70. 胃袋を掴もう
私は諦めない。
本がダメでも、薬草がダメでも、私にはこれがある。
最後の望みを託して、夜明け前に屋敷を出る。
まだ暗い道を歩きながら、ずっとレオン様のことを考えていた。
どうしたら会えるのか、どうしたら出てきてくれるのか。
思いつくままにレオン様の好きそうなことを試しているが、もし、これでもダメならどうしたらいいのだろう。
……いや、余計なことは考えるな。
人気のない道を歩いて目的地に着き、裏口のドアを叩くと、中から主人が出てきた。
「ああ、あんたかい。早かったね。頼まれていた物はちゃんと準備してあるよ。……ほら、これだ。でもあんた一人で大丈夫か?」
「これくらい問題ない」
頼んでいた物を受け取り、そこを後にする。
まだ星が見える暗い夜道を歩いて、屋敷に戻った。
**
「……ひっ」
「……うわあっ、化け物っ!」
屋敷に戻った私を見るなり、仕事に取り掛かろうと準備をしていた料理人のエマとヨゼフが腰を抜かした。
「化け物ではない。私だ」
「……クロード! ……お前、びっくりさせるなよ」
「……豚のお化けが出たのかと思った……」
豚を一頭肩に抱えて持っているのだが、黒髪に黒い服の私は暗闇に溶け込んで見えず、豚だけが白く浮かび上がって見えたらしく、二人は豚のお化けが出たのかと勘違いして震えていた。
「お化けじゃないぞ」と、私が肩に抱えた豚の顔を二人に近づけて見せると、最初はぎゃあぎゃあ悲鳴を上げていたが、そこはさすがに料理人、慣れると豚をつんつん突き始めた。
「これは、良い豚だなあ。新鮮で弾力があって、脂も乗っているし、しかもこの大きさ。何人分あるかな、これ」
「一人分だ」
「……え⁉」と固まった二人をその場に残して、私は裏庭へ行き、さっそく作業に取り掛かることにした。
今から豚の丸焼きを作る。
変化することなくレオン様の意識だけを呼ぼうと思ったら、もうこれしかない。
毎日一人で一頭食べても飽きないと言うレオン様の大好物、豚の丸焼きを作って、レオン様の味覚と記憶を刺激して出てきてもらう。
……失敗は許されない。
昨日のうちに豚を焼くための準備は大体済ませていた。
串刺しにした豚を渡すための台を作り、大量の炭を置くための穴を掘っておいたのだ。
豚の丸焼きは時間が掛かるので、あらかじめ準備をしておかないと今日中には食べられない。
……今日焼き上がったら、今日レオン様に会えるかもしれないからな。頑張ろう。
買ってきた豚を棒で串刺しにして手足を縛り、台の上に渡して炭火でじっくり焼いていく。
確か、肉屋の主人は「明け方から焼き始めたら、昼頃には焼き上がる」と言っていた。
肉が焦げないように、時折棒を回しながら時間をかけて豚を焼いていく。
そのうちに真っ暗だった空が少しずつ白んで明るくなってきた。
一人、二人と使用人たちが仕事に向かう為に離れから出てくる。
「……豚の丸焼きか、良い匂いがするなあ」
「美味しそう」
次第に焦げ色が付いてきて、香ばしい匂いを漂わせている豚を見ながら、後ろ髪を引かれるように仕事に向かう彼らに挨拶をしつつ、私はひたすらぐるぐると棒を回していた。
昨日ずっと穴掘りをしていたせいで出来た掌のマメが潰れて、棒を回すたびにこすれて痛む。
だからと言って、棒を回すこの手を休めるわけにはいかない。
休めばそれだけ、出来上がりが遅くなるし、焦げてしまっては元も子もない。
今度こそ美味しいと言って食べてもらって、今度こそレオン様に会うのだ。
「美味しく焼き上がってくれよ」と豚に声を掛けながら、棒を回していると、突然すっと横から布切れが出てきた。
差し出された手の先を見ると、それは二コラだった。
二コラはふわぁっと大きな欠伸をしながら、手にした布切れをぴらぴらと揺らし私に言葉を掛ける。
「巻いてやるから手を出せよ。マメが潰れて血だらけじゃないか」
昨日私に緩下薬を食べさせたのと同じ奴の言葉とは思えないが、その優しさは有難い。
礼を言いながら差し出した私の手に、ぐるぐると布切れを巻き付けて結ぶと、二コラはそっぽを向きながら言い難そうにもにょもにょと言葉を続けた。
「……その、昨日は、悪かったな。何と言うか、軽い気持ちでからかってやろうと思ったんだが、昨日今日とお前を見ていたら、本気なのが伝わって来たというか、さ。……リリアナ様の為にここまでしてるお前を見たら、何だか応援したくなってきたよ」
……え、リリアナ様?
「お前の気持ちが、リリアナ様に伝わるといいな。頑張れよ」
そう言うと、二コラは呆気にとられる私の背中をぽんと叩いて笑いながら歩いて行った。
違う。リリアナ様じゃない。レオン様だ。
豚が好きなのはリリアナ様じゃない。レオン様だ。
私はレオン様の為に豚を焼いているんだ!




