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89. 風に向かって立つ人

疫病、病人の描写があります。苦手な人は避けてください。

 その後、レオン様の指示ですべてが迅速に動いて行った。


 まず、ラリサ王女が連れてきた大勢の兵士達が広場に巨大な天幕を張り、そこに通りに倒れていた感染者たちを次々に収容させた。


 収容した感染者たちを穴の開いた木の台の上に寝かせて、下に置いた桶で排泄物を受け止め、それらはその後、一ヶ所に集められて石灰と共に地中深く埋められた。

 また汚染された衣服等は、すべて焼却するか、熱湯で消毒された。


 ラリサ王女に同行してきた医師たちも協力して、どんどん補水液を作り、感染者に飲ませている。

 残った兵士たちは、度数の高い酒を手に、町中を拭き上げていた。


 疫病を恐れて、固く扉を閉めて中に身を潜めていた領民たちには、適切に対応すればさほど恐れる必要はないと、兵士たちに大声で触れ回らせた。

 重症化しないよう、軽症のうちに対処することが肝心なのだと、補水液の作り方を教え、石鹸での手洗いと消毒を徹底するように伝えた。


 砂糖や塩、度数の高い酒、面紗、石灰といった大量に必要な物は、その都度、王都から兵士によって運ばれてきた。


 この疫病に打ち勝つ為に、何よりも大事なのは、生水、生ものを口にしないことだった。

 レオン様が言うには、この疫病が発生する地域は、衛生面に問題があったり、水源が下水などで汚染されていることが多いのだそうだ。




「ここの下水はどうなっているんだろう」


 クルトという、宿の受付の女性キアラの弟の様子を見ながら、レオン様が呟いた。

 最初に補水液を飲ませたこの少年は、少しずつ快方に向かっているようだった。

 嘔吐や下痢も収まり、だいぶ顔色が良くなってきていた。


 レオン様の言葉を聞きつけたキアラが、誇らしげに話し出した。


「すべて沈殿池に集められているわ」

「沈殿池?」

「そうよ。オーランド領はすべてのお手洗いが水洗式になっていて、下水は下水渠を通って沈殿池に集められて濾過されているの。あの石畳もそうよ。雨で清められた後、両脇にある側溝を通って、最終的に沈殿池に達するようになっているの」


 王都でもない、ただの一領地でそんなことを?

 途方もない額の金が掛かっているのは、私にでも分かる。


「だから、わたし達の川は綺麗なの。これもすべて、前の領主様であるアシュラン様のお陰よ」


 ……アシュラン様。

 レオン様の祖父君。

 稀代の戦上手で、与えられた褒賞を惜しみなく領地に注いだのだとか。

 荒れ地を開拓し、灌漑設備を敷いて、オーランド領を栄えさせたと奥様が仰っていたが、……まさか、そんなことまでしていたのか。


 ここまで来ると、疫病が流入したのがオーランド領であったことは、不幸中の幸いなのではないだろうか。

 これが、もし他領であれば、間違いなく下水で水源が汚染され、被害は更に拡大していただろう。


「川が汚染されていないのであれば、ここから下流に被害が広がることは無いね。……良かった」

 

 ほっとしたようにレオン様が呟く。

 祖父君の残したオーランド領がこのような状況なのに、他領の心配までするのか。

 未知の疫病に対する恐怖から、自分の身の安全のことしか考えられなかった私は、自分とレオン様とのあまりの違いに言葉も出なかった。




「ねえ、クロード」


 レオン様に促されて、宿の外に出た。


「僕は屋敷に戻ったら、お父様に書庫を公開するように進言しようと思うんだ」

「グランブルグ家の書庫を、公開するのですか?」


 外に出て、石畳の上をゆっくりと歩きながらレオン様が話し出す。


「僕がこの疫病の対処法を知っていたのは本当に偶然で、お父様の書庫のお陰なんだ。

 二百年程前に異国でこの疫病が繰り返し発生して、大勢の民が亡くなったという報告書が書庫にあった。

 そこには治療薬こそまだ無いけど、何度も繰り返し発生したことで、有効な対処法が見つかったと書かれていたんだ。

 オーランド領で発生したこの疫病と症状が同じだったから、もしやと思って、報告書に書かれていた対処法を試したら、幸運なことにそれが功を奏した」


 ……本当に、あの書庫には何でもあるんですね、旦那様。

 医者も逃げ出す疫病の対処法が書かれた報告書が、グランブルグ家にあったとは。


「だけど、もっと早くにあの報告書の存在が知られていれば、知識が共有されていれば、ここまで感染が広がらなかったかもしれない。……そう思うと、僕は悔しい」


 遠くを見ながら歯噛みするレオン様に、私は何と言えば良いのか分からなかった。

 それは、レオン様のせいではない。

 だって、レオン様は十年間もリリアナ様の中で眠っていたのだから。


「せっかくの知識も活かさなければ、意味がない。

 グランブルグ家が独占するのではなく、公開し共有して、この辛い経験を活かしたい。

 二度とこんなことが起こらないようにしなければ」


 通りの両脇の建物の二階に掲げられ風ではためくオーランド領の旗を見上げたレオン様は、強い決意を秘めた目をしていた。



 そのレオン様の後ろを、王都からの支援物資を乗せた荷車を引いた兵士たちが通り過ぎて行く。

 

 過度に恐れる必要は無いと兵士たちが触れ回ったことや、実際に快方に向かう者が出始めたことで、家の中に閉じ籠っていたオーランド領民たちは少しずつだが表に出るようになってきた。

 

 これ以上の拡大を防ぎ、疫病に打ち勝つのだと、家の内外を自分達で消毒し、口に入れる物は必ず加熱するようになった。


 ラリサ王女の話では、この疫病に対する知識のない隣国では大勢の死者が出て、国が大混乱に陥っているらしい。

 幸運にもレオン様が知識を有していたお陰で、オーランド領は最悪の事態を脱しようとしている。

 きっと、「領民を守りたい」というレオン様の気持ちが、天に届いたのだ。




 レオン様はそのまま歩き続け、ラリサ王女の居る広場に着いた。

 オーランド領に医師や兵を連れて駆けつけた日から、ラリサ王女はここに自分用の天幕を張って寝泊まりしている。


「レオン様」


 兵士に指示を出していたラリサ王女が、レオン様の姿を見つけて近づいてくる。


「ラリサ、今日はお願いがあって来たんだ」

「どのようなことでしょうか?」

「国王陛下にお願いをして、この疫病の対処法を隣国にも伝えてもらえないだろうか」


 ラリサ王女が息を呑んだ。

 ……隣国に、対処法を伝える?

 

「初めは、それこそ手探り状態だったから、これ以上の隣国からの感染者の流入を防ぐためには、国境を閉鎖せざるを得なかった。

 でも今のオーランド領内では、皆の協力のお陰で最悪の状況を脱して、光明を見出しつつある。

 恐らく一ヶ月以内には、領境の封鎖は解除できるだろう。

 このオーランド領のように、治療薬は無くとも適切に対応すれば、助けられる命もあるんだ。

 だから、どうか、隣国の民にも手を差し伸べてあげてもらえないだろうか」


 目を瞠りながらレオン様の言葉を聞いているラリサ王女の前に、レオン様が跪いた。

 それを見て、慌てて私もそれに従う。


 自分に跪くレオン様にうろたえたラリサ王女は、慌ててその手を伸ばしてレオン様を立たせようとする。


「わたくしに跪くなど、おやめください、レオン様。

 ……分かりました。父に、すぐに手紙を書きます。

 レオン様がオーランド領でなさったことを漏らさず報告し、それを隣国に伝えて頂くよう、わたくしから父にお願いします」


 そう言うとラリサ王女は、急いで手紙を書くため、カティア様と共に天幕に戻っていった。




 広場に残されたレオン様は、少しずつ快方に向かって話せるようになった者たちの声が響く大天幕を見ていた。

 ほんの数日前まで、通りで嘔吐して意識を無くしていた者たちが、今は笑って話せるまでに回復している。

 一時は呪われた町のようにも見えたが、レオン様の言うとおり、オーランド領内には光が見えてきている。



 領民を見過ごしには出来ないと言ったレオン様。

 尊い身分にも関わらず、己の身の危険を顧みずに、領民を守りたいと涙を流したレオン様。

 オーランド領民だけでなく、他領も、隣国の民ですら案じる優しい方。


 穏やかな表情で天幕の中を見つめるレオン様の髪を、風が優しく揺らして通り過ぎる。

 


 どこまでも付いて行くと決めた、たった一人の方。

 



 あなたがとても誇らしい。

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