんないたいけな少女が、人を殺したりするはずがない。
「今日暖かい?」
と、リーズが聞いてきたので、暖かくはないけど寒くもないと答えた。すると、じゃあちょっと着替えてくると言って部屋に入っていった。
いつの間にか、食器の後片付けは僕の仕事になっている。まぁ、嫌ではないし、時間がないわけでもないのだが。
ふと、水が少なくなっているのに気づいた。水は近くにある井戸から汲んでいるのだが、それなりに遠い。今日帰ってきてからにしようと思った。
そうこうしていると、リーズが戻ってきた。
「お待たせ。じゃあ行こっか。といってもどこに?」
リーズは上下が繋がっている服が好きなんだろうか。しかしまぁ、なんというか、かわいいからいっか。全体的に白く、襟元にあるリボンは赤い。名前は知らないが、肩がふんわりとしているというか、なんていうんだろう、そういう、お姫様みたいなあれだ。それがついてて、袖とスカートの丈は長い。
「薪を拾いに行こうと思ってさ。今日はちょっと人がほしいから来てもらおうかと。それに、リーズも暇そうにしてたから」
「ってことはあの辺りに行くのね。……懐かしいな」
「懐かしいね。とは言っても、そんなにたってるっけ?」
そんなことを話しながら玄関から出た。リーズを制止して、誰もいないか確かめる。問題ない。それをしばらく繰り返し、ようやく村から出た。手を繋いで、僕たちは歩き出した。
「面倒よね、こういうの。……ごめんね?」
いきなり謝罪の言葉が聞こえたから驚いた。
「いや、そんなことないよ。楽だとは言わないけど、そんなに面倒じゃないよ」
「……そう」
なんだかリーズが落ち込んでしまった。別に、僕は特に気にしないのに。
少しぐらい大変でも、それはそれでいい。リーズのためだと思えば、辛いことなんてほとんど無い。
背中にしょっている、薪を運ぶ道具が重い。頭の上に広がる空でさえ、重かった。
「……ここだね。あの日、会った場所は」
そう。あの日、あの時。
「ここだったっけ?もうちょっとあっちだった気もするけど。まぁ、そこまで細かいところはいいよね」
リーズの機嫌も直ったみたいだ。やっぱり、連れてきてよかった。
「ところで、薪を拾いに来たんじゃなかった?なにもしてないみたいだけど」
「あぁ、そうそう。適当に使えそうなやつを持ってきてよ。使えるかどうか見て、これに積んでくからさ。一人だと探すのも積むのも同時作業だから、結構大変なんだ」
「よし、まかせて」
そう言うと、元気に駆けていった。僕があんなに無邪気じゃなくなったのはいつの頃からだろうか。いや、そもそもリーズは無邪気なのか?本当の年齢は僕よりも上だろうし、孤独だって、僕よりも多かったに違いない。しかし、早くも薪が運ばれてきたので、思考を中断した。
一人でやるよりもずいぶん早く終わった。普段、そこまで早くしようとしてないのもあるが。
「こんなもんでいいの?」
「うん、リーズが持ってくるのはいいやつばかりで助かるよ」
「いや、質の問題じゃなくて、量。一本一本は長いけど、それでいいの?」
積み終わったものを背負うと、ずっしりとした感覚がする。普段ならこれくらいでもいいのだが、この季節では足りない。
「少し足りないかな。もう何往復かするつもりだけど、付き合ってるくれる?」
「もちろん。手伝うよ」
とても心強い返事だ。その言葉に甘え、少々楽をさせてもらうことにする。
行きは薪がないのでいいのだが、帰りは荷が重い。でも、精神的には少しばかり軽いかもしれない。
木立の間を抜け、村が近くなってきた。
「薪を置いてくるから、リーズはここにいた方がいいかな?」
「そうね。私がそこに行く必要はないんだし。じゃあ、ここで待ってるから」
リーズと一旦別れ、薪置き場に向かった。
薪の量と、これから使われるであろう量を比べると、やはり足りない。少しだけ気が滅入るものの、昔ほど嫌になってはいないことに気づいた。リーズのおかげだろう。
再び薪を拾いに村を出たら、声をかけられた。おそらく、今、もっとも出会いたくない者に。
「おぉ、エイデン。久しいの」
「ん?あ、長老……!」
目の前には、真っ白な長い髭と髪を持った老人がいた。
「何年ぶりかのぅ。お前が人に会いたくないというから、会おうとはせんかったし、仕事も人と関わりを持ちづらいものにしたからの。元気にしておったか?」
「え、えぇ、まあまあです……」
なぜ、今会ってしまったのだろう。よりによって、リーズが近くにいる、今に。
「その格好、薪を拾いに行くのか。仕事は楽しいか?」
僕は早々に話を切り上げたかったので、少しきつい口調で言った。
「楽しい仕事なんて、そう無いんじゃないですか?」
すると、長老は少し悲しそうに笑った。
「ほっほっほ。言うのう。しかしじゃ、お前の親は、それはそれは楽しそうであったぞ。各地から珍しいものを仕入れ、それを誰かが喜んで買っていったときが、一番嬉しそうじゃったな」
当然、この人は僕の親がいないことを知っている。だからだろうか。まるで昔話でもしているような口調なのは。
「きっと、お前にも天職というものがあるじゃろう。わしに言ってくれれば、他の仕事が融通できないこともないかもしれん」
話が長くなって、僕は焦ってきた。そして、リーズの声が聞こえたとき、焦りは動揺に変わった。
「エイデン、どうしたのー?」
声は真後ろから聞こえる。僕と重なってて、長老が見えなかったのだろう。
「む?あの子は誰じゃ?エイデン」
時間稼ぎに後ろを振り向く。リーズは近くまで来ていた。しかし、長老が見えたのか、途中で足が止まった。その顔には、恐怖さえも垣間見えた。
「もしや……?いや、そんなことが……。だが、服以外の風貌は変わっておらん……!やはり……」
その一瞬の後に、リーズは走り去っていった。
「……どういうことか、説明してもらおうか」
まずい状況になった。
「エイデンと呼ばれていたな。なぜ、やつがお前の名前を知っている?」
長老と、その他の老人たちが僕を取り囲んでいる。この村では年長者が村の意向を決める。つまり政治をするのだ。また、個人間の仲裁等もする。しかし老人たちの集まりだ。考えが固いところもある。そのため、村の不安分子には強硬的な態度をとる。今のように。
だからといって、本当のことを言うつもりはない。リーズのためにも、自分のためにも。
「……森で、話しかけられたんですよ。それで、僕は逃げるのも怖かったから話をしたんです。そう特別な関係とかいうことはありません」
老人たちは怪訝そうな顔をしたが、ひとまず信じてはいるようだ。
「……、……。とりあえず、それが本当かどうかは置いておこう。何かをされたりとかということはないのか?」
正直しゃくにさわったが、おくびにも出さずに続けた。
「いえ、全くありません。少なくとも、僕が見た限りでは普通の女の子でした」
長老はさっきよりも小難しい顔になった。
「……しかし、そうやって油断させる作戦とも……」
その意見に賛成するものがいた。
「そうです!ヤツに気を許してはいけません!ヤツは悪魔。憐憫を垂れる必要などない!」
掌に指が食い込んだ。なにもできない自分が歯がゆかった。一言。ただ一言、違うと言うことすらできない。
「……エイデン、お前の処分は後だ。今日は一旦帰りなさい」
一度会釈をして、逃げ出した。今にも叫び出しそうだったから。
家に帰ると、どの部屋にも明かりがついていない不自然さが後悔を呼んだ。
暗闇の中、手探りで自分の部屋に進んだ。机の上に置かれたランプが沈黙していた。
ベッドに倒れ込んだとき、外に気配を感じた気がした。はじめは気のせいかと思ったが、窓が叩かれたとき、まさかと思った。
急いで駆け寄ると、暗いながらも輪郭が見えた。すぐさま鍵を開けて窓を開いた。
「リーズ!よかった、無事だったんだね……」
てっきり、もとの場所に帰ったとばかり思っていた。
窓は少し高い位置にあるので、リーズの手を持って引き上げた。
「エイデン、ごめん。こんなことになって……」
「別にいいよ。リーズが大丈夫なら」
そういって部屋に入れた。すると、リーズが手を離さないまま、
「ねぇ、今日、一緒に寝ていい……?」と言った。
僕は、もちろんいいと答えた。
僕が先に入ったところに、リーズが潜るかたちだった。
仰向けに寝て、となりに暖かい体温を感じていた。しばらくそのままだったが、突然、リーズが僕の上に乗ってきた。黒い影が目の前を覆った。
「エイデン、私を、抱いて……!」
リーズはそう言った。暗い部屋の中では、表情はわからなかった。声はなおも続ける。
「言葉のままの意味じゃない!確かに私は子供をはらむことはできない。充分じゃないかもしれない。けど、エイデンが望むなら、あなたの気がすむのなら、私をめちゃくちゃにしても構わない!だから!」
その声を遮るように、抱きしめた。これ以上、耐えられなかった。そして、そのままキスをした。それが、僕の答えだった。
「ごめん、リーズ。それはできない。僕があの日、君を初めて見たその時から、僕の気持ちは変わってない。成長してないのかもしれない。だから、そんな気持ちにはなれない」
リーズは、しばらくしてから動いた。僕の横に戻った。
「リーズ。これだけは忘れないで。僕は絶対に君を嫌いにはならない。その代わり、もっと、自分を大切にして欲しい」
嗚咽が聞こえた。僕にすがり付くリーズを撫でているうちに、いつのまにか眠り込んでしまっていた。
8
僕が目を覚ましても、リーズはまだ寝ていた。髪は乱れていて、その頬には、跡が残っている。
久しぶりに朝食を作ろうかと思った。が、最近作った料理のことを思い出してやめた。このまま二度寝をして、起きてなかったことにする方が好都合だろう。色々な意味で。
そう思って横になっていると、リーズが動いたのがわかった。だからといってすぐに起きると怪しまれる。ので、寝たふりを続けた。すると、体を揺らされた。
「エイデン……、起きてる……?」
なぜかその声は切なげで、胸の奥が疼いた。
「どうしたの?」
痛みを隠して問う。
「……ちょっと、出掛けよう?もちろん、あなたがよければだけど……」
どうしてそんな言い回しをするのだろう。リーズの頼みを断るわけがないのに。
「いいに決まってるじゃないか。昨日は同じことを僕が頼んだんだし」
そう言ってリーズの頭を撫でた。
「朝ごはんは別にいいかな?」
リーズは、あなたがいいならそれでいいけどと答えて、部屋を出ていった。すぐに着替えて後を追った。
急いだつもりだったのだけれど、リーズの方が早かった。すでに玄関にいて、乱れた髪も整えられている。下を向いたその姿は、いつかの頃に似ていた。だけれど、僕を見ると駆け寄ってきた。
「今日はどこに行くの?」
そう聞いても、ついてからのお楽しみと言って教えてくれなかった。
冬の早朝なのでずいぶんと冷え込んでいる。気温の低さにともない人も少なくなるので、外に出やすくなるのだが。
人目を気にせず村を出た。リーズが手を握っているが、その力は少し強いような気がした。それに応えるように、僕も握った。
道を歩き、森に入り、そのまま進んだ。リーズは一言も話さなかった。言いようの無い不安が心を包んだ。でも、どうしてかもわからないし、どんなことを言えばいいのかもわからない。自分の中の言葉が、すべて無くなってしまったような感覚だった。
気付くと、崖に出ていた。そこからは、村が見えた。それは、とてもちっぽけに見えた。
リーズが手をほどき、両手を広げた。僕からは背中しか見えない。なぜか、足が動かない。歩いて顔を覗き込めばいい。それだけなのに。
「私ね、ここが好きなんだ」
誰に言うでもなく、ただ呟いたような感じだった。
「ここからなら、人たちが見れるでしょ?でも、向こうからは見えない。私にとって、ちょうどいい場所なの」
灰色の空を見上げ、白い息を吐きながら言っていた。
「あんなことがあっても、私は人間を嫌いになれなかった。私が弱かったからかもしれない。でも、なんでもいい。なんでもいいから、嫌いにならなくてよかった。だって、あなたに会えたから」
リーズは満面の笑みで、でもどこか履き違えたような微笑みで、痛ましくもある笑顔で、言った。
「ひとつ、わがまま言っていい?」
どこかでわかっていたのだろう、僕はなにも言えなかった。何を言っても、取り返しがつかなくなりそうだった。その反応を肯定と捉えたのだろう。リーズは言葉を紡いだ。
「私を、殺して……?」
いつかは来るのではないかと思っていた。でも、考えてはいなかった。一言で言うなら、認めたくなかったから。解決にはならないとわかっていても、目を背け続けていた。でも、もうそれはできない。
リーズは僕にしがみついて言った。
「わかってる。わかってる。もし、私があなたを殺そうとしたら、とても辛い。でも、私は、あなたとずっと一緒にいることはできないの」
悲痛だった。やっぱり、僕に彼女を救うことなんて、出来なかったのだ。
「あなたは私を抱いてくれなかったけど、感謝してる。もしもあのとき、そう考えると、きっと私はもう死ねなかった」
こんなにも小さな体なのに、僕とは比べ物にならないくらい苦しんでいる。幸福さえ、拒絶してしまうほどに。
「自分で死ねればいいけど、やっぱり、怖い。何度も死のうとした。できなかったけれど。でも、あなたの腕の中で死ねるなら、怖くない」
乾いた髪の毛が揺れている。風のせいなのか、それとも。
「お願い、わかって……。もっとあなたといると、いつか来るその時が、どうしようもなく苦しくなる。でも私があなたを殺せば、その記憶を永遠に持ち続けなくちゃいけないから。そんなの、耐えられない……」
リーズはまだなにか言おうとしていた。だけど、もう十分すぎる。どうして、これ以上苦しまなくてはいけないのだろう。間違えているかもしれない。最善の選択じゃないかもしれない。でも、それ以外、どうすればいいのだろう。
リーズを抱きしめた。これまでで一番強く。
「……それが君の望みなら、僕は叶えてあげる」
どれほど苦しくても、いや、苦しかったからこそ、しばらく離そうとしなかった。
リーズはポケットからナイフを取り出した。いつの間に用意したのだろう。もしかしたら、普段から持ち歩いていたのだろうか。だとしたら、なぜ気づいてあげられなかったのか。
リーズの話だと、体に埋め込まれた魔法石を取り除かなくてはいけないらしい。ナイフを受け取り、どこにあるのか聞くと、見ればわかると言って服を脱いだ。すると、右の脇腹に傷跡があった。それも、一つや二つではなく。無数に刻まれたそれは、痛々しくしかなかった。
灰色に垂れ込めた空から雪が降ってきた。触れては消えていく白は、嫌でも連想させた。
リーズを地面に押し倒し、ナイフを振り上げた。
腕が震えようとも。ナイフを掴む指が掌に食い込んでも。どれほど心が砕けようと。突き刺した。
赤い液体が溢れ出し、指を染めた。
「いっ……!あうっ!!」
暴れるからだを押さえつけ、深く差し込む。場所が間違えてるかもしれないとは考えなかった。そんな余裕は無かった。
カチリと、固いものに突き当たった感触がした。その事をリーズに伝えることはできなかった。口を開けた途端、僕の方が泣き言を出してしまいそうだったから。
「く……、つ……あ、ぐ……!!」
あと少しで終わる。そう思っても、心は楽にならない。周りの肉を抉り、指を入れ、一気に引っ張り出した。
憤き出すものや指よりも鮮やかな赤色の石が地面に落ちた。それは思っていたよりもずっと小さくて。当然大きければいいわけじゃないけど、こんなものがずっとリーズを苦しめてきたのかと思うと。
「あ……、取れた、の……?」
荒い息が、どれほどの苦痛だったかを物語っている。でも、それもすべて終わった。彼女は、ようやく終われるのだ。
「……うん」
もっとなにか言うべきなのに、頭ではわかってるのに、あまりにも体がついていかない。
「……そう」
虚ろな目は、どこを見ているのかわからなかった。落ちてくる雪を見ているようにも、そうではないようにも見えた。
思い付く言葉は、頑張ったねとか、痛かったでしょごめんねとかだけで。そんなことを言っても、無意味なのに。
「……私、普通の女の子になれたんだよね……?」
あぁ、答えなきゃ。どれほど空虚な言葉でも。
「君は……、もとから普通の女の子だよ」
抱き上げた体が冷たくなっていても。
「……エイデン」
伸ばす指先が震えていても。
「愛してる」
その声はとてもか細くても。
「……僕もだよ」
頬に落ちた雪が溶けないほどでも。
「……やっと、聞けた。やっと、私も普通になれたから」
流れ出る血が止められなくても。
「……君は、もとから普通の女の子だよ」
その腕が力なく下がっても。
「……、ありがとう……。エイデン」
でも、それでも、その寝顔は、安らかだった。