2 奈央と八一
江戸時代の夏。夜明けと共に六つの鐘が鳴る。奈央は起きて身を起こすと、隣に一匹の白い狐が背伸びをする。奈央は隣を見て朝の挨拶をした。
「麹葉さん。おはようございます」
[……ふぁ……おはよう。奈央ちゃん]
再び眠そうにあくびをして、彼女を微笑ませる。麹葉はしばらく奈央の側にいる。麹葉も攻撃された以上、単独行動はできない。夜久無に狙われるのも考慮し、麹葉は奈央と共に住まうことになった。
奈央は急いで新しい着物を着ていく。前の着物は洗ってしまい、現在干している最中だ。手つきも慣れて、早く着物を着られるようになった。着替え終わり、麹葉と共に廊下を歩く。彼女の横を通り過ぎる人々は白い狐に目もくれない。
神使は普通の人に見えない。奈央は時駆け狐と八一のかけられた術の影響で麹葉を視認できるのだ。この件については奈央は八一から教えられている。
「麹葉さんはご飯を食べますか?」
[食べるけど、神使は大明神様と同じように人の祈り、信仰を糧にしているから基本は要らないわ]
「神様も神使も凄いですね……! あの、祈りに味はありますか?」
[ええ。個々に違うけど感謝は美味ね。恨みや妬みは苦いわ。お焦げというよりかは暗黒物質を食べさせられてる感じ]
「そ、それは……す、すみません」
神社で恨みやつらみを持っていくことがあるので、奈央は謝った。麹葉は「気にしないで」と笑う。次神社に行く時は盛大に感謝をしながらお参りすると決めて、彼女は今日も調理場に顔を出す。
とよとなるに挨拶をした後、仕事に取り掛かる。
夜久無が襲いかかってきてから、一週間。八一も毎日顔を出して、奈央と麹葉の様子を訪ねてくる。
奈央の為だ。その度、奈央は夜久無の居場所について聞く。夜久無に狙われて、元の時代に帰れない。帰る方法は敵の懐にある。
焦ってきているのだ。その度、八一や麹葉に慰められて落ち着く。慰められても、帰れないのではないかという不安は消えない。朝食を食べ終え、下女中の手伝いをし、昼食を食べ終えたあとの休息に入る。彼女は立ち上がって、麹葉に声をかける。
「麹葉さん。川に行きませんか?」
[川? もしかして、用水に繋がっている安倍川かしら]
奈央は頷いた。未来と過去の安倍川の違いを彼女は見たいのもあるが、変わらない部分も見たいのだろう。
店や主人に声を掛けて川に向かう旨を伝える。外出の許可を得て、奈央は少しの駄賃が入った巾着袋を手に店の玄関で声をあげた。
「すみません。いってきます」
彼女は川のある方角を頼りに、町の中を歩いていく。後から、麹葉がトコトコとついてきていた。
奈央は周囲をキョロキョロと見回す。呉服屋の通りを抜けると、町人が住まう場所に移る。屋台があり、知らない店がある。用水を見守る馬が走り、侍が歩いていく。
「ひゃーこいーひゃーこいーひゃーこいー水はいらんかねー」
水を売る水売りが遠くから歩いてきており、道中で買う人物もいた。味つきの砂糖水らしく、子供達は親に水を買ってほしいとねだっている。
知らない町の空気に雰囲気。未来とは違う夏の温度。姿も時代劇や大河で見るようなものばかり。
奈央は自分がより、異質のように感じて寂しくなる。武家のある区画には通らず、彼女は町人のいる通りを通った。柄の悪い人物に絡まれないように、彼女は気を付けて歩く。
時間がかかったが着いた。駿府御囲堤。または薩摩土手と言う堤防を歩いて、彼女は堤防の上から見える。河原の石は多くあるが、平成の時に比べて川の量は目で見ると多い。多い。
未来では川にいくつかの鉄橋がかかる。新幹線、東海道本線、または車道が通る橋など。これらは江戸時代にはない。
その江戸時代の駿府では、川の奥で木材を運ぶ船が動き、川を越えるために川越人足という職業の人物が人を抱えて運んでいた。川の風景は未来と似ている部分はあるが、大分違う。
「……本当に、過去なんだな」
彼女は川縁まで降りた。浅瀬まで近付いて、近くで腰を下ろした。
川の向こうに見える宿場町と川を渡る人々を見て、奈央は溜め息を吐いた。地元であるのに、地元ではない。過去と未来は遠いのだと実感して、視界が潤んでいく。鼻をすすると、隣に座る麹葉が尋ねた。
[奈央ちゃん。帰りたい?]
頷き、彼女は川を見続ける。
「……ここは私の知っている静岡じゃないんです。地元をよく知っているから余計に苦しいのです……。帰って、お母さんとお父さんに会いたい」
普通にありふれた平穏な家庭で育ってきて、タイムスリップをするとは思わないだろう。
平和な時代にやって来た子なのだと、麹葉は感じ取り、耳と尾を垂らす。居たたまれなくなったからだ。麹葉に彼女を帰す力はないのだ。
[……ごめんなさい。ちょっと川で少し涼んでくるわね]
麹葉は少し離れて川の浅瀬に向かっていく。
奈央は水遊びをし始めた白い狐をぼんやり眺めていると、背後に足音が聞こえた。
「お嬢さん。こんなところにいると危ないぞ」
奈央は驚いて振り返ると、八一が立っていた。笑みも浮かべず、真面目な顔でそこにいる。彼は歩み寄って、奈央の隣に座る。
「……何でここだとわかったのですか……?」
居場所がわかった理由を向日葵少女は問いかける。八一は笑って空を見る。
「言ったろ。駿府は私の監視下だって。そこでお嬢さんの動向を見守っていたのさ」
狙われている以上、見られているのは当然だ。彼女は納得して川を見ると、八一が話しかけてくる。
「なぁ、お嬢さん。未来のここの川はどうなっている? 人は自由に川の上を渡れる時代になっているか?」
「……はい、なってます。多くの橋がかかって、人の行き来が頻繁に行われています」
聞いて、八一は苦笑した。
「そっか、良い意味でも悪い意味でも文明が進んでいるのか」
彼ははぁと溜息を吐いて、川を見つめる。
奈央も遊びたいが、心情的に踏み出せない。足袋と下駄を脱いで川の水につけていた。八一も同じように川で足をつけている。ひんやりとした水の冷たさに、彼女はたまらず声をあげた。
「……ひやぁっ……冷たいですねぇ……」
「ああ、川は暑さを凌ぐにはちょうど良い場所だよ」
八一は扇を広げて風を作る。
狐姿の麹葉を見て、奈央は八一の変化した姿を思い出す。彼も狐で稲成空狐と言う上位の神狐の半妖だと言う。狐側からはあまり良いように見られておらず、妖怪の親とも不仲。地獄に魂を売ったと言う悪態を言われたらしいが、彼の属する組織を考えると酷い物言いである。親について聞くのは無神経だろうが、奈央は気になって尋ねてしまった。
「……あの、貴方は……親が嫌いなのですか?」
八一は勢いよく扇を閉じる。音が響いて、奈央はビクッとして不安になって横顔をみる。彼はしばらく沈黙して川の向こうを見つめていた。やはり地雷だったらしく、彼女は謝ろうとした。その前に沈黙は八一自身が破って、想いを吐く。
「この世に存在するなってぐらいに。向こうから勘当されているし、会うつもりもない」
本気で断言した。彼はそれ以上言うこともない。奈央は頭を下げて謝った。
「……八一さん。ごめんなさい……」
「もう百年以上の前の話だから気にするな」
気にしない風に八一に目を向ける。百年も悪く言われるのに想像がつかない。奈央が傷を広げてしまったと思った時だ。彼の手が伸びた。髪を巻き込んでわしゃわしゃと撫でられる。
「ひ、ひやぁっ!?」
声をあげて驚き、ボサボサになった髪を押さえる。撫で終えると、ポカンとした顔で八一を見た。勢いよく扇を開いて、少女の顔を見て笑っていた。
「あっはっはっ、やっぱりお嬢さんは反応が良いなぁ」
彼は笑みを作り、扇を左手で顔の前に持って扇ぎ始めた。
「本当に気にすることはないさ。父が私を勘当する理由は何となくわかっている」




