ヒ素
「それはどういう事ですか?!拓司先生。まだ事件は終わってはいないと、そう言う事ですか?」
「少し落ち着きたまえ、紺藤君」
そう言って、拓司は自身の無精ひげを撫でながら、紺藤をたしなめる。
「そうは言っても、大筋は変わらないよ。僕らが最初に発見した遺体、須藤月子は毒殺。犯人は家政婦の小山麻友子、および月子の娘の薫。そして、次に亡くなった小山麻友子は広義で言えば、殺したのは須藤薫、あの娘だろう。そして、最後にはその須藤薫も近くの井戸に身を投げ、自殺してしまった。ところで紺藤君。ナポレオン・ボナパルト、ナポレオン一世の死因について知っているかな?」
「胃ガンですね。彼の家系はガン家系で、彼自身も胃潰瘍を患っていました。あと、ナポレオンが死ぬ間際『私はイギリスに暗殺されたのだ』と口にしたことから、毒殺説などと言うのもありました。こちらの方が有名でしょうか。実際死後墓をあばいた所、その死体は全く腐っていなかったらしかったですから、それも毒殺説を有名にした一因でしょう」
「その毒の名は?」
「ヒ素。ですが、当時ヒ素は保存料として、流通していましたので一概に毒殺と断定できる訳ではないと言ったところです。確か壁紙にヒ素が含まれていて、その粉塵を吸って、中毒死したという説もありました」
まるでそこに資料があるように諳んじてみせる紺藤に拓司は満足そうにうなずいた。
「実は十五年前、須藤月子、小山麻友子ら同様に須藤月子の夫もヒ素中毒で亡くなっている」
「何処でそんな情報を?!」
「伊達にふらふらしていた訳ではないよ、紺藤君。当時原因とされたのは、須藤薫が身を投げたあの井戸だった。あの井戸は汚染されていたんだ。なのに、あの井戸は最近まで使われていた形跡があった」
「小山麻友子が須藤親子を毒殺しようと、食事に使ったのではないでしょうか?」
「うむ。そうだね。だが、あの井戸水を使って食事をしていたのは須藤薫一人だ。恐らく須藤月子は既に死んでいたのだろう」
「僕らが発見した時に見たのは、しばらく経った死体・・・あれが・・・でも、何で?」
「食器に少し埃がね」
「だから、小山麻友子はあんなに必死に僕らを追い返そうとしていた」
初めて小山麻友子と会った時、その宇宙服のような格好に肝を冷やした。
それから続く幾多の嫌がらせ。
「いや、小山麻友子が守ろうとしていたのは自分ではない。須藤薫だ。それも正しくはないか。正確には須藤薫に隠された真実。そして、その真実が須藤薫自身を死に追いやった」
「それはどういう・・・」
「必要だったのだよ。彼女には毒が」
もはや紺藤の頭の中は混乱をきたし、何が何だか分からない状態になっていた。
「日本時間で2010年12月3日、NASAから重大な発表がされた。何だか分かるかい?」
「カリフォルニア州のモノ湖でリンの代わりにヒ素をDNAの中に取り込む細菌を発見。これによりリンの存在しない星であっても生物が存在する可能性が出て・・・」
紺藤の中で点と点が繋がり、線となった。
しかし、その線の上には『有り得ない』と書かれた立札が置かれている。
「紺藤君。リンという物質に馴染みはないが、僕らは意識せずにリンを取り込んでいる。それは何処からかな?」
「食物として取り込んだ生物のDNAから容易に取り込めます」
「では、もしヒ素系のDNAの人間がいたとしたら、そのヒ素は何処から取りこむのだろうね?」
「それは・・・でも、そんなこと・・・」
「思い出してみたまえ。須藤薫の遺体を見たときの藤崎警部の言葉を」
「確か『おそらくただの自殺だろうな。ここでお前達の出番はお終いのようだ。あまりいい結末じゃなかったがな』でしたか」
「おかしいとは思わないかい?普段慎重に捜査するあの藤崎警部があんな断定的な発言をするなんて。もしかしたらこの事件、もう僕達には手に負えないところまで来ているのかもしれないね」
紺藤は立札の先に踏み込めないでいた。
「信じられないと言った顔だね」
「当たり前です」
「SFは紺藤君の得意分野じゃないか」
「いくら僕がSF好きだと言っても現実との区別くらいつきます」
「そうか」
少しむきになった紺藤を見て拓司はにっこりと微笑む。
「紺藤君、推理において最も大事な事とは何か分かるかな?」
「証拠を見逃さない事でしょうか?」
「そうだね。それも大切だ。だが、紺藤君。僕はね、こう思うんだよ。推理する時、最も大切な事は可能性を否定しないこと、だとね。それがいくら荒唐無稽に見えても、それがいくら推理する者にとって都合が悪い推理だったとしても、例えその先に残酷な未来が待っていようとも。推理する時は選択肢として残しておかなければならない」
そう言って、拓司は笑って遠くを見つめるのである。
その姿は、自らの推理で自分の妻を刑務所送りにした事を今だ悔いているように紺藤には見えた。