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この作品は第5回日本SF作家クラブの小さな小説コンテストの共通文章から創作したものです。

 その図書館には、奇妙なうわさがあった。

 図書館の裏手にある木には、いつでもすずなりにりんごがなっている。ここがドームになる前からある、古い木だけれど。


 ノンが有刺鉄線の破れ目をかいくぐり、廃墟の図書館へ足を踏み入れたのは寮の門限の三時間前だった。

 寮からこれほど離れた場所に一人で来たのは初めてだ。規則破りで反省室に入れられやしないかと、おなかがぎゅっと痛くなる。

 ノンは半壊した建物を前にして大きく深呼吸した。胸の鼓動がうるさいほどだし、手のひらには汗をかいている。でも、入っていかないと、とノンは図書館の壊れた扉の隙間から中へ入った。

 降り積もった埃と、かび臭ささは、以前入った工場の地下室を思い出させた。天井のあちこちには穴が開き、青く塗られたドームのてっぺんが見えた。

 ノンはそろそろと歩みを進め、すぐ先のカウンターに人影が見えた。

「こんにちは、わたしはAI司書のコチです。お探しの本は」

 ノンは緊張でよろける前に叫んだ。

「リンゴをちょうだい!」

 カウンターの椅子に座るのは、上半身だけのアンドロイドだ。ノンの目の前にいるアンドロイドは、下肢が欠けている上に、右腕も何かにもがれたように無かった。

「あるんでしょう、ここに。裏手(ウラテ)ってどこ? リンゴがたくさんなってるって聞いた!」

 ノンは寝癖がついた短い前髪ごと、ひたいにうかんだ汗を右手でぬぐうと、アンドロイド・コチをよくよく見た。

 かつてきちんと結われていただろう金色の髪は盛大に乱れ、人工皮膚も破れて下の微細な機械がのぞいている。

「こんなお化け屋敷みたいなところに、一人で乗り込んできた勇気は称賛に値しますが、りんごはございません」

 ノンは、えー、と盛大に声を上げて床に膝をつくとカウンターにぶら下がった。気が抜けたせいか、ノンのお腹が盛大にぐうと鳴った。

「裏庭なら右手奥です。行ってごらんなさい」

 ノンはしかめっ面でコチをにらむと、言われたとおりに右へ進んだ。途中、壁が崩れていたり、煤で黒く汚れたりしている。わずかだが、焦げたにおいが残っている。床に散らばる掲示物やパンフレット類を踏みながら、ノンはガラスの割れた扉を開いた。

 レンガの塀で四角く囲われた庭には、茶色くなった芝生が敷かれていた。壁にそって壊れたベンチが数台あり、庭の中央には木が一本立っていた。

「あった」

 ノンは思わず歓喜の声を上げ駆け寄ったが、開いた口はそのままに木を見上げた。

 木は白く立ち枯れていた。四方に伸びた枝は乾ききり、葉の一枚もついていない。

 ノンはあっけにとられてしばらく立ち尽くした。さっきまでのもしかしたら、という期待感ががらがらと音を立てて崩れた。ノンは全速力でコチのところまで戻って吠えた。

「枯れてた!」

「だから言ったじゃないですか。あの木が実をつけていたのは、だいぶ前です」

「期待してきたのに、期待してたのに! じゃあ何があるのよ」

「本しかありませんね」

 ノンは図書館の中を見渡した。タイルの床があちこち剥げている。書棚が斜めになり床に本が散らばっていた。ノンは手近にある本を手に取って開いてみた。

 中は文字が黒く塗られたり、ページが切り落とされたりしているのを見て、ノンはぎょっとした。

「あなたの服、女工ですね。お名前は? 幾つですか? ここのドームにあるのは縫製工場のはず。文字は読める? 数字は?」

「いっぺんに聞かないでよ。名前はノン、去年から働いてる。1グループ、字も数字もちゃんと読めるよ。読めないと、仕事できないじゃない」

 ノンはむっとして言ったあと、難しい字は読めないけど、と口の中でつぶやいて本を閉じた。

「では16才ですね」

 ノンはコチの言葉に小首をかしげてから、ため息をついた。

「昨日ね、寮で一緒のユーナ姉さんが朝礼で監督官に怒られたの」

 コチはこくんと相槌を打った。

「制服のね、ここ、袖口のところにボタンをよけいに縫い付けていたから」

 ノンは灰色の制服の袖口を指さして、コチに見せた。

「捨てるボタンだよ。透明の小さなボタン。お姉さん、みんなの前で監督官にドロボウって怒鳴られたの。カビだって、ボタンを引きちぎられたの」

 ノンたち工女の制服は灰色の装飾のないワンピースだ。工場で働くときには、その上にデニムのエプロンをつける。

「それで、昨日は部屋に戻らなかった。今日のお昼になってもまだ。ごはんはすぐに片づけられちゃうから、ユーナ姉さん、おなかが減ってると思って。お姉さんから前に図書館のことを聞いたから、ここに来れば食べ物が手に入るかなって、来てみたんだけど」

「ご希望に添えず、すみません」

 コチの緑の瞳が、片方だけ残った瞼を下して、詫る。

「寮のごはんは少なくて、あたしはいつもおなかを空かせているから、お姉さん、「食べて」ってあたしにごはんを分けてくれるの」

「優しいかたですね」

 ノンはうなずくと、あきらめ気分でため息をついた。

「それにね、就寝前(シュウシンマエ)に、あたしに裁縫を教えてくれるの。あたしがあんまり不器用で」

 夕刻のメロディーが外から聞こえてきて、ノンは弾かれたように立ち上がった。いつまでも外にはいられない。

「たいへん、門限の時間だ」

 ここから寮まで走らないと門限に間に合わない。ノンはコチがごきげんようと挨拶するのに応えもせず、有刺鉄線をくぐり図書館を後にした。

 外に出ると、ドームの天井が赤く染まっていた。道沿いにある公園にはもうほとんど人影がなかった。薄暗い道に沿って立つ柱の上で赤い光が点滅している。ノンは前にお姉さんから、赤い光には気を付けるんだよ、と言われたことを思い出して背中がすうっと冷えた。

 遠くの寮の門柱に灯りがともっているのが見えた。

「点呼が始まっちゃう」

 ノンは全力で走った。


 図書館から帰った翌朝、ノンは身支度を整えて工場へ出勤した。四人部屋のベッドのひとつは空いたままだった。ユーナ姉さんはまだ帰ってきていない。ノンは唇を小さくかみしめた。

 わずかばかりの朝食が終わると、始業前の朝礼が始まる。 

 ミシン担当の者は自分のミシンの横に、ノンのように下働きのものたちは、後ろの空いた場所に並ぶ。一番後ろから見る人の頭は、みんな短い髪を三角巾で覆っている。

 白髪交じりの髪を後ろでひとまとめにした大柄な女性が、皆の前に立つ。縫製工場の監督官だ。

「第八ドーム、朝礼。わたしたちのー」

 監督官の始めの声に続いて、皆で唱和する。ノンはとうに諳んじられるようになった文言をなんの感情もなく口にする。

「わたしたちの日々の食事をありがとうございます。

 日々の衣服をありがとうございます。

 日々の住まいをありがとうございます。

 日々の仕事をありがとうございます。

 すべてはイノ元首さまのおかげです。ありがとうございます。

 御恩は決して忘れません」

 一同で正面に飾られた額縁に礼をする。額縁の中には、禿頭の高齢とわかる老人が笑みをたたえた写真が入っている。

 ノンはその笑顔を見るたびに、どこか嘘っぽいと感じてしまう。作り笑顔じゃないかな、と思う。

 朝礼が終わり、ようやく仕事にかかるのだが、ノンはすでに空腹を感じて昼食までの長い長い時間に耐えるのかと思うと絶望的な気持ちになる。

 縫製工場では、ふだん労働者のブラウスやシャツ、スカートやズボンが作られている。時には、儀礼的なワンピースやスーツが特別に作られることがある。それはドームの上に住む上級市民のためのものだという。ノンたち、労働者とは違う市民の。

 次の休みにも、また図書館へ行ってみようかなとノンは手を動かしながら思った。

 もしかしてコチは食べ物を隠しているんじゃないかな。それに、今日にもお姉さんは帰ってくるかも知れない。そしたら、ユーナ姉さんと一緒に図書館へ行ってみたい。図書館のことを教えてくれたのはお姉さんだし、お姉さんはいつも休み時間には小さな本を読んでいた。だから、きっと喜ぶはず、とノンは空腹から気をそらすためにできるだけ楽しいことを考えた。

 お姉さんは図書館に行ったことはないと言っていた。お姉さんは、りんごの噂は寮に伝わるものだと言っていた。ただ、気味悪いほど壊れた図書館に行く人は誰もないと。

―ーノンも行ったらダメだよ。見つかったら減点ですまないよ。あなたはちょっと無鉄砲だから心配よ。

 いつだったか、針仕事を教わったとき、お姉さんがノンにそっと耳打ちしたのだ。

 でも崩れた図書館にコチはいて、利用者を待っていた。ノンには壊れているように見えたのに動いたのだ。工場や寮のあちこちの壁にある「かめら」たちみたいに怖い赤い目をしていなかった。柔らか緑の瞳だった。

 コチに数は数えられるの、と尋ねられたが、ノンは十二までの数字を数えられる。

 いち、に、さん、し……九日働くと、十日目に休みが来る。十二時になれば昼休みだ。昨日休んだばかりなのに、ノンの頭の中は、次のお休みと食事のことでいっぱいになる。

 たくさんのミシンが列になって稼働する中を下を向いて、ノンは糸くずや端切れを掃いて集める。休む事なく動くミシンの振動は床を、壁を小さくふるわせる。ガラス窓がカタカタと鳴る。

「ノン、手が空いたら、こっちに来て糸の始末をして」

 年かさの女性に呼ばれて、ノンは掃除道具を片付けると、作業台の前に座った。今年入った女の子たちと作業をする。去年ノンと一緒に入った女工全員にはミシンが与えられた。いまだに下働きをしているのはノンだけだ。

 みんな同じ灰色のワンピースに紺色のデニムのエプロン、頭には白い三角巾。

 同じ作業をずっとしていると、ノンは目が疲れて、思わずあくびが出る。

 どんっ、と真後ろで大きな足音が響いてノンは驚きあくびが引っ込む。

 こわごわ振り向くと、監督官がぎろりとノンをにらむ。ノンは体が縮こまって手が止まる。手を動かさないと、評定が悪くなる。そうしたら、ここから別のところへ移されてしまう。

 ノンは冷や汗をかきながら、糸切狭で短い糸をできるだけ丁寧に切った。

 一日の労働を終えて寮の部屋に戻ったノンが見たものは、片づけられたユーナのベッドだった。


 次の休日、ノンはまた図書館へ駆けつけた。

「こんにちは。わたしはAI司書のコチです。お探しの」

 コチの平明な声がノンを迎えた。

「お姉さんが帰ってこないの!」

「自己紹介くらい最後まで言わせ」

 コチが言い終わらないうちに、ノンが続けざまに話した。

「監督官が、お姉さんは別の工場へ移ったって。でも年上の人たちは、しんだ、じさつだって」

 コチは口をすっと閉じて沈黙した。破れた天井から、通年一定に設定された日差しが降り注いでいる。しばしの静寂のあと、ノンが恐々と口にした。

「しぬってなに? じさつってなに?」

 コチはいきなり故障したように、無反応になった。だんまりを決め込むコチを不安に思い、ノンはコチの機械がむき出しになった頬に手を差し伸べた。

「ねえ」

 コチの目が、ぱちんと開いた。ノンは驚いて二三歩後ずさる。

「ノン、死ぬとは生きることと反対」

 コチの唇が動いた。ノンは首を傾げた。どちらも、まるで初めて聞く言葉だった。一年間暮らした教場では教えなかった。教わったことは、身辺自立と簡単な文字と数字の読み書きだ。

「いきるって、なに」

 死ぬもわからなければ、生きるもノンには分からない。

「それは、あなたが見つけなさい」

 コチは静かに話した。

「ただ、ユーナさんはもう寮の部屋には戻らないでしょう。死とはそういうものです」

 コチの言葉を聞くノンは、少しずつ体が冷たくなっていくように感じられた。

「もう会えないの」

「残念ならが」

「信じられない、だってお姉さんはあたしに」

 ノンは喉のあたりが、熱くなり、声がふるえた。

「あたしに」

 言い募るノンを前に、不意にコチの顎がぐんとあがった。

「ノン、カウンターの下に入りなさい」

「え?」

 急なことに、ノンは涙が引っ込んだ。

「いいから。早く。侵入者です」

 ノンはうろたえて、入り口と裏庭に通じる方向を何度も見返した。

「カウンターの下でじっとして。何があっても声を立てない」

 ノンは足がもつれそうになりながら、瓦礫を越えてカウンターの下に潜りこんだ。コチの体が座っている椅子とカウンターの間に隠れた。

 コチが顎を戻すモーター音が消えた。と、思うと誰かが入り口のドアを蹴る音が響いた。

「こんにちはー、誰かいますかー、いませーん!」

「少しは真面目にしろよ。定期巡回だからって手を抜くな」

 低い声だ。足音は二人分。ノンは、震えた。

 男の人だ!

 ドームには女性しかいない。たまにテレビジョンで見るイノ元首さまは男性だけれど、実際の男性に会ったことは、ノンはなかった。

「いまどき本なんか読むか。おまえ、読む? オレ読まない」

「……それはそうだが。勝手に本を読まれても好ましくない」

 続けて、ここを早く解体すればいいんだが、予算が、とつぶやいた。

「見ろ、埃のうえに新しめの足跡がある」

 まさか、と半笑いの声がした。ノンは口から心臓が飛び出るかと思うほど鼓動がはげしい。冷たい汗が背中を伝う。

「誰かこなかったかー?」

 まるでバカにするような声がコチにかけられたようだが、コチは応えなかった。

「通信システムも何も壊れたままだからな。今さら復旧させる意味もないし」

 もう一人の声は慎重なふうに聞こえる。

「足跡が小さい。ここには子供はいないが」

「小柄な子がまちがって入ったとか? まさかパルチザンなんて警戒してるのか? 女になにができるってんだよ」

「無駄口はいい。カウンターの裏を確認しろ」

 ノンは今度こそ叫びそうになった。すると突然甲高い雑音が大きく鳴った。ノンは思わず耳をふさいだ。

「いらっしゃいませ。わたしはAI司書のコチです。お探しの本は何ですか」

 コチはノンが聞いたことがないほどの高い声でしゃべった。舌打ちが聞こえた。

「なんだよ、いきなりかよ、旧型AI」

「最近の利用者は?」

 落ち着いた声がコチに問いかける。

「おりません」

「誰か本を持ち出していないか?」

「……図書館司書は個人の利用状況については、お答えしません」

 んだと、コラというガラの悪い声がした。

「図書館は、個人の秘密と自由を守ります。主なしとて」

 コチの凛とした声がノンの耳に届いた。

 ヒミツとジユウ?

「はあ、お役ご苦労様です」

 軽薄な声のあと、重たい音がノンの頭上でしたかと思うと、コチの体が斜めになった。バラバラと降ってきたものは、コチの皮膚や小さなネジだった。ノンの体は硬く凍りついた。

「おい、乱暴に扱うな」

 静かな声がいさめたが、コチに乱暴を加えたらしい男は鼻を鳴らした。

「秘密だと? 自由だと?」

 そんなものは……と言いかけて声は不意に止んだ。

「それ以上は減点だ。帰るぞ、異常なしだ」

 それから少しのあいだ、ノンもコチも微動しなかった。

「もういいですよ」

 ノンはこわばった手足で、ギクシャクとカウンター下からはい出た。コチは斜めになった体を真っ直ぐに戻していた。

「不定期に見回りにくるのですが、今日はしつこかったですね。ケガはありませんか」

 カウンターの正面に回ったノンは息を飲んだ。コチの顔、左半分が潰されていたのだ。

「コチ、コチ、痛くない? ひどいよ」

 ノンはふるえる指先で、割れ潰れたコチの顔に手をあてた。

「わたしはアンドロイド、痛みはありません。しかしながら、お心遣いに感謝します。あなたは怖くはなかったですか?」

「怖かった、怖かったよ。男の人は乱暴だから、私たちとは暮らせないって、ほんとなんだ」

 ノンはポロポロと涙を両の目からこぼして、ワンピースの下から出した布で拭いた。

「それは。なんですか?」

 コチに尋ねられ、ノンは無意識のうちに胸にきつく抱いているものに、初めて気づいた。

「お姉さんが作っていた服。これを残してお姉さんがいなくなるはずないの」

 ノンはノンが着ているのと、同じサイズのワンピースをコチに拡げて見せた。

「そうでしたか。胸のところにきれいな刺繍がされてますね」

 ノンは涙ながらにうなずいた。

「お姉さんは特別な服を作る係もしていたの。たぶんその時に糸やビーズを拾って来たんだと思う」

「きれいですね、羽を拡げた孔雀でしょうか」

「クジャク?」

 ノンは首をかしげた。今日は初めて聞く言葉ばかりで、頭が追い付かない。

「知りたければ、4の棚へ」

 コチがノンに教えた。数字なら読める。ノンは壁際の4の棚へ足を向けた。


 夕刻、ノンは寮の食堂にいた。

「イノ元首様、日々の食事に感謝いたします」

 縫製工場で働く者たちが、三十分刻みで交代で食事をとるのだ。

 ノンは三つに仕切られた四角の皿を、ぼんやりと見ていた。手にしたスプーンを動かすことなく座ったままだ。

「どうしたの? 具合が良くないの?」

 隣に座る同期の子に話しかけられても、ノンは上の空だ。周りでは同室でノンの世話係りだったユーナが居なくなったからじゃないか、とささやいている。

 違うのだ。ノンは4の棚で見た本に圧倒されたのだ。コチに教えられ手にした本は、黒塗りもなく破られてもいなかった。

 全面天然色(カラー)で大判の本には、美しい孔雀が青と緑の羽を広げていた。孔雀ばかりではない。ハチドリ、白鳥、鷺……美しいものがノンの目に飛び込んできたのだ。初めて見る様々な鳥、生き物。

 ノンの頭のなかで、鳥たちは羽ばたいた。飛ぶという意味は分からないが、広がる羽の美しさ、躍動感はノンを魅了した。

「ノン、食べないならあたしにちょうだい、なんて無理よね」

 隣の子がノンに声をひそめて話しかけた。

「あげる、なんだか食べられない」

「え、冗談だよ、食べな。おなかが空きすぎて眠れなくなるよ」

 強く言われてノンはノロノロとスプーンを、口に運んだ。ふだんは大好物の野菜と肉エキスのピラフも、大豆ミートの照り焼きも、美味しいと感じられなかった。

 ただ、もう一度、本が見たいとノンは思った。


 次の休みにも、ノンは図書館へ走って行った。

「いらっしゃいま」

「おはよう! 4の棚の本、みせて」

 息を切らせ、ノンはコチのもとに駆けつけた。

「ご自由に。好きなだけご覧ください」

 コチが答え終わる前に、ノンは4の棚へ駆け寄った。前回見た本をわきに抱えて、コチのところへ戻ってきた。

「コチ、ここ見て。クジャク。きれい、ピカピカのここ……なんだっけ、ふわって」

「羽、ですね」

「そう、緑と青で」

 それから、図書館の棚へ隠しておいたお姉さんのワンピースを並べて刺繡を指さした。

「ここ、似てる。ここが目で、ハネがこっちの肩まで伸びている」

 ノンは右胸のあたりに縫われたクジャクの目から左の肩口まで、指先をすっと動かした。

 限られた材料で、ユーナがひと針ひと針縫っていたクジャクはワンピースの上で羽を広げていた。

「きれい。どうやって縫ったんだろう」

 ノンは頬を紅色に染め、長い溜息をもらした。

「縫物の本は、5の棚です」

 ノンはぱっと顔を上げうなずいた。ごのたなーと叫ぶと、すぐに棚を探し当てた。棚には、縫物の本がたくさん並んでいた。見たこともない、かわいらしい服の作り方から、バッグの縫い方、小さな布を縫い集めて大きな布を作る方法。

 たくさんありすぎて、目移りがする。

 その中から、ノンは一冊を選んでコチのところへ、また戻った。

「ありましたか」

「うん、これにする」

「はじめてのソーイング、いいですね。きっとあなたにぴったりです」

 コチに褒められてノンは照れ笑いした。

 ノンはコチのカウンターのところへ、壊れていない椅子を見つけて持ってくると本を広げた。

 よく見知っている針と糸、それからはさみに定規、メジャー。

 ノンはわくわくが止まらなかった。工場では糸の始末と並縫いと返し縫くらいしかさせてもらえないけれど、これにはチドリがけや他の縫い方もたくさん載っている。

「すごい、すごい。わかりやすいよ」

 ノンはまるで手元に布と針があるかのように、本を見ながら手を動かした。

「あー! なんであたし針と糸を持ってこなかったのよ、すぐ縫いたい、いま縫いたいのに」

「ワンピースを完成させる気ですか?」

 コチの問いかけにノンはうなずいた。

「5の棚に、すてきな服の写真や作り方がたくさんあったの。あたしも作りたい。お姉さんのワンピースを仕上げたい」

 ノンはこれからの作業や出来上がりを想像するだけでも、わくわく感があふれてしょうがなかった。

「寮で作業はできるのですか」

 言われてノンははたと我に返った。たしかに今の部屋にはノンの他にふたりいる。ベッドのカーテンを引いて作業しても、毎日だとさすがに不自然だ。

「この本、持って帰ってもいい?」

「いけません、危険です」

 ノンたちは、私物らしい私物を持たない。支給されたもの以外の物を持っていたなら、出所をしつこく聞かれるだろう。

「糸や布はありますか?」

「練習用に、いくらか支給されるよ」

 余り布の、切れ端がたまに工事から渡される。器用な先輩のなかには、小さな袋や小物を作ってあるのを見たことがある。仕事道具は各人に針と糸、糸切りハサミは工場へ来たときに支給された。

「ミシンの糸って細いから、お姉さんは何重にも縫ったんだね。あたしもやってみる。くず集めはあたしの仕事だから、糸は拾える。でも、作業する場所は」

 ノンはしばらく考えをめぐらせたが、これといって名案はない。

「とうぶん、ここでやる。考え事をしてたらおなかが減った」

 そういうと、ノンはお昼用に配給されているおにぎりをポケットから出した。それから、水筒を肩から外した。

「用意がいいですね」

「休みの日のお昼は、朝から用意されているから、持って行っていいの。水筒は、散歩に行く人が使っていい」

 ノンはおにぎりをフィルムから外して一口食べてから、あっと叫んだ。

「お水、リンゴの木にあげてくる」

「無駄です。あなたが全部お飲みなさい」

 コチの言葉をノンは立ち上がって聞いた。けれど、首は横に振った。

「無駄じゃないかもだよ。いつかリンゴがたくさんなるかも知れない。そしたら、お腹いっぱいリンゴが食べられるじゃない?」

 ノンは無邪気に裏庭へと駆けていった。古めかしい扉の向こうに、ぽつんと一本だけあるリンゴの木は、前回見た時と変わりはない。土は乾ききってカラカラだ。

 それでも、ノンは水を根元にかけた。どうか、木にたくさんの実がなりますように、と願いながら。

「へんな人ですね」

「コチもね」

 ノンはコチのところへ戻ると、食事を済ませた。おにぎりは塩味で、中心に小さな梅干しが入っているきりだが、ノンには十分すぎるほど、おいしいと感じた。

「今、ちょっとでも縫えたらなあ」

 ノンはお姉さんのワンピースを膝にのせて、スカート部分のポケットに手を入れた。中を探ると指先に紙が触った。

「あった」

 それは、小さな紙袋だった。中に針と、くるりと巻かれたわずかな糸の束があった。

「やった、これで縫える。もっとないかな」

 ノンは反対側のポケットも探ると、こんどは小さなメモが出てきた。

「数字が三つずつ、並んでる。数字は二つまででしょう」

 ノンは首をかしげて、紙を見つめた。

「に、じゅう。よん……」

 ノンはたどたどしく読み上げた。

 210,440,590,311.312,313,320,360.370。

 コチはノンの数唱を黙って聞いていた。

「読み方、これでいいの?」

「違います」

 ノンは、えーっと不満の声を上げた。

「なら、ちゃんと教えてよ」

「それは次回に。もう夕刻ですよ」

「コチのケチ」

 と口にしてから、コチとケチが似た言葉で可笑しくてノンは一人で腹を抱えて笑った。

 だからノンは気づかなかった。メモのうらには数字ではなく、「カンポウ、ニカイ」と書かれてあったのを。

 ノンはなおも笑いつつ、メモをユーナのワンピースのポケットに戻した。

「いずれにしろ、箸が転げても可笑しい年ごろですものね」

 コチの声音は優しかった。

 

 

 

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