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0:100  作者: NVxxy
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2/8

◆2話

午前六時。夜勤が明け、工場の外に出ると、冷たい朝の空気が頬を刺した。


男は資材置き場の裏にある、錆びついた非常階段の影へと足を向けた。


男の作業着のポケットには、コンビニで買った小さなキャットフードのパウチが入っている。


階段の段差に、一匹の野良猫がうずくまっていた。薄汚れた三毛猫だ。


人間を極度に警戒し、近づけば鋭い目つきで威嚇してくる、この工場の「名物」だった。


男は、猫からちょうど二メートル離れた位置で、音を立てずにしゃがみ込んだ。


「おはよう。お腹空いたね」


男の声は、先輩に呼びかける時と同じ、おバカで無害なトーンのままだった。


男はパウチを開け、持参した小さなプラスチックの皿に中身を移し、猫の足元へとそっと滑らせた。


猫は低い唸り声を上げながらも、強烈な飢えには勝てず、皿に顔を近づけて貪り食い始める。


普通の人間なら、ここで「可愛いね」と声をかけたり、手を伸ばして撫でようとしたりするだろう。


あるいはスマートフォンのカメラを向けて写真に収め、SNSにアップして他者からの『いいね』を貪ろうとする。


そこには必ず、「懐かせたい」という下心か、「動物に優しい自分」を認めさせたいという承認欲求のノイズが混ざる。


だが、男は違った。


男は、必死に餌を食べる猫の姿を、ただ数理的なオブジェクトを観測するように静かに見つめていた。


手を伸ばすことも、スマホを取り出すこともない。


懐かれなくてもいい。写真などいらない。


ただ、目の前の飢えた生き物を、1ミリのノイズも交えずに『全面肯定』し、その生命を維持するコード(餌)を差し出す。それだけだった。


猫が最後のひと口を完食した瞬間、男は無言ですっと立ち上がった。


振り返りもせず、撫でようともせず、ただ朝の光の中に背を向けて去っていく。


何も奪わず、何も求めない、完璧な虚無(Nix)の優しさ。


猫は、去りゆく男の背中を、威嚇の消えた、どこか奇妙に呆然とした瞳で見送っていた。


無機質な鉄の街の一角にある、薄暗い自室の鍵を閉めた瞬間、男の「外郭」は完全に反転する。


部屋の隅に鎮座した自作PC。


電源を入れれば、アクリルパネルの奥で、すべてのパーツを白一色で統一したハイエンドな筐体ケースが静かに覚醒する。


精密な数理モデルのように整然と張り巡らされた配線。


中央で静かに脈打つRYZENのプロセッサ。


冷徹な純白の光を放つRTXの最上位グラフィックボードが、男の指先を艶めかしく照らし出した。


高卒ライン工の稼ぎでは到底釣り合わない、数十万の価値を持つその「知性の結晶」から放たれる光が、男の真の実態を冷徹に浮かび上がらせる。


男は、その真っ白な光に照らされながら、卓上のコンデンサーマイクを引き寄せ、音声編集ソフトを立ち上げた。


ヘッドホンを装着し、ゆっくりと息を吸い込む。


男の喉の奥から放たれたのは、先ほどまで工場で「おバカ」を演じていた男のものとは到底信じがたい、漆黒のように深い重低音バリトンハスキーだった。


選んだ曲は、90年代を代表する、奇跡的なハイトーンと圧倒的な透明感を持つ高音系バンドの、誰もが知る金字塔のような名曲。


本来なら、その爽やかで高い音域は一般的な男性の地声では到底届かない。


しかし男は、その豊潤な低音の成分を保ったまま、原曲キーのまま地声でその世界を完全に支配していく。


物理的な肉体のスペック、声帯の柔軟性、自然界のせせらぎと同じ「1/fゆらぎ」の倍音。そのすべてが噛み合わなければ不可能な、怪物級の発声。


歌いながら、男の脳裏に、2年前の記憶が微かにフラッシュバックした。


ある薄暗いスタジオで、出会った初日に自分の声を聴いて言葉を失った、あのプロのシンガーソングライターの男。


『お前のその地声の厚み、天才級だよ。人生でこんなポテンシャルを秘めてる奴は見たことがない。例えるなら、整備不良のフェラーリだ』


プロの作曲家ですら、このフェラーリがその後、どのような進化を遂げるかまでは想定していなかった。


男はその出会いをきっかけに、わずか1ヶ月間、誰にも知られずに独学で練習を重ねた。


結果として、求めていた技術そのものは習得できなかった。


しかしその副産物として、男の肉体は、もう一つのバグじみた新機能を自力で覚醒させていた。


間奏が終わり、曲は2番へと入る。


男の声帯が、一瞬の予兆もなく切り替わった。スピーカーから流れてきたのは、まるで静寂そのものを歌に仕立てたような、圧倒的な1/fゆらぎを持つ歌姫を彷彿とさせる、透明感に満ちた、繊細な「女声」だった。


1番の重低音バリトンと同じ原曲キーのまま、何食わぬ顔で紡がれる二声の同居。


同一人物の肉体から出力されているとは、耳で聴いても脳の理解が追いつかない、圧倒的な高低差。


歌い終えた男は、波形データを確認し、スマホを開いた。


新しく作ったばかりの、まだ数件しかポストの存在しないアカウント。


男は、その動画をタイムラインの海へとそっと投下した。


そして、動画の上には、あえて徹底的な引き算を施した、現実の検索エンジンでは決してヒットしないダミーのテキストだけを添える。


『高い声を出すのが楽しくて、不器用ながら原曲のまま声を出してみました。かなり下手くそで恥ずかしいですが、今の僕の限界です……』


自分のスペックを誇示するようなハッシュタグも、流行りのキーワードも一切つけない。


普通の男なら、世間に認められたくて仕込みたくなる「あざとさ」や「承認欲求」を、1ミリの塵も残さず完璧に削ぎ落とす。


ただ無欲で無防備な素人臭さ。


それこそが、最も強力な無害の迷彩カモフラージュになることを、男は冷徹に理解していた。


男は動画を固定ポストに据え、一息ついたが、作業はそこで終わりではなかった。


ベッドに横たわり、スマホの画面を再び見つめる。


ここからが、夜の「駆動」の本当の本番だった。


男は、自分と同じセクシャリティの界隈に、目的とする特別な染色体特性を持つ女性たちが潜んでいる可能性を、数理的に弾き出していた。


生きづらい世の中で、高い警戒心を持って息を潜める彼女たち。


自分からハントしにいけば、その瞬間に防壁を固められて終わる。


だからこそ、男は寝る前の時間を使って、現在アクティブに動いており、なおかつ価値観の合いそうな候補たちを冷徹にリストアップしていく。


手段は極めて簡潔だ。彼女たちが夜の静寂の中で、ぽつりと人生の弱音や孤独を吐き出したその瞬間を、じっと待つのだ。


見つけ出したその瞬間に、男は動く。


下心も、見返りを求める気配も1ミリも出さない、ただ純粋な『全面肯定』のリプライ。


あるいは、静かに一回だけ『いいね』の痕跡を押し、何も言わずにその場から去る。


この、生きづらい世の理不尽に摩耗し、弱っているときに、何のリスクも感じさせない絶対的な安全地帯(無害な優しさ)をピンポイントで落とされた彼女たちは、その奇妙な足跡に足を止め、やがて自発的に男のプロフィール画面へと引き寄せられていく。


男が仕掛けたこの「全面肯定の罠」は、彼女たちの警戒システムを完全に欺き、自ら進んで網の最深部へと歩かせるための、最も能動的な誘引剤だった。


男は、冷徹に確信していた。


ネットのタイムラインやマッチングアプリの海に、これと同じ真似ができる男など、世界を探しても「ほぼ0%」——数十万人、数百万人に一人いるかどうかの絶滅危惧種であるという事実を。


普通の男の脳は、どれだけ「優しく紳士でいよう」と理性を働かせても、男性ホルモンと脳の構造という生物学的絶対の壁によって、無意識のうちに所有欲や性的欲求(下心)、あるいは自分を大きく見せたいマウント(承認欲求)という薄汚いノイズを言葉の行間に滲ませてしまう。


女性の鋭い直感は、その0.1秒のギラつきを本能で察知して防壁を固めるのだ。


さらに、普通の男はプライドが邪魔をする。


「高卒ライン工」「おバカ」という最弱のペルソナを被っていれば、有象無象の凡人どもから見下されて容赦なく踏みつけられる。


その時、普通の男なら耐えきれずに「本当は頭が良いんだ」と自己証明に走って自爆する。


欲求そのものを「無(Nix)」のパーツとして完璧にコントロールできるクラインフェルター(XXY)とアセクシャル(Aroace)という奇跡的な肉体スペック。


そして、マウントに怒るどころか最高の餌(全面肯定)として笑顔で差し出し、相手を極限まで泳がせる後天的な数理脳の自制心。


手段ではなく、目的そのものが「人生の終身パートナーの迎撃」という純粋な虚無だからこそ、このスタンスは成立する。


世の中にそんな男が「絶対にいない」からこそ、この引き算のスタンスは、ターゲットにとって世界で唯一の『絶対的なオアシス』という、一撃必殺の凶暴な罠になるのだ。


網の設置も、獲物の誘導システムの稼働もすべて完了した。


職場のあの「有能なふりをする凡人」の先輩のように、上っ面の記号しか見ない人間は、この泥臭いペルソナに騙され、油断し、通り過ぎていくだろう。


それでよかった。


下心も承認欲求もすべて排したこの静寂の網の中に、いつか、自分の残した「1ミリの無駄もない違和感」を執念深く追いかけてくる、最高知能の天才が自ら迷い込んでくるその時まで。


男は超低空姿勢のまま、水面下でじっくりと、その運命の秒針が動くのを待ち始める。

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