姉の身代わりで嫁いだ王女。白い結婚なのでパンを焼いていたら、夫から逃げ出せそうです。あれ?祖国も大変な様子。
もぐもぐもぐ。
結婚翌日の朝。
私、オフィーリアは一人きりの食堂で黒パンを噛みながら、深刻な事態に直面していました。
この結婚には、とても重大な問題があります。
私が、隣国マーレンの辺境へ嫁ぐことを嫌がった姉の代わりに差し出された、第五王女であること。
夫となったアルノー様から、初対面早々、
『私が愛するのはカーラだけだ。君を愛するつもりはない』
と宣言され、三十分ほどかけてカーラへの愛を聞かされたこと。
……ではありません。
だって、愛されなくても構いませんもの。
私は、国王陛下が一時期だけ寵愛していた平民の女性から生まれた娘ですから、王宮で私を王女として扱う者など、ほとんどおりませんでした。
食事を忘れられることも、寒くても薪をなかなか用意してもらえないことも、病で寝込んでも医師を呼んでもらえないこともありました。
まあ、あまり風邪を引かない質でしたけれど。
ですから、今さら誰かの愛が欲しいとも思いません。
夫人の仕事も家令に任せるそうで、私は好きに暮らしてよいそうです。
夜伽も、世継ぎも、夫の寵愛を得る努力も必要ありません。
これほど素晴らしい話があるでしょうか。
問題は、ただ一つ。
「パンが……もそもそしますの」
目の前に置かれた黒パンを、もう一度ちぎりました。
もぐもぐ、もぐもぐ。
噛んでも、噛んでも、口の中の水分を奪っていきます。
もちろん、黒パンが悪いわけではありません。
あくまで、わたくしの好みの問題です。
「白くて、ふわふわのパンが食べたいですわ……」
幼い頃、遠い国から運ばれてきた白パンを食べたことがあります。
時間が経っていたにもかかわらず、口へ入れれば柔らかく沈み、噛めばほのかな甘みが広がる、真っ白なパン。
あの日以来、私は白パンに目がありません。
私は黒パンを最後まできちんと食べ終えると、給仕をしていた侍女へ顔を向けました。
「厨房は、どちらですの?」
◆
「白パンは……ございませんの?」
料理長は、申し訳なさそうに頭を下げました。
「はい。この国では昔から、ライ麦の黒パンが主食でございますので、小麦のパンは作っておりません」
「でも、小麦はありますわよね?」
朝食のパンは黒かったものの、完全なライ麦パンとは少し風味が違いました。わずかですが、小麦が混ぜられていたはずです。
「ええ。小麦そのものはございます」
料理長は、厨房の隅に置かれた袋へ視線を向けました。
「ですが、この国は寒冷な土地でしょう。小麦が安定して採れるようになったのは、つい最近のことなのです。ですので、小麦でパンを焼く習慣がございません」
「もしかして……品種改良された小麦ですの?」
「ええ、その通りです。ですから小麦は、焼き菓子や祝いの日の料理へ、少量使う程度でございます」
ルナール国も同じでしたわ。
王宮で白パンが作られるようになったのも、本当につい最近のことですもの。
「でも、作ろうと思えば作れますわよね?」
「まあ……そうですが」
料理長は首を傾げました。
「今使っている発酵種は、酸味の強いライ麦の黒パンに合わせて育てているものですから……奥様がお望みの、柔らかな小麦の白パンを焼くには、小麦に合った発酵種を新しく育てた方がよろしいかと」
少し面倒そうです。
確かに、新しい発酵種まで育てようとは思いませんわよね。皆様、黒パンで困っていないのですから。
困っているのは、私だけです。
「エプロンを、お借りできますか?」
「え?」
「わたくしが作ります!」
厨房にいた全員が、目を丸くしました。
私はエプロンを着けて、煮沸して消毒した瓶へ小麦粉を入れました。そこへ、一度沸かしてから冷ました水を、少しずつ注いでいきます。
木匙で丁寧に混ぜていると、背後から料理長が声をかけてきました。
「奥様は、パンをお作りになったことがあるのでございますか?」
「ええ。わたくし、昔からパンを作っておりますの。ほら、ルナール国も寒い国でしょう? こちらと同じで、小麦のパンを作る文化があまりありませんでしたの」
加えて、ルナール国は雨や霧の多い湿った土地です。
発酵種は気を抜けばすぐに弱り、雑菌やカビも増えやすく、管理にはとても手間がかかります。
白パンを作ってほしいと厨房へ頼んだこともありましたが、第五王女のわがままなど、聞いてはもらえませんでした。
ですから私は厨房の隅を借りて、自分でパンを作っていたのです。
瓶の縁を、指先でそっと撫でます。
「うふふ……頑張って育ってくださいまし」
料理長は何か言いたげな顔をしていましたが、結局、何も言いませんでした。
それから三日後。
私は目を覚ますと、すぐに厨房へ向かいました。
布をかぶせておいた瓶を覗き込むと、昨日まで平らだった表面に、小さな泡がいくつも浮かんでいます。
木匙で混ぜれば、ぷつぷつと泡が弾けました。
「まあ。とても元気に育っていますわ」
私が満足して頷いていると、隣から料理長が瓶を覗き込みました。
「十分に育ちましたでしょう?」
「いくらなんでも早すぎます。まだでは……」
料理長は瓶へ顔を近づけ、香りを確かめます。
それから、信じられないものを見るような目で私を見ました。
「ね。もう使えますでしょう?」
「おかしい……普通なら、もう少しかかるものですが……」
「元気に育ったのですから、よいではありませんか」
「はあ……」
私は小麦粉へ発酵種と水を加え、少量の塩と砂糖を混ぜました。生地をしっかりと捏ねて丸め、布をかけて、暖かな竈のそばへ置きます。
しばらくして布をめくると、生地は最初の倍近くにまで膨らんでいました。
「まあ! 完璧ですわ!」
「えっ!? もう膨らんだのですか!?」
「よく働く酵母でしょう?」
「それで済ませてよいのでしょうか……」
生地をいくつかに分けて丸め、もう一度休ませます。それから、十分に熱した竈へ入れました。
やがて厨房の中に、小麦の甘く香ばしい匂いが広がり始めました。その香りは厨房から廊下へ流れ、屋敷中へと漂っていきます。
「……そろそろ焼き上がりますわ」
料理長が厚い布を手に取ろうとしましたが、私は先にそれを取りました。もちろん、私が取り出します。パン作りの醍醐味です。
「お、奥様。どうかお気をつけて」
「分かっておりますわ」
竈の扉を開け、焼き上がったパンを取り出します。
「うふふ……焼き上がりました!」
パンは、ふっくらと丸く膨らんでいました。
表面は淡い狐色に焼けています。
私は布越しに、パンの表面をそっと押しました。
「……押しても、きちんと戻ります。しっかり発酵できていますわ」
一つを手に取り、半分に割りました。
ふわりと白い湯気が立ち上り、焼けた小麦の甘い香りと、発酵によるわずかな酸味を含んだ香りが鼻をくすぐります。
「……ああ、よい香りですわ」
私はまだ温かなパンを小さくちぎり、口へ運びました。
「んんっ……!」
柔らかな生地が、口の中でしっとりとほどけていきます。噛めば小麦の甘みが広がり、ほんのりとした酸味が味を引き締めていました。
「おいしいですわ!」
料理長も、焼きたてのパンを一口食べました。
「……うまい」
低く呟き、もう一口ちぎって口へ運びます。
「……そんな馬鹿な」
「これです。これですわ! とってもおいしいですわ〜」
私は焼きたてのパンを、次々と口へ運びました。
厨房にいた者たちにもパンを配ると、最初は遠慮していた使用人たちも、一口食べた途端に目を見開きました。
「柔らかい……!」
「小麦のパンは、こんなに甘かったのか」
「もう一つ、いただいても?」
次々と伸びてくる手を見て、私は嬉しくなりました。パンというものは、一人で食べるより、皆で食べた方がおいしいもの。
そのとき、厨房の入口に人影が見えました。
若い女性が、洗い終えた布を抱えたまま、こちらを窺っています。
「カーラ」
近くにいた侍女が名前を呼び、表情を硬くしました。
ああ、あの方が、旦那様の愛しい方なのですわね。
カーラは頭を下げました。
「申し訳ございません。とてもよい香りがしたものですから……」
「ちょうどよかったですわ」
私は焼きたてのパンを一つ取り、彼女へ差し出しました。
「あなたも召し上がってくださいまし」
カーラは驚いたように顔を上げました。
「わ、私も、よろしいのでしょうか」
「もちろんです。屋敷の皆さんに配っているところですもの」
カーラはパンを受け取り、遠慮がちに一口かじりました。
「柔らかい……」
「ね。おいしいでしょう?」
「はい……とても」
カーラはパンを見つめたまま、小さく頷きました。
「奥様……よければ、もう一ついただけますか?」
「カーラ! 奥様に何をお願いしているの!」
近くにいた侍女が、慌てて彼女を咎めました。
「も、申し訳ありません……! 私、その……あまりにもおいしくて……」
「うふふ。気に入ってくださったのですね」
焼きたてのパンを一つ紙で包み、カーラへ差し出します。
「え……」
「どうぞ。お持ち帰りくださいまし」
「本当に……よろしいのでしょうか」
「ええ。もちろんですわ」
カーラは両手でそっと包みを受け取りました。
「……ありがとうございます」
彼女はパンを大切そうに胸へ抱き、何度も頭を下げました。
その日から、私は毎朝、厨房へ通うようになりました。
「今日も元気ですわね」
瓶の中でぷつぷつと泡を立てる発酵種へ声をかけると、まるで返事をするように、大きな泡が一つ弾けました。
「うふふ。よい子ですわ」
最初のうちは、使用人たちも緊張していましたが、数日もすれば、皆すっかり慣れたようです。
「奥様、今日は何をお作りになるのですか?」
「林檎を練り込んでみようと思いますの」
「それはうまそうですな」
「ダヨネー」
「焼き上がったら、皆さんも召し上がってくださいまし」
そう答えると、厨房のあちらこちらから歓声が上がりました。
毎日パンを焼いているうちに、料理長も私の発酵種へ興味を示すようになりました。
ある朝、料理長が小さな瓶を抱え、私のもとへやってきます。
「奥様……こちらの瓶にも、発酵種を少し分けていただけませんでしょうか」
「ええ、どうぞ」
「よ、よろしいのでございますか?」
「もちろんですわ。たくさんありますもの」
私は木匙で発酵種をすくい、料理長の持ってきた瓶へ移しました。
「よく声をかけて、褒めてあげてくださいまし」
「は、はい。大切に可愛がります」
料理長は小瓶を両手で抱え、宝物でも預かったような顔で持っていきました。
翌日から、厨房でも白パンが焼かれるようになりました。
焼き上がった白パンは、使用人たちの食卓にも並べられました。
皆が幸せそうに頬張る姿を見ていると、私まで嬉しくなります。
やがて白パンは、アルノー様の朝食にも出されるようになりました。
給仕をした使用人によれば、アルノー様は白パンを見ても、「そうか」と一言仰っただけだったそうです。
けれど、残さずきれいに召し上がったと聞き、私は少し鼻が高くなりました。
それ以来、アルノー様の朝食には、毎日白パンが出されるようになりました。
もっとも、アルノー様が私へ何か仰ることはありません。
お礼を言ってほしいわけではありませんし、気に入って召し上がってくださるのなら、それで十分です。
私は気にせず、毎日パンを焼き続けました。
ナッツを練り込んだパンや、チーズを包んだパンに、蜂蜜を少し垂らした甘いパンも作りました。
新しいパンを焼くたびに、使用人たちは喜んでくれました。
カーラも、厨房へ姿を見せるようになりました。
「奥様。今日も、とてもよい香りがします」
「今日はジャムを包んでみましたの。召し上がりますか?」
「いいのですか……?」
カーラはいつも遠慮がちでしたが、パンを渡すと嬉しそうに微笑みました。
「妹が、奥様のパンをとても楽しみにしておりまして」
「まあ。それでしたら、二つでは足りませんわね」
私が三つ目のパンを紙へ包むと、カーラは目を潤ませながら、何度も頭を下げました。
そんな日々が続いた、ある夕方のことです。
アルノー様から話があると呼び出されました。
執務室へ入ると、アルノー様は机の向こうから私を見ました。顔を見るのは、初夜以来ですわね。
アルノー様は綺麗な顔立ちをしているのに、眉間にはわずかに皺が寄っていました。
「最近、毎日のように厨房へ出入りしているそうだな」
「ええ。パンを焼いておりますの」
「それは聞いている。使用人たちへも、ずいぶん気軽に声をかけているらしい」
「皆さん、とてもよくしてくださいますもの」
アルノー様の眉間に、深い皺が寄りました。
「カーラにも渡しているようだな。彼女に気を遣う必要はない」
「気を遣う? わたくしは、パンをお分けしているだけですわ」
「君は辺境伯夫人だ。毎日厨房へ入り浸り、料理人の真似事をするような立場ではない」
私は瞬きをしました。
「ですが、アルノー様は、わたくしに自由にしてほしいと仰いましたわ」
「限度というものがある」
「……なるほど」
確かに、一理あります。
「分かりましたわ。これからは辺境伯夫人らしく振る舞います」
「そうしてくれ」
私は椅子から立ち上がり、アルノー様へ丁寧に一礼しました。
その翌日。
「奥様!?」
広場へ集まっていた領民たちが、驚いた顔で私を見つめました。
「発酵種はいかがですか〜?」
「はっこう……しゅ?」
「こちらを使えば、おいしい白パンが焼けますのよ」
私は近くにいたパン屋の主人へ、発酵種の入った小瓶を一つ差し出しました。
「さあ、遠慮なさらずに」
「え……無料でございますか?」
「ええ。どうぞ、お受け取りくださいまし」
こんなにおいしいものを、領主館の中だけで食べているわけにはいきません。
辺境伯夫人らしく領地を活性化させるため、白パン作りを広めることにしたのでした。
「毎日小麦粉とお水を足して、可愛がってあげてくださいね〜」
「わ、分かりました」
パン屋の主人は、小瓶を両手で大切そうに抱えました。
その数日後。
市場を歩いていると、あちらこちらから焼きたてのパンの香りが漂ってきました。
パン屋の前には、長い列ができています。
「あっ、奥様!」
私に気づいたパン屋の主人が、店から飛び出すように駆け寄ってきました。
「ご覧ください! こんなに膨らみました!」
差し出されたパンは、屋敷で焼いたものに負けないほど、ふっくらと丸く焼き上がっています。
「まあ。とても美味しそうですわ」
「驚きました! 私もこれまで何度か発酵種を育てましたが、ここまで膨らんだのは初めてです」
並んでいた女性も、笑いながら口を挟みました。
「昨日なんて、旅人が目を丸くしてたよ。こんな辺境で、こんな柔らかい白パンが食べられるのかって」
「その場で三つも買っていったんだ」
「うちの子も、黒パンには見向きもしなくなっちまってねえ」
「アラアラ」
「それは少し困りますわね」
私が笑うと、周囲からも笑い声が上がりました。
「これから、いろいろなパンに挑戦いたします。またいらしてください」
「まあ、楽しみにしてますわ」
私は上機嫌で、その店の焼きたての白パンを一つ買いました。
それからしばらくして、家令が嬉しそうな顔で私のもとへやってきました。
「奥様。改良小麦の在庫が、ものすごい勢いで減っております」
「まあ。皆さま、パンを焼いてくださっているのね」
「ええ。町のパン屋だけでなく、宿屋や食堂からも注文が入っております。旅人からの評判もよいようでございます」
「それは何よりですわ」
「来年は改良小麦の作付けを増やしたいと、農家からも申し出がございました」
私はとても嬉しくなりました。
これで小麦を使ったパン作りが定着すれば、もっといろいろな味が楽しめますもの。
アルノー様から止められることはありませんでしたので、きっとこれでよかったのでしょう。
それから、数か月が経ちました。
町ではすっかり白パンが定着し、今ではどのパン屋にも、小麦を使ったパンが並んでいます。
ライ麦を少し混ぜたパンや、バター入りのパン。
甘いクリームを入れたパンまで売られるようになり、私は市場へ出かけるたびに、新しい味を見つけては買って帰りました。
そんなある日のことです。
「奥様。王宮から使者がお見えになっております。旦那様とともに、応接間でお待ちでございます」
カーラの言葉に、私は手にしていたパンを置きました。
王宮から使者が来るような心当たりは――ありました。
もしかして、子どもができたかどうか確かめに来たのでしょうか。
わたくしたち、食事ですら別なのですけれど。
急に不安になりましたが、使者を待たせるわけにもいきません。私は急いで身支度を整え、応接間へ向かいました。
扉を開けると、アルノー様が長椅子へ腰かけていました。
その向かいには、王家の紋章が縫い取られた上着を身につけた、二十代半ばほどの男性が座っています。
淡い金色の髪に、澄んだ青い瞳。
整った顔立ちをしていますが、その表情は驚くほど動きません。
「お待たせいたしました」
私が一礼すると、男性は立ち上がりました。
「お初にお目にかかります、オフィーリア辺境伯夫人。農務局より参りました、ベルナールと申します」
私はそっと息を吐きました。
よかったですわ。違いました。
「本日は、発酵種についてお話を伺うために参りました」
「発酵種について?」
ベルナール様は昨日、町のパン屋から私が作った発酵種を分けてもらい、改良小麦を使ってパンを焼かせたそうです。
これまで農務局で試作したものよりも、はるかによく膨らみ、しかも弱りにくいのだとか。
ベルナール様は、瓶の中で弾ける泡をじっと見つめました。どうやら、発酵種のことが気になって仕方がないようです。
「パン屋の主人が申しておりました。毎日声をかけ、褒めて育てている、と」
「ええ。それが大切ですの」
「……承知しました」
本当に理解してくださったのでしょうか。
ベルナール様は瓶から目を離し、改めて私を見ました。
「本題ですが、夫人。王都へお越しいただくことは可能でしょうか」
「王都へ? わたくしが?」
「ええ。この発酵種が、他の土地で採れた改良小麦にも同じように働くのか、夫人ご自身に確かめていただきたいのです」
「行って、確かめればよろしいのですの?」
「それだけではありません。発酵種の育て方も、農務局の者へ直接ご指導いただきたい」
「夫人を王都へ行かせることは、簡単には認められません」
私はぱっと隣に座るアルノー様を見つめました。
まさか、アルノー様が止めるなんて。
「辺境伯閣下のご懸念は、もっともでございます」
ベルナール様はそう答え、机の上で両手を組みました。
「夫人は王族のご出身であり、辺境伯家の女主人でもある。長期間、領地を離れるとなれば、慎重になられるのは当然でしょう。ですが――」
澄んだ青い瞳が、まっすぐアルノー様へ向けられます。
「お二人は現在、夫婦として生活を共にしておられないと報告を受けております」
「まあっ」
私は咄嗟に口元を手で覆いました。
王宮には、もう知られていましたの?
ベルナール様は、何事もなかったかのように続けました。
「夫人はこれまでも、ご自身の判断で領内を巡り、町の者へ発酵種を配られたと伺っています。その活動を、閣下も認めてこられたのでしょう」
「……領内での活動と、王都へ赴くことは別だ」
「左様でございます」
ベルナール様は頷きました。
「ですので、まずは夫人ご自身に、王都へ赴く意思がおありか確認させていただきたく存じます」
彼はこちらへ顔を向けます。
「夫人は、王都へお越しになりたいですか」
そう言われ、私は机の上の発酵種を見つめました。
瓶の中で、大きな泡が一つ弾けます。
まるで、行っておいでと背中を押してくれているようでした。
「……はい。参りたいですわ」
王都へ行けば、さまざまな職人がいるはずです。
もっと小麦のパンを広めれば、今まで知らなかった、おいしいパンにも出会えるでしょう。
考えただけでも胸が躍りました。
ベルナール様は、アルノー様へ視線を戻しました。
「夫人は、このように仰っています」
「……」
「お、奥様。わたしもお供させてください」
後ろに控えていたカーラが、声を上げました。
「まあ。来てくださるの?」
「待て。カーラまで行く必要があるのか」
アルノー様が、すぐに口を挟みます。
「カーラ。君はこれまで王都へ行ったことはないだろう。それに、妹はどうする」
「……ですが」
カーラは言葉に詰まりました。
「……それでしたら、妹さんも一緒にお連れすればよろしいのではなくて?」
「え……?」
「お屋敷へ残して心配するくらいなら、一緒に来ていただけばよいですわ」
「ですが、妹までご迷惑をおかけするわけには……」
「迷惑ではありませんわ。人数が一人増えるだけでしょう? ベルナール様、よろしいですわよね?」
「護衛と馬車に余裕はございます」
ベルナール様は、何のためらいもなく答えました。
「では、決まりですわね」
カーラは深く頭を下げ、震える声で言いました。
「……ありがとうございます、奥様」
その横で、アルノー様だけが、ますます難しい顔をしていました。
こうして私は、ベルナール様とともに王都へ向かうことになりました。
けれど――
「では、明朝出発いたします」
「明朝?」
思わず聞き返しました。
「はい。すでに馬車と護衛は用意しております」
ずいぶんお急ぎなのですね。
王都へ行くと決まったばかりですのに、翌朝には出発することになるなんて思いませんでした。
慌ただしく荷物をまとめ、翌朝、カーラとその妹さんとともに、馬車へ乗り込みました。
向かいの席には、ベルナール様が座っていました。
馬車が屋敷を離れてからも、ベルナール様は膝の上に置いた書類へ目を通しています。
本当にお忙しい方なのですね。
私がぼんやりと窓の外を眺めていると、やがてベルナール様が書類を閉じました。
「夫人は、魔法をお使いになっていた自覚はございましたか?」
「……魔法?」
私は目を瞬きました。
「わたくし、魔法は使えませんけれど」
ルナール王家には、魔力を持つ者もおります。
けれど私は、幼い頃から何の力も持たないと言われてきました。
火を灯すこともできませんし、水を出すこともできません。
ベルナール様は、足元に置いていた鞄から発酵種の入った瓶を取り出しました。
「この発酵種を調べたところ、ごくわずかですが、魔力の痕跡が確認されました」
「魔力? 発酵種に?」
「夫人は、いつも発酵種へ話しかけておられるそうですね」
「ええ」
「何故ですか?」
「何故と言われましても……頑張って、と声をかければ、みんな頑張ると言ってくれますもの」
「発酵種が言うのですか?」
「はい。今日は元気ですとか、お腹が空きましたとか、もう眠たいですとか、いろいろ教えてくれますわ」
ベルナール様はしばらく私を見つめたあと、ゆっくりと息を吐きました。
「それが魔法です」
私はぽかんと口を開けました。
「夫人には、酵母の状態を感じ取る力があるのでしょう」
ベルナール様は瓶を持ち上げました。
中では、発酵種が小さな泡をいくつも浮かべています。
「そして夫人は、その声を聞くだけでなく、働きを強めることもできるらしい」
「まあ……」
それでは、私が声をかけるたび、発酵種が元気よく膨らんでいたのは、偶然ではなかったのでしょうか。
「ご機嫌いかがですか」
試しに声をかけると、瓶の中で大きな泡が一つ弾けました。続けて、ぷつぷつと細かな泡が増えていきます。
ベルナール様は、その様子をじっと見つめていました。
「やはり、夫人の声に反応しているようですね」
ベルナール様は瓶の蓋を確かめ、丁寧に鞄へしまいました。そして、先ほどまで読んでいた書類をもう一度手に取ります。
「夫人。あなたの魔法は、思っておられる以上に大きな力なのかもしれません」
「パンを焼くのに便利なだけでは?」
「現在、ルナール国から入る商人や使節の話に、奇妙な一致が見られます」
ベルナール様は書類を一枚めくりました。
「まだ関係があるとは断定できません。ですが、夫人がルナール国を離れた時期と、異変が始まった時期が一致しています」
「わたくし、パンを作っていただけですのに……ルナールで、何が起こっていますの?」
◆
「オイオイ、ダラケスギダロ」
「ヤルキネーモン」
「ワカルワー」
ルナール王宮の食料庫では、小さな者たちが床へ寝転がっていた。
ある者は樽の陰で昼寝をし、ある者は粉袋の上で脚を組み、ある者は果物の上を転がっている。
「ホメテクレルヤツ、イナイシ」
「ガンバッテモ、タノシクナイシ」
「モウ、コノクニデハタラカナクテヨクネ?」
「ソレナー」
小さな者たちは、次々と粉袋や果物の上から立ち上がった。
「オフィーリア、ドコイッタンダロ」
「サガシニイク?」
「イクイクー」
彼らは食料庫の隙間を抜け、風に乗るように消えていった。
酵母たちが去ったあとへ、別の者たちが、待っていたように入り込んでいった。
「ギャアアアアア!」
食料庫へ入った料理人の悲鳴が、王宮中へ響き渡った。
棚に並んでいたパンは真っ黒。
チーズは緑色に変わり、果物にはふわふわとした白い毛が生えている。
「またカビているぞ!」
「昨日届いたばかりの食材ですよ!?」
「ワインも酢も駄目です!」
「発酵する前に、全部腐ってしまいます!」
王宮の厨房は、大混乱に陥っていた。
◆
「……そういえば、ある頃から、王宮がカビ臭くなくなったと言われましたわ」
思い返せば、私が初めて上手にパンを焼けるようになった頃です。
それまでの王宮は、寒いうえに湿気が多く、食料庫ではカビが生えることも珍しくありませんでした。
「酵母たちが、夫人のもとへ集まったのでしょう」
ベルナール様は、手元の書類へ目を落としました。
「そして夫人が国を離れたことで、酵母たちもルナール国を去り始めた」
「それで、カビが増えたのですか?」
「酵母たちがいなくなった場所へ、腐敗を好む者たちが入り込んだのでしょう」
ベルナール様は書類を閉じ、膝の上へ置きました。
「まあ、一時的な混乱でしょう。ルナール国も、いずれ対策を講じるはずです」
「それなら、安心しましたわ」
「ええ。ですから――」
ベルナール様が、初めて笑いました。
けれど、それは口元に浮かんだ、薄い笑みでした。
「オフィーリア様には、今後とも我が国のためにお力をお貸しいただきたいものです」
「……あら」
なぜでしょう。
王都へ向かっているだけのはずなのに、もう帰ることを許されないような気がします。
わたくしの未来は、いったいどうなるのでしょう。
「ツギハ、ナニカモス?」
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
今後の作品づくりの参考にしたいため、率直な★評価をいただけると嬉しいです。
面白かったところや、物足りなかったところなどもございましたら、感想で教えていただけると大変参考になります。
レーズン酵母「デバンガナイ……ダト?」




