80. 甘い罰
どれくらい時間が経ったのだろう。
ずっと前屈みになっていた私の腰に限界が来た。
「……痛たたっ」
レオン様が私の首に回していた両手を離して、腰をさすっている私に申し訳なさそうに言う。
「ごめんね。急いで大きくなるから、もうちょっと待ってよ」
そんなことをレオン様が謝る必要は無いと言いかけて、私は自分こそがレオン様に謝罪しなければならないことを思い出した。
10年前、レオン様とは知らずに口づけしてしまい、リリアナ様に変化させてしまったのは私だ。
もしあの時、私があの部屋に迷い込まなければ、レオン様に会わなければ、レオン様に口づけしなければ、レオン様は今頃はグランブルグ伯爵家の立派な跡取りになっていたはず。
それを、私のせいでレオン様はすべて失くしてしまった。
私のしたことは取り返しのつかない。
謝って許されることではない。
それでも、私はレオン様に謝罪しなければならない。
例え、許してもらえなくても、罵られても、甘んじてそれを受けなければならない。
急に黙り込んだ私を不思議そうに見るレオン様の前に、私は覚悟を決めて跪いた。
「レオン様、私はレオン様に謝罪しなければならないことがあります」
自分の罪を話そうとして、はたと気づいた。
……ん、待てよ?
変化のことを、果たして私がレオン様に話して良いものだろうか。
これはリリアナ様も知らないグランブルグ家の秘密で、旦那様と奥様を差し置いて、ただの護衛に過ぎない私が、勝手にレオン様に話しても許されることか?
奥様は悩んでいないで、レオン様に直接聞くようにと仰った。
だが、その秘密を打ち明けても良いとの許可は頂いていない。
……うわ、しまった。どうしよう。
変化のことを話さずに謝罪するのは無理がある。
かと言って、私が勝手に話しても良い事ではない。
どうしよう。
ちらりとレオン様に視線をやると、何事かと私の謝罪を待っているようだった。
……くっ、今更引き返せない。
訳の分からない謝罪になることを覚悟して、それでも今の自分に許される範囲でレオン様に打ち明けることにした。
「……私はレオン様の未来を奪うという、許されない罪を犯しました。
どうか、私に罰を与えてください」
私の言葉を黙って聞き終えたレオン様は、少し呆れた様子で、跪く私を見下ろしている。
「何をしたかも説明せずに、僕にクロードを罰しろって言うの?」
「……はい」
軽く頭を掻きながら、少しだけ考え込んだレオン様は、投げやりにも聞こえる言い方で私に罰を下した。
「う~ん、そうだな。じゃあ、一生僕の側にいれば? それでいいよ」
「それではダメです。私にとってレオン様のお側にいられることは喜びでしかありませんから、罰にはなりません」
その瞬間、レオン様はこちらが驚くほどの弾けるような笑顔で、私の頭をわしわしと撫でた後、両手で私の顔を挟んで覗き込んできた。
「ちょっと会わない間に、可愛いこと言うようになったね」
やたらとレオン様は顔を近づけてくるが、正直言って、私はまだ慣れなくて恥ずかしいのだ。
そっと目を伏せて顔を逸らしながら、レオン様に懇願する。
「……ですから、他の罰を頂けませんか?」
「他の罰って言われてもねえ。う~ん、……」
レオン様は考え込むように唸りながら、そのまま無言になった。
私は跪きながら黙ってレオン様の下す罰を待っていたが、いつまでも終わらない沈黙に不安になり顔を上げると、レオン様は私を見下ろしながらニヤニヤしていた。
……あ、嫌な予感。
「じゃあさ、僕のことが好きって100回言ってよ」
その突拍子もないレオン様の下す罰に、思わず声を上げてしまう。
「はっ? 何ですか、その苦行は⁉」
「苦行?」
「知らないのですか? レオン様にも知らないことがあるのですね。
苦行と言うのは、つらく骨の折れる行いのことを言うのですよ」
「それくらい知ってるわっ。苦行なんて、今使う場面じゃないだろっ」
優しく教えてあげたつもりが、思い切り蹴られた。
レオン様は仁王立ちで腕組みをしたまま、蹴られて床に横座りになっている私を見下ろしていた。
「罰して欲しいんだろ? なら、100回」
……くううぅっ、罰して欲しいなんて安易にレオン様に言うんじゃなかった。
どうしてこの人は、こう妙なことばかり思いつくのだろう。
もしかして、私を辱めるのが好きなのだろうか。
しかし、罪を犯したのも、罰して欲しいと願ったのも私だ。
レオン様が失くしたものと比べれば、この程度の恥ずかしさなど些細なこと。
床に崩れていた姿勢を正して、膝をぐっと両手で掴み、覚悟を決めた。
「……好き、です、レオン様」
必死に声を絞り出して何とか一回だけ言った後、どんな顔をしてこんな恥ずかしいことを言わせるのかと、レオン様の顔をちらっと上目遣いで覗き見てみると、とても優しい顔で私を見ていた。
それは、どんな屈強な男でも、この甘く蕩けるような微笑みの前では、力を無くして溶けてしまうんじゃないかと思う程だった。
こんな表情のレオン様は今まで一度も見たことが無く、そしてそれが自分に向けられているという戸惑いとときめきに、私は心を奪われて言葉を失くしてしまった。
しかし、レオン様のその極上の微笑みは次第に崩れ、見惚れていた私が我に返った時には既に、にへら笑いになっていた。
にへらにへらと笑うレオン様を見て、一気に正気に戻った私は、あまりの恥ずかしさに悶え死にしそうだった。
「もうっ、勘弁してください。恥ずかしくて死にそうです……」
床に正座したまま手を合わせて懇願する私の両肩に、レオン様は手を置いて、にっこり笑顔で無慈悲な言葉を放つ。
「大丈夫。恥ずかしさで死んだ奴はいない」
くううぅっ、こうなったらさっさと終わらせてやる!
「好きです好きです好きです好きですふがっ!」
羞恥に耐えて、早口でまくしたてて数をこなそうとしていると、レオン様に両頬をびーっと引っ張られた。
「適当に言うな。ちゃんと気持ちを込めて、最初からやり直し」
「気持ちを込めろなんて言われてませんっ」
「うるさい。さっさとやれ」
くううぅっ、耐えろ、自分。自我を滅して、無になるのだ。私になら出来る。
これは主の命令だ。私への罰なのだ。耐えねばならぬ。
無になれ、私。
「……好きです、レオン様」
……言えた……。
そおっと顔を上げてレオン様を見ると、よく出来ましたと言わんばかりの優しい顔をしていた。
……やっぱり無理ーーーー‼
こんな至近距離にレオン様がいて、こんなこと言えるわけが無い。
無理無理無理無理無理! 絶対無理‼
「こんなに近くで見ていられると恥ずかしくて言えません。せめて、向こうを向いていてください」
「面倒くさい奴だなあ」
軽く頭を掻きながら窓の方へ歩いて行き、そこに腰かけたレオン様は、そのまま外を見ていた。
「好きです、レオン様」
他の誰にも言ったことの無い言葉を、恥ずかしさを堪えつつ口にしながら、私の目はレオン様を追っていた。
「好きです、レオン様」
ずっと、この人に会いたかった。
ただ会いたくて、どうしたら会えるのかと、そればかり考えていた。
色々頑張っても上手く行かなくて、心が折れかけた時もあった。
「好きです、レオン様」
それが、今はこうして目の前にいる。
手を伸ばして触れることも出来る。
……夢のようだ。
「好きです、レオン様」
……どうして、あんなにも会いたかったのか、自分でもよく分からない。
それでも、一生側にいろと言われた時の胸の高鳴り。
私に向けられるあの優しい眼差し。
「好きです、レオン様」
ずっと側にいてもいいのだろうか。
一生、レオン様の側にいられるのだろうか。
もしかしたら私は、今、極上の夢を見ているのかもしれない。
それでもいい。
「好きです、レオン様」
ああ、私は今、本当に、幸せだ。




