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器官は嘘をつかない:七瀬祓の独白その3

「もう会うこともないでしょう、Never See You Again」

車を降りた私に菅野(かんの)さんの奥さんはそう言って手を振った。

白いBMWが視界から消えるのを見届けた。私の右手はハンカチと50万円の入った封筒を握りしめている。その二つを眺めていると思わず言葉が漏れた。

「結局こうなるんだ…」

夕方の5時を過ぎても、太陽は真昼のように照りつける。車の冷房の心地よさのおかげで、暑さのことも自分がその場に立ち尽くしていることも忘れていた。

部屋に戻ると同時に疲れが噴き出してくる。車の中で差し出されたハンカチに手を触れた時、菅野さんの奥さんが口にした「手触り」という言葉が、私の耳には「テッサリア」と聞こえた。テッサリアは死者が集まる場所と言われるギリシャの都市。夫の浮気相手を死者の仲間に入れるつもりで彼女は私に会いに来た? そう考えたら緊張が止まらなくなった。このまま車でどこかに突っ込んで私と心中するつもりかもしれない。いざとなったら走っている車から飛び降りるしかない。いろいろと覚悟をした。

何も起こらなかった。

彼女は途中からまったく口を開かなくなり、悪いことでも考えているような微笑を浮かべて、悠々とハンドルを握っていた。どこをどう回って来たのかわからないまま私は家の前で車から降ろされた。

封筒から出した50枚の一万円札を一枚ずつフローリングの床に並べた。福沢諭吉と渋沢栄一が適度に混ざるのが今っぽい。二年前に渋沢栄一はいなかったし、二年もたてば福沢諭吉もレアになるだろう。そもそも現金なんてまず使わない。

不倫相手の妻から手切れ金をもらうなんて、そうそうあることではないだろう。私にとっても初めての体験だ。

でもまとまったお金なら一度だけもらったことがある。もと入院患者が私に百万円をくれた。そのお金も手をつけずこの部屋においてある。

退院してから再会したのは全くの偶然だった、と私は思いたい。



夜勤明けで駅に向かう途中、商店街のコンビニの前でひどくむせてうずくまっている髪の毛の薄い男の人を見た。私は考える間もなくかけより、背中をさすって「大丈夫ですか?」と声をかけた。

発作がおさまり立ち上がったその人は、振り向いて私の顔を見て嬉しそうに言った。「看護師の七瀬(ななせ)さん? 神代(かみしろ)です、その節はお世話になりました」

「ああ、神代さん、ご体調悪いんですか?」私の口からはルーティーンのように言葉が出た。彼の顔を憶えてはいなかったが、神代という名字は記憶に残っていて、その記憶には狭心症という病名が紐づいていた。

「いえ、そんなことないです、ただ時々発作のような咳が出るんです、朝ちゃんと薬を飲まなかったのがよくなかったかな?」

「ダメじゃないですか、しっかり飲まないと」

「そうだよね、いやあ、朝食べるものがなくてコンビニに買い物にきたら発作が出ちゃって、…実は近々名古屋の親元に帰ることに決めた、それで家の中を一生懸命片づけたら食べ物がないことに気がついて…」

「引っ越しされるんですか?」

「親の面倒を見ようかと思ってね、そんな気持ちになれたのも病気になって入院して、七瀬さんに親切にしてもらったからだよ、おかげで最後の親孝行ができる」

「最後だなんて…」

「しかたないことだよ、七瀬さん、一緒に朝食でもどう? 最後にお礼させてもらいたいんだよ、お願いします」

「え、でも」

「デニーズくらいしかないけどそこをなんとか」

拝むような彼の口調で私は断れなかった。

デニーズは商店街が終わった先にある。駐車場を確保するには商店街の中は無理だろう。何を頼んでもいいと言われたけどその時間は頼めるものがモーニングしかなかった。

「デニーズってスペースが広くていいですね」

「ああ、この大きいテーブルのおかげで君との距離が遠い、こういうのセクハラかな?」

「どうなんでしょうか…、お食事終わったらちゃんと薬飲んでくださいね」

「大丈夫、忘れずに飲むよ」

そういって神代さんはうつむくと突然涙を流した。

「どうしたんですか?」私は驚いて訊いた。

「もっと若い時に病気になればよかったんよ、オレは、…そうすればもっと早くもう少しだけまともな人間になれたんだ、…入院したばかりの頃のオレは嫌な患者だっただろうね?」彼は顔を上げて訊いた、涙と笑顔が混ざっていた。

「いえ、そんな…」

「いいですよ、もうハッキリ言ってください」

「いえ、その、…今はすっかり穏やかになられましたね?」私は相変わらずルーティーンのように答える。申し訳ないけど彼の印象なんて何も残っていなかった。

「あの頃は酷かった、今ならわかる、…あんなふうに親切にされたことって人生で初めてだったんだ、本当に…」

私はどう言葉をつないでいいのかわからなかった。

「少し自分の話をしてもいいですか?」

「聞かせてください」

「この前50になって、そのタイミングずっと働いていた会社を辞めたんだ、病気が理由じゃないよ、長く働いてたし病気くらいではクビにするような会社でもない、いようと思えば定年まではずっといられる、でももういいと思ってね、…今の会社は、ああ、もう辞めたから今じゃないか、その会社は2社目でね、最初に入った会社は3年で辞めて転職した、転職先の会社はもとの会社で自分が担当してた取引先だった」

私に何かを訊いてほしいかのように彼は間を取ったが、その何かが私にはわからなかった。彼は諦めたように話を続けた。

「転職した理由は誘われたから、…いい機会だったんだ、誰にも話したことないけど、…新卒で入った会社は優秀な人間ばかりで正直限界を感じてた、転職先だったらレベルも低そうだし、楽に働けると考えた、そもそも自分がお客にしていた会社だったからヤツらがいかにボラられているかを知ってた、だからプロとして乗り込んで業者にはとても厳しく接した、自分はプロだからぼられたり騙されたりするのが許せなかった、おかげでどの業者からも嫌われましたよ、オレはそれが会社のためだって信じて働いた、それなのにプロパーで入ったやつらは業者と仲良くして接待されたいやつばかり、自分たちがバカにされていることもわからない、話すネタと言えばオレの悪口くらいしかない、ずっとそんな環境で仕事してたんだ、ストレス発散はキャバクラと酒、キャバクラの姉ちゃんたちの前で威張り散らしたよ、同僚はキャバクラで接待されて業者のいいなりになってたけど、オレは接待はすべて断った、キャバクラは全部自腹、他に趣味もないし家族もいないしそれくらいしかお金を遣うことがなかった、給料結構もらってたから」

「結婚しようとは思わなかったんですか?」

「本気でしようと思えばできたのかな…、オレはもてなかった、病気になってはじめてわかったことがある、オレは何も残せなかったことと、自分には優しさというものがまったく抜け落ちてたこと」

神代さんは他愛のない会話のできない人なのだろう、私はそう感じた。話は重い方向へ傾こうとするが、夜勤明けの私の目を覚ましてくれるほど興味深くもない。プレートの朝食を平らげた私は無駄な努力と思いながらも眠そうな顔を作ってみた。予想外なことに彼は察してくれた。

「疲れちゃった?」

「ごめんなさい、薬ちゃんと飲んでくださいね」

「帰ったら飲まなきゃ」

「そうですね、ごちそうさまでした」

神代さんは淋しそうな表情を見せた。彼が次に何を言うのか少しだけ期待したけど、「じゃあ行こう」というありきたりの言葉しか出てこなかった。

デニーズを出てすぐに彼はまた激しくむせた。私が背中をさすると彼は言った。「タクシーで帰りたい」

周囲を見回したけれど、タクシーの姿はない。

「駅前のタクシー乗り場から拾ってきます、ここで待っていてください」

「ありがとう」

私は彼を残して通り駆け出した。ゆっくり歩いたら10分かかる距離を走り、タクシー乗り場の空車に乗り込んでデニーズの前へ戻った。神代さんは私の隣に座ると運転手に住所を告げた。咳は収まっていた。運転手は復唱しながら住所をカーナビに入れた。聞いたことのない地名だった。見覚えはないものの記憶しようとしても何の印象も残らない景色の中をタクシーは進む。信号でひっかかるたびに、後部座席に全体重をかけて黙っている神代さんは、少しだけ首を動かして微かに目をあけて景色を確認してまたすぐに目を閉じる。私は料金が気になってメーターを見る。5000円を過ぎたところで運転手はブレーキをかけ「こちらでよろしいですか?」と振り向かずに言った。

私は神代さんに続いて車に降りて、マンションのエントランスに入った。その通りを何十往復しようとも、そこにマンションがたっていることさえ誰も気がつかない、築年数が経過して街に溶け込んだよくあるマンションだった。エレベータの中のボタンは8階まで。彼は「2」のボタンを押してぽつりと言った。

「病気してから階段がしんどくなった」

「そうですよね」私は唯一思いついた言葉を返した。

彼のあとをついて当たり前のように部屋に入ってしまった私は、スニーカーを脱ぎながら「薬を飲むところを見届けたら帰りますね」と言った。

部屋の中には段ボールが綺麗に積み上げられ、棚という棚がスカスカ。絵に描いたような引っ越し前の家の中だ。

テーブルの上にはコンビニで買った割りばしとプラスチックのコップの束、それに薬の袋が並べて置いてある。食器の箱詰めも終わったらしい。すごい几帳面な人なのだろう。

「大事なことやらないと」彼はそう言って冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して薬を飲んだ。

私は緩慢な動作を見守り、そして言った。「少し横になった方がいいと思います」

彼はしばらく私の顔を見ていた。たぶん部屋に入ってから初めて私の顔を見た。そして苦しそうに顔をしかめ、言った。「一つだけお願いきいてもらえる?」

「なんですか?」

「添い寝してくれないか?」

私はなぜかたじろぎもせず言葉を返した。「本気で言ってますか?」

「本気で言ってる、本当に添い寝だけでいい、…オレできないから」

「わかりました、着替えますか?」

彼の方がたじろいだ顔をした。「大丈夫、このままで…」

セミダブルのベッドは病人の匂いがした。彼はベッドに入り、私も隣に横になった。

「いい匂いがする」彼はそう言うと私に指一本触れずに寝息をたてていた。その寝息を聞きながら私も眠りに落ちた。

ハッとして私はベッドから飛び起きた。服はまったく乱れていない。神代さんはベッドで笑っている。腕時計を見ると12時を過ぎていた。

「ごめんなさい」私の口からとっさに言葉が出た。

「謝ることなんてない」彼はごそごそとベッドの上で向きを変え、ベッドのマットレスの下に手を突っ込むと厚い封筒を取り出した。

「ありがとう、お礼に取っておいてくれ」彼は私に封筒を渡す。

「何ですか?」私は受け取った封筒の中身を確認する。

帯封のついた一万円札の束。100万円。

「こんな大金受け取れません」私は言った。

「正当なお礼だと思えばいい、病院じゃあ受け取ってもらえないでしょう? 100万円は七瀬さんにとっては大金かもしれないけどオレにとっては大金じゃない、だから気にしなくていい、心からの気持ちのつもりだ」

確かに心からの気持ちとして大金を渡す人はいないだろう、私は笑いそうになるのをこらえた。

神代さんとの関係はこれでおしまい。私は1時間ちょっと添い寝をしただけで100万円をもらった。人間はお金のために働くし、労働の対価は金銭で表すしかないかもしれないけれど、お金は決して価値を表現するものではないのだろう。彼が言った心からの気持ちという言葉を私は信じている。喉元を過ぎれば熱さを忘れると言う。病気やけがで入院しても治れば病院で過ごした時間のことは人は忘れていく。病気が治らない人の方が感謝の気持ちを忘れないのかもしれない。

あの時はわからなかったことが、今ならば少しわかるような気がする。清原先生の言う通りだ。医者よりも陰陽師に病気を治してほしいと願う人は世の中に一定数いるのかもしれない。

神代さんの話は職場の同僚はもちろん、看護学部時代の友人にも話せなかった。一度だけ一般企業で働いている高校の同級生に話したことがある。彼女は「そのおっさんキモイ」の一言で笑い飛ばした。そのせいで100万円までたどり着く前に話題が変わった。



「来た!」そう言葉にしたかったが口を開くと大変なことになる。私は息を止めてトイレに駆けこみ、むせながら激しく嘔吐した。


トイレから戻った私は下を向いたまま壁を伝わりながらベッドへ向かった。視線を下げていたせいで書棚の下の方にあった一冊のノートのオレンジ色の背表紙が目に留まる。ひっかけるようにそのノートを掴むと私はベッドにうつ伏せに倒れこみ、同時にその手帳を放り出した。はあはあという荒い呼吸は徐々に徐々に安定する。看護師の頃に、覚えたことを家で復習するために使っていたノート。ページをめくると、びっしりと並んだ昔の自分が書いた文字に目を奪われ、紙とボールペンのインクから懐かしい匂いが漂ってくる。

よく勉強してたわ、思わず言葉が口から出た。それに比べて今はまったく勉強していない。字を書くこともない。それでも仕事で困ることはまったくないし、前よりもずっと楽をしてずっと高い給料をもらっている。私はため息をつき、そして思う。どうしてこのノートを手に取ったのだろう? この苦しさを緩和する方法が書いてもあるとでも思ったのか? まともな判断力もないいまの私は相当弱っている、それだけはわかった。何気なくページをめぐると五芒星のイラストと、陰陽師に関する書き込みがあった。その中に「客星月に入れり(かくせいつきにれり)」という文字の並びがあった。こんな印象的な言葉を今なら簡単に忘れることはないだろう。あの頃の私は、日々忙しすぎてこの文字を書いたことさえ一瞬のうちに忘却していた。文字を見ながら私は伊知子さんの言葉を思い出す。

「陰陽師が書いた日記にこんな言葉があるの、客星月に入れり、普段はその場所には見えない星、彗星かもしれないし、その時期にだけ見えた恒星かもしれない、その星が月と重なって見えた、ただそれだけのことだけど私とあなたが重なったら面白いことができそうだと思わない?」

ああ、これだった。数日前に清原(きよはら)先生の夢を見て昔のことを思い出した時に、抜け落ちていることがあると感じたのはこの言葉だった。

あの時はこの言葉に何か運命的なものを感じたのかもしれない。時を経れば言葉の印象は変わる。病院の元同僚たちから見たら、逃げ出した私と清原先生は重なっているように見えるのかもしれない。どちらが月でどちらが客星かはどうでもいいけれど。でも、私と清原先生の間には何光年も離れたとてつもなく長い距離がある。何も重なっていない。菅野さんもそうだ。上からは重なり合っているように見えても、横から見たら全然重なってない。肝心なところには届いていない。体は重ねたけど心は重ならない。それでいいと頭では思っていた。人は見たいものしか見ない。奥行には思いもよらない。見えないから夢がある。実態がわかったら興ざめなんてことはよくあること。

あるドクターに言われたことがある。器官は嘘をつかない、と。強烈な吐き気がいつも別れを切り出すきっかけだった。私の中のせめてもの倫理観がそうさせているのだろうと信じてきた。

たぶん違う。あと腐れのない空虚な関係で私の体は満たされたつもりだった。私の体の中の器官はそのことを全く受け入れていない。受け入れろという脳の命令を強烈な吐き気が押し返すように。

私は身体を起こし、ベッドの上に膝を抱えて座り、左側の壁に顔をつけた。だんだんとバカみたいな気持ちになってグイグイと頬を押し付ける。半分押しつぶされた私の顔はとても無様な表情をしていることだろう。人さまには見せられない自分の顔を想像して、私はいま安堵をしている。気道が狭窄して呼吸困難になりそうな怖ろしい吐き気がやっときてくれた。

いままで関係を持った人たちに対していつも自分から別れを切り出した。その理由がこの吐き気だ。私は不倫が悪いことだとはどうしても思えない。不倫が悪いことだというのはある種の洗脳ではないかと感じている。関係を終わらせるのは倫理的な理由ではなく、感情的な理由でもない。相手の人を嫌いになったりはしない。ただ、身体が不調を訴える。最初にこの吐き気を感じたとき、不倫をしているせいなのだと直感した。その人のことを思うと苦しくなるとか、どうしていいかわからなくなるとか、そういうのではなく、胃の中のものをすべて吐き出さなければいけないという強迫観念がある日突然私を襲い、それが数日続いた。それが私にとって救いなのか、それともその程度の人間なのか、たぶん両方なのだろう。

自分から別れ話を切り出したら、きれいさっぱり吐き気はどこかへ行ってくれた。それが潮時。物事には終わりがある。看護師をしていた頃、もうこの人死なせてあげた方がいいんじゃないのと思うような患者を何人も見てきた。命だっていつか必ず終わる。終わりがあるものはちゃんと終わらせなければいけない。とても大事なそのことを忘れそうになる時、私の体が不調を訴える。ただそれだけのこと。

それなのに今回は違った。菅野さんと別れることを決意したのは、伊知子(いちこ)さんにバレたから。つまり人目を気にしたから。そのせいで、愚かな期待を今回は持ってしまった。菅野さんが戻ってくるかもしれないって。インターホンが鳴って心を躍らせた私を待っていたのは彼ではなく彼の妻。思い出すと、顔から火が出るほど恥ずかしい。穴があったら入りたい。人間は恥ずかしくなると慣用句しか出なくなることに初めて気がついた。

伊知子さんとは頭のレベルが違う。彼女は私に色々なことを話してくれたけど、私が話したことは何もない。菅野さんもそう。彼は私に質問をして、私の答えをおもしろがってくれた。彼は私という人間を楽しむ方法を知っていた。私はそれに体で応え、彼の奥さんの言葉を借りるなら娼婦としては高い報酬を手にしたということか。

この気持ち悪さが吐くものを全部吐き出して私は安堵した。菅野さんと別れることは、私の身体が欲していたことだとやっと納得した。

私は天井を見上げた。そこはロフトの床の裏側。その先のロフトの、さらに先の天井の向こうに広がる夜の空を想像する。誰も見ようとしない都会の空を想像して思う。

なんて孤独なのだろう、私。

冷静に考えると怖くなる。気を紛らわせるために私はスマホを探した。

メッセージがポップアップしている。

「最近顔を見せてくれないので心配しています、お元気でしょうか?」

画面を見つめ、メッセージを開くべきか考えながら、送り主を思い出す。

肉体労働の看護師からオフィスの事務職に仕事が変わり、あまりお腹が空かなくなってしまった。私は明らかに体をもてあましていたし、美味しいもののありがたさを感じられなくなるのは悲しい。どうにかしなければと考えていた時にたまたま知ったのが、有機農業の体験だった。ちょうどゴールデンウィークに2泊3日の体験ツアーがあり、私はそれに参加した。やる気のある参加者はその後の週末も農作業に費やしているらしいけれど、私はその気になれなかった。確かに無農薬の野菜や果物は美味しいけれど、農業は医療と似ていてやりがい搾取がないと成立しないと感じてしまった。それが距離を置いた理由。

メールの送り主は、その時指導してくれた地元の人で、日焼けして身体の動きがしなやかで、妻子ある三十代の男の人。褒め上手で私にはとても親切にしてくれた。

今は返事をするのは控えよう。それでも、おそらく私は、もう一度出かけてしまうのだろう。


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