七瀬祓の独白
「七瀬さん、眠くなってきましたね? いい夢見れますね?」
その声を振り払うように私は目を覚ました。身体に汗をびっしょりかいている。寝苦しい暑さのせいで、悪夢を見た。いや、これは夢と言えるのだろうか。夢というのはたいてい支離滅裂なものだが、私がいま寝ている間に見たのは昔の記憶。麻酔科の清原先生はいまの言葉を現実に口にした。違うのは言葉をかけた相手が私ではなく、患者さんだったということ。私はその光景を外回りの看護師として近くで見ていた。
清原先生と初めて一緒にオペに入ったのは、COVID-19が誕生した2019年。翌年の2020年にコロナの嵐が世界に吹き荒れる。もし清原先生と一緒にオペに入る機会がなかったら、私はいまだに看護師を辞められなかったかもしれない。
6年もたてば、みんな変わるよね。
一緒にオペに入って間もない頃、入室した患者さんが手術が怖くなったのか、あれやこれやと言葉を並べて、なかなか手術台のベッドの上で横になろうとしてくれなかった。
手術は私たち医療関係者には日常だけど、患者さんにとっては特別なもので、怖いと感じたらやはり怖いものなのだろう。横綱まで上り詰めた相撲取りが、心臓の手術が怖くて敵前逃亡したと循環器の先生から聞いたことがある。その元横綱は心不全を増悪して亡くなった。
それまでの清原先生は、必要最低限のことしか口にせず、黙々と麻酔の準備をしている麻酔科の先生くらいの薄い印象しかもっていなかった。
ところがその日の清原先生は、目元に笑みを浮かべ、患者さんの名前を呼びこう続けた。「眠くなってきましたね? いい夢見れますよ」
小柄で気難しい人が多い麻酔医の中では優しい印象のある清原先生の顔が魔女に見え、私はぎょっとして体をのけ反らせた。間違いなく気づかれたはずだ。
その数日後、準夜勤のシフトで、患者のいない病室で短い休憩を取っていた時、予定時間を大幅に超えた手術を終えた清原先生が入ってきた。私は医者と二人になるのが気まずくて、場所を譲るために出て行こうとしたが、清原先生に腕を掴まれた。
「ねえ、そんなに私のことが嫌い?」彼女は言った。
「いえ、そんな、戻りますのでどうぞ使ってください」私は本当のことを言った。
「七瀬さん、私、私あなたに訊きたいことがあるの、ねえ、ちょっとつきあってくれない?」彼女は意外なことを言った。
「ここではまずいんですか?」私は訊いた。
「今夜は満月が綺麗なの」彼女は微笑んで、病院にはふさわしくない詩的な言葉を口にした。
返事をするわけでもなく、首をどちらかにふるわけでもなく、クロックスを履いた彼女の歩幅をなぞるように、私は後ろをついて歩き、一緒に通用口から建物の外に出た。
「ほら」彼女が指さす南東の空にまん丸な月が輝いていた。
「綺麗ですね」
「でしょう?」
彼女は私に煙草を一本すすめた。
「私、吸わないです」私は嘘をついた。まだこの人に気を許してはいなかった。
「なら、私もやめておくわ、…前から気になってたのよ、七瀬さんってどういう人?」
「どういう人って、どういう意味ですか?」
「一族の命運を背負ってるとか?」
「え?」
「だって、七瀬祓なんてそのものずばりの名前じゃない?」
「あの…、話が全然見えないんですけど…」
「ええ!」今度は彼女の方が驚いた声を上げた。「まさか、自分の名前に込められた意味をわかってないの?」
「あの…、七瀬祓って名前はたまたまそうなっただけなんです、両親が離婚して母に育てられたので、母方の七瀬って姓を名乗るようになったんです」
「じゃあ、生まれた時の名前は七瀬祓じゃなかったってこと?」
「違います」
「なんだ、七瀬祓なんて名前、てっきり陰陽師の末裔かと思ったわ」
自分の名前と同じ言葉が世の中にある。そのことを私は知らなかった。この人は私をバカにしている。それでも相手は医者。看護師である限りその指示に従い続けなければいけない医者だ。
「どういうことですか?」私は少しだけ、強気な口調で訊いた。
「七瀬祓っていうのは七つの河原でお祓いをする陰陽師の儀式よ、でもよく考えたら陰陽師の家系に七瀬なんて姓はないわね、あなたにはすっかり騙されちゃった」
「騙すなんて…」
「誉め言葉よ、私を騙すなんてあなたにはとても興味がある、私の清原っていう姓は陰陽師の家系なのよ」
妙なことを言いますね―、そう言いたいのに言えず、「そうなんですか?」と私は返した。
「亡くなった祖父がよく言ってたのよ、ずっと戯言だと思ってたんだけどね、もし本当だとしても今更それが何になるのって話じゃない? それでもね、ふと思うことがある、麻酔科医の仕事は患者を眠らせることだけど、大げさに言えば生死を預かってるわけ、陰陽師の末裔の私が人の生死を預かるなんて運命…、なんてね!」
彼女がふざけているのか本気なのかわからなかった。
「七瀬さんはなぜ看護師になったの?」
「母が看護師です、気がついたら当たり前のように看護師目指してました」
「他の職業は考えなかったんだ?」
「全然」そう答えながら思った。こんな質問してくれた人は清原先生が初めてかもしれない。私は少しだけ心を開いた。「清原先生はどうしてドクターになったんですか? 頭が良かったから?」
「本当にそれだけかもしれない、…選択肢がなかったという点では七瀬さんと一緒かな、理系の女子がそこそこ勉強できたら医学部に行くしかなかったのよ、医者になっちゃえば食いっぱぐれもない…、病気の人を誰かを助けたいなんて一度も思ったことないわ」
「そうなんですか?」
「やっぱりあるんだ、まともな医療従事者はそうじゃないとね」
「よくわかりません…、患者さんが元気になったら嬉しいです、でもそれがモチベーションいなっているかどうか正直わかりません」
「へえ…、ねえ、私と組まない?」
「え?」
「今じゃないよ、いつかよ、少なくとも私が医者を辞めてからね」
「辞めるんですか?」
「麻酔科医になったのは、医者の中で一番楽だと思ったからよ、手術なんてやりたくないし、でも当直あるし、土曜出勤もあるし、あてがはずれたなって思いがずっとある、…さっき私、自分のことを選ばれた人間かもって言ったでしょう? あれは冗談よ、国立大学の医学部で自分よりもずっと優秀な人間に囲まれたら自分はたいしたことないって嫌でもわかる、陰陽師の末裔なんてばかばかしい限りよ、…それでも自分が特別な人間だと思いたい気持ちがあるからそんな言葉にすがってしまうのよ、…つまり私は特別に憧れるありふれた人間ってこと」
私は言葉を見つけられるに黙っていた。
「きっと世の中には…」彼女は言葉を継いだ。「医者に病気を治してもらうより陰陽師の祓えで病を遠ざけてもらいたいと願う人がいると思うわ、そのうち麻酔科医を辞めてシャーマンにでもなろうかな」
「シャーマンって…、祈祷師ですか?」
「そうよ、楽してお金が儲かると思わない? あなたと一緒ならできる気がするの」清原先生は両手を広げて私の両肩をつかむと、私に顔を近づけて言った。
私は視線をそらす代わりに、答えを頭の中で考えた。
清原先生が本気なのかふざけているのかわからないけれど、こんな誘い方をされてうれしくないと言えばうそになる。でも、私はレズビアンではないと思う。だから女性から一緒に悪いことをしようと言われてもピンと来ない。「バレずに妻を殺害する方法を一緒に考えて」って男の人に頼まれたら私はきっと喜んで一緒に考える。そんなことを言ってくれる男の人を好きなれたら幸せだろう。実際には殺さなくていい。二人で本気で計画できたら、私にとっては夢のような時間だ。
「考えておきます」私は言った。
「あなたみたいにわかりやすい噓しかつけない人は信用できるわ、言葉なんてどう理解されるかは受け取る人次第だから」
この時私は疑った。この人レズビアンかもしれないと。答えはいまだにわからない。ただ一つわかることは、この時は彼女はすでに医者を辞めるつもりだったのだ。
そもそも、なぜ清原先生が夢に出てきたのだろう。私は頭の中で断片をつなげてみる。
昨日は些細なことでムカついていた。会社で三十代のおせっかいな女性から、しつこくマッチングアプリに登録しない理由を聞かれたから。
「七瀬ちゃん、自分のこと若くてかわいいと思ってるんでしょう? でもねえ三十なんてあっという間よ、付き合ってる人いないんでしょう? なんで登録しないのよ?」
普段はそんなことでムカついたりしないのに、きっと何かの巡りあわせなのだろう。
私の20代はあと1年で終わる。
マッチングアプリに登録したところで、惨めな思いをするだけだろう。私は顔の印象が薄いらしい。
高校時代の友人に言われたことがある。
「百人の中から祓を探そうと思ったら、まず左から右に一人ずつ見て行っても絶対に見つからない。まず最初に左から十人を見て、その中に印象に残らない顔があればもう一度戻ってみる。そこに祓がいるかもしれない。もし最初の十人の顔がみんな印象深ければ、そこには祓はいないってことになる。とにかく祓の顔は一度見ただけでは認識できない。一週間くらい毎日会って初めて、祓の顔が認識できるようになる。一度認識できたらもう忘れることもないけど、脳に記憶が定着するまで時間がかかる顔なのよ、祓は」
つまり、マッチングアプリのような世界では私は当たり前のように素通りされる。
でも、「出会いがない」からマッチングアプリに登録するというなら、私には必要がない。初めて会う人から声をかけられたことはないけれど、何度か顔を合わせたことがある人からはやたらと言い寄られ、しかもみな私より十歳は年が上。同世代の男子に私は見えていない存在なのかもしれない。そのせいもあってなのか、言い寄ってくる人にはいつも好意をいだいてしまう。言い寄ってくる人は高いレストランに連れて行ってくれたり、プレゼントをくれたりする。目的は私を抱くこと。私は、私にできることならなんでもしてあげたいと思う。「してほしいことを言って。私、何でもしてあげる」私の言葉に目の前の男は恍惚の笑みを浮かべる。自分が嬉しいのかどうかはよくわからない。喜んでくれるなら何でもできる、それだけのこと。だから私には、看護婦という職業が務まったのかもしれない。看護師はこの国に150万人もいるが、看護師なんて死んでもやりたくないと思う人の方がその何倍もいるだろう。そもそも、できない人が頑張ってもできるようにはならない仕事だと思う。たぶん適性というものがある。でも、看護婦の適性があるから看護師になるというのはあまりにも世間知らずだ。看護師の資格取得のためには勉強をしなければいけないし、なったらなったで激務で、規則的な生活はあきらめざるを得ない。それでも看護師という職業に続ける理由は生きるためだ。そして世の中には、看護師よりもずっと楽で、資格もいらず、土日休みで給料が高い仕事がちゃんとある。看護師になる人はたいてい、この世にそんな仕事があることを夢にも思わない。まして、シングルマザーで看護師の母と二人で暮らしていたら、他の選択肢が存在せることさえ思いもしない。清原先生が声をかけてくれなかったら、私は今でも「他にできる仕事はない」と思い込んで今でも看護師を続けていたのだろう。
スマホの画面を見ると朝の5時を過ぎていた。いまから二度寝をしたら間違いなく寝坊をするだろう。
遮光カーテンをめくると外は明るい。梅雨前のこの時期は、一年で最も日が長い。あとひと月もすれば梅雨の真っただ中。そしてすでに日が短くなり始めている。
私はゆっくりシャワーでも浴びようとベッドから起き上がった。
いつもより45分早く家に出た。東京駅に8時前に着く丸の内線と比べて、7時過ぎに着く丸の内線がものすごく空いているというわけでもなかった。改札を出て地下通路を10分近く歩き、丸の内の仲通りに面したビルに入る。エレベーターで12階に上がり、外資系証券会社のオフィスのカフェテリアに向かった。
少し前を、グレーのスーツ姿の女性が颯爽と歩いている。6年前に私の前をあるいていたクロックスが黒いヒールに替わっている。私はもう彼女のことを清原先生とは呼ばない。
「伊知子さん」彼女の背中越しに、私は彼女の下の名前を呼んだ。
彼女は歩を止めて振り返る。清原先生はものすごくメイクが上手になったけれど、その裏には童顔が透けてみえる。
「祓、早いじゃない?」
「おはようございます、ちょっと早く来ちゃいました」私は早足で彼女のもとに向かった。彼女は微笑みながら私を見ていたが、その表情がさっと曇った。
「訊きたいことがあるんだけど」彼女は言った。
「何ですか?」私は身構えることなく言葉を返した。
彼女は周囲を見回し、誰もいないことを確認して言った。
「菅野さんと寝てるでしょう?」
私は動揺して言葉が出ない。
伊知子さんをこの会社に誘ったのは、転職してすでにこの会社を去った菅野さんだと聞いたことはあるけれど、二人の関係を考えたことはなかった。いや、違う、聞きたくなかったから聞かなかった。伊知子さんにも菅野さんにも。
伊知子さんはじっと私の顔を見ている。その視線に耐えられず、私は目をそらす。
「答えなくていいよ。匂いでわかるから、体質なのよ、私の、…祓から菅野さんの匂いがする」
同じ男と関係を思ったふたりの女の会話は映画では見たことがある。自分が当事者になるなんて想像さえもしたことがなかった。
「ねえ、そんなに嫌な顔しないでよ」彼女は穏やかに言う。「奥さんに刺されないように気を付けて、言いたいことはそれだけよ」
「大丈夫です」私は観念したように言った。
「万が一の時は応急処置くらいはしてあげるわ、運よく私が居合わせた場合に限るけど」
「伊知子さん」私は何でもいいから言い返したかった。「菅野さんとどうやって知り合ったんですか?」
「ああ、言ってなかったわね、ナンパされたの」