海を走る
愛犬ラッキーはもう老犬だ。
年々足が弱くなり、今では歩くことも少なくなってしまった。
年は十三歳。若かった頃は黒く艶やかな短い毛並みをしていたが、今では白いものが混じってぼさぼさだった。ぴんと張った大きな耳すらも力無く横に垂れさがっていた。
「ラッキーももうおじいさんねぇ」
母さんが、昼食を食べ終わった食器を片付けながらぽつりと呟いた。
「うん。わたしも同じぶんだけ年とったってことね」
ゆり子は、目を瞑って鼻面を押し付けてくるラッキーの頭を撫でながら答えた。
「そうね、ラッキーが家に来たのって、ゆりちゃんがまだ小学生だったころだものね」
「そうそう。この家に引越しする前によく通ってた、海辺のお菓子屋さんの前に捨てられてたんだよね」
「あぁ、あの時はビックリしたわよ。子犬を抱えて帰ってくるんだもの」
当時のことを思い出したのか、母さんが声をあげて笑った。
「あ、そうだ。大学はいつまでお休みなの?」
食器を洗い終えて蛇口をしめた母さんは、手を拭きながらゆり子に尋ねた。ゆり子は少し考えるそぶりを見せてから、携帯電話を取りだしてスケジュールを確認する。
「三月ぐらい。でもバイトがあるから三日で向こうに帰るよ」
ゆり子は実家を離れて上京し、大学に通いながらバイトして生活費を稼いでいる。春休みは実家に帰る予定ではなかったのだが、母さんに電話で呼び出されてしまった。なんでも今日が曾祖父の二十三回忌なのだという。
あまり気は進まなかったが、ゆり子は里帰りのつもりで帰郷し、久しぶりに両親と親戚の一同の顔を見ることができた。
母さんの開口一番に言った「恋人はいないの?」という発言は少なくともゆり子にとって衝撃的だった。彼女はいないわよと笑って返すと、尾を一生懸命振って視線を送ってくるラッキーの額部分を撫でたのだった。
「バイトは忙しいの?」
「まあまあかな」
「あら、そう。だったらもっとお休みを貰ってくれば良かったのに」
「何言ってるのよ。わたしが開けたシフトの穴は大きいんだからね! それに予定が急だったから、三日休みが取れるなんて思っても見なかったもん」
ゆり子の言葉を聞いた母さんは「残念ねえ」と言葉をこぼし、きゅうすにお茶を用意した。
黒いスーツはもうすでに脱いでハンガーに吊るしておいた。
ゆり子は「ねー」と意味も無い言葉をつぶやいて目を瞑ている老犬ラッキーの額と自身の額を摺り寄せた。
するとラッキーの尾が、ぱた、と力なく揺れ動いた。
「こんにちはー」
二年ぶりに帰って来た自分の部屋で寛いでいたゆり子は、玄関扉が開いて誰かが中に声を掛けているのを聞いた。
田舎って、チャイムいらずなんだった。
ゆり子はそんな事を考えながら、母さんが玄関まで飛び出して行って「いらっしゃい」と嬉しそうな声をあげているのを聞いていた。
「ゆりちゃーん! お客さんよー、東堂さんー!」
母さんは嬉しそうな声でゆり子に呼びかける。ゆり子は思わぬ来客にビックリしながら部屋を出て階段を降りていった。
「こんにちは」
記憶に残る頃に比べて、いくらかふくよかになっているものの、東堂さんのその優しくて温かな雰囲気はすこしも変わっていなかった。
「おばさん!」
ゆり子は母さんの向かい側に腰を下ろしながら、その懐かしい顔をみて声をあげた。
東堂さんはラッキーを拾ったお菓子屋さんを切り盛りする女主人だった。今はもうすでに店も畳んでしまい、これからの老後を楽しもうと新たに別の仕事をしていると母さんから電話で聞いてた。
「別の仕事、今はしてるって聞きましたけど…?」
視界の隅に日向で寝そべるラッキーの姿を映しながら東堂さんに尋ねた。
「そうなの、何だか働く事が私の趣味みたいなものになっちゃってね」
と、彼女は笑いながら答えた。
その時、それまで滅多に鳴かないラッキーがクゥンと鼻を鳴らし、黒い瞳でゆり子を見つめた。
ゆり子は少しの間席を外して彼の元に駈け寄ると、頭を撫でてその顔を覗き込んだ。ゆり子の後ろの方で、東堂さんと母さんが言葉を交わしている。
ラッキーはじっとゆり子を見つめ返し、そしてもう一度小さな声で鳴いた。
「もしかしたら、東堂さんが来て、前に住んでいた海の近くの家を思い出したんじゃないの?」
と、様子を見ていた母さんが冗談半分に言った。
「意外にそうかもしれないわよ」
東堂さんもそう言って微笑み、ラッキーに手を振った。
ゆり子は再度彼の目を覗き込み、そうなの? と声を掛けて小首を傾げた。彼は少しの間ゆり子を見つめ返すと、ついと顔を窓の外に向けて尻尾を振る。ゆり子もラッキーが向けた目線の先を追って見ると、そこには真っ青な深い色合いの空が広がっていた。それはまるで、思い出の地の海を彷彿とさせた。
「ラッキー、海? 海に行きたいの?」
ゆり子が視線をラッキーの方へ向けると、黒い瞳と目が合った。そしてぱたぱたと、力強く彼の尾が振れた。
少し開いた窓から風が入り、ゆり子の髪は後方へ靡いた。
「もうすぐ着くよ」
彼女は車の助手席に目をやり、そこに背をピンと伸ばして座るラッキーを見た。
彼は我が家から思い出の地へ向かう少しの間に、見違えるほど若くなったみたいだった。それまで垂れていた耳の先は尖り、風に撫でられている毛並みは心持ち色が濃くなっている気がした。そして喜びのためか、彼の目は力強いエネルギーが溢れ、黒々と濡れて光っていた。
「わぁ、久しぶりだなあ!」
ラッキーの首輪にリードを取り付けながら、ゆり子は胸一杯に潮風を吸い込んだ。彼女の脇にいるラッキーはもう居ても立ってもいられないようで、しきりに鼻を鳴らし、周りを見渡している。
「元気元気!」
そんなラッキーを見て彼女は可笑しそうに笑い、ラッキーは鼻を鳴らした。
ゆり子がポケットにデジタルカメラを入れると、一人と一匹は海岸へ向かった。
砂浜に出ると立ち止まって暫く周りを見渡し、あまり人が居ない事に気付いた。泳ぐには時期的にまだ早く、海水は夏に比べると澄んでいて波が高かった。
「うわ、全然人が居ないや」
ゆり子は波打ち際まで進むとそこに右手を突っ込んだ。すると次の瞬間、
バシャン! と彼女の隣で激しく水しぶきが舞いた。ラッキーがうれしそうに海水に浸かっている。
「あ、こらっ! ラッキー!!」
慌てて手に持っていたリードを引くと、彼が不思議そうな目でゆり子を見返した。
「だって、こんな冷たいんだよ!」
彼女は寒さで赤くなった右手をラッキーに見せ、再び濡れて重くなったリードを引いた。すると、今度はラッキーが吼えた。その声はとても力強く、生命力に溢れた声だった。
ゆり子は少しの間、水をすいすいと掻き分けて泳いでいくラッキーの姿を眺めた。それから彼女は呆れたように苦笑をもらして、リードを引く手の力を緩めた。
ラッキーが吼えた。たかだかそれだけのことなのに、心の底からうれしかった。
ゆり子は海を力強く掻き分けて進むラッキーに向けて、何度もカメラのシャッターを切った。
海で泳いだ日から数週間後のことだった。ラッキーはその命が尽きる最後まで輝き続け、最期はゆるやかに目蓋を閉じて眠りについた。
ラッキーは十三歳の老犬で、私たちと一緒に家族の歴史を作り上げてきた。彼が居なければ今のわたしは居なかっただろう。
おやすみ、ラッキー。