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清原伊知子の独白

「清原先生は、どうやって菅野さんと知り合ったんですか?」

久々に清原先生と呼ばれたことで変にガードが下がり、七瀬祓の質問に隠さずに答えた。「ナンパされたの」

私は嘘がつけない。嘘をつく代わりに大事なことを言わないようにしている。たいていの人は自分が欲しい情報を手に入れれば満足する。聞きたいことしか聞きたくない。詐欺の被害者に同情するような人は、きっと自分が騙されていることに気がついていないのだろう。かつての私のように。

七瀬祓は気まずい思いをしていることだろう。だから私は先に立ち去った。6歳も下の同僚に対してわざわざマウントを取ろうなどとは思わないけれど、客観的に見たらそのようにしか見えない。私は思ったことを素直に口にしただけ。彼女の体から菅野朋彦の匂いを感じたこと、彼の奥さんには用心した方がいいこと、そしてもし目の前で彼女に何かが起きたら私は迷うことなく応急措置をする、すべて嘘ではない。

他人の不倫に口を出すなんて大きなお世話なことはわかっている。人を好きになることは止められないし、不倫は放っておけば勝手に終わる。それでもひとこと言わずにいられなかった理由は一つしかない。嫉妬。そこまではわかる。でも、どちらに嫉妬していたのだろう? 私が関係を持った男と関係を持った七瀬祓に対して? それとも、私が目にかけて七瀬祓の心を奪った菅野朋彦に対して? とにかくどちらかが気に食わないが、どちらが気に食わないのかよくわからない。

ああ、私もそんなにメンタルは強くないなあ。今日は仕事になりそうもない。


菅野朋彦はいわば恩人だ。もし、七瀬祓が今の境遇に満足しているとしたら、それも彼のおかげということになる。私は自分の足元のジミー・チュウの黒い靴を見た。視線を上にずらせばグレーのストライプのジル・サンダーのパンツスーツ。ロレックスの腕時計。2019年に彼に会っていなかったら、いま身に着けているものすべてが私には縁のないものだっただろう。


一人でバーに行くことは時々あった。声をかけられても、「医者です」といえば男はドン引いて放っておいてくれる。でも、菅野朋彦は違った。見た目は私より年上の三十代。仕立ての良さそうなネイビーのスーツの下から、決して葬式に行きそうには見えない白いシャツと黒のネクタイが覗いていた。私が医者だと告げると、身を乗り出してきた。

「お医者さんって大変ですよね? 高校時代の友人が何人か医者やってますけど…、先生は医者になったこと後悔してませんか?」丁寧な彼のものの言い方には人懐こさが同居していた。

「どうしてですか?」私はつられて彼と会話をしていた。

「いやあ、友人の一人が医者になったことを後悔してまして…、彼は高校生の時に将来の職業を決めて医学部に行ったわけです、でも僕は高校生の時は将来なりたい職業など何もなかった、とりあえず大学に行って金融業界に就職した、それなのに僕の方が楽をして稼いでる、彼はそう言うんです」

「実際、そうなんですか?」

「実際、その通りです、ねえ、先生、よかったら金融業界に来ませんか?」彼は唐突に言った。

「私ではなく、ご友人をお誘いしなくていいんですか?」

「彼はダメなんです、彼は優秀でいいやつですよ、でもどうにもならないんです」」

彼は名刺を差し出した。いかにも外資系と思えるカタカナの銀行名が書いてある。名刺に書いてある名前は「菅野朋彦」

「かんのともひこさん?」

「ええ」

「なんか。医者にいそうなお名前ですね」

「それは誉め言葉ですか?」

「どうなんでしょう? ただそう感じたもので…」

「含みはないということですが?」

「はい、ごめんなさい」

「なんで謝るんです? 言葉の裏を読むのは疲れますよ、口から出た言葉にそれ以上に意味はないなんていいじゃないですか、そういう会話」

「そうですか? じゃあ、もう少し続けてもいいですか?」

「どうぞ」

「仕事柄、たくさんの患者さんの名前を見たり、聞いたり、書いたりするんですけど、名前に使われる感じってどうしてこんなにあるんだろうって思うことがあるんです、特に下の名前はこの字を使う必要があったのかなってふと思ったりします、この朋彦さんってお名前、絶対に読み間違われることはないですよね?」

「ええ、誰でも読めますね」

「でも、私、朋彦さんてお名前を見るのは初めてです、同名の方に会ったことありますか?」

「そう言われると、ないかも」

「ですよね? 漢字の組み合わせとしては見たことがないはずなのにすっと入ってくる、なんか不思議…、それにこの『朋』って漢字は名前以外でまず見ることないですよね? そもそも月が二つってどういうことなんでしょう? 月は一つしかないのに」

「へえ、自分の名前を不思議だと言われたのは初めてだなあ、でも自分の名前の由来なんて親から聞いたこともない…、ねえ、先生、どうして親はこんな名前を付けたのだと思います? 想像してもらえませんか? できればロマンチックな線で」

私は少し考えてから答えた。「たとえば、お母さまが月を二つ見たんじゃないですか? 一方は空に浮かぶ月、もう一つは水面に映る月、海とか湖とか」

「へえ、いいですね、母親はその月を誰と見たのかな? 父親以外の誰かもしれないですね」

「かもしれないですね…」

「じゃあ父親は代用品だったかもしれないですね、ああ、違うなあ、そんな名前をつけられた僕の方が代用品かあ…」彼は笑いながら私を見つめた。

「そんなつもりじゃないです…」私は打ち消した。

「先生は国立大学出身ですか?」

「はい」

「じゃあ、センター試験の数学と理科は満点ですね?」

「はい」私は余計な言葉を加えず正直に答えた。

「じゃあ、勉強ができたから医者になったタイプですね?」

「そう言われたらそうですね」

「他の職業に着こうと思ったことはないんですか?」

「考えたこともないです」

「もったいないなあ、…ねえ、先生、よかったらウチの会社来ませんか? 給料はボーナス込みですけど今の二倍くらいにはなると思います、まあ。先生がいくらもらってるか僕の想像ですけど…、土日は完全に休みだし、毎年二週間の連続休暇を強制的に取らされます」

「そんな会社あるんですか?」

「会社というより業界全体がそうなんですよ、そういう質問が出てくること自体、先生は騙されているかもしれませんね」

「騙されてる?」

「優秀な人間は医者か弁護士になる、それって誰が決めたのでしょう? 金融業界はいいところですよ」

「でも、私、資格何ももってないです」

「医師免許があるじゃないですか?」

「え?」

「証券外務員という資格が必要ですけど、あんなもの落ちる人間いません、サルでも取れます」

「そうなんですか?」

「それよりも医師免許持ってる債券セールスなんていませんから、それだけで箔がつきますよ、…ちょっといまむっとすましたね?」彼は笑顔で穏やかに言った。引きずられるように私は子分の表情が緩まるのを感じた。

「もし自分が病気になったら良い病院を探すと思うんです、名医がいて設備の整った病院を一生懸命探すでしょうね、でも、金融の世界は売るものに差がないです、基本的にどこも同じものしか売ってないし、結果が違ったとしてもそれはたまたま、再現性なんてないです、でもお客はそんな簡単なこともわかっていない、だから重要なのは担当です、この人の言うことを聞いておけば間違いない、そう信じ込ませたらこちらのものです、先生の周りは医師免許を持っている人ばかりですが、金融業界には医師免許持っている人など絶対にいないとは言いませんが、ほとんどいない、重みが違いますよ、医師免許は医療業界で使うより金融業界で使った方がよほどお金になると思いますよ」

「なんか、からかわれている気がします」そう言いながらも私は自分の常識が揺らいでいくのを感じていた。

「お聞きしませんでしたが、先生は何科のお医者様ですか?」

「麻酔科医です」

「ならちょうどいいじゃないですか?」

「何がちょうどいいんですか?」

「麻酔科医って医者の中でも楽したい人が選ぶものじゃないですか? 医者以外の経験をするべきですよ」彼は本質を突く部分をさらりと言ってのけた。返す言葉がすぐには出てこない。

「医者にはいつでも戻れるじゃないですか? 長い目で考えたら、もう一度医者に戻るとしても他の業界を経験するのは決してマイナスにはならないと思いますよ、それこそ金融業界を経験した医者として箔がつくかもしれません」

「いいことしか言いませんね」

「先生にとってのデメリットが一つも思いつかないんですよ」そう言って彼はまた笑った。「もし戻りたくなったら、また医者に戻ればいいじゃないですか? そのためにも円満に辞めてくださいね」

「どうしてそんなに私に執着するんですか? 実はどこかで会ったことあります?」

「いいえ、今日が初めてです…、人を採用したいのは事実です、ただ、いわゆるダイバーシティというのがあって、どんなに優秀でも経験者でも男は採れないんです、友人に声をかけられない理由はここですよ、女性だったら誰でもいい、誰でもいいというのはもちろん採用基準の話で僕自身は誰でもいいとはこれっぽっちも思っていない、優秀であることはもちろん大事だけどバックグランドが違う人間が集まった方が楽しく仕事ができますよ」

「楽しいんですか、お仕事?」

「楽しいですね」

「どういうところが楽しいんですか?」

「金融の仕事は単純ですよ、お金が儲かれば楽しい、儲からなければつまらない、それだけです、ミスをしても自分の懐が痛むわけじゃない。人の命が係わるなんてことも絶対にないです、その代わりやりがいもないですけど…」

「そうなんですか?」

「ええ、でもやりがいがなければ、やりがい搾取も起こらないですからね」

「なるほど…」

「世の中には病気を治してほしい人たちがいる、その人たちにサービスを提供するのが先生たちのお仕事じゃないですか? その人たちが治れば先生方の功績でしょうし、治らないときは仕方ないと思うこともあるでしょうね…、一方で世の中にはお金儲けをしたいと考える人がたくさんいます、おそらく病人の数よりもずっと多いでしょうね、その人たちにサービスを提供するのが金融の仕事です、でもその人たちがうまく行くのもたまたまでうまく行かないのもたまたまです、私たちの功績は何もありません、病気になりたくてなる人はまずいないでしょうね、つまり病気になることはしかたのないことだと思います、お金を儲けたいと考えるのは。欲深さもあるでしょうけど、つきつめれば資本主義経済の中で生きている限り仕方のないことかもしれません、そしておそらく未来永劫変わらないのは。お金を儲けたいなら、お金を儲けたい人からお金を払ってもらうことが最も確実で最も大きな利益が上がるということです、考えようによっては、医療も金融も誰かがやらなければいけない仕事であることに代わりはありません、そしてどちらもサービスを提供する側がサービスを受ける側の知らないことを知らなければいけない、いわゆる上澄みの人間、頭のいい人間でなければできない仕事です」

「なんとなくわかるような気もします」

「世の中には楽で給料の高い仕事はない、などと言われますけど、その言葉を信じるのは楽で給料の高い仕事があることを知らない人たちです、ブラックスワン現象ですよ、かつて黒い白鳥なんていないと思われていたけど、実際に世の中には黒鳥というのがいる、金融も医療も誰かがやらなければいけない仕事なんです、自分が金融業界で楽して儲けなければ他の誰かが同じことをする、他人に譲るなんてもったいないじゃないですか? …僕はぜひ先生のような優秀な人と一緒に働きたいんですよ」彼は私の目をじっと見て言った。私はどう反応して良いのかわからなかった。

「これだけはわかってください」彼は言葉を継いだ。「いまとにかく人が雇う必要があり、男はまず不可能ですが、女性なら本当に誰でもいい、ただこの枠を先生のために開けておくことはできません、同僚の誰かが別の人間を連れてきて他の候補者がいなければ彼女を雇うことになるでしょう、もし他の候補者がいても先生の経歴なら間違いなく採用されることは僕が保証します、さらに言えば金融業界には多少の浮き沈みはつきもので、今は誰でもいいから採用したいなんて言ってますけど、状況が変わってハイアリング・フリーズが始まったらしばらくの間新規の採用はできません、明日突然そうなるとは言いませんが何か世の中が変わるような事件が起きればいつそうなってもおかしくない、だから早い者勝ち、情報を持っている者の勝ちです、大事な情報がネットにあったとしてもネットには情報が多すぎてほしい情報になかなか到達できません、僕と先生は今日ここで出会った、僕たちにはコネがあります」

その日は狐につままれたような気分で彼と別れた。


そこから数日間はふわふわした気持ちで、仕事に没頭できなかった。世の中を動かす事件が世界のどこかで起きていないかすごく気になって、ニュースをまめにチェックした。

そもそも医者を辞めることなど一度も考えたことがなかった。それなのに私は揺らいていた。菅野という人物は私を侮辱して楽しんでいたのではないかとも考えてみた。そうしたら眠れなくなった。いつも患者を眠らせているのに、自分が眠れない。バカみたいだ。精神的に弱っている時に人生の大事な決断をするのは絶対に避けなければいけない、友人に対しては麻酔科医として常日頃そんな言葉をかけてきた。そんな私が後から思えばとんでもない結論に到達した。

決断をしなければ、私はずっと悩まされることになる。決断をすれば楽になる。私はそう答えを出した。


「○○病院の清原と申しますが、菅野朋彦さんはいらっしゃいますか? もしお忙しいようでしたら、ご都合のいいお時間をおしえていただければあらためます」

彼がどのようなスケジュールで動いているのかまったくわからない。私は休憩時間に自分のタイミングで電話をした、

「お待ちください」電話は無音になり五秒もしないうちに彼が出た。「お電話変わりました、菅野でございます」

「お忙しいところ申し訳ありません、以前お会いした麻酔科医の清原です」

「ああ、先生! お元気ですか?」

「いえ、あまり元気じゃないかもしれません…」彼の声を聞いてほっとしたのか、私は本当のことを言った。

彼が詐欺師だったら私はどうなっていたのだろう。でも彼はただの一つも嘘をついてはいなかった。

確かに医者の中でも麻酔科医は一番楽かもしれない。それでも仕事にはやりがいは感じていた。でもそのやりがいというのは。医療の世界しか知らないから感じられたやりがいかもしれず、他の世界を知っていたらここにやりがいなど感じなかったかもしれない。

「先生、とりあえず名刺に書いてないある僕のアドレスにメール送ってください。アプリケーションフォームのURLのリンクを送ります。そちらを記入してサブミットしてください。書き方がわからないとか、言葉の意味がわからないとか、そういうのがあれば遠慮なくメールで質問してください。全部英語ですし、結構面倒くさい内容で、しかも僕たちもよくわからない単語が出てきたりするので、ご遠慮なく質問してください。それからインタビューですが…」

「インタビュー?」私は聞き返した。

「ごめんなさい、面接のことです、どんな時間帯なら都合がつきますか?」最も気になっていたことを、彼の方か言った。

「手術次第で遅くなることがあります。途中抜け出すことも、休みを取ることも現実には難しいです」

「面接にいらっしゃれないなら無理ですね、縁がなかったということで」私はそんな言葉を覚悟していたが、彼は私の反応を想定したいたかのように言葉を継いだ。「遅い分にはかまいません。夜の9時とか10時なら大丈夫ですか?」

「もちろんです」

「では。その時間帯でアレンジしましょう、メールで都合の悪い日をお知らせください」

「いいんですか?」

「当たり前じゃないですか、それに時間のインタビューは先生にもメリットがあります、『もう遅いから面倒くさい、何も問題なさそうだからこの人でいいでしょう』という方向に持っていけますから」

「そうなんですか…」この人は優しいのかからかっているのか本心がわからない。

「インタビューはオフィスにお越しいただいて、まずは私と上司に会っていただきます。途中からシンガポールにいるアジアのヘッドがウェブミーティングでジョインして、英語になります。いちおう覚悟だけしておいてください」

「英語なんて何年も使ってないもので…」

「大丈夫ですよ、必要でしたら私と上司でサポートします、普段の仕事は顧客が日本人なので基本日本語です、ただ毎日海外とコンファレンスがあるのと、社内の書類はすべて英語です、大丈夫ですよ、嫌でも慣れますから」


おそらく私は「騙されてみたい」という誘惑に抗えなかったのだろう。このまま今の仕事を続けるより、騙されて、傷ついて、立ち直ることができたら、「私にはこれしかない」と強いモチベーションを持って今の仕事を続けられるだろう、そんな保険を心の中でかけていたつもりだった。

現実は、菅野朋彦の言葉はすべて正鵠を得ていた。私は肩透かしともいえるほどあっさりと内定をもらい、今までお世話になった日とほぼ全員を驚愕させ、「もうここには戻れないのだ」という思いとともに病院を去ることになった。

「先生」と持ち上げていた相手が自分の部下になったとたんに態度が豹変する、それも予想はしていたが杞憂だった。私を「先生」ではなく「清原さん」と呼ぶようになった以外、私に対する接し方は初めてあった時とまったく変わらなかった。

年明けの1月半ばに病院を退職し、外資系の金融機関に転職したそのひと月後に、「もしあの日、彼と出会っていなかったら私はどうなっていたのだろう?」という事件が起きる。

COVID-19、コロナ禍の始まり。

私が入社してすぐに自宅勤務というものがスタートし、ほとんど仕事を覚えないまま病院時代の倍の給料を得ることになった。そして菅野が口にした通りハイアリング・フリーズとなり、新規採用はなくなった。私はたぶん「もっている」のだと思う。そうじゃなければあのタイミングで彼に声をかけられ、決断するなんてあり得ない。


祖父から聞かされた陰陽師の末裔だという話は、ばかばかしいと思いながらも、自分はもしかしたら特別な人間かもしれないという優越感と安心感を私にもたらせた。何があっても私はうまくやっていけるはず、という根拠のない自信につながった。同じ職場に七瀬祓という名前の年下の看護師がいると知った時、自分の人生がここから面白くなるかもしれないと勝手にわくわくした。そう、彼女と関わることで自分の人生が面白い方向に動くはずだ、そう考えただけ。結局は自分のことだけを考えていた。妹のように思っているわけでもないし、レズビアン的な恋愛感情もない。私は他人を踏み台にして幸せに生きられる人間なのだと思う。それでも、なぜか、彼女には幸せになってほしいと思う。私が幸せになるなら彼女にもお裾分けをしたい。受け取ってもらえないなら仕方がない。二人の人間がいたらその関係はギブアンドテイクではない。私は彼女に何かをしてあげたいと思っているが、それはかなわないことかもしれない。私は自分でも理解できないくらい彼女に執着しているのだ。

たぶん一般的には、彼女に執着しているのなら彼女のいる職場に留まるものなのだろう。でも私は病院を去り金融業界に行った。もう一度彼女を手繰り寄せることができる確信があったのだと思う。辞めるときは何の未練もなかった。不安一つ感じなかったことが、今になってみると恐ろしいくらいだ。


「あなただってわかったでしょう? この世にたやすい仕事はない、という言葉が嘘だってこと。世の中の役に立つ仕事はたいてい割が合わない、でも働く側が割に合わないからこそ安くサービスが供給できる、もしその業界の人がすごい給料もらうようになったらコストが上がって世の中の人の役にたたなくなる、金融業界が高い給料をもらえるのは誰がやっても同じ仕事なのに参入障壁があって、しかもクライアントの側は手数料をいくら支払ってるかわからないから、一日で億単位で儲かる仕事なんてそうはないわ、菅野さんは私の恩人のようなものよ、あの人に会わなかったら、きっと今でも刷り込まれた常識の中でもがいていた、私はあの人の救われた、だから私はあなたを救いたかったの」

絶え間のない東京駅の電車の往来を一望できる、鉄ちゃんなら歓喜乱舞しそうなディーリングルームの自分の席でブルームバーグの画面を見ながら、私は七瀬祓の残像に語りかける。

看護師ができるくらいだから彼女はきっと情が深い、情が深いから不倫ができる、私には情がない、情がないから不倫ができた。


3か月前に、菅野朋彦から二人に食事に行こうと誘われ、彼が同業他社に転職することを知った。

「どこに行くんですか?」

「まだ言えないよ、ルールだから、有休も残ってるから丸1か月休むよ、その間に噂が出るかもね、もちろん正式に向こうに行ったらちゃんと挨拶するよ」

「どうして辞めちゃうんですか?」

「そんなの理由は一つだよ、もっと上のポジションで声がかかったんだ、個室もらえるらしいよ」

「すごいですね」

「いい会社だったら清原さんにも声をかけるよ」

「ありがとうございます」

麻酔医として病院で働いてい私と今の私の間には隔たりが大きすぎて、かつての日常は私の記憶の中にしかない。あの日々を愛おしいと思えるのは、今が幸せだという証だ。

店を出て二人きりになった時、私は言った。

「菅野さん、一度だけ私を抱いてくれませんか?」

思いは複雑すぎてたぶん自分でも説明ができなかった。その瞬間彼に恋をしていたのかもしれない、綺麗な自分を見てほしかったのかもしれない、彼と肌を合わせたかったのかもしれない、あるいは他の方法で感謝を伝えることを思いつかなかったのかもしれない。

「嬉しいな」彼は微笑みながらそう言った。それしか言わなかった。

私たちは当たり前のように肌を合わせ、当たり前のように燃え上がり、当たり前のように何の未練も残さずそれぞれの帰る場所へ向かった。

彼がシャワーを浴びている隙に彼のスマホを覗いたら、妻からのラインの通知が目の前で更新されていた。彼はどうやって言い訳をするのだろう? 私はその時に思った。

新しい職場に移った初日に彼は私に社交辞令のような電話をくれたが、それ以上の連絡はいまのところない。

七瀬祓の方が若くてかわいいということなのだ。



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