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虚栄心を隠して 菅野麻美(かんのあさみ)の独白

夫の浮気相手は優しい声をしていた。

私は準備をした口調で用意した言葉を発した。

「外で話しませんか? インターホン越しでもかいまいませんけど、もし私が泣き叫んだらご迷惑になるでしょうから」

「わかりました」

「大丈夫ですよ、いきなりビンタしたりしませんから、穏便に話しましょう、建物を出てすぐ左側でサングラスをして待っています」

私はインターホンを離れ、建物のドアから外へ出た。

日曜日の午後に一人で家にいるということは、七瀬祓(ななせはらえ)には彼氏はいない。不倫しかできない女。それを咎めるつもりはない。好きな男とたまにしか会えないなら、女は心の底から優しくなれる。私にもそれがわかるようになった。

今日、夫は友人とライブに出かけた。チケットを取る前に私を誘ったが、私の興味のない音楽だったから「喜びを分かち合える人と一緒に楽しんできて」と送り出した。

彼女はびっくりするほどすぐに現れた。私にはとてもまねができない。化粧っ気がない色白の顔。髪の毛は柔らかく軽いウェーブがかかっている。少なくとも私の世代にはいない顔だ。新しい顔とでも言えばいいのだろうか。夫がこの顔に一目ぼれすることはないだろう。彼女に惹かれるまでそれなりに時間はかかっているはずだ。何か月か何年かはわからないけれど。視線を彼女の身体に移す。白いTシャツに太いシルエットの薄い色のジーンズ。身体の線が細くて胸が小さい。

こんな時に友人の言葉を思い出した。「胸が二つあればそれだけで男は喜ぶ」二つの胸の膨らみは大きくても小さくてもいいということか。

私は悪役を演じる覚悟ができた。

「二人になれる場所の方がいいでしょう? ドライブしながら車の中で話しませんか?」

「わかりました」彼女の返事はそれだけ。私は彼女に背を向けて歩き出した。彼女は黙って後をついてくる。

部屋で話をするのは嫌だった。夫と浮気相手が体を合わせであろう部屋に足を踏み入れるほど私はいかれてはいない。一回り以上年下の女の前で虚勢を張ってはいるけれど内心は穏やかじゃない。彼女の部屋を見たら心が乱れるだろう。その時に自分を律することができるのか、不安だった。さきほど「泣き叫ぶ」と言う言葉を使ったのも本心からだ。

彼女の方が私より肝が据わっているのかもしれない。私は彼女を正しく読めているのだろうか?

「この車見覚えあるかしら?」私は近くのコインパーキングに止めた白のBMWを彼女に見せた。

「いえ」

「そう、菅野とドライブしたことはないってこと?」

「ないです」

「実はね、探偵に調査してもらったの、あなたと会うのは仕事帰りの時だけみたいね」

「探偵…?」やっと彼女が動揺の色を見せた。私は嬉しかった。

「ええ、夫の浮気を疑う妻なら当然でしょう? 本当は直接あなたに会うのも嫌だったわ、綺麗な女が相手ならまだしも、自分よりブスな女と浮気されるのは妻は許せないっていうでしょう? 本当はどちらも許せない、当たり前じゃない、写真のあなたの顔は焼き付けたつもりだったわ、実際に会ったら、…まあ、納得したわ」

彼女は言い返さない。私が喋り続ける。

「起きてしまったことはしかたがないわ、菅野があなたに関心を持った、それはあなたのせいじゃない、もともと看護師さんですってね? あの人の周りにはあなたみたいな人いなかったから、きっと珍しくて興味が湧いたんでしょう」

私は運転席のドアを開けながら彼女を促した。「乗ってよ、出かけましょう」

私は車に乗り込み、シートベルトをする彼女の所作を見ていた。BMWのような車に乗り慣れている感じがまったくしない。私は微笑みたくなる気持ちを抑えて、視線をそらせた。

車をスタートさせて間もなく、車内の空気が合わないのか、彼女がくしゃみをした。鼻をすする音が私の耳に届く。

「そこのコンパートメント開けて」私はハンドルを握ったまま彼女を見ずに指示をする。一番上に載せた黒いハンカチが彼女の目に入っているはず。

「それ使って」私は命令するように言い、彼女は黙って従った、

「手触りはどう?」私は訊いた。

「え、テッサリア?」彼女が訊き返した言葉がそう聞える。

「手触りはどう? って言ったつもりだけど」

「ああ、すごく気持ちいいです、…驚きました」

「持って行っていいわ」彼女は平然と言う。

「いいですよ、こんな高級そうなハンカチ」

「お願いよ、そのハンカチ見たら私、あなたのこと思い出しちゃうから」

「でも…」

「私のこと思い出すのが嫌なら処分していいわよ。本当はお金みたいに誰にもらったか忘れてもらえたら一番いいのよ」

七瀬祓はハンカチを両手で握りしめたまま、何も言わない。私は頭の中のギアを上げる。

高収入の夫の浮気なんて当然のことだと思っていた。そんなことで文句を言う妻は結婚というものがわかっていないと思っていた。私だけを愛してくれなんて虫が良すぎる。おまえにどれだけの価値があるんだ? という話でしょう。私は自分に価値があるなんて思っていない。ただ、うだうだ言わずにほしいものをちゃんと手に入れてきた。それだけのことだ。

私たち家族の生活は誰かの犠牲の上に成り立っている。そのことは知っている。夫が、あるいは世の一般的な男たちの心は家族だけで満たすことはできないこともわかっている。私と息子に不自由のない生活をさせてくれるだけのお金を入れてくれる夫が、浮気相手に遣っているお金なんてたかがしれている。私の隣にいる夫の浮気相手は、いわば私たち家族の生活を支えてくれたのだ。

「ねえ」私は言葉を継いだ。「この国の未婚率を考えたら、あなたの年頃の女性が結婚していないのは当たり前かもしれない、菅野は優しい人だから、女の心にすっと入っていける、私だけにではなくあなただけにでもない、誰にでもよ、ちゃんと考えたことある? そのうちしんどくなるわよ」

私は左を向きちらりと彼女の表情を見て、すぐに視線を前に戻した。きっと言葉を選んでいる。彼女が口を開く前に私は言った。

「もう一度コンパートメント開けてみて」

「あ、はい」

「封筒があるでしょう? そう、それ、中を確認して」

彼女が封筒の中身を確認しているのを私は横目で見た。

「お金ですか?」

「50万入っている、どうぞ、あなたにあげる」

「どうして…、ですか?」

「どうして? …決まってるじゃない、不倫のような悪癖からあなたを救ってあげたいのよ、この先あなたが苦しむのは目に見えてる、それに…、こうすることで私が満たされるの、だからよ」

私は「手切れ金」という言葉を期待したが、彼女の口からは意外な言葉が出てきた。

「私、娼婦じゃありません」彼女はきっぱりと言った。

その言葉を聞いて、私はぷっと噴き出した。

「何ですか?」彼女の口調が不機嫌になった。

私はわざともったいぶって言った。「あなたが羨ましいって思ったのよ、そんなセリフ、私も一生に一度くらい口にしてみたい、…だいたい、娼婦だったらそんなにもらえるかしら? このまえニュースでやってたけど、売春をして捕まった人の売り上げは400万円だそうよ、多いと思う? 相手は200人よ」

七瀬祓からは言葉が返ってこない。言うべきことを探しているというより、私とは会話をしたくないという意思を主張しているようにも感じる。沈黙ほど重い言葉はないって言ったのは誰だっただろう? 私は自分がバカに思えてきた。夫の浮気相手の横で支離滅裂な言葉を並べている。こんな形でしか自分の浮かれた気持ちを表現できないなんて。

今までの私はマウントを取ることで満足していた。私がマウントを取られることなんて絶対にないと思っていた。でも、いまの私はそうじゃない。私は夫の浮気相手を理解したいと思ってここにいる。自分の方が立場が上だという揺るぎのない自信があるなら、マウントを取るような愚かなことはしない、女はただ相手に優しくする。それがわかった。虚栄心は満たそうと思って満たすものではなく、人に優しくすることで満たされるものだ。そして恵まれた人間は変わろうとはしない。ただ、少しだけ違うことをしてみたいと思うだけ。

「菅野があなたのどこに惹かれたかはわからない、根が優しい人だから放っておけなかったのでしょう」私は前置きのように言った。「でも、あなたにとって菅野は代用品にすぎないでしょう? ちがうかしら?」

「え?」

「あなたは側にいたい人の側にいられない、だから代わりに彼の側にいたんでしょう? 一番好きな人と一緒にいられないなら、誰だってよかった、別に菅野じゃなくても、違うかしら? …ごめんなさいね、こんな質問をしたらあなたは何も言えなくなってしまうわね、でも訊いてみたかったの、私、意地悪だから、…いつか気がつくわ、あなたは寂しさを埋めるために愛することもできない男と関係を持っているのよ、それを非難する気は私にはない、私だって成人君主じゃないですもの」私は促すように言葉を継いだ。「ねえ、お金を受け取る気になった?」

「いいんですか?」彼女は少しだけ心を開いたかのように訊いた。

「当然よ、あなたの権利みたいなものよ」

「ありがたく頂戴することにします」

「あらそう、よかったわ」私は一呼吸を置き、そして訊く。「ねえ、探偵に尾行されたり写真撮られたりしたこと、なにか思い当たる?」

「いえ、全然気がつきませんでした」

「そう? じゃあ探偵としてはそれなりに優秀ってことかしら? はっきり言わせてもらうけど、印象薄いって言われたことない?」

「はい、よく言われます」

「ああ、やっぱり? 優秀な探偵は気配を消すことができるそうよ、あなたはいい探偵になれるんじゃないかしら?」

「そうですか…」

「褒めてるんだからもっと喜んでくれてもいいじゃない、まあいいわ、私も気が済んだから」

現実に車を運転している感覚を私は少しずつ減らしていく。テーマパークで自動車の運転席を模した椅子に座ってハンドルを握り、左右に映し出されるのが景色を見てきゃあきゃあ言っている、そんな私を頭で想像しながら、前方の道路と前の車の動きを見ている。助手席に乗っている夫の浮気相手の気配が消えていく。朝市が行われているヨーロッパの石畳の道をゆっくりと走り、海を横目にスピードを上げる。少し前に自分が口にした「優秀な探偵」と言う言葉を私は頭の中で反芻する。そして私の名前を呼ぶ彼の声とイントネーションを思い出す。

「麻美」

聞き覚えのある声でそう呼ばれたとき、心臓が止まるのではないかと思うほど驚いた。3か月前に目の前にほぼ10年ぶりに元カレが現れた。

「実は偶然見かけたから30分ほど麻美の後をつけていたんだ、ストーカーじゃないから心配しないで、実は今こういうことしてるんだ」

元カレは探偵社の名前の入った名刺を差し出した。

「探偵になったの?」

「うん、子どもの頃に一度憧れた職業に本当に就くことになるなんてね」彼はそう言って笑った。さすがに10年たって老けて、スーツも靴も、菅野だったら絶対に身に着けることのない安物でくたびれていて、それでも笑った顔だけはしっかり昔日の面影が残っている。

「私、ターゲットになってた?」

「違うよ、そうならこうして姿を見せたりはしない、尾行気づかなかった?」

「全然」

「ならよかった、練習のつもりでばれてもいいと思って尾行してみた」

昔のこの人は私の知らない映画や小説や音楽をたくさん知っていて、私をたくさん喜ばせてくれた。楽器が一通り引けて、サラリーマン時代に給料を全部スタジオ代につぎ込んで素晴らしい音楽を作ったギタリストの話をしてくれた。でも、彼は繊細過ぎて最初の会社を簡単に辞めてしまった。もし彼と一緒になるなら、私が彼を食べさせなければいけない時が来るだろう、そう漠然と感じていた。それが嫌だったというよりも、私にはそれをやる自信がなかった。だから、彼と別れることにした。

付き合っていた頃は四六時中一緒にいたわけではない。だから楽しかったのだろう。偶然再会してから三度ほど食事をして、彼ほど私のことを楽しませてくれる人には二度と出会うことはないと確信した。今だったら将来のことを考えずに、付き合っていた頃のように時々会う関係を続けることができる。菅野が浮気をしていることは気がついていた。私は探偵になった元カレに証拠をつかんでもらった。今の私なら、彼に仕事、いやお金をあげることもできる。菅野は体裁をものすごく気にする人間だ。子どものことは愛しているし、離婚をする気は絶対にないはず。私は菅野に別居を申し入れるつもりだ。間違いなく彼は応じるはずだ。彼はこそこそせず浮気できるし。私も菅野に気兼ねなく元カレに会える。別々に生活するだけのお金は菅野がしっかり稼いでくれる。

そんなことを永遠に続けることができないことはわかっている。だからこそ、永遠にできないことを続けている七瀬祓という女にこうして会いに来た。勇気をもらう、と言う言葉はすきじゃないけど、私は彼女から勇気をもらおうとしているのだろう。他の表現が思いつかない。

BMWの助手席に座っている七瀬祓の存在を、私はもう一度意識した。私は今彼女とふたり多摩川にかかる橋の上をドライブしている。永遠には続けられないことは、いつか綺麗に終わらせなければいけない。永遠に続けようとしたら、きっと破滅が待っているのだろう。七瀬祓と一緒に破滅に向かってドライブしている。この橋が突然崩落して、多摩川の底に沈む。そう想像したら、吹き出しそうになる。

私はたぶんひとにお金をあげることが好きなのだ。できることならずっとこんな風に生きていたい。そして、私はいま助手席に座っている女と心中したくはない。彼女だって同じだろう。

「お互いちゃんと生きましょう」私は七瀬祓に聞こえるように言った。


次回で完結します。

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