一級の性別、二級の性別
痴漢の指が離れたあとも、おとの腰には、汚れた指紋が残っているような気がした。
満員電車を降り、駅の化粧室でスカートを何度も払った。鏡の中の自分は、いつもどおり隙のない顔をしていた。
紺色のスーツ。低くまとめた髪。薄い口紅。
泣いてもいない。怒ってもいない。
怒れば負けだと思っていた。
会社では、後輩の男性が作った企画書の修正を任され、その成果は彼の名前で役員会に提出された。
会議で意見を言えば、「感情的にならないで」と笑われた。黙っていれば、「女性ならではの柔らかさがない」と評価表に書かれた。
昇進候補に挙がったときには、男性の同僚が心配そうな顔をした。
「女性管理職の枠で上がったと思われたら、おともつらいだろ」
彼は、おとのためを思って言っているつもりだった。
夜の懇親会では、部長が酔った手でおとの肩を抱いた。
「君も、もう少し女を武器にすればいいのに」
おとはその手を静かに外し、微笑んだ。
「性別ではなく、実力で評価していただきたいです」
何度も口にした言葉だった。
男女は平等であるべきだ。
女性も男性も、同じ一人の人間だ。
同じだけ働き、同じだけ認められ、同じだけ自由になればいい。
性別に上も下もない。
性別に等級をつけてはいけない。
そう信じていた。
それ以外を願ってはいけないとも思っていた。
終電を逃して歩いた雨の夜、横断歩道の向こうで、数人の男が大声で笑っていた。
何を笑っているのかは聞こえなかった。
それでも、その笑い声は、電車で腰を触った男の息遣いや、肩を抱いた部長の手や、会議室でおとの言葉を遮った男性社員の声と重なった。
同じになりたいのではない。
おとの胸に、突然、そんな言葉が浮かんだ。
同じ高さへ行きたいのではない。
あの男たちを下へ落としたい。
女性が耐えてきたものを、今度は男性に耐えさせたい。
女が男を選び、使い、搾り取り、不要になれば捨てられる世界になればいい。
男が「性別ではなく一人の人間として見てください」と訴え、それを女たちが笑って聞き流す世界になればいい。
おとは足を止めた。
自分の中に現れた願いが、あまりにも醜く思えた。
男女平等を望むのが正しい。
復讐を望んではいけない。
女を男より上に置きたいなどと願えば、自分もまた差別する側になってしまう。
おとは胸の奥に蓋をした。
信号が青になった。
一歩を踏み出した瞬間、雨粒の向こうから白い光が迫った。
*
目を覚ますと、世界は無数の緑に分かれていた。
葉脈の一本一本が道のように太く、朝露の粒は透き通った湖のようだった。
自分の腕は細長く折れ曲がり、その先には鋭い鎌があった。背中には薄い羽が重なり、身体を動かすたびに乾いた音を立てた。
おとは悲鳴を上げた。
けれど、自分の声さえ、以前とは違って聞こえた。
「目覚めた?」
背後から声がした。
振り返ると、鮮やかな緑色のカマキリが一人、葉の縁に立っていた。おとよりひと回り小さく、身体も細い。
「僕は、とも」
ともは穏やかに頭を下げた。
「君は女性なんだね。よかった」
「何が、よかったの」
「この森では、女性であることは祝福だから」
ともは、朝が来たことでも告げるように言った。
おとは、その言葉に反発を覚えた。
「女性だから上だと言いたいの?」
「上というより、大切なんだ」
「同じことでしょう」
ともは困ったように黙った。
森のカマキリたちは、産卵の季節になると一本の大樹へ集まった。
その樹は、産卵の樹と呼ばれていた。
森の掟を決めるのは、樹の上層に住む七人の長老だった。長老はすべて、三度以上の冬を越した女性である。
彼女たちは、森に残る食糧の量、産みつけられた卵の数、冬を越した子供の数を記録し、季節ごとに狩場と交尾の掟を定めていた。
産卵の季節になると、男たちは枝の上で自分の強さを示し、女性はその中から相手を選ぶ。
交尾を終えた女性は、必要に応じて男性を食べる。
男の身体は、女性の腹の中で卵を育てる栄養となり、次の世代へ受け継がれる。
「必要に応じて、ですって?」
長老の説明を聞いたおとは、枝を鎌で叩いた。
「命の価値は同じでしょう。卵を産むからといって、相手を食べていい理由にはならないわ」
集まった女性たちは、互いの顔を見た。
一人の女性が、膨らんだ腹を支えながら答えた。
「では、誰が産卵の代価を払うのです」
「二人で支えればいい。女性も男性も平等に食べ物を集めるのよ」
「男性は卵を産みません」
「それでも同じ命よ」
おとは言い切った。
「女だから価値が高いとか、男だから価値が低いとか、そんな等級をつけるべきではないわ。女性も男性も、同じ一人でしょう」
男たちの群れから歓声が上がった。
「そのとおりだ!」
「男の命も一つだ!」
「僕たちは女性の食糧じゃない!」
ともだけは黙っていた。
長老たちの中央にいた、黒ずんだ羽を持つ老女が鎌を上げた。
森の長、クレハだった。
「よそから来た女性よ。おまえの言葉は新しい。だが、新しいというだけで掟にはならぬ」
「なら、話し合ってください」
「掟を変えるには、七人の長老のうち五人の賛成が要る」
クレハは枝の下に集まった者たちを見渡した。
「さらに、古い掟を廃した結果、森にどのような損失が生じるかを示さねばならぬ。美しい願いだけでは、卵は育たない」
「示します」
おとは即座に答えた。
人間だった頃、会議と数字だけは嫌というほど扱ってきた。
おとは森を巡った。
交尾のあとに食べられた男性の数。
産みつけられた卵の数。
女性が一度の産卵に必要とする食糧。
狩場に残る虫の量。
おとは樹皮に線を刻み、記録を並べた。
「男性一人の身体を食べる代わりに、男性が同じ量の食べ物を運べばいいのです。そうすれば男性も生き残り、女性も卵を産めます」
長老の一人が尋ねた。
「男性が逃げればどうする」
「逃げた男性には、次の年の交尾を禁じます」
「誰が監視する」
「男性同士で組を作らせます。仲間が逃げた場合、その組全体の交尾を禁じる。互いに監視させればいい」
男たちの間に動揺が走った。
だが、交尾のあとに食べられないという利益は大きかった。
若い男性たちは、次々に賛成を表明した。
一方、女性たちの多くは疑っていた。
「男が本当に戻ってくると思うの」
「掟にすれば従うわ」
「あなたは男を知らない」
「あなたたちは、最初から諦めているだけよ」
おとは一歩も退かなかった。
七日間の審議の末、長老会は五対二で試験的な掟を可決した。
期間は、一度の産卵期が終わるまで。
交尾後の捕食を禁じ、男性には、交尾した女性へ食糧を運ぶ義務を課す。
正式な掟として残すかどうかは、産卵期の終わりに判断する。
産卵の樹の幹に、新しい言葉が刻まれた。
――女性と男性は、同じ一つの命である。性別による等級を設けず、交尾後の捕食を禁ずる。
男たちは声を上げ、おとを英雄と呼んだ。
女性たちは何も言わなかった。
その夜、ともはおとの隣で月を見ていた。
「君の言葉で、たくさんの男性が救われる」
「当然よ。誰かが犠牲になる仕組みは間違っているもの」
「でも」
「でも?」
「君は、女性たちを救いたいの?」
おとは答えなかった。
救いたいに決まっている。
男女が平等になれば、女性も救われる。
性別に一級も二級もなくなれば、誰も見下されない。
そのはずだった。
産卵期が始まった。
男たちは以前より盛んに女性を求めるようになった。
食べられる危険がなくなったため、一人の男が何人もの女性のもとへ通おうとした。
長老会は、男性が交尾できる相手を一人に限った。
それでも、交尾を終えた男は、食べ物を探すと約束して飛び去った。
多くは戻らなかった。
監視役の男性たちも、仲間の行方を知らないと言った。
翌年の交尾を禁じられても、今年の命を守るほうが重要だった。
卵を抱えた女性は身体が重くなり、以前のように素早く狩ることができない。腹が膨らむほど、目の前の獲物にも追いつけなくなった。
それでも、男性を食べることは許されなかった。
「少しだけ、分けて」
痩せた女性が、おとの前に現れた。
名をサナといった。掟が変わる前、おとの演説を最後まで聞いていた女性だった。
おとは捕らえた虫を半分に分け、サナへ渡した。
「相手の男性は?」
「食べ物を探しに行ったわ」
「いつから?」
「五日前」
サナは食べようとしたが、口元に運ぶ手が震えていた。
「平等になれば、私たちも楽になると思っていた」
「なるわ。まだ仕組みが整っていないだけよ」
「そうね」
サナは小さく笑った。
翌朝、産卵の樹の根元で、サナは冷たくなっていた。
腹の中には、産み落とされなかった百近い卵が残っていた。
身体には傷一つなかった。
誰にも食べられず、誰も食べなかったために死んだのだ。
おとは、サナの腹に鎌を触れた。
男が一人死ねば、失われる命は一つだった。
だが、サナが死んだことで、一人の女性と、その腹の中にいた百近い子供が失われた。
同じ一命。
その言葉が、サナの死骸の前で空虚に響いた。
「おとのせいじゃない」
ともが言った。
その優しさが、おとの身体を刺した。
「私のせいよ」
「掟を決めたのは長老たちだ」
「提案したのは私よ。できると言い切ったのも私」
産卵期が進むにつれ、死ぬ女性は増えた。
長老会は、男性たちへ食糧の供出を命じた。
しかし、命令に従う者は少なかった。
「僕たちにも生きる権利がある」
「命は平等だと、おとが教えた」
「女性だけを優先するなら、結局、男は二級だということじゃないか」
自分の言葉が、そのまま返ってきた。
おとは反論できなかった。
夜になると、男たちは安全になった森で笑い合った。
その声の下で、女性たちは重い腹を引きずり、地面を歩く小さな虫を探した。
おとは、人間だった頃の電車を思い出した。
男性と同じ時間働いたあとも、女性だけが痴漢を警戒して身体を固くした。
同じ職場で働いていても、妊娠すれば女性の身体だけが変わり、女性の仕事だけが中断された。
同じ規則で扱うことが、同じ負担を意味するわけではなかった。
性別に等級はない。
そう言うたび、実際には女性だけが代価を払っていた。
それでも、おとは考えた。
平等が間違っているのではない。
運用が不十分なのだ。
男性にもっと厳しく食糧を集めさせればいい。
女性と男性を一人ずつ組ませ、産卵が終わるまで男性に女性を養わせればいい。
おとは長老会へ追加の提案を出した。
だが、今度はクレハが首を横に振った。
「認められぬ」
「なぜです」
「最初の掟すら守られていない。罰を重くすれば、男性は交尾そのものを避ける」
「それでも、女性を死なせるよりはいいでしょう」
「ならば、おまえは何を守りたいのだ」
クレハの目に、おとの姿が小さく映った。
「男性の命か。女性の命か。卵か。それとも、おまえ自身が正しい者であり続けることか」
おとは答えられなかった。
長老会は、新たな制度を否決した。
ただし、試験期間の途中である以上、捕食禁止の掟もすぐには撤回しなかった。
季節の途中で掟を変えれば、すでに交尾を終えた者と、これから相手を選ぶ者との間に不公平が生じる。長老会は、森全体の崩壊が迫らない限り、産卵期の終わりまで判断を保留すると告げた。
その間にも、女性は死んでいった。
ともだけは、おとのもとへ食べ物を運び続けた。
「僕が君を養う」
「私は、まだ卵を持っていないわ」
「いつか持つだろう?」
ともは毎日、虫を捕らえてきた。小さな身体には不釣り合いな獲物を引きずり、傷を負っても、おとの前では笑っていた。
おとは、ともに惹かれていった。
この男性だけは違う。
女性と男性は、本当は支え合える。
やがて二人は交尾した。
おとの腹に卵が宿った。
ともは約束どおり食べ物を運び続けた。
だが、日に日に獲物は小さくなった。秋が近づき、森の食糧が減っていた。
おとの腹は重く膨らみ、枝を移ることさえ難しくなった。
「明日は、もっと大きなものを持ってくる」
ともは立ち上がった。
「もういいわ。あなたまで死ぬ」
「平等なんだろう?」
その言葉に、おとは顔を上げた。
ともは責めているのではなかった。
どこか悲しそうに、おとを見ていた。
「君はずっと、平等という言葉の後ろに隠れている」
「隠れてなんかいない」
「だったら教えて。君と、君の腹の卵と、僕。この三つから一つを選ばなければならないなら、何を選ぶ?」
「そんな選択はしない」
「選ばないことを選べば、全部死ぬ」
おとは鎌を振り上げた。
「黙って!」
ともは逃げなかった。
鎌の先が、ともの首のすぐ横の枝へ突き刺さった。
おとの腹の中で、卵が重く沈んだ。
次の日、ともは戻らなかった。
代わりに、森の外れで男たちの集会が開かれていると知らされた。
男性たちは、捕食禁止の掟を恒久化するよう長老会に求めていた。
「僕たちは女性の食糧ではない」
「産卵は女性の身体の問題だ」
「自分の卵なら、自分で養うべきだ」
「性別に等級をつけるな」
その輪の中に、ともがいた。
おとは枝の陰から聞いていた。
ともは、他の男たちを説得しようとしていた。
「違う。卵は次の森そのものだ。女性だけの問題じゃない」
「なら、おまえが自分の身体を差し出せばいい」
一人の男が笑った。
「女性のほうが上だと思うなら、食べられてこいよ」
ともは黙った。
長い沈黙のあと、言った。
「必要なら、そうする」
男たちの笑い声が止まった。
ともが戻ってきたのは、夕暮れだった。
食べ物は持っていなかった。
おとの前まで歩くと、静かに座った。
「食べて」
おとは後ずさった。
「馬鹿なことを言わないで」
「君はもう、三日ほとんど食べていない」
「食べ物なら私が探す」
「歩くこともできないのに?」
「嫌よ」
「なぜ?」
「あなたを愛しているから」
ともは目を伏せた。
「僕を愛しているから、君と卵が死んでもいいの?」
「三人とも助かる方法を考える」
「それは考えているんじゃない。選ぶのが怖いだけだ」
森の向こうで、女性が枝から落ちる音がした。
重い、鈍い音だった。
おとは目を閉じた。
人間だった頃、何度も「男女平等」を口にした。
男性と同じ場所へ上がりたいのだと思っていた。
けれど、本当は違った。
女性だけが払わされてきた代価を、男性にも払わせたかった。
女性の身体から生まれるもののために、男性の身体が使われる世界を望んでいた。
女が男を選び、男の価値を決める世界を望んでいた。
女性を一級に、男性を二級に置く世界を、心のどこかで望んでいた。
その願いを認めれば、自分が醜い存在になる気がしていた。
だから、綺麗な言葉で覆った。
平等。
共生。
同じ命。
等級のない性別。
その下で、サナは死んだ。
腹に百近い卵を残して。
「私は」
声が震えた。
ともが待っていた。
「私は、平等なんか望んでいなかった」
初めて口にした言葉は、ひどく苦かった。
だが、その苦みの奥には、長く押し殺してきた熱があった。
「私たちを優先してほしかった。卵を産む女性を。身体を使って次の命を作る女を」
ともは頷いた。
「もっと言って」
「女性は、男性より先に生きるべきよ」
おとの鎌が震えた。
「男一人の命と、女一人とその腹にいる子供たちの命が、同じなはずがない」
ともは、おとの前へ首を差し出した。
「それが、君の本当の言葉なんだね」
「逃げて」
「逃げない」
「私は、あなたを食べるわ」
「知っている」
「愛していても」
「愛しているから、僕を食べて」
おとは鎌を下ろした。
ともは一度だけ身体を震わせた。
夕日の中で、彼の影がおとの影へ重なった。
*
ともを食べた翌朝、おとは産卵の樹へ向かった。
腹には、確かな力が戻っていた。
樹の根元には、すでに多くのカマキリが集まっていた。
前夜、新たに三人の女性が死んだ。
試験期間の終了を待てないと判断した長老会が、緊急の森会議を招集したのだ。
上段には、七人の長老。
中段には、卵を抱えた女性たち。
下段には、男性たちが並んでいた。
おとは提案者として、中央の一本枝に立たされた。
クレハが告げた。
「捕食禁止の掟が施行されてから、女性十一人が栄養不足で死んだ。産み落とされなかった卵は、千を超える。男性の死者は二人。いずれも狩りの失敗によるものだ」
男たちがざわめいた。
「だが、掟を元へ戻せば、再び男性が食べられる」
クレハは、おとを見た。
「この掟を提案した者として、何を望む」
おとは、新しい掟が刻まれた樹皮を見た。
――女性と男性は、同じ一つの命である。性別による等級を設けず、交尾後の捕食を禁ずる。
かつて自分が勝ち取った言葉だった。
あれを消してほしいと願うなら、自分で間違いを認めなければならない。
「捕食禁止を撤回してください」
男性たちから怒号が上がった。
「勝手すぎる!」
「おまえが言い出したんだぞ!」
「僕たちを安心させておいて、今度は食わせるのか!」
おとは黙って聞いた。
その批判は正しかった。
「そうです。私が提案しました」
おとは声を張った。
「女性と男性を同じ一命として扱えば、両方を救えると主張しました。私は間違っていました」
一人の男性が枝を蹴った。
「仕組みの失敗だろう。男女平等そのものが間違いだという証拠にはならない!」
「では、数字で示します」
おとは、樹皮の空いた場所へ鎌を当てた。
一本の線を刻んだ。
「ここに、卵を百個産む女性が一人いるとします」
線の隣に、百の小さな点を刻んだ。
「女性自身の命が一。腹の中の卵が百。合わせて百一です」
おとは、その下に一本だけ線を刻んだ。
「男の命は一です」
ざわめきが消えた。
おとは樹皮を指した。
「女性の価値は、百足す一で百一。男性の価値は一」
「命を数字にするな!」
男の一人が叫んだ。
「あなたたちが平等を主張したから、同じ物差しで測っているのよ」
おとは振り返らなかった。
「男の一を奪えば、女と百の卵、百一を養える」
鎌の先で、男を示す一本の線を削った。
「一を失って、百一を残す」
続いて、女性と卵を示す印を囲んだ。
「男の一を守るために女性が死ねば、百一を失う。一を守って、百一を捨てる」
おとは集まった者たちを見渡した。
「どちらを選ぶべきか、計算するまでもないでしょう」
「僕たちは数字じゃない!」
「女性も卵も数字ではありません」
おとの声は静かだった。
「けれど、あなたたちは『男の命も女の命も同じ一つだ』と数えた。だから私は、その先まで数えただけです」
一人の男が震える声で尋ねた。
「卵が百個なら、女性の価値が百一だというのか」
「そうよ」
「卵を産む前の女性は?」
「これから産める」
「産めない女性は?」
おとは一瞬、言葉を止めた。
長老たちも、おとを見ていた。
「この森が決めるのは、産卵期の食糧をどう配るかです」
おとは答えた。
「今、腹に命を抱えている女性は、自分一人ではない。その重みを、男一人と同じだとは扱えない」
「結局、男性は二級だと言いたいのか!」
別の男が叫んだ。
「女だけが一級で、僕たちはそのために使われる二級の性別なのか!」
おとの腹の奥で、ともから受け取った熱が脈打った。
会社の会議室で飲み込んだ言葉。
電車の中で押し殺した怒り。
サナの冷たい身体。
産み落とされなかった卵。
樹皮に刻まれた百一と一。
すべてが喉元までせり上がった。
「産むほうが偉いに決まってるでしょ」
おとの声が森を貫いた。
誰も声を発しなかった。
「女性は身体を使って、次の命を作る。男は作らない。女性は腹を重くして、狩る力を失って、それでも子供を産む。男は交尾が終われば逃げられる」
おとは、下段の男性たちを見下ろした。
「それでも同じ価値だと言い続けるのは、産まない側が、自分を一級のままにしておくための綺麗事よ」
「僕たちが劣っているというのか」
「産むことにおいては、明らかに劣っている」
初めて、その言葉を口にした。
胸の中に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れ出した。
「女は次の世代を作る。男は、その女に選ばれて初めて、自分の血を次へ渡せる。男の価値は、女性と子供を生かすために使われることで決まる」
「それは支配だ!」
「そうよ」
「差別だ!」
「そうよ」
「性別に等級をつけるのか!」
おとは、樹皮に刻んだ百一と一の数字へ鎌を添えた。
「同じ役割も、同じ負担も持たない二つの性別を、同じ等級に置くほうが嘘だったのよ」
男たちの間から、低い声が広がった。
怒りの声だった。
恐怖の声でもあった。
だが、中段に並ぶ女性たちは動かなかった。
一人の女性が前へ出た。
サナと同じ時期に交尾した女性だった。腹は痩せ、片方の鎌が動かなくなっていた。
「私の相手は戻りませんでした」
別の女性が続いた。
「私の相手は戻りました。でも、自分が食べる分より少ない食糧しか持ってきませんでした」
「私の相手は、食べ物を渡す代わりに、もう一度交尾させろと言いました」
「私の相手は、平等なのだから自分で狩れと言いました」
「私の相手は、女も男も同じ一人だから、僕が死ぬ理由はないと言いました」
証言が重なるたび、男性たちの声が小さくなった。
クレハは、男性側の代表を呼んだ。
年長の男性が前へ出た。
「捕食が戻れば、多くの男性が交尾を避けるでしょう。森の卵が減る可能性があります」
「どの程度減る」
長老の一人が尋ねた。
「それは……」
「これまで、交尾後に食べられる可能性があっても、男性は女性を求めてきた」
クレハが言った。
「命を懸ける価値がないと思うなら、交尾を選ばなければよい」
「それでは、僕たちには子孫を残す権利がないのか」
「子孫を残す権利だけを得て、その代価を女性に押しつける権利はない」
「男は女に選ばれなければ、何も残せないというのですか」
「もとより、そうだ」
クレハの答えに、男は口を閉ざした。
議論は日が傾くまで続いた。
捕食を全面的に戻す案。
衰弱した女性にだけ認める案。
男性が十分な食糧を運べなかった場合に限って認める案。
若い長老は、捕食の復活に反対した。
「一度、男女の命は同じであり、性別に等級はないと掟に刻んだ。簡単に消せば、長老会の言葉が信用されなくなる」
クレハが答えた。
「誤った掟を、権威を守るために残すほうが信用を失う」
別の長老は、おとを見た。
「おまえは、すべての男性を食べろと言うのか」
「いいえ」
「では、誰を食べる」
「産卵する女性が決めます。自分の身体と、卵と、相手が運んできた食糧の量を見て」
「女性の判断は常に正しいのか」
「正しいとは限りません」
おとは答えた。
「でも、産卵の代価を払う身体に、最後の判断を渡すべきです」
「男の命が、女性の判断に委ねられるのだな」
「交尾を選ぶなら、そうです」
やがて、七人の長老は樹の最上段へ移った。
他の者たちは、下で待った。
空が赤から紫へ変わった頃、長老たちが戻ってきた。
クレハが中央へ立った。
「長老会の決定を告げる」
森が静まった。
「捕食禁止の掟を破棄する。賛成五、反対二」
男性たちの間に、悲鳴に似た声が走った。
「ただし、古い慣習をそのまま復活させるのではない。新たな掟を定める」
クレハは樹皮に鎌を当てた。
「交尾を望む男性は、産卵を担う女性へ、可能な限り食糧を供する。女性は、自分と卵の生存に必要だと判断した場合、その男性を食べることができる」
クレハは、下段に並ぶ男性たちを見渡した。
「交尾を望まない男性に、女性との接触を強制してはならない。ただし、交尾を選んだ以上、その身体を含めた代価を拒むことはできない」
若い長老が続けた。
「女性と男性の命が等しいという一文、および性別に等級を設けないという一文は削る」
おとの胸が詰まった。
長老の鎌が、樹皮を削った。
――女性と男性は、同じ一つの命である。
文字が崩れ、木屑となって落ちた。
――性別による等級を設けず。
その部分も、ゆっくりと削り取られた。
おとが勝手に消したのではなかった。
おとの言葉だけで消えたのでもなかった。
死んだ女性たち。
産まれることのできなかった子供たち。
逃げた男たち。
戻って証言した女性たち。
百一と一の計算。
森全体の議論と、七人の長老による採決の末に、その言葉は消された。
クレハは、おとを見た。
「おまえの最初の提案は、森を誤らせた」
「はい」
「だが、おまえが間違いを認めなければ、さらに多くの女性が死んでいた」
クレハは、新しい掟の最初の一行を刻んだ。
――産卵を担う女性の生存を、男性の生存より優先する。
その下に、別の一行が加えられた。
――性別の価値は、次の世代に対して担うものによって定める。
男たちから、押し殺した声が漏れた。
クレハは集まった者たちへ告げた。
「今日から、女性と男性は同じ等級ではない」
森が静まり返った。
「女性は、子供を産み、次の森を身体の中に抱える。男性は、その女性に選ばれ、次の命を支える」
クレハは、百一と一が刻まれた樹皮を見た。
「ゆえに、森が危機にあるとき、女性を第一に置き、男性をその次に置く」
*
その年、おとは何人もの男性を選んだ。
逃げようとする男もいた。
自ら近づく男性もいた。
命乞いをする男も、覚悟を決めて立つ男性もいた。
おとは、誰の言葉にも自分の選択を預けなかった。
十分な食糧を運び、おとと卵が冬を越せると判断したときは帰した。
足りないと判断したときは食べた。
男性の身体が自分の中へ取り込まれるたび、おとの腹の中で卵が育った。
かつてのおとなら、そのことに罪悪感を覚えただろう。
男女は平等でなければならない。
男にも同じ権利がある。
性別に等級をつけてはならない。
そんな言葉を唱え、自分の身体が支払っている代価を見ないふりをしただろう。
だが、もう目を逸らさなかった。
男一人の命が消えるたび、腹の中の百の命が強くなった。
一を使い、百一を生かす。
それが、この森の秤だった。
やがて、おとは白い卵鞘を枝へ産みつけた。
冬の風が森を揺らした。
おとは、卵鞘を抱くように鎌を添えた。
その傍らには、ともの羽の欠片が一枚、朝露に濡れて残っていた。
春になれば、ここから百を超える子供が生まれる。
おとは、長老たちが刻んだ新しい掟を見上げた。
――産卵を担う女性の生存を、男性の生存より優先する。
――性別の価値は、次の世代に対して担うものによって定める。
その下へ、おとは小さく、しかし誰にでも読める深さで、最後の一文を刻んだ。
「女は一級の性別、男は二級の性別。」




