第13話 ~変わる日常~ 6
その柔らかな感触が
その独特の湿り気のある感触が
自分ではない温もりが
俺の頬にそっと触れていた。
「流石に人前で直接は・・はしたないのでできませんが、これで文句はないですね?」
「・・・・」
流石のできごとに放心したような顔を見せる。
その沈黙を肯定と先輩は捉える。
「では行きましょうか、健」
解いていた腕を再び組み、萌先輩が俺を引っ張るようにして歩き出す。もちろん、北条さんはその場に置きっぱなしにして。
「えっ?! 先輩、忘れ物はどうするんですか?」
「ああ、今制服のポケットにいれていたことを思い出しましたので大丈夫です。このまま外へといきましょう」
このままって・・・・腕を組んだままでか? 流石にそれはないだろと、そう思っていた。
「・・・流石にここまで演技する必要ってありますか?」
校門を出て、暫く歩いても先輩が腕を解く気配がなかった。もうこれで明日から、俺と先輩が付き合っていると言うのは、周囲の事実となるだろう。
「嫌ですか?」
「いえ、嬉しいです」
「だったら良いではないですか。私もどことなく楽しいので、もう少しこのままでいましょう」
「・・・楽しいんですか?」
「ええ、とても」
表情だけ見れば普段と変わりのない顔をしている。けれど、確かに先輩の声からは楽しげな気配がしていた。
先輩がそういってくれるのなら、俺も大人しく従おう。
腕を組んで歩きながら、会話を続ける。
「それにしても・・・嘘ついていいんですか?」
「なにが嘘なんですか?」
「ほら、その・・・付き合って一月とか・・・・・」
「別に嘘ではないでしょう? 私と健が四月から一緒にいるのは事実です」
「そうですけど・・・意味が違いますよね?」
「受け取る側と発信する側で、意味が取り違えられることはよくあることです。その点について、言葉というのは不便ですよね」
この人にはやっぱり敵わないと、心からそう思う。
「でも、忘れ物は嘘ですよね? 先輩は部屋から出る時に、毎回忘れ物がないか確認していますし」
「・・・そうですね。それは嘘といわれても仕方ありませんね」
「なんでそんな嘘ついて戻ってきたんですか?」
「健・・・本気でそう思っているのですか?」
「えっ?」
「私は元々校門には向かっていません。そうするふりをして、話が聞こえるところへ移動しただけです。北条さん・・・・彼女はどうも健のことを諦める気がなさそうでしたので・・・・」
「先輩はどうしてそこまで?」
「どうしてと言われましても・・・・」
赤信号で足を止める。それと同時に、先輩が俺を見下ろしてきて言葉の続きを告げる。
「健を一人占めしたいからではいけませんか?」
「えっ?!」
好きな女性からそんなことを言われて、動揺しないわけがなかった。
俺の慌てぶりに、萌先輩は優しい眼差しを向けてくる。
「ふふっ、そんなに驚かなくても良いではないですか。私にだって、かわいい後輩をそうしたいという・・・感情くらいはあります。それに、彼女は健を好きではないと思います」
かわいい後輩。やっぱり異性としては見られていないか・・・・まあ、当然だよな。
「やっぱり先輩もそう思います?」
そんなどこか気落ちした感情を隠して会話を続ける。
「ええ。どうにも別の思惑でもあるのでしょう。そんな人と付き合えば健の負担にしかなりません」
信号が青に変わり、また歩き出す。
「なにより、今は私と付き合っているのですから、他の女子には健を諦めてもらわなければいけません」
その事実だけは素直に嬉しい。まがいなりとはいえ、表向きは先輩と一緒にいられる権利を得られたわけだし・・・後は、俺が先輩に見合うだけの人間になるだけだ。
「・・・そういえば、先輩はどこに行くつもりなんですか?」
「あと少しで着きますよ」
そういわれ、先輩に引かれるまま道を進むこと少し、集合住宅の辺りを抜けて、少し外れたところにある小さな建物に辿り着く。その古ぼけた建物に、これまた古ぼけた看板が掛けられていた。
「藤塚漢方医院?」
けれど、その医院はもう開業していないように感じられた。看板があまりにも風化しすぎて文字が消えかかっているし、夕方なのに誰一人として人がいなかった。
「健の思うとおり、もうこの医院は開いてはいません。けれど、先生はここにずっと住まわれていますので、私は特別に診て頂いているのです」
「先輩が何度か早く帰っていたのって・・・」
「ええ、診察を受けていたわけです」
先輩が俺からそっと離れ、チャイムを鳴らす。するとすぐに建物の中から音が近づいてきた。
ドアを開けて出てきたのは年のいった男の老人だった。ただ、見るからに年寄りといった風ではなく、幾年月もの時間を重ね、人として円熟された存在だ。背中も曲がらず、ピシッとした佇まいに、一目で惹かれる何かがあった。
厳格であるけれど、それだけでなく包み込むような柔らかさを持っている。そんな感じがしたが、やはり初めての人と会うのは緊張してしまう。
「藤塚先生、本日もよろしくお願い致します」
いつみても美しい先輩のお辞儀。それがより丁寧に感じられた。
そこから先輩はこの先生に尊敬の念を抱いていることがうかがえる。
「いつも丁寧な挨拶をありがとう、萌お嬢さん。立ち話もなんだし、そこの彼と一緒に早く上がりなさい。話は中でしましょう」
温和で優しげな声。人を安心させる話し方に、俺の緊張が軽くなったのがわかった。
「そうですね。健、行きましょう」
「えっ? あ、はいっ」
手を取って引いてくれるから、足取りがどことなく軽かった。
一人じゃないというのは、こうも足を軽くするのだろうか?
「緊張しなくても大丈夫ですよ? 凄く人の良い御方ですから」
一際優しい声でそういわれ、何かがストンと落ちたような気がした。だから重苦しい気分を抱くことなく、初めての場所へと普通に入ることができた。
決して広くはない医院の中を引かれながら進み、奥の部屋へと入る。そこはかつてたくさんの患者を診てきたであろう診察室だ。年期の入った部屋だが、掃除は行き届いており清潔感は維持されていた。
先ほどの老人は既に椅子に座っており、恐らく先輩のカルテだろう。何かの紙を見ていた。
「ああ、申し訳ない。荷物をそこの机にでも置いて座ってくだされ」
言われるがままに荷物を置き、先輩のイスはもとからあったので、自分の座るイスを持ってくる。その間、件の老人は俺の事をじっと眺めていた。不思議とそれを不快に感じることはなかった。
そりゃ、知らない男がついて来たら普通に観察されるよな。それはある意味当然だと思う。
「っと、すみません。お待たせしました」
持ってきた椅子に座り、先輩の隣に並ぶ。
「藤塚先生、こちらは『相心 健』君と言います」
「初めまして。相心 健といいます」
頭を下げ、挨拶をする。それを特に感情を崩すこともなく、老医師は俺を眺めていた。その医師の顔が次の先輩の言葉で崩れる。




