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羞恥心と常識:七瀬祓の独白その2

これがよく言う「ドロドロの関係」なのだろうか。同じ男と関係を持った女が二人、職場で会話をしている。

どうして一度も伊知子さんのことを考えなかったのだろう?

当たり前のように私が菅野さんと関係を持ったのだから、伊知子さんと菅野さんの間に関係があってもまったくおかしくない。ささやかな後ろめたさも感じず、伊知子さんと顔を合わせていた自分が急に恥ずかしくなった。

「奥さんには気をつけなさい」という言葉が私のシールドを破壊して羞恥心を炙り出す。

マンガやドラマの登場人物には「恋愛の閾値のスイッチ」が備わっているらしい。何が何でも仕事で成果をあげたいときは、恋愛の閾値を上げて簡単に恋に落ちないよう周囲に壁を作る。人恋しくなれば恋愛の閾値を下げて、些細なことでキュンとなる。なんて浮世離れしているのだろう。私にはできない。

私の中には「別れなければいけないスイッチ」がある。そのスイッチが入った。心の中でさあっと波が引いていく。「止めなければいけないことをしている」のは頭の中ではわかっていた。そこにやっと心と体が追い付いた。

両親は結婚で失敗した。だからこそ、関係を持った相手には幸せな結婚生活を続けてほしい。そのために、私は自分から別れを切り出す。今までと同じように。

シングルマザーで看護師の母に育てられた私は当たり前のように看護師になった。いずれ一人で生きるようになる、結婚してもどうせ失敗する、漠然とそう思っていたのだろう。自分が好きになる人には結婚を失敗してほしくない。自分が好きになる人の結婚生活を壊したいなんて少しも思わない。だから私は結婚している人に惹かれてしまうのかもしれない。父親と疎遠だったから年上の人に何かを求めてしまうのかもしれない。

母と同じ職業に就いた私には、看護師以外の生活が想像もつかなかった。

看護師の仕事に初めて違和感を持ったのは、コロナが爆発的に増えた頃だ。院内の誰もが自分が感染する恐怖とたたかないながら、経験したことのないいつ終わるかもわからない状況の中で、手探りで必死にもがいていた頃、テレビをつければ「医療従事者の皆さん、ありがとう」と安全な場所から声援を送るだけの私にとっては全く現実感のない映像が日々流れていた。

あの時にやっと気がついた。世の中の役に立つ仕事や人のためになる仕事は、自分がやるのではなく誰かにやらせる方が利口だということを。

それでも、コロナ禍の異常な日々はいつしか日常となり、そこに少しずつコロナの前の日常が混じり、新しい日常が生まれ、結局私たちは何にでも慣れてしまう。コロナの補助金のおかげで病院の多くは経営的に潤い、私たち医療従事者には、金融業界と比較したらまったくたいしたことはないけれど、それまでもらったことのないような高額のボーナスが支給され、「努力は報われる」という穴だらけの幻想が大きく膨らんでいた。

晩秋の太陽はすでに落ちていた。仕事を終えた私はユニクロのダウンにジーンズとスタンスミスという街の背景として溶け込めるいでたちにリュックを背負い、駅に向かう商店街を視線を下げて歩いていた。

「祓ちゃん」

少し離れた前方から声をかけられて私はドキッとした。そんな呼ばれ方をしたことはなかったから。でも、私と同じ珍しい名前の人間がその辺を歩いているとも思えかった。

おそるおそる視線をあげた。そこには、トレンチコートを着て、鮮やかなプリントのスカーフを巻き、光沢のある高そうな黒いバッグを肩にかけた、小柄なのに妙なオーラのある女性が、余裕をかますように5メートル先から私に手を振っている。

私は早足で近づいた。「清原先生?」

「もう医者じゃないからその呼び方はやめてよ」

「なんてお呼びすればいいですか?」

「もう、やめてよ、伊知子でいいわ、ねえ、お腹空いてるでしょう? 夕飯付き合ってよ」

「え、でも…」

「あなたに大事な話があるのよ、私、あそこの中華丼大好きだったの、一緒に行きましょうよ、もちろん好きなもの頼んで、いくらでもね」

彼女が指さした店は、オレンジ色のテント看板に漢字二文字の店名が書かれ、ほぼ誰も見ることのないショーケースのサンプルの下にエアコンの室外機の置かれた、昔ながらの街中華だった。

「いいんですか、そんな綺麗な恰好なのに?」

「私の仕事着よ、これ、あなただってナース服にカーディガンひっかけて休憩時間にどこにでも行くでしょう?」

「まあ、そうですけど、…私、あのお店一度も入ったことないんです」

「ええ、もったいない、結構美味しいのよ、というかこの外観でハズレはないのよ、ついてきて」

彼女はガラスの重いドアを押し開けると、「こんにちは」と明るく挨拶をした。店内はテーブル席のみ先客は2人、20人も入ればいっぱいになる。アルバイトらしき若い女性が「お好きな席にどうぞ」と明るく言った。

私たちは一番奥のテーブルに座った。「飲み物はビールでいい? 料理適当に頼んでいいかな?」

「お任せします」

ビールが運ばれ、私たちは乾杯をした。テーブルいっぱいに料理が並び、私はなすすべがなくこのまま伊知子さんに麻酔をかけられそうな気がしてくる。

「大事なお話って何ですか?」私は伊知子さんの手のひらから飛び降りるように言った。

「私、あなたを救いたいの」

「まさか、宗教の勧誘ですか?」

彼女は箸を置き、数秒間私の顔をじっと見つめ、手をたたいて笑い出した。

「祓ちゃん、だから私はあなたが好きなの、そんなに面白い突っ込みしてくれる人いないわ、…そうねえ、もしあなたを宗教に勧誘するとしたら、あなたを牢獄に閉じ込めて名前だけもらおうかしら」

「伊知子さんは結局、私の名前が好きなんですよね?」

「だって、七瀬祓なんて名前を聞いたら妄想が膨らんじゃうのよ」

「知ってます」

「ねえ。コロナの頃は大変だったでしょう?」

「ええ、まあ…」

「私、テレビのニュース見ながら思ってたのよ、医療従事者がリスクを取って一生懸命働いて、それ以外の人は安全な場所から医療従事者のみなさん、ありがとうって感謝の言葉を送り悦に入る、人のためになる仕事ってそういうことよ、自分がやるより誰かにやらせた方がいい、私も医者をやっていた頃はそんな当たり前のことさえ知らなかった」

私は以前の違和感を思い出したが、言葉が出てこない。言葉が出ない代わりにたぶん顔に出た。

「もしかして祓ちゃんも同じこと思った?」

「似たようなことを感じました」

「なら話は早いわ、私が働いてる会社に来ない?」

彼女はバッグの中からバレクストラの真っ白な名刺入れを取り出し、中の名刺を一枚私に渡した。

「証券会社ですか? 住所は丸の内?」

「そうよ」

「看護師が必要なんですか?」

「違う、バックオフィスで人を探してるのよ、土日祝は完全に休みだけど残業が多いのよ、だから体が丈夫で気が利く人を雇いたいのよ、もちろん残業代は全部出る」

「じゃあ看護師を辞めろってことですか?」

「そうよ、…ねえ、看護師の平均年収は500万円弱、医者の平均年収は1000万円以上、差は2倍以上、そのことは知ってる?」

「祓ちゃんにオファーしたい仕事はバックオフィス、事務部門よ、私はセールスだから仕事が全然違う、セールスは成果上げられなければクビになるけどバックオフィスはその心配はまずないわ、だから給料も全然違う、私と祓ちゃんの給料の差は二倍以上あるわ、でももらってる人は私の数倍もらってるわ」

「そうなんですか?」

「大事なのはここからよ、うちのバックオフィスでも看護師の平均年収よりも遥かに高い給料を出すわ、残業は多いけど夜勤はない、人間らしい暮らしができるわ、それに…どれだけ優秀な看護師でも医者並みの給料を払ってくれる病院はないし、看護師は永遠に医者にはなれない、資格が必要だから、でも証券会社ではバックオフィスを経験してフロントに移る人間はいないわけじゃないし、もし祓ちゃんにその気があるなら将来的に引き抜いてあげてもいいわ。まあこんなこと言うとプレッシャーになっちゃうかもしれないけど夢があるでしょう?」

「プレッシャーどころか、言葉がわからな過ぎて話が頭に入ってこないです」

「そう? 心配しなくて大丈夫よ、看護師に仕事に比べたら覚えることずっと少ないから」

「そうなんですか?」

「そうよ、他の業界に行ってみると医療従事者の知識量が異常であることがよくわかるわ、それから、英語はできる?」

「できると思いますか?」

「そうよね、…大丈夫、私に任せておいて」

私の前では芝居がかった話しぶりになるけど、伊知子さんはきっと私にシンパシーのようなものを感じてくれているのだと思う。彼女はいつも答えを持っていて突然それを私に提示する、その答えはいまのところ常に正しい、私はどうやって報いたらよいのかわからない。わからないから一度だけ訊いたことがある。

「バカね、世の中の人がすべて見返りを求めてるなんて思わない方がいいわ」彼女は言った。結局いまだにわからない。




「僕は七瀬ちゃんが看護師を辞めてよかったと思っているよ」飲みかけのワイングラスを傍らに置くと、菅野さんは両肘をテーブルの上に置き、手を組んで私を見つめた。

「どうしてですか?」

「だって不規則な夜勤があるでしょう? 身体に負担がかかるよね、自分の身を削って病気の人の世話をするわけでしょう? 七瀬ちゃんにはもうそんなことしてほしくないよ」

「そうですか…」

「それに、ずっと看護師を続けていたら七瀬ちゃんに会うこともなかったから」

「そういえば七瀬ちゃんはどこで育ったの?」

「いろいろな場所」

「もしかしてお父さんが転勤族?」

「そういうわけじゃないけど…」

「まあいいや、ねえ、今まで住んだ場所で一番好きなのはどこ?」

私が感じていた心地よさの一つは詮索されないことだった。目の前にいる私がすべてで、私が今までどうやって生きてきたかなんて彼には関係のないことだと納得していた。

今日に限って詮索するような質問をするのは、きっともう他愛のない会話だけでは間が持たないということなのだろう。つまり、潮時。

「どこだろう? 私どこにもあまり思い入れがなくて、…菅野さんはどこ?」

私ははぐらかして質問を返した。

私も菅野さんの過去には興味がないし、私とさよならをした後にどうしているかも知りたくはなかった。それでも今は目の前にいるあなたが大好き。いつものようにそう思おうとしてもダメ。気持ちが入らない。彼の顔の横に清原先生の顔が浮かぶ。たぶん、あの人と関係を持った男の人と関係を続けるのが嫌なのだ。どう嫌なのかは説明できない。嫌なものは嫌、それだけ。

「オレ? オレは基本東京しか住んだことがないから」

ふうん、そうなんだ、私はそれだけを思った。

「それにしても、七瀬ちゃんは偉いよね、オレの質問に対してちゃんと同じ質問を返してくる、自分の話しかしない人間ってよくいるじゃない? そういうのとは全然違う、七瀬ちゃんはセールスでもうまくやれそうだよ」

「ありがとうございます」私は適当に相槌を打った。私は自分のことを話したくないだけ。礼儀正しいわけじゃない。それに、あなたの望むことを何でもしてあげたのは、私が自分を出したくなかっただけ。ただの防御行動。

でも、もうその時間もおしまいにしましょう。

食事を終えてイタリアンレストランを出て、エレベータを降りて、私たちは中央通りへと出た。

梅雨の前は昼間の気温が30度を超えても湿度がないから不快感がない。日は長く、夜が気持ちいい。一年で一番いい時期なのかもしれない。これからやってくる梅雨と酷暑の季節にひと肌が恋しいとは思わないだろう。

「少し歩いてからタクシーを拾おうか?」

「ねえ、お願いがあるの」私は言う。

「何? 何でも言ってよ」彼は前のめりに訊く。

「今日で終わりにしましょう」

「え…、どういうこと?」

「だから、私たちが今日が最後、もう連絡もしない」

「どうして?」

「どうしてって、いつかは終わらせなければいけないでしょう?」

「今日じゃなくてもよくない?」

「今日じゃいけない理由もないわ」

「じゃあ。七瀬ちゃんを抱けるのは今日が最後?」

「ううん、今日はこのまま帰る」もうその気になれないから…、そう言葉を継ごうとして私は思いとどまった。

「せめて家まで送るよ」

「大丈夫」

「お別れにキスしてくれる?」

「しない」私は首を横に振って彼に背中を向けた。彼の反応を待っていた。

「そっか、もう決めたんだ?」

「うん」

「七瀬ちゃんの気持ちを尊重するしかないね、今までありがとう、楽しかったよ、幸せになって」

「ありがとう、菅野さんも」

彼は私の正面に立ち右手を差し出した。私はその手を軽く握った。彼はたぶんハグをしたかったのだろう。私の手をつかんだまま右手を引いて左手を開こうとするのがわかった。私は手を離して、さよならを言った。

彼のさよならが耳に届いたとき、私は彼に背を向けて歩き出していた。

私が愛した人は礼儀正しい人だった。菅野さんだけではなく、誰もがそうだった。

自分が決めたことだけど、涙をこらえるのが辛い。たぶんこういう風にしかならないと思う。今はとても悲しいけれど、何日か経てば、こういうことの繰り返しが私は楽しいのだと納得する。いずれこういうことができなくなったら私は生きる意味を失うのかもしれない。その時が来たら清原先生にお願いしてあの世へ送ってもらおうか。

夜の中央通りは明るくて、誰も私を見ていない。地下鉄の階段を降りていると、このまま消えてしまう気がした。


別れた後の放心状態は週末を過ぎれば消えることはわかっている。だからこそ日曜日の午後は何もできない。

私は今都内に借りている自分の部屋が好きだ。決め手になったのはロフトだけど、夏は暑い空気が溜まり地獄になる。しかも温暖化のせいで毎年地獄の度合いが上がり、階段を昇ってロフトに頭を出しただけでくらクラクラと眩暈がしてくる。

そうなるまであと何週間だろう?

私はロフトに敷いたヨガマットの上で横になって天井を見つめる。

看護師をして一人で暮らしていた時は封印してけれど、母と二人で暮らしていた頃ときどきふと口から洩れた言葉がある。

こんな場所で朽ちるのは嫌だ。

この部屋は好きだけど、ずっとここにいるのは絶対にいや。

菅野さんは一度だけ私の部屋に来たことがある。私のことが忘れられないなら、またここに来てくれるはず。いままでに何人かの男とつきあいそのたびに別れ、別れるたびに同じことを思い、起こってもいいはずのことはいまだ一度も起こらない。相手はいつも年上の妻帯者。

乳首を吸われて「痛い」と言えば、誰もそれ以上はしなかった。みな優しい人たちだ。

誰かと比べたことがあるわけじゃないけど、私はたぶん乳首が弱いのだろう。乳首を愛撫されて私が「痛い」と言うと、誰もが驚いたような顔をする。そして、私が嫌がることは二度としない。本当に優しい人たち

そんな優しい人たちに私も優しく接してきた。

「何でも好きなことをしてあげる」と私がそう言うと、誰もが嬉しそうに自分の性癖を吐露する。二人でいる間、私たちは共犯者。でも、犯罪者だって四六時中罪を犯しているわけではない。平凡な日常があって罪を犯すときだけ犯罪者に変わる。私と共犯者もいつもは一緒にいるわけじゃない。二人が揃ったときだけ共犯者になる。もっと長い時間一緒にいたいと思ったら、私は別れ話を切り出す。いままで関係を持った人たちはみな、「わかった」と言って綺麗に別れてくれた。もともといつかは終わらせるつもりで関係を始めたのだからそれが当たり前。誰もが常識人だった。それでも、私は期待してしまう。ひとりくらい私を選んでくれる人が現れるかもしれないって。そのときに私がどう感じて、どう行動するのか自分でも予想できない。だから期待してしまうのだろう。菅野さんが私を必要としてくれたら何かがかわるかもしれない。

まさか、そのタイミングでインターホンがなった。

まさか…。

私は自分でも驚くほどの敏捷さでロフトにかかった梯子を下りた。

「はい」私はインターホンに応答した。

「菅野です」その言葉は私が心待ちにしていたものだった。でも、その言葉を発したのは私が待っていた人ではなかった。彼じゃない、妻の方。

もし彼が来てくれたら、奥さんを裏切るつもりでいたのに。

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