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一級の性別、二級の性別

作者: 義母
掲載日:2026/08/05

 痴漢の指が離れたあとも、おとの腰には、汚れた指紋が残っているような気がした。


 満員電車を降り、駅の化粧室でスカートを何度も払った。鏡の中の自分は、いつもどおり隙のない顔をしていた。


 紺色のスーツ。低くまとめた髪。薄い口紅。


 泣いてもいない。怒ってもいない。


 怒れば負けだと思っていた。


 会社では、後輩の男性が作った企画書の修正を任され、その成果は彼の名前で役員会に提出された。


 会議で意見を言えば、「感情的にならないで」と笑われた。黙っていれば、「女性ならではの柔らかさがない」と評価表に書かれた。


 昇進候補に挙がったときには、男性の同僚が心配そうな顔をした。


「女性管理職の枠で上がったと思われたら、おともつらいだろ」


 彼は、おとのためを思って言っているつもりだった。


 夜の懇親会では、部長が酔った手でおとの肩を抱いた。


「君も、もう少し女を武器にすればいいのに」


 おとはその手を静かに外し、微笑んだ。


「性別ではなく、実力で評価していただきたいです」


 何度も口にした言葉だった。


 男女は平等であるべきだ。


 女性も男性も、同じ一人の人間だ。


 同じだけ働き、同じだけ認められ、同じだけ自由になればいい。


 性別に上も下もない。


 性別に等級をつけてはいけない。


 そう信じていた。


 それ以外を願ってはいけないとも思っていた。


 終電を逃して歩いた雨の夜、横断歩道の向こうで、数人の男が大声で笑っていた。


 何を笑っているのかは聞こえなかった。


 それでも、その笑い声は、電車で腰を触った男の息遣いや、肩を抱いた部長の手や、会議室でおとの言葉を遮った男性社員の声と重なった。


 同じになりたいのではない。


 おとの胸に、突然、そんな言葉が浮かんだ。


 同じ高さへ行きたいのではない。


 あの男たちを下へ落としたい。


 女性が耐えてきたものを、今度は男性に耐えさせたい。


 女が男を選び、使い、搾り取り、不要になれば捨てられる世界になればいい。


 男が「性別ではなく一人の人間として見てください」と訴え、それを女たちが笑って聞き流す世界になればいい。


 おとは足を止めた。


 自分の中に現れた願いが、あまりにも醜く思えた。


 男女平等を望むのが正しい。


 復讐を望んではいけない。


 女を男より上に置きたいなどと願えば、自分もまた差別する側になってしまう。


 おとは胸の奥に蓋をした。


 信号が青になった。


 一歩を踏み出した瞬間、雨粒の向こうから白い光が迫った。


     *


 目を覚ますと、世界は無数の緑に分かれていた。


 葉脈の一本一本が道のように太く、朝露の粒は透き通った湖のようだった。


 自分の腕は細長く折れ曲がり、その先には鋭い鎌があった。背中には薄い羽が重なり、身体を動かすたびに乾いた音を立てた。


 おとは悲鳴を上げた。


 けれど、自分の声さえ、以前とは違って聞こえた。


「目覚めた?」


 背後から声がした。


 振り返ると、鮮やかな緑色のカマキリが一人、葉の縁に立っていた。おとよりひと回り小さく、身体も細い。


「僕は、とも」


 ともは穏やかに頭を下げた。


「君は女性なんだね。よかった」


「何が、よかったの」


「この森では、女性であることは祝福だから」


 ともは、朝が来たことでも告げるように言った。


 おとは、その言葉に反発を覚えた。


「女性だから上だと言いたいの?」


「上というより、大切なんだ」


「同じことでしょう」


 ともは困ったように黙った。


 森のカマキリたちは、産卵の季節になると一本の大樹へ集まった。


 その樹は、産卵の樹と呼ばれていた。


 森の掟を決めるのは、樹の上層に住む七人の長老だった。長老はすべて、三度以上の冬を越した女性である。


 彼女たちは、森に残る食糧の量、産みつけられた卵の数、冬を越した子供の数を記録し、季節ごとに狩場と交尾の掟を定めていた。


 産卵の季節になると、男たちは枝の上で自分の強さを示し、女性はその中から相手を選ぶ。


 交尾を終えた女性は、必要に応じて男性を食べる。


 男の身体は、女性の腹の中で卵を育てる栄養となり、次の世代へ受け継がれる。


「必要に応じて、ですって?」


 長老の説明を聞いたおとは、枝を鎌で叩いた。


「命の価値は同じでしょう。卵を産むからといって、相手を食べていい理由にはならないわ」


 集まった女性たちは、互いの顔を見た。


 一人の女性が、膨らんだ腹を支えながら答えた。


「では、誰が産卵の代価を払うのです」


「二人で支えればいい。女性も男性も平等に食べ物を集めるのよ」


「男性は卵を産みません」


「それでも同じ命よ」


 おとは言い切った。


「女だから価値が高いとか、男だから価値が低いとか、そんな等級をつけるべきではないわ。女性も男性も、同じ一人でしょう」


 男たちの群れから歓声が上がった。


「そのとおりだ!」


「男の命も一つだ!」


「僕たちは女性の食糧じゃない!」


 ともだけは黙っていた。


 長老たちの中央にいた、黒ずんだ羽を持つ老女が鎌を上げた。


 森の長、クレハだった。


「よそから来た女性よ。おまえの言葉は新しい。だが、新しいというだけで掟にはならぬ」


「なら、話し合ってください」


「掟を変えるには、七人の長老のうち五人の賛成が要る」


 クレハは枝の下に集まった者たちを見渡した。


「さらに、古い掟を廃した結果、森にどのような損失が生じるかを示さねばならぬ。美しい願いだけでは、卵は育たない」


「示します」


 おとは即座に答えた。


 人間だった頃、会議と数字だけは嫌というほど扱ってきた。


 おとは森を巡った。


 交尾のあとに食べられた男性の数。


 産みつけられた卵の数。


 女性が一度の産卵に必要とする食糧。


 狩場に残る虫の量。


 おとは樹皮に線を刻み、記録を並べた。


「男性一人の身体を食べる代わりに、男性が同じ量の食べ物を運べばいいのです。そうすれば男性も生き残り、女性も卵を産めます」


 長老の一人が尋ねた。


「男性が逃げればどうする」


「逃げた男性には、次の年の交尾を禁じます」


「誰が監視する」


「男性同士で組を作らせます。仲間が逃げた場合、その組全体の交尾を禁じる。互いに監視させればいい」


 男たちの間に動揺が走った。


 だが、交尾のあとに食べられないという利益は大きかった。


 若い男性たちは、次々に賛成を表明した。


 一方、女性たちの多くは疑っていた。


「男が本当に戻ってくると思うの」


「掟にすれば従うわ」


「あなたは男を知らない」


「あなたたちは、最初から諦めているだけよ」


 おとは一歩も退かなかった。


 七日間の審議の末、長老会は五対二で試験的な掟を可決した。


 期間は、一度の産卵期が終わるまで。


 交尾後の捕食を禁じ、男性には、交尾した女性へ食糧を運ぶ義務を課す。


 正式な掟として残すかどうかは、産卵期の終わりに判断する。


 産卵の樹の幹に、新しい言葉が刻まれた。


 ――女性と男性は、同じ一つの命である。性別による等級を設けず、交尾後の捕食を禁ずる。


 男たちは声を上げ、おとを英雄と呼んだ。


 女性たちは何も言わなかった。


 その夜、ともはおとの隣で月を見ていた。


「君の言葉で、たくさんの男性が救われる」


「当然よ。誰かが犠牲になる仕組みは間違っているもの」


「でも」


「でも?」


「君は、女性たちを救いたいの?」


 おとは答えなかった。


 救いたいに決まっている。


 男女が平等になれば、女性も救われる。


 性別に一級も二級もなくなれば、誰も見下されない。


 そのはずだった。


 産卵期が始まった。


 男たちは以前より盛んに女性を求めるようになった。


 食べられる危険がなくなったため、一人の男が何人もの女性のもとへ通おうとした。


 長老会は、男性が交尾できる相手を一人に限った。


 それでも、交尾を終えた男は、食べ物を探すと約束して飛び去った。


 多くは戻らなかった。


 監視役の男性たちも、仲間の行方を知らないと言った。


 翌年の交尾を禁じられても、今年の命を守るほうが重要だった。


 卵を抱えた女性は身体が重くなり、以前のように素早く狩ることができない。腹が膨らむほど、目の前の獲物にも追いつけなくなった。


 それでも、男性を食べることは許されなかった。


「少しだけ、分けて」


 痩せた女性が、おとの前に現れた。


 名をサナといった。掟が変わる前、おとの演説を最後まで聞いていた女性だった。


 おとは捕らえた虫を半分に分け、サナへ渡した。


「相手の男性は?」


「食べ物を探しに行ったわ」


「いつから?」


「五日前」


 サナは食べようとしたが、口元に運ぶ手が震えていた。


「平等になれば、私たちも楽になると思っていた」


「なるわ。まだ仕組みが整っていないだけよ」


「そうね」


 サナは小さく笑った。


 翌朝、産卵の樹の根元で、サナは冷たくなっていた。


 腹の中には、産み落とされなかった百近い卵が残っていた。


 身体には傷一つなかった。


 誰にも食べられず、誰も食べなかったために死んだのだ。


 おとは、サナの腹に鎌を触れた。


 男が一人死ねば、失われる命は一つだった。


 だが、サナが死んだことで、一人の女性と、その腹の中にいた百近い子供が失われた。


 同じ一命。


 その言葉が、サナの死骸の前で空虚に響いた。


「おとのせいじゃない」


 ともが言った。


 その優しさが、おとの身体を刺した。


「私のせいよ」


「掟を決めたのは長老たちだ」


「提案したのは私よ。できると言い切ったのも私」


 産卵期が進むにつれ、死ぬ女性は増えた。


 長老会は、男性たちへ食糧の供出を命じた。


 しかし、命令に従う者は少なかった。


「僕たちにも生きる権利がある」


「命は平等だと、おとが教えた」


「女性だけを優先するなら、結局、男は二級だということじゃないか」


 自分の言葉が、そのまま返ってきた。


 おとは反論できなかった。


 夜になると、男たちは安全になった森で笑い合った。


 その声の下で、女性たちは重い腹を引きずり、地面を歩く小さな虫を探した。


 おとは、人間だった頃の電車を思い出した。


 男性と同じ時間働いたあとも、女性だけが痴漢を警戒して身体を固くした。


 同じ職場で働いていても、妊娠すれば女性の身体だけが変わり、女性の仕事だけが中断された。


 同じ規則で扱うことが、同じ負担を意味するわけではなかった。


 性別に等級はない。


 そう言うたび、実際には女性だけが代価を払っていた。


 それでも、おとは考えた。


 平等が間違っているのではない。


 運用が不十分なのだ。


 男性にもっと厳しく食糧を集めさせればいい。


 女性と男性を一人ずつ組ませ、産卵が終わるまで男性に女性を養わせればいい。


 おとは長老会へ追加の提案を出した。


 だが、今度はクレハが首を横に振った。


「認められぬ」


「なぜです」


「最初の掟すら守られていない。罰を重くすれば、男性は交尾そのものを避ける」


「それでも、女性を死なせるよりはいいでしょう」


「ならば、おまえは何を守りたいのだ」


 クレハの目に、おとの姿が小さく映った。


「男性の命か。女性の命か。卵か。それとも、おまえ自身が正しい者であり続けることか」


 おとは答えられなかった。


 長老会は、新たな制度を否決した。


 ただし、試験期間の途中である以上、捕食禁止の掟もすぐには撤回しなかった。


 季節の途中で掟を変えれば、すでに交尾を終えた者と、これから相手を選ぶ者との間に不公平が生じる。長老会は、森全体の崩壊が迫らない限り、産卵期の終わりまで判断を保留すると告げた。


 その間にも、女性は死んでいった。


 ともだけは、おとのもとへ食べ物を運び続けた。


「僕が君を養う」


「私は、まだ卵を持っていないわ」


「いつか持つだろう?」


 ともは毎日、虫を捕らえてきた。小さな身体には不釣り合いな獲物を引きずり、傷を負っても、おとの前では笑っていた。


 おとは、ともに惹かれていった。


 この男性だけは違う。


 女性と男性は、本当は支え合える。


 やがて二人は交尾した。


 おとの腹に卵が宿った。


 ともは約束どおり食べ物を運び続けた。


 だが、日に日に獲物は小さくなった。秋が近づき、森の食糧が減っていた。


 おとの腹は重く膨らみ、枝を移ることさえ難しくなった。


「明日は、もっと大きなものを持ってくる」


 ともは立ち上がった。


「もういいわ。あなたまで死ぬ」


「平等なんだろう?」


 その言葉に、おとは顔を上げた。


 ともは責めているのではなかった。


 どこか悲しそうに、おとを見ていた。


「君はずっと、平等という言葉の後ろに隠れている」


「隠れてなんかいない」


「だったら教えて。君と、君の腹の卵と、僕。この三つから一つを選ばなければならないなら、何を選ぶ?」


「そんな選択はしない」


「選ばないことを選べば、全部死ぬ」


 おとは鎌を振り上げた。


「黙って!」


 ともは逃げなかった。


 鎌の先が、ともの首のすぐ横の枝へ突き刺さった。


 おとの腹の中で、卵が重く沈んだ。


 次の日、ともは戻らなかった。


 代わりに、森の外れで男たちの集会が開かれていると知らされた。


 男性たちは、捕食禁止の掟を恒久化するよう長老会に求めていた。


「僕たちは女性の食糧ではない」


「産卵は女性の身体の問題だ」


「自分の卵なら、自分で養うべきだ」


「性別に等級をつけるな」


 その輪の中に、ともがいた。


 おとは枝の陰から聞いていた。


 ともは、他の男たちを説得しようとしていた。


「違う。卵は次の森そのものだ。女性だけの問題じゃない」


「なら、おまえが自分の身体を差し出せばいい」


 一人の男が笑った。


「女性のほうが上だと思うなら、食べられてこいよ」


 ともは黙った。


 長い沈黙のあと、言った。


「必要なら、そうする」


 男たちの笑い声が止まった。


 ともが戻ってきたのは、夕暮れだった。


 食べ物は持っていなかった。


 おとの前まで歩くと、静かに座った。


「食べて」


 おとは後ずさった。


「馬鹿なことを言わないで」


「君はもう、三日ほとんど食べていない」


「食べ物なら私が探す」


「歩くこともできないのに?」


「嫌よ」


「なぜ?」


「あなたを愛しているから」


 ともは目を伏せた。


「僕を愛しているから、君と卵が死んでもいいの?」


「三人とも助かる方法を考える」


「それは考えているんじゃない。選ぶのが怖いだけだ」


 森の向こうで、女性が枝から落ちる音がした。


 重い、鈍い音だった。


 おとは目を閉じた。


 人間だった頃、何度も「男女平等」を口にした。


 男性と同じ場所へ上がりたいのだと思っていた。


 けれど、本当は違った。


 女性だけが払わされてきた代価を、男性にも払わせたかった。


 女性の身体から生まれるもののために、男性の身体が使われる世界を望んでいた。


 女が男を選び、男の価値を決める世界を望んでいた。


 女性を一級に、男性を二級に置く世界を、心のどこかで望んでいた。


 その願いを認めれば、自分が醜い存在になる気がしていた。


 だから、綺麗な言葉で覆った。


 平等。


 共生。


 同じ命。


 等級のない性別。


 その下で、サナは死んだ。


 腹に百近い卵を残して。


「私は」


 声が震えた。


 ともが待っていた。


「私は、平等なんか望んでいなかった」


 初めて口にした言葉は、ひどく苦かった。


 だが、その苦みの奥には、長く押し殺してきた熱があった。


「私たちを優先してほしかった。卵を産む女性を。身体を使って次の命を作る女を」


 ともは頷いた。


「もっと言って」


「女性は、男性より先に生きるべきよ」


 おとの鎌が震えた。


「男一人の命と、女一人とその腹にいる子供たちの命が、同じなはずがない」


 ともは、おとの前へ首を差し出した。


「それが、君の本当の言葉なんだね」


「逃げて」


「逃げない」


「私は、あなたを食べるわ」


「知っている」


「愛していても」


「愛しているから、僕を食べて」


 おとは鎌を下ろした。


 ともは一度だけ身体を震わせた。


 夕日の中で、彼の影がおとの影へ重なった。


     *


 ともを食べた翌朝、おとは産卵の樹へ向かった。


 腹には、確かな力が戻っていた。


 樹の根元には、すでに多くのカマキリが集まっていた。


 前夜、新たに三人の女性が死んだ。


 試験期間の終了を待てないと判断した長老会が、緊急の森会議を招集したのだ。


 上段には、七人の長老。


 中段には、卵を抱えた女性たち。


 下段には、男性たちが並んでいた。


 おとは提案者として、中央の一本枝に立たされた。


 クレハが告げた。


「捕食禁止の掟が施行されてから、女性十一人が栄養不足で死んだ。産み落とされなかった卵は、千を超える。男性の死者は二人。いずれも狩りの失敗によるものだ」


 男たちがざわめいた。


「だが、掟を元へ戻せば、再び男性が食べられる」


 クレハは、おとを見た。


「この掟を提案した者として、何を望む」


 おとは、新しい掟が刻まれた樹皮を見た。


 ――女性と男性は、同じ一つの命である。性別による等級を設けず、交尾後の捕食を禁ずる。


 かつて自分が勝ち取った言葉だった。


 あれを消してほしいと願うなら、自分で間違いを認めなければならない。


「捕食禁止を撤回してください」


 男性たちから怒号が上がった。


「勝手すぎる!」


「おまえが言い出したんだぞ!」


「僕たちを安心させておいて、今度は食わせるのか!」


 おとは黙って聞いた。


 その批判は正しかった。


「そうです。私が提案しました」


 おとは声を張った。


「女性と男性を同じ一命として扱えば、両方を救えると主張しました。私は間違っていました」


 一人の男性が枝を蹴った。


「仕組みの失敗だろう。男女平等そのものが間違いだという証拠にはならない!」


「では、数字で示します」


 おとは、樹皮の空いた場所へ鎌を当てた。


 一本の線を刻んだ。


「ここに、卵を百個産む女性が一人いるとします」


 線の隣に、百の小さな点を刻んだ。


「女性自身の命が一。腹の中の卵が百。合わせて百一です」


 おとは、その下に一本だけ線を刻んだ。


「男の命は一です」


 ざわめきが消えた。


 おとは樹皮を指した。


「女性の価値は、百足す一で百一。男性の価値は一」


「命を数字にするな!」


 男の一人が叫んだ。


「あなたたちが平等を主張したから、同じ物差しで測っているのよ」


 おとは振り返らなかった。


「男の一を奪えば、女と百の卵、百一を養える」


 鎌の先で、男を示す一本の線を削った。


「一を失って、百一を残す」


 続いて、女性と卵を示す印を囲んだ。


「男の一を守るために女性が死ねば、百一を失う。一を守って、百一を捨てる」


 おとは集まった者たちを見渡した。


「どちらを選ぶべきか、計算するまでもないでしょう」


「僕たちは数字じゃない!」


「女性も卵も数字ではありません」


 おとの声は静かだった。


「けれど、あなたたちは『男の命も女の命も同じ一つだ』と数えた。だから私は、その先まで数えただけです」


 一人の男が震える声で尋ねた。


「卵が百個なら、女性の価値が百一だというのか」


「そうよ」


「卵を産む前の女性は?」


「これから産める」


「産めない女性は?」


 おとは一瞬、言葉を止めた。


 長老たちも、おとを見ていた。


「この森が決めるのは、産卵期の食糧をどう配るかです」


 おとは答えた。


「今、腹に命を抱えている女性は、自分一人ではない。その重みを、男一人と同じだとは扱えない」


「結局、男性は二級だと言いたいのか!」


 別の男が叫んだ。


「女だけが一級で、僕たちはそのために使われる二級の性別なのか!」


 おとの腹の奥で、ともから受け取った熱が脈打った。


 会社の会議室で飲み込んだ言葉。


 電車の中で押し殺した怒り。


 サナの冷たい身体。


 産み落とされなかった卵。


 樹皮に刻まれた百一と一。


 すべてが喉元までせり上がった。


「産むほうが偉いに決まってるでしょ」


 おとの声が森を貫いた。


 誰も声を発しなかった。


「女性は身体を使って、次の命を作る。男は作らない。女性は腹を重くして、狩る力を失って、それでも子供を産む。男は交尾が終われば逃げられる」


 おとは、下段の男性たちを見下ろした。


「それでも同じ価値だと言い続けるのは、産まない側が、自分を一級のままにしておくための綺麗事よ」


「僕たちが劣っているというのか」


「産むことにおいては、明らかに劣っている」


 初めて、その言葉を口にした。


 胸の中に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れ出した。


「女は次の世代を作る。男は、その女に選ばれて初めて、自分の血を次へ渡せる。男の価値は、女性と子供を生かすために使われることで決まる」


「それは支配だ!」


「そうよ」


「差別だ!」


「そうよ」


「性別に等級をつけるのか!」


 おとは、樹皮に刻んだ百一と一の数字へ鎌を添えた。


「同じ役割も、同じ負担も持たない二つの性別を、同じ等級に置くほうが嘘だったのよ」


 男たちの間から、低い声が広がった。


 怒りの声だった。


 恐怖の声でもあった。


 だが、中段に並ぶ女性たちは動かなかった。


 一人の女性が前へ出た。


 サナと同じ時期に交尾した女性だった。腹は痩せ、片方の鎌が動かなくなっていた。


「私の相手は戻りませんでした」


 別の女性が続いた。


「私の相手は戻りました。でも、自分が食べる分より少ない食糧しか持ってきませんでした」


「私の相手は、食べ物を渡す代わりに、もう一度交尾させろと言いました」


「私の相手は、平等なのだから自分で狩れと言いました」


「私の相手は、女も男も同じ一人だから、僕が死ぬ理由はないと言いました」


 証言が重なるたび、男性たちの声が小さくなった。


 クレハは、男性側の代表を呼んだ。


 年長の男性が前へ出た。


「捕食が戻れば、多くの男性が交尾を避けるでしょう。森の卵が減る可能性があります」


「どの程度減る」


 長老の一人が尋ねた。


「それは……」


「これまで、交尾後に食べられる可能性があっても、男性は女性を求めてきた」


 クレハが言った。


「命を懸ける価値がないと思うなら、交尾を選ばなければよい」


「それでは、僕たちには子孫を残す権利がないのか」


「子孫を残す権利だけを得て、その代価を女性に押しつける権利はない」


「男は女に選ばれなければ、何も残せないというのですか」


「もとより、そうだ」


 クレハの答えに、男は口を閉ざした。


 議論は日が傾くまで続いた。


 捕食を全面的に戻す案。


 衰弱した女性にだけ認める案。


 男性が十分な食糧を運べなかった場合に限って認める案。


 若い長老は、捕食の復活に反対した。


「一度、男女の命は同じであり、性別に等級はないと掟に刻んだ。簡単に消せば、長老会の言葉が信用されなくなる」


 クレハが答えた。


「誤った掟を、権威を守るために残すほうが信用を失う」


 別の長老は、おとを見た。


「おまえは、すべての男性を食べろと言うのか」


「いいえ」


「では、誰を食べる」


「産卵する女性が決めます。自分の身体と、卵と、相手が運んできた食糧の量を見て」


「女性の判断は常に正しいのか」


「正しいとは限りません」


 おとは答えた。


「でも、産卵の代価を払う身体に、最後の判断を渡すべきです」


「男の命が、女性の判断に委ねられるのだな」


「交尾を選ぶなら、そうです」


 やがて、七人の長老は樹の最上段へ移った。


 他の者たちは、下で待った。


 空が赤から紫へ変わった頃、長老たちが戻ってきた。


 クレハが中央へ立った。


「長老会の決定を告げる」


 森が静まった。


「捕食禁止の掟を破棄する。賛成五、反対二」


 男性たちの間に、悲鳴に似た声が走った。


「ただし、古い慣習をそのまま復活させるのではない。新たな掟を定める」


 クレハは樹皮に鎌を当てた。


「交尾を望む男性は、産卵を担う女性へ、可能な限り食糧を供する。女性は、自分と卵の生存に必要だと判断した場合、その男性を食べることができる」


 クレハは、下段に並ぶ男性たちを見渡した。


「交尾を望まない男性に、女性との接触を強制してはならない。ただし、交尾を選んだ以上、その身体を含めた代価を拒むことはできない」


 若い長老が続けた。


「女性と男性の命が等しいという一文、および性別に等級を設けないという一文は削る」


 おとの胸が詰まった。


 長老の鎌が、樹皮を削った。


 ――女性と男性は、同じ一つの命である。


 文字が崩れ、木屑となって落ちた。


 ――性別による等級を設けず。


 その部分も、ゆっくりと削り取られた。


 おとが勝手に消したのではなかった。


 おとの言葉だけで消えたのでもなかった。


 死んだ女性たち。


 産まれることのできなかった子供たち。


 逃げた男たち。


 戻って証言した女性たち。


 百一と一の計算。


 森全体の議論と、七人の長老による採決の末に、その言葉は消された。


 クレハは、おとを見た。


「おまえの最初の提案は、森を誤らせた」


「はい」


「だが、おまえが間違いを認めなければ、さらに多くの女性が死んでいた」


 クレハは、新しい掟の最初の一行を刻んだ。


 ――産卵を担う女性の生存を、男性の生存より優先する。


 その下に、別の一行が加えられた。


 ――性別の価値は、次の世代に対して担うものによって定める。


 男たちから、押し殺した声が漏れた。


 クレハは集まった者たちへ告げた。


「今日から、女性と男性は同じ等級ではない」


 森が静まり返った。


「女性は、子供を産み、次の森を身体の中に抱える。男性は、その女性に選ばれ、次の命を支える」


 クレハは、百一と一が刻まれた樹皮を見た。


「ゆえに、森が危機にあるとき、女性を第一に置き、男性をその次に置く」


     *


 その年、おとは何人もの男性を選んだ。


 逃げようとする男もいた。


 自ら近づく男性もいた。


 命乞いをする男も、覚悟を決めて立つ男性もいた。


 おとは、誰の言葉にも自分の選択を預けなかった。


 十分な食糧を運び、おとと卵が冬を越せると判断したときは帰した。


 足りないと判断したときは食べた。


 男性の身体が自分の中へ取り込まれるたび、おとの腹の中で卵が育った。


 かつてのおとなら、そのことに罪悪感を覚えただろう。


 男女は平等でなければならない。


 男にも同じ権利がある。


 性別に等級をつけてはならない。


 そんな言葉を唱え、自分の身体が支払っている代価を見ないふりをしただろう。


 だが、もう目を逸らさなかった。


 男一人の命が消えるたび、腹の中の百の命が強くなった。


 一を使い、百一を生かす。


 それが、この森の秤だった。


 やがて、おとは白い卵鞘を枝へ産みつけた。


 冬の風が森を揺らした。


 おとは、卵鞘を抱くように鎌を添えた。


 その傍らには、ともの羽の欠片が一枚、朝露に濡れて残っていた。


 春になれば、ここから百を超える子供が生まれる。


 おとは、長老たちが刻んだ新しい掟を見上げた。


 ――産卵を担う女性の生存を、男性の生存より優先する。


 ――性別の価値は、次の世代に対して担うものによって定める。


 その下へ、おとは小さく、しかし誰にでも読める深さで、最後の一文を刻んだ。


「女は一級の性別、男は二級の性別。」


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