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公爵家の七男で発明家の俺が平民の家政婦さんと結婚する方法

作者: 夏野モエギ

 耳が割れるような爆発音が響いた。それからバタンと勢いよく扉が開き、モクモクとした黒煙と共にひとりの男が爆発音のした部屋から出てくる。


「げほっ……また失敗したぁ」


 男はくしゃくしゃとした灰色の髪に大きな丸メガネをしている。そして着ている白衣はところどころ黒く煤けていたり、ほつれたりしていた。


「うーん、今度は絶対上手くいくと思ったんだっへぶ!」


 そう言いながらぐしゃぐしゃと髪を掻き乱し、部屋中をぐるぐると歩き回っていた男が自らの足に自らの足を引っ掛けて転んだ。

 その際、強かに顎を床へと打ちつけたらしい。顎は赤くなり、大きなレンズの向こうにある若草色をした瞳は痛みで潤んでいた。

 そんな風に男が無様に床に転がっていると、爆発音がした部屋とは反対側についている扉がノックされる。


「はーい、どうぞー」


 床に寝転んだままの男がのんびりと言う。

 そうすると、ひとりの女性が扉から顔だけをひょっこりと覗かせた。焦げ茶色の髪をひとつにまとめている菫色の瞳をした女性だ。

 それからその女性は、そろりと部屋の中に入ってくると床に転がっている男を見つけた。菫色の瞳をぱちぱちと何度かまばたかせる。


「ベンジャミンさん、大きな音がしましたが大丈夫ですか?」

「大丈夫、いつもの失敗だから。ありがとう、アンナ……それにしても心配してくれるなんて優しいね、結婚しよう」

「しません。ですが、冗談を言えるなら大丈夫ですね」

「今日も厳しいね。でもそんなとこも好き」


 そう言うベンジャミンにアンナの冷たい視線が返ってきた。今日のアンナも冷たい。だが、そこがいい。

 うんうんと頷いて、ベンジャミンは上半身だけ起き上がる。胡座をかいて伸びをすると、ぐうと盛大にお腹が鳴った。

 アンナはそれに小さく笑う。可憐な笑みだった。それがたとえ自分の腹が鳴る音を笑われているのだとしても、見惚れざるを得ない可愛さだった。


「アンナたん、結婚しよう」

「しません。あと、たんって何ですか? よくわかりませんが不快なのでやめてください」


 ベンジャミンなりにキリリとした顔でプロポーズをしたのだが呆気なく振られた。しかし今日はまだ二回しか振られていないから大丈夫、大丈夫……嘘だ、ちょっぴり泣きそう。

 そんなベンジャミンにアンナはため息を吐く。深い深いため息だった。


「お昼の用意はできていますから、さっさと着替えて顔を洗ってきてください。煤だらけですよ」

「やだ、恥ずかしい」


 きゃっと両手で顔を隠すベンジャミンにアンナの凍てつくような視線が突き刺さる。すぐさま手は下ろした。

 アンナは再びため息を吐くと、ベンジャミンに頭を下げて部屋を出ていった。


 アンナが出て行ったのを見届けてベンジャミンはまた床に倒れると、ゴロゴロと転がった。

 心配してくれるアンナの優しさで胸がいっぱいだった。あと心配顔のアンナも可愛い。まさに聖女の如き可愛さだった。いや、アンナはどんな表情をしていても可愛いし可憐だし美しいのだが。


「はぁ……アンナたんと結婚したい」


 欲望に塗れた呟きがベンジャミンの研究室に響く。

 アンナはベンジャミンが雇っている住み込みの家政婦だった。つまりベンジャミンとアンナの関係はただの雇用主と労働者でしかない。


「うーん、アンナたんが近くて遠い」


 実際のところ全く近くはないのだが、それはそれだ。ベンジャミンの気持ちはいつだってアンナの傍にあるので問題はない。

 ぐう、と再びベンジャミンのお腹が鳴った。

 そうして、ようやくベンジャミンはのそのそと起き上がって、地下の研究室から居住空間へと続く階段がある扉を開いたのだった。




 ベンジャミンがダイニングに入るとお腹の減る匂いが鼻先をくすぐった。ぐう、と限界を訴えるようにお腹が悲鳴を上げる。

 ダイニングに置かれた小さなテーブルには二人分の食事が向かい合わせに並べられていた。今日の昼食はサンドイッチとコンソメスープらしい。

 着替えて顔を拭き、身綺麗になったベンジャミンがテーブルに着いた。それを見たアンナも向かいの席に着く。


「今日も最高においしそう! ありがとう、アンナ」

「仕事なので」

「こういうのは感謝の気持ちが大事なんだよ。じゃあ、いただきまーす!」

「はい、イタダキマス」


 ベンジャミンの食前の挨拶をマネしてアンナも両手を合わせていた。

 そうやって俺に合わせてくれるところも好きなんだよなぁ。

 そんなことを思いながらもアンナの作ったサンドイッチを食べる。


 シンプルなハムサンドだ。けれどパンはふっくらとしていて、レタスはシャキシャキ。ハムの塩味もちょうどいいし、チーズがいいアクセントになっていた。

 コンソメスープもキラキラと透き通っている。その宝石のような輝きのスープをひと匙掬って飲み込むと、玉ねぎの甘みが口の中に広がる。野菜はくたくたに煮込まれているのにソーセージはパリッとしていて、その食感もいい。

 ほう、と息を吐く。今日の食事もベンジャミン好みの味でとてもおいしかった。







 ベンジャミン・バンフィールドというのはこの国に住んでいる者なら誰でも知っている稀代の天才発明家だった。

 ソージキ、ドライヤー、エアコンといった生活魔道具を中心にベンジャミンは五歳の頃から革新的な発明を続け、この国に住まう者の生活を豊かにした。

 ベンジャミンのおかげでこの国、ひいてはこの世界の文明は数百年先に進んだと言われるくらいだ。


 そんなベンジャミンの正体は現代日本を生きていた元日本人であった。


「目が覚めたら体が縮んでしまっていた……うーん、まさかリアルでやるとはな」


 なぜこの世界に生まれたのか、以前の自分は死んでしまったのか、それらはとんと分からなかったが生まれたものは仕方ない。ここで生きていくしかないとベンジャミンは割と直ぐに腹を括った。

 しかし、ベンジャミンは便利な現代日本の生活が忘れられなかった。だから自分のために現代日本の生活を再現すべく発明を始めたのだった。


 幸いなことにベンジャミンは、環境にも才能にも恵まれていた。

 ベンジャミンが生まれたバンフィールドという家は公爵家で、ベンジャミンは遅くにできた子だった。そして末っ子の七男。

 そのため両親も歳の離れたきょうだいたちもベンジャミンには殊更に甘かった。ベンジャミンのお願いはその殆どが聞き入れられたくらいだ。


 そして、なによりもこの世界には魔法があった。

 ベンジャミンは魔法の才に恵まれていたようで、火、水、風、土、光、闇の六属性の魔法が扱えた。貴族の、それも公爵家の生まれだからなのか魔力量も常人より多い。


「ベンジャミンは天才よ! 六属性の魔法が全て使えるなんて!」

「はっはっは、将来は歴史に名を残す大魔法士になるに違いない!」


 両親はよくそんな風に言っていた。結果、ベンジャミンは大魔法士にはなっていないのだが、それはさておき。

 そうした恵まれた環境、才能を活かしてベンジャミンは様々な発明をした。

 熱いから扇風機を、寒いからエアコンを、屋敷の掃除をしているメイドが大変そうだから掃除機を。

 ベンジャミンは元々機械に強い方ではなかったので、その仕組みを殆ど知らない。


「ゴミを吸い込むんだから風魔法を使えばいいんじゃないかな……まあ、知らんけど!」


 けれど、そこは魔法でえいやっとすればなんだかうまくいったので問題なかった。魔法様々である。


 そうして順風満帆な生活を送っていたベンジャミンだが、ただ一つだけ不幸なことがあった。

 なぜか味覚が日本人の時のままだったのだ。

 そのため、この世界の食事は全て味が濃くて脂っこく、香辛料の味しかしなかった。食べられないほどではないが、おいしくもない。


「うーん、これはおハーブで草」


 そうとしか表現できないスープに、独特の香辛料が塗された肉、たっぷりとバターを使ったソース。それが毎食続くのだ。繊細な日本人の舌を持ったベンジャミンが耐えられるわけがなかった。

 結果、ベンジャミンがまともに食べられるのはパンと味のついていないサラダ、フルーツだけ。そんな食事にベンジャミンの精神と体重は日々すり減っていった。


 それでも公爵家の料理人は一流の料理人だ。偏食のベンジャミンのために苦心してくれていたことは知っているし、時折ベンジャミンの好みに寄り添った比較的食べられる料理も作ってくれた。

 しかし他の家族の料理も作らねばならないため、ベンジャミンの味覚にだけ合わせた料理を作り続けるのは難しいことだった。


 もちろんベンジャミン自身が作ろうとしたことだってある。米や味噌、醤油だなんて贅沢は言わない。薄味のスープや塩コショウだけで焼いた肉、それを目指して頑張った。

 頑張ったのだけれども、ベンジャミンの才能は魔法に極振りされていたらしい。何を作っても消し炭になった。


「なぜ手でちぎったレタスが真っ黒に?」

「ベンジャミン様、その……そろそろ食材が可哀想でございます」

「ごめんごめん、邪魔したね。俺ってば料理の才能はないみたい」


 火を使わないはずのサラダでさえも何故か消し炭になった時に、ベンジャミンは自分で料理を作ることを諦めた。


 そうして何かを発明することだけを楽しみに十八年。成人するまで王都にある公爵家の屋敷で過ごしていたベンジャミンだが、成人をきっかけに領地の端っこに研究所を兼ねた屋敷を建ててもらってそこに移り住むことにした。

 元々王都は人が多くて好きじゃなかったのだ。それに発明に失敗したときの爆発音でよく苦情がきていた。


「失敗は成功の母って知らないのかな」

「……ベンジャミン、領地では好きにやっていいから」

「え、本当ですか父上! やったー!」

「あっでも屋敷は壊さないように……あれ、ベンジャミン聞いとるか? えっ聞いとるよね?」


 そんな状況であるためこれ幸いと両親もベンジャミンの領地移住を快く見送ったのだった。




 ベンジャミンが建ててもらったのは地下一階と地上一階の小さな屋敷だ。そのためベンジャミンは、住み込みの使用人を一人だけ雇うことにした。

 王都の屋敷でも思っていたが、あまり家に多くの人がいるのは落ち着かない。


「俺は発明に集中したいから、その他の家事をやってくれる人がいいな!」


 屋敷には家事に使える発明品もあるため経験も年齢も身分も問わない。

 ただ発明の邪魔をしないこと、そしてベンジャミンが食べられる料理を作ってくれる人。それが条件だった。


 最初は礼儀見習いも兼ねた貴族の子女がやってきた。けれど、直ぐにそのことごとくが辞めていった。


「仕事内容は簡単なはずなんだけどなぁ」


 朝晩の二食を用意して、部屋の清掃、洗濯、ベンジャミンの簡単な身の回りの世話をするだけ。しかしベンジャミンは自分のことは自分でやるので、身の回りの世話などは殆ど無いに等しい。

 それにベンジャミンの屋敷には洗濯機に掃除機などがあって、家事は楽に終わる。それでも皆が辞めていった。ベンジャミンの偏食のせいだった。


「やっぱり料理で文句言い過ぎ?」


 味が濃すぎてはダメ、ハーブを使いすぎてはダメ、肉ばかり出してもダメ。あれはダメ、これもダメ、それはダメ。口ばかり出すベンジャミンのことが嫌になってどの家政婦も家政夫も辞めていったのだった。




 そうして領地に住み始めて二年が過ぎた。ベンジャミンはこの生涯でおいしい料理を食べることをすっかり諦めていた。

 そんな中、やってきたのが平民のアンナだった。


「今度こそは何も言わないようにしよう」


 そう決めて夕食が用意されたダイニングに足を踏み入れた。

 ふわり、といい香りが鼻腔を通り抜ける。ぐう、とベンジャミンのお腹が鳴った。思わずお腹を押さえる。


「……あれ?」

「どうかされましたか、ベンジャミン様」

「いや、なにも。というか様付けやめてよ、ムズムズするんだ」

「はあ、そうですか」


 怪訝そうな顔をするアンナには悪いが、様付けは是非ともやめて欲しい。貴族に生まれて二十年。未だに様付けされると全身がむず痒くなるベンジャミンだった。

 いや、それよりも。

 いい匂いの元を辿ってベンジャミンの視線はテーブルに行き着く。ダイニングに置かれた小さなテーブルの上にはシチューとサラダ、パンが一人分用意されていた。


「あれ、アンナの分は?」

「は?」

「一緒に食べようよ。食べるとこ見られてるの気まずいし」

「……わかりました」


 やはり怪訝そうな顔をしながらアンナは頷いた。そしてテキパキともう一人分の料理を用意するとテーブルに並べた。

 そうして、ようやくベンジャミンはテーブルに着いたのだった。アンナもおそるおそる向かい側の椅子に着く。


「よし、いただきます」

「……それは、貴族様の挨拶なのですか?」

「えーと、俺の、心の故郷の挨拶かな」

「はあ、そうですか……イタダキマス」


 ベンジャミンの返事に首を傾げながらもマネして手を合わせるアンナ。いい子だなと思った。

 しかし、問題は食事である。匂いはいいが果たして味はどうなのか。

 ぐうぐうと急かすように鳴るお腹を押さえながらシチューの人参を掬った。おそるおそる口に運ぶ。


 人参は舌で押し潰せるほど柔らかく煮込まれてあった。自然な人参の甘みが口に広がる。トマトと赤ワインの風味が鼻から抜けていった。おいしい。

 ぽろり、とベンジャミンの目から涙が零れた。


「あ、あれ……おかしいな、なんでだろ」

「もっ申し訳ありません! 平民の味付けで、お口に合いませんでしたよね。すぐに作り直します」

「待って! 違うんだ!」


 ぼろぼろと零れ落ちていく涙を拭って、青い顔をしたアンナを止める。止めて、もうひと匙シチューを掬った。

 ホクホクとしたじゃが芋の食感に玉ねぎの甘み。もうひと匙掬う。牛肉は口の中でほろりと崩れた。


「おいしい……おいしい! こんなおいしい料理食べたの生まれて初めてだ!」


 泣きながらシチューを食べるベンジャミンにアンナはまばたく。けれど、自分が何か無礼をしたわけではないとわかって胸を撫で下ろした。

 そうしてその日ベンジャミンは、ベンジャミンとして生まれてから初めて料理をおかわりした。


「ふう、ごちそうさまでした」

「……ゴチソウサマデシタ」


 最後まで挨拶をマネしてくれるアンナは律儀だった。けれど、泣きながらご飯を食べるなんて初日からとんでもない醜態を見せてしまった。ベンジャミンは頰をかく。


「ありがとう、アンナ。本当においしかったよ」

「そのようですね」

「今までこんな味付けの料理食べたことなくて、あの味付けはどこで?」

「実家が港町で食堂をしていたので、そこの手伝いを少し……ですが、普通の平民の味付けだと思いますよ」


 ベンジャミンに衝撃が走った。平民はあんなにおいしいものを食べているのか。

 そういえば、ベンジャミンの好みに合わせた料理を作る時、屋敷の料理人は苦い顔をしていた気がする。あれは平民の味付けになるのを嫌がっていたのか。十数年越しに知った真実だった。


「あの、アンナ」

「なんでしょうか」

「これからは朝昼晩の三食作ってくれないかな? あと、おやつと頼んだ時は軽食も。もちろんその分の給金は弾むから!」


 そういうことなら、とアンナは頷いた。

 それにしても、あんなおいしい料理がこれから毎日食べられるなんて。ベンジャミンの幸せな日々の始まりだった。




 アンナの手料理を毎日食べるようになってから、ベンジャミンはたちまちにして変わっていった。

 いつもどこかしら不調だった体調は良くなり、痩せぎすな体には肉が付き、顔の血色は良くなって、髪にも艶が出てきた。発明だってどんどんとアイデアが浮かんできたのだ。


「アンナは俺の幸運の女神だよ!」

「はあ、そうですか」


 アンナは怪訝そうな顔をするが、本当にそうだった。ベンジャミンにとってアンナは本当に得難い幸運の女神だったのだ。


 そうして、すっかり別人になったベンジャミンが一番下の兄の結婚式のために四年振りに王都へ行った時だった。


「お前、本当にベンジャミンなのか?」

「ひどいよ、父上。たった四年で息子の顔を忘れちゃったの? 惚けちゃうには少しはやいと思うけど」

「その声はたしかにベンジャミンだが……よかった、随分と元気になったんだなぁ」


 爵位を長男に譲って、今は静養地で暮らしている父が安心したように涙ぐんで言った。

 そうして家族にさえベンジャミンであることを疑われたが、アンナのことを話すと給金は惜しまずその使用人を生涯雇いなさいと言われたらくらいだった。

 もちろん言われなくともベンジャミンはそのつもりである。


「……あれ?」


 そうして王都に滞在している時に気がついたことがある。

 王都にはアンナを連れてこられなかったため、平民の食堂でベンジャミンが食事をしようとした時だった。


「なんか、普通だ」


 王都滞在中は何軒か食堂を回ったし、巷で人気店と言われている店にも行った。けれど、味が普通なのだ。

 貴族風の味付けに比べるとおいしいのはおいしい。けれど、アンナの手料理にはどの店も遠く及ばなかった。

 つまりアンナの手料理はベンジャミンの好みのど真ん中ストレートだったのだ。もうアンナのことは絶対に手放すことはできないと思った瞬間だった。


「なにをニヤニヤされているのですか」


 アンナの言葉にハッとする。アンナの料理がおいしすぎて、つい自分の人生を振り返ってしまっていた。


「ごめんごめん、アンナとの運命の出会いに想いを馳せちゃってた」

「ああ、号泣されてましたね」

「そこは忘れてよ!」


 ベンジャミン号泣事件から、もう五年が経とうとしていた。ベンジャミンも二十五だ。アンナは十六でこの屋敷に来たから、たしかそろそろ二十一になるはずだった。


「そういえば、そろそろアンナの誕生日だよね」

「そうですね」

「今年は誕生日プレゼントに指輪を受け取ってくれる?」

「是非別のものでお願いします」


 容赦のない断りの言葉だった。それにベンジャミンは苦笑する。

 いつしかアンナへの思いは恋へと変わっていた。だからいつの日からか求婚をしているのだが、なかなかベンジャミンの気持ちは受け取ってもらえなかった。

 そうして手強い相手に心折れないように力をつけるべく、ベンジャミンは最後のサンドイッチへと手を伸ばしたのだった。







 夜、もう深夜と言っても差し支えない時間、ダイニングの明かりがついていることに気がついた。

 なんだか眠れなくて水でも飲もうとダイニングに併設されているキッチンに用があったのだが、もしかしてまだアンナが起きているのだろうか。


「あれ、アンナ? まだ起きてたんだ」


 ダイニングを覗くと、アンナがベンジャミンの白衣のほつれを繕っているようだった。

 ベンジャミンの声に驚いたのかアンナは肩を揺らして、それからベンジャミンを見た。菫色の瞳が揺れている。


「すみません、こんな格好で……なんだか眠れなくて」


 アンナは寝間着にガウンを羽織っただけの格好だった。ベンジャミンも同じく寝間着にガウンを羽織った姿だが、なんとなく気まずくて頰をかく。


「俺も眠れなくてね」

「ホットミルクでもいれましょうか」

「うん、お願い。蜂蜜たっぷりでね」

「わかりました。蜂蜜ひかえめですね」

「何も全然わかってなくない?」


 くすくすと笑いながらアンナは小さな鍋を火にかけ始めた。その後ろ姿を見ながらダイニングの椅子に腰掛ける。

 そうして、そういえば今日の夕食はやたらと手が込んでいたなと思い出した。

 パンとロールキャベツ、マリネにポタージュ。どれもおいしかったが、手間のかかる料理だ。


「どうぞ」

「ありがとう、アンナ」


 ホットミルクが入ったマグカップを受け取る。そして、ふうふうと息を吹きかけた。ベンジャミンは猫舌なのだ。

 冷ましてようやくひと口飲む。蜂蜜たっぷりのホットミルクだ。温かな優しい味が胸の奥まで温めるみたいだった。

 そうして二人で静かにホットミルクを飲んでいた。


「アンナさ、何か悩んでる?」


 そんな中ベンジャミンが切り出す。向かいの席に座るアンナは驚いたように目を丸くしていた。それにベンジャミンは苦笑する。

 アンナがそろりと口を開いた。


「どうしてですか?」

「いや、今日の夕食はいつもより手が込んでたし、今も裁縫やってるし……アンナって何か悩みがあるといつも以上に家事をよくしてくれるからさ」

「そう、ですか?」

「あれ、気づいてなかった? でも、俺が力になれることなら相談して欲しいって思ってさ」


 それは、この五年で気がついたアンナの癖だった。まさか本人が気がついていなかったとは思わなかったが。ベンジャミンは頰をかく。

 そんなベンジャミンを見てからアンナは俯いて、マグカップの中を覗き込むようにしながら口を開いた。


「両親から手紙が来てたんです。そろそろ帰ってきて結婚しないかって」

「……結婚」

「それで、それもいいかなぁって思って」


 ズキズキとベンジャミンの胸が痛んだ。本当にアンナは屋敷を去って結婚してしまうつもりなのだろうか。

 自分以外の誰かの隣で笑うアンナを想像するだけでベンジャミンの胸は張り裂けそうだった。

 ふう、と息を吐いてバチンと両頬を挟むようにして叩く。気合いを入れたかった。


「ベンジャミンさん?」


 その音に驚いたのかアンナが顔を上げた。菫色の瞳が揺らめいている。視線を逸らされないようにじっと、その瞳を見つめた。


「アンナ」


 名前を呼ぶ。宝物を呼ぶように大切に愛おしさを込めて呼ぶ。アンナが息を呑んだ。視線は逸らされなかった。


「アンナ、俺と結婚しよう」


 アンナの眉根が寄せられる。寝間着の胸の辺りをぎゅうっと強く握りしめている。握りしめた手が白くなるくらい強く、強く。

 アンナの唇が震える。開いては閉じて、開いては閉じる。そして、細く息を吐くように呟いた。


「……どうして」


 小さな声だった。けれど、ベンジャミンにはしっかりと届いた。返事の言葉を考える。考えている間にもう一度アンナが口を開いた。


「どうして……どうしてっそんなこと言うんですか!」


 悲痛な叫びだった。アンナの顔は今にも泣き出しそうにくしゃくしゃに歪んでいる。

 いつも冷静なアンナが感情をむき出しにしている。思わずベンジャミンはまばたいた。


「あなたはいつもそう、私に好きだって、結婚しようって、そんなことばかり!」

「本当にそう思ってるんだよ。俺はアンナが好きだし、アンナと結婚したい。他の男となんて結婚して欲しくないし、俺を選んで欲しい」

「そうやって、また嘘ばっかり!」


 アンナの寝間着を掴んでいる手がぶるぶると震えている。そして、ついに堪えきれなくなった涙を流しながらアンナはベンジャミンを睨んだ。


「私がどんなにあなたを愛したって、平民の私が公爵家のあなたと結婚なんてできるわけないのに! どうして、どうして……どうして、そんなことばかり言うんですか、どうしてあなたを好きにさせるの。これ以上、あなたのことなんて好きになりたくないのに!」


 そう言ってアンナは両手で顔を覆うと静かに泣き始めた。それを見たベンジャミンは片手で口元を覆う。泣いているアンナを見て笑うなんて間違っているとわかっている。わかっているが、口元がゆるんで仕方なかった。

 だって、アンナは俺のことを愛していると言ったのだ。

 深呼吸を繰り返す。弾んだ声にならないように気をつけて口を開いた。


「アンナ……俺はね、もうアンナなしじゃ生きていけないんだ」


 それは胃袋を掴まれているからだけじゃない。日々の生活の中でアンナがいないことにもう耐えられないのだ。

 美しい景色はアンナと一緒に見たいし、庭に可愛い小鳥が遊びにきたらアンナに一番に教えてあげたい。新しい発明もアンナに聞いて欲しい。アンナはもうベンジャミンの欠けてはならない幸せな生活の一部なのだ。

 アンナが顔を上げる。眉根はぎゅうっと寄せられていて、泣かないようにか唇を噛んでいる。


「アンナに初めて求婚した時からずっと考えてはいたんだ。どうすればアンナと結婚できるのかなって」


 ベンジャミンは頰をかく。

 ぱちり、とアンナと目が合った。それが嬉しくて思わず笑ってしまう。アンナの瞳は戸惑ったように揺れていた。


「バンフィールドの遠縁にね、男爵家があるんだ。ブレア男爵って言うんだけど、そこの養子になろうと思ってるんだ。これはもう父上にも兄上にも話は通してある」


 アンナの目が丸くなった。どうして、と再び震える声で呟かれた。

 けれど、その疑問には自信を持って答えられる。ベンジャミンはアンナを見つめて笑った。


「君を、アンナを愛してしまったから」

「……私、いつもお断りをしてたのに」

「そうだね。でも、いつかは頷いてもらうつもりだったから」

「平民と結婚するために、公爵家から男爵家だなんてそんな……ご家族が許されるはずがありません」


 アンナが震える声で言う。安心させるようにベンジャミンは笑う。

 そうして、できるだけ明るい声で言った。


「大丈夫! 俺、末っ子で甘やかされてるから!」


 ぱちくりとアンナがまばたいた。それから小さく笑う。ようやく笑ってくれたことが嬉しくて、ベンジャミンも口元がゆるむ。


「大丈夫だよ、アンナ。俺には上に三人も兄上がいる七男だし、本当に大丈夫なんだ」

「……私、あなたを、本当にベンジャミンさんを愛してもいいんですか?」


 泣いたせいで少し赤くなった菫色の瞳がベンジャミンを見つめる。それに目を細めて、ベンジャミンは大きく頷いた。


「アンナ、俺も君を愛してる。心の底から」

「私も、ベンジャミンさんを愛しています」


 アンナの表情が晴れやかになる。春の日差しのように温かで柔らかな美しい笑みだった。

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