1 出立
鐘が鳴り、奈央は目が覚める。だが、いつもより鐘の音が響き、しとしとと音がした。朝日も入ってきている様子はない。身を起こして格子窓から外を見ると、雨が降っていた。夜のうちは星空が見えており、天気は晴れ。今は雲っており、空からは多くの滴が落ちていく。汗の掻き方もじっとりしたもので、彼女は慌てて着替える。部屋の湿気もあるため、除湿機が欲しくなった。
麹葉から声がかかる。
[奈央ちゃん。おはよう]
「あっ、麹葉さん! おはようございます……って、どうしました? なんだか、元気がありませんが」
フリフリと振られる尻尾は微動もせず、表情はいつもより暗い。聞かれて麹葉は窓を見る。
[雨だから、ちょっと元気がないの]
雨を喜ぶ生き物もいるが、雨が嫌いな生物もいる。奈央は狐が濡れるのが平気な生き物かわからない。麹葉個人は雨が好きなのかもわからない。狐の嫁入りと言う言葉があるが、地域によって異なる。天気雨を狐の嫁入りとも言う。
そもそも、麹葉は元は嫁入りの狐である。天気雨ぐらいは平気なはずと奈央は一瞬だけ考える。聞こうと思ったが、聞ける雰囲気でもなく、彼女は口を閉ざした。
麹葉を抱き締める。彼女は驚いて、向日葵の少女に目を向けた。
「私の元気を与えられたらいいんですけど……これじゃあ駄目ですよね……」
[……そんなことないわ。ありがとう。奈央ちゃんは良い子ね]
「麹葉さんもいい人です! あっ、良い狐さんというべきですか」
明るく笑う少女に麹葉は目を閉じて、顔を擦り寄せる。奈央は驚くものの、穏やかに笑って彼女を撫で始めた。
朝の仕事と朝食を取り終えた後、店主からわざわざ呼びに来る。重要な呼び掛けで来て欲しいと言われ、彼女は不思議に思いつつ店主の後についていく。
客をもてなす和室に入る。そこには、八一が扇を扇ぎながら手を挙げていた。
「よっ、お嬢さん。おはよう」
「八一さん。おはようございます。どうなされました?」
店主と奈央は座り、八一と向かい合う。彼は真剣な表情で畏まり、頭を下げた。
「率直に申し上げますと、もう時間がありません。今日の昼、すぐにここから立ち去りましょう。奈央様」
「えっ!?」
急な敬語に奈央は驚き、隣にいる麹葉は「合わせて」と彼女に声をかけていた。奈央は戸惑いながらも聞いてみる。
「あ、あの、どうしてですか? 八一さん」
「……ここで口をするのは憚られますが、ついにお嬢様を狙いに動き出したのです」
奈央と呉服屋の店主は驚く。
「動き出したと言うことは、ついにあの江戸の幕臣の息子が……奈央ちゃんを連れ戻そうと……!?」
店主は声を上げて、奈央は初耳の設定に目を点にする。『訳ありで家から逃げ出した良い身分のお嬢さん』という設定ではあるものの、その詳細までは知らない。
八一は「しっ!」と指を立てて、静かにするように声を上げた。
「……静かに……。そうです、あの女にだらしないと噂されるあの幕臣の息子が、ついに奈央様の居所を見つけまして。ここに危害が及ぶ前に早々に立ち去ろうと奈央様に告げて参りました」
[ここにいると、店の人間に危害が及ぶ可能性があるから、潜伏場所を変えるって話よ]
麹葉の声は奈央と八一以外には聞こえない。彼女の要約で奈央はやっと理解した。
瑠樹と那岐がここの近くに来た以上、奈央の潜伏場所はばれているのも同然。彼は場所を移す話をしに来たのだ。ここを去る理由はわかったが、八一が盛った設定については色々申し上げたい。その盛った本人を見ると、若干目が笑っている。この設定と寸劇を楽しんでいるようだ。奈央はツッコミを入れたくなる。
「……っそうですか」
哀れむように店主は奈央を見つめ、両肩に手を置く。
「奈央ちゃん。ごめんよ。私達がだらしないばかりに。けど、奈央ちゃんの働きぶりは本当に良かった。ここにいてほしいぐらいだよ」
心底残念そうに言われてしまい、奈央は首を横に振る。
「い、いえ……皆さんのせいではありませんよ!
むしろ、こちらこそすみません。……い、今まで本当にお世話になりました!」
彼女は慌てて頭を下げて、店主に礼を言った。
その後、部屋を簡単に綺麗にして荷物をまとめる。草履に履き替えて、荷物をまとめた風呂敷を両手に持つ。服装は八一が用意した男装の服に着替えた。餞別として呉服屋の店主から綺麗な布を貰った。
八一が外で待つ。二人は頭に被る笠を被り、彼女は裏口から店主に向けて一礼と別れの挨拶をする。
八一と麹葉と共に呉服屋を去っていく。
大きな通りに出て、呉服屋を離れていく。それまでは雨音だけを耳に通していたが、呉服屋の通りを出ると八一は明るく笑っていた。
「お疲れさん。なおじょーさん」
「お疲れ様じゃないですっ!」
奈央は声を上げて、今までの経歴詐称への鬱憤を吐き出した。
「八一さん、なんですか、あの設定はっ!? 前々から気になっていたんですが、一体どんな経歴をしたのですかっ!?」」
「上級武家の良いとこの娘さんで、とんでもない奴との見合いを迫られたから、お嬢様の家族に頼まれて私が連れ出したって言った。後は、私の迫真の演技が相まってお嬢さんの経歴の噂に尾ひれが付いた。それを私が利用しただけ」
「いやいや、尾ひれが付いたって、なんか内容が物語のようでしたけど……!?」
「多分、お嬢さんの設定を誰かが変に解釈して、それがだんだんと形を変えていったんだろう。いやぁ、相変わらずいい反応で面白い、面白い」
明るく笑う彼に彼女は面白くないと口を結ぶ。八一は笠を被り直して苦笑する。
「悪かったよ。それに、ここを離れるのは正しい選択だ。怪しまれないようにお嬢さんのことを誤魔化していたが、あの呉服屋は有名だ。未来を変えるような変な事を起こしたくなかったというのもある」
働いている間、八一は何をしていたのかが奈央には理解できた。未来が変わるような出来事を発生させぬようにしていたのだ。申し訳ないと顔に出していると、八一から「気にするな」と声をかけられて肩を軽く叩かれた。
向かう場所は、直文たちが泊まっている宿だ。歩いていると、ある場所に着く。
木造の趣がある建物がいくつか並んでいる。店の入り口には提灯が掲げられている。旅人も多いが馬を連れている人も多く、籠や壺等の荷物を抱えている人が多い。見回し、彼女はこれが当時の宿場かと感動していた。
東海道五十三次の一つ、府中宿だ。
徳川家康のお膝元として存在していた宿。ここで彼らが行くのは、一般の旅人が泊まる旅籠という場所。
八一は中に入り、店の者に声をかけた。予約しておいたようだ。二人は笠を取る。
麹葉は足の泥を取っていた。下駄と草履を脱いで宿の中へと上がる。案内された部屋に入り、二人は畳の上に座った。奈央は息をついて八一に今後を尋ねた。
「……それで、どうするのですか? 八一さん」
「話し合い。おーい、直文、有里さーん。入ってこいよ」
彼の声かけで部屋の戸が開く。旅人姿をした直文と依乃が現れる。依乃は驚いており、直文は呆れを見せる。
「俺が声を掛ける前に呼ぶなよ。わかっててやっているだろ、八一」
「まあな」
にししっと笑う八一に、直文が息を吐く。二人が部屋に入ってくると、依乃は大きな包みを手にしていた。二人は座って、彼は包みを奈央に渡す。
「はい、田中ちゃん。これ」
荷物と言われて、彼女が思い付くものは一つしかない。
「……それって、私が未来に来たときの……?」
「八一に頼まれて回収して預かってたんだ」
受け取って、彼女は包みを広げて中身を確かめ学校の制服に通学用のバッグ。靴下と髪のゴムが入っていた。ぞんざいに扱われた様子はなく、来た時そのまま。傷一つついてなく、失ったものはない。彼女は本来いるはずの時代の物を目にして抱き締めた。そこにあるだけで安心であろう。奈央は八一に顔を向ける。
「ありがとうございます」
八一は嬉しそうにはにかんでいた。




