そうだ、転職しよう -1-
コージは目覚めた。ヘルメットの感触が消え、ゴーグルが無いせいでカーテン越しの陽射しが眩しく感じる。時計を確認すると、6:35となっている。空間だけでなく時間の流れまで同じだと、パラレルワールドに来てしまった気になる。いちいち感動してしまいそうになるが、時間がもったいない。早速行動を開始する。とりあえず掲示板に向かい、クエストに変化があるか確認することにした。もちろん、道中の人の動きにも気を配る。誰かが困っていたら、それがランダムクエストかもしれないのだから。
仮想世界でも現実と同様にそう甘くはなく、期待は裏切られるもの。歩けど歩けど人がいない。休日の朝の再現度が高すぎる。コージはほとんど誰ともすれ違わず、掲示板に着いてしまった。本当にただ早起きしただけの人になってしまったが、何はともあれ掲示板を確認する。
昨日もあった戦闘クエスト二件の他、さらに三件のクエストが追加されていた。一件は昨日と同じ牛丼クエストだった。牛丼クエスト卵付きは毎日貼り出されているのだろうか……と呆れそうになるが、とりあえず他の追加クエストを見てみることにした。
――――――――――――――――――――
【クエスト内容】
犬の散歩
【依頼主より】
愛犬の散歩に行きたいが、歳のせいで脚が悪くなってしまって、遠出ができない。いつもは家の周りを一周するだけで、犬もストレスが溜まっているだろうから、少し遠くまで連れて行ってやってほしい。三十分も歩いてくれれば気晴らしになるだろうから、往復三十分の散歩に付き合ってやってくれないか。
――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――
【クエスト内容】
旅立ちの手伝い
【依頼主より】
私の息子が旅に出ることになりました。出発前に準備をしっかりさせたいのだけれど、言うことを聞いてもらえず困ってしまって……。どなたかご相談に乗っていただけないかしら?
――――――――――――――――――――
どちらも人助けクエストだ。散歩は受けられそうだが、装備の方はどうしたものか。RPGゲームでは武器屋や防具屋で買い物をして、装備をしてから旅に出るのが鉄則だから、そのことだろうとは思うが……リアルな世界で試そうとすると、どうして良いのか分からない。ゲームだと、性別や職業で装備できるものと装備できないものとに分かれるが、ルナの中でもそのようなルールが通用するのか……と悩んでしまった。
昨日のようにNPCのお助けキャラは見当たらないし、どこかにヘルプでも無いだろうかとメニューパネルを開いてみる。コージはふと思い出してプロフィールを開く。やはりあった、「職業」の項目が。コージの場合、「なし」となっている。コージはうーむ、と唸った。貧しい知識で推測するなら、職業とは「戦士」や「魔法使い」などの戦闘スタイルを指すもので、スタイルによって装備できるものが異なる。例えば、戦士は甲冑のような重装備をして、剣や槍で戦う。それに対し、魔法使いはローブのような軽めの装備が多く、杖を装備して魔法で戦う。ルナでも、戦闘の際はそういった職業に就くことになるのだろうか。案内人のセレーネは、職業のことは特に何も言っていなかった。習うより慣れろということか?
悩んでいても仕方がないので、まず先に散歩クエストを受注することにした。牛丼クエストの時と同様に、目的地上空に下向きの矢印が出ている。向かってみると、コージの家の近所だった。立派な一軒家の門をくぐると、タイミング良く玄関が開いた。還暦を過ぎたのがだいぶ過去の思い出になりそうな老人が、犬と一緒に出てきた。
『おや、いらっしゃい。もしかして、こいつの散歩に付き合ってくれるのかい』
リードを持った老人が言う。コージが肯定の返事をすると、彼は破顔した。
『そうかい、そうかい。そりゃ助かるよ。儂じゃ遠くまでこいつを連れてってやれないから、いつも可哀想だったんだ。うんと遠くじゃなくても、家から離れたところを歩いてくれれば、満足するだろう。悪いけど、よろしく頼むよ』
よたよたと、自身が持っていたリードと、シャベルやビニール袋が入った散歩用の手提げを渡してきた。犬の方は、最初は老人とコージを交互に見比べていたが、今日はコージが散歩に連れて行くと分かったのだろう、尻尾を大きく振ってコージを見つめていた。
『人懐っこいだろう? タローっていうんだ。家内が死んじまってからはこいつと二人暮らしでな、儂らを心配してたくさんの人が来てくれてるもんだから、人見知りなんてしないんだ。吠えたり噛みついたりはしないだろうが、久し振りに遠くへ行けるもんだから、はしゃいじまうと思うけど、許してやってくれな』
コージはリードと手提げを受け取ると、老人に見送られながら散歩に出かけた。彼の言っていた通り、タローは道路をくねくね歩いたり、電柱に小便をかけたり、文字通り道草を食ったりと、自由にはしゃいだ。道端で止まったと思いきや、突然コージを置いていかんばかりの速さでトコトコと歩いていく。いつもは老人のスピードに合わせてゆっくりしか歩けなかったのだろう。コージはタローに引っ張られ早歩きを余儀なくされているが、許して付き合うことにした。
コージも小学生の頃に犬を飼っていた。狸のような色の体毛と顔をしていた雑種犬だった。コージが生まれる前に拾われたそいつはコロと名付けられ、十数年の間、コージと共に育ってきた。コージがあと数ヵ月で小学校卒業を迎えるという頃、コロはあまり動かなくなり、餌もほとんど食べなくなり、日に日に弱っていった。何かしてやりたいと思っても、小学生のコージにできることなどなく、おやつのポテトチップスを割って小さくしてやって、分けてやるくらいしかできなかった。餌も食べない有様だったのだから、本当ならポテトチップスなど食うわけがない。だが、コロは弱々しくも顔をあげ、細かくなったポテトチップスをゆっくりと口に含んだ。その数日後、コージの卒業を待たずにコロは逝ってしまった。
コロにしてやれなかったことを、タローにしてやりたい。そんなものはコージの都合であって、勝手な願いだとは思う。何もできなかった当時の自分を許すために、タローを利用しているような気さえする。ただドライにクエストをこなせば、それで済むのに、できなかった。往復で三十分も歩けば達成するクエストだが、タローの意志に任せて好きなように歩かせてやった。帰った頃には、倍の一時間以上は経過していた。老人は外の縁台に腰かけて待っていた。
『随分と長い間歩いてくれたんだな。遅いから、心配しちまったぞ』
老人は危なっかしい足取りで近寄り、手提げを受け取った。タローは尻尾を振って老人の周りを跳ねている。
『おうおう、そんなにうろちょろされたら、転んじまうって。遠くまで歩いてもらって、嬉しかったんだな。ありがとうよ。礼はさせてもらうから、よかったらまたこいつを散歩させてやってくれ』
嬉しそうなタローを連れて、老人は家の中に戻っていった。
「クエスト完了!」の表示が出た。プロフィールを見れば、どれだけ稼げたか確認できるが、そうしなかった。メタバースの中なら、コロも生きていけるのだろうか。そんな想いを抱きながら、コージは歩き出した。感傷に浸るのも少しの間だけ。いつまでもウジウジはしていられない。これでも、多少は人生経験を積んだ社会人なのだ。