7. 10年ぶりの5歳児
森の中でみつけた布切れの道標を頼りに歩いて、どうにか町へと辿り着いた。
その町の様子から、王都からはだいぶ離れたことが分かる。
そこは、馬車が多く行き交い、きらびやかな服の貴族や商人で賑わっている王都の石畳の大通りとはまったく違っていた。
土がむき出しのままで雨でぬかるんだ通りは、馬車が通るたびに泥が跳ねて、立ち並ぶ建物の壁を汚している。
町の者たちの身なりは質素だったが、居並ぶ露店の数は多く、商品の種類も豊富で、なかなか活気のある町のようだった。
町を歩き回って何とか宿をみつけて部屋を借りた。
人の好さそうな老女将に二人分の着替えを用意してもらい、それからレオン様の着替えの手伝いを頼む。
いくら今はレオン様の姿をしているとはいえ、その体はリリアナ様のものでもあり、その着替えを私が手伝う訳にはいかない。
「終わりましたよ」
別室で自分の着替えを済ませていた私は、しばらくして部屋から出てきた老女将に礼を言い、少し身構えながらレオン様のいる部屋へ入った。
リリアナ様とあまりにも勝手の違うレオン様に、どう接したらいいのか、正直言ってよく分からないのだ。
レオン様は窓枠に腰をかけていた。
曲げた右足を窓枠に乗せて、その上に頬杖をつき、物憂げに居並ぶ露店を見下ろしていた。
……名のある画家でもこれほど美しく人物を描くことが出来るだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、私はレオン様の姿に釘付けになっていた。
高く通った鼻筋、軽く伏せた瞼を縁取る長い睫毛。
顎にかかるくらいの長さの蜂蜜色の髪は、窓から入る陽射しを受けて柔らかく輝き、風になびいていた。
私が部屋に入って来たことに気づくと、レオン様はゆっくりとこちらを向いた。
大きな青い瞳が真っ直ぐに私を捉え、瞬きもせずにじっとみつめる。
私は、あまりにも整い過ぎたその顔に、思わず息を呑んだ。
リリアナ様と同じ顔立ちのはずなのに、どこか違うその圧倒的な美しさに抗えずに吞み込まれてしまい、言葉を発することが出来なかった。
……心臓を鷲掴みにされたように息が苦しい。
………ぎゅるるるるる。
静寂を破る突然の大きな音で我に返る。
………へ? 何の音だ?
「クロード、おなかが空いた! あれ何? とっても良い匂いがする! 食べたい!」
窓を開けているからだろう。
露店の食べ物の匂いが部屋中に漂っていた。
レオン様が窓枠に立ち上がって下を覗き込み、今にもそこから飛び降りようと体を乗り出すのを見て、私は慌てて駆け寄り、レオン様を抱きかかえて窓枠から降ろした。
……危なかった! ここは二階だぞ? 飛び降りたらどうなるのか、分かっているのか?
この方はリリアナ様とは違って、いきなり何をするか予測出来ない。
「見た目に惑わされるな」と自分に言い聞かせながら、ぎゅるるる鳴り続けるおなかを押さえて、恨めしそうな目で私を見上げるレオン様を見やる。
十年ぶりに現れたレオン様に、何からどう話をしたらいいものか密かに悩んでいたのだが、あまり細かいことは気にしない方なのか、それとも空腹でそれどころではないのだろうか。
……どちらにしても、レオン様にとって十年ぶりの食事だ。好きな物を食べさせてあげよう。
「外に、何か食べに行きましょうか」
「やったあーーっ!」
私の言葉に大喜びしたレオン様は、すぐに窓に駆け寄り、そこから飛び降りようとした。
……だから、何故そこから行こうとする?
やっぱりリリアナ様とは違う!
この方からは絶対に目を離してはいけない!
私は急いでレオン様の首根っこを掴み、むうっと頬を膨らませてぶーぶー文句を言ってくるのを無視して、レオン様を肩に担ぎ上げた。
「さあ、行きましょうか」
宿を一歩出ると、通りを挟んで向こう側にはずらりと露店が並んでいた。
簡素な木組みの店々には採れ立ての野菜や果物が並び、木の棒に巻き付けて直火で焼いたパンや酒も売っていた。
何処かで肉を焼いているのだろう。
香ばしい食欲をそそる匂いがして、そう言えば私も朝食べたきりで何も口にしていなかったことを思い出した。
私は肩に担いでいたレオン様をそっと降ろして、腰を屈めて声をかけた。
「レオン様は何が食べたいですか? 何でも好きな物を選んでいいですよ」
「……いいのっ?」
レオン様は目をぱあっと輝かせて、通りの向こうの露店へと駆けて行った。
初めて目にする物ばかりで珍しいのだろう。
あれもこれもと楽しそうにはしゃぎながら、一軒一軒露店を見て回っている。
先程の部屋の中での、まるで他を圧倒するような姿とは違う、子供らしい姿が微笑ましい。
体はリリアナ様と同じ十五歳とはいえ、心は五歳の時に一度現れたきりでまだ子供なのだ。
五歳の子供だと思えば、多少のことは流せるか。
「クロード、こっちに来て! ねえ、僕これ食べたい! 美味しそう!」
食べ物を前に、しゃがんで涎を垂らさんばかりになっているレオン様に呼ばれた。
木組みの露店と露店の間に少し広めの空間があり、そこで何かを焼いているようだった。
煙がもくもくと高く上がって、ばちっと何かか弾けるような音が聞こえ、少し焦げたような香ばしい匂いと肉の焼ける旨そうな匂いがする。
「……何かは分からないが、これは旨そうだ」
ついその美味しそうな匂いに釣られて、早足になってレオン様の元へ行き、その視線の先を見る。
「クロード、早く早く!」
「どれ、何が食べたいんですか? …………って、え、これ?」
そこには一頭の豚が串刺しになり、ぐるぐると回されながら直火で焼かれていた。
……これが、食べたいのか?
まさかこんなに美しい顔で豚の丸焼きが食べたいと言い出すとは想像もしておらず、私が言葉を失くしてその場に立っていると、急かすようにレオン様のおなかがぎゅるぎゅると鳴り出した。
「兄さん、この坊やは我慢の限界らしいぞ。もう焼き上がるが、どうする?」
火力を調節しながら豚を焼いている店主が、レオン様の腹の音を聞いて、笑いながら声を掛けてくる。
「……ああ、まあ、少しくらいなら」
「僕、一人で全部食べられるよ?」
きょとんと不思議そうな顔でレオン様が私を見上げる。
「……え⁉ これを、一人で全部?」
……ちょっと待て! 豚一頭がどれだけの値段か分かってるのか、レオン様は?
懐から取り出した財布の中を覗き込んで、私は頭を抱えてしまった。
十年ぶりの食事、好きな物を食べさせてあげたいという気持ちはある。
だが、豚一頭…………私の財布には痛すぎる。
しかし、グランブルグ家のお子様が金が無くて食べられないという訳にもいかない。
……くぅっ、リリアナ様なら豚一頭食べたいなんて、絶対に言わなかった!
リリアナ様、早く戻ってきてください!
目をきらきらと輝かせて私の返事を待つレオン様に、まさかダメとは言い切れず、私は泣く泣く店主に金を払った。
「坊や、ちょっと待ってろよ」
店主はそう言うと、こんがりと焼けた豚を火から降ろして、少しずつ肉をそぎ落としては皿に盛り、席に座ってまだかまだかと待ち構えているレオン様の前に置いた。
「さあ、どうぞ。焼き立てだから旨いぞ」
こんもりと肉が盛られた皿が目の前に置かれるや否や、レオン様はものすごい勢いで食べだした。
そのあまりの速さに店主が呆気に取られて、肉を切り分ける手が止まっている。
さすがは貴族の子息らしく、その所作は流れるように美しいが、その食べる速さが尋常じゃない。
「……ちょ、待て待てっ。今すぐ切るからっ」
慌てた店主が助けを呼び、数人がかりで肉を切り分けていくが、それでもレオン様の食べる速さについて行くのがやっとだった。
……十年ぶりの五歳児の食欲、恐るべし。
空恐ろしいほどの食べっぷりに私が呆然としていると、あっという間にレオン様は言葉通りに豚一頭丸々食べ終えてしまった。
「……って、ちょっと待って! レオン様、私の分は?」
「……あ、ごめん、忘れてた。……おじさん、おかわりある?」
レオン様は私のことなどすっかり忘れてしまっていたらしく、ぺろっと舌を出して肩を竦める。
そして、そーっと私から視線を逸らしたレオン様は、自分が食べつくした豚の残骸の片づけをしている店主に声をかけた。
「まだ入るのか⁉ 坊やの胃袋はすげえなあ。時間は掛かるが、待てるなら新しいのを焼いてやるよ」
「じゃあ、お願い!」
「……ちょ、ちょっと待った!」
気持ちの良い笑顔でもう一頭追加注文するレオン様の元に、私は慌てて駆け寄って、がしっとその両肩を掴み、力を込めた笑顔で言う。
「レオン様、豚は一日一頭までとお母様が仰っています」
「そうなの? ……おじさん、今日の分はもう終わりだって」
「……うぁ、あ、そうかい。分かったよ。じゃあ、またおいで」
私の殺気を感じ取ったらしい店主は、上ずった声で返事をすると、そうっと視線を逸らしてまた残骸の片づけを始めた。
……危なかった!
一日に二頭も豚を食べられたら、伯爵家に帰り着く前に私の財布がカラになる。
この方は普段どれだけ食べるのだろう?
まさか、毎回これだけの量を食べるのだろうか?
少しでも早く伯爵家に戻らなければ、私の財布が保たない。
……リリアナ様、早く戻ってきてください!