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6. 変化

 ……水の流れる音が聞こえる。


 ぼんやりと目を開けると、空が青く澄んで、周りには木々が見える。


 ……ここは何処だろう。……森の中? ……どうして私はこんな所にいるのだろう。


「うっ……」


 体のあちこちが痛む。この痛みは何だ?

 ……それに、口の中が何やら苦い。


 頭がぼんやりして、何が起きたのか分からぬまま、私はゆっくりと重たい体を起こした。


 私は河原の砂利の上にいて、すぐ足元には川が流れていた。

 髪も服も、全身がずぶ濡れで、何処かに頭をぶつけたのか、思考が定まらない。


 意識が朦朧とする中、何が起きたのかを何とか思い出そうとして、ふとお嬢様のことが頭に浮かんだ。


 ……そうだ、お嬢様だ!

 アンリエッタ嬢の猟犬に襲われて、お嬢様と共に川に流されたのだった!

 ……お嬢様は⁉ お嬢様は何処だ⁉


 側にお嬢様の姿が無いことに気づいて、慌てて周囲を見回すと、少し離れた所にお嬢様らしき人影が見えて、私は急いで駆け寄った。


 お嬢様は大きな岩の上に横たわっていた。

 髪もドレスもずぶ濡れのまま、ぐったりと意識の無いその様子に、私は全身の血が凍り付く思いがした。


「……お嬢様……?」


 震える手でお嬢様を抱え起こして、恐る恐る自分の顔をお嬢様の顔に近づけてみると、呼吸があった。

 ……どうやら気を失っているだけのようだ。……良かった!


「お嬢様、起きてください。お嬢様、…………!」


 私の腕の中でぐったりとしているお嬢様の意識をどうにか呼び戻そうと、何度も呼びかけているうちに、私は異変に気づいた。




「……違う。……これは、お嬢様じゃない……」


 気が動転していて、一見では気づかなかった。

 ……これほど長くお仕えしている私が間違えるとは、信じられない。


 私は目の前で起きていることが受け入れられずに、我が目を疑ってしまった。


 このドレスは、確かにお嬢様が川に流された時に着ていたドレスだ。

 それに、この顔。

 旦那様のご自慢の、美しい顔立ち。

 奥様譲りのこの蜂蜜色の髪に、まるで彫刻のような整った顔立ち。


 これほど美しい顔は世に二つと無いと思っていたが、……だが今、私の腕の中で眠っている方はお嬢様ではない。


 私は自分の胸が早鐘を打っているのを感じていた。


 お嬢様は普段は長い髪を下ろしていて、首につけているお守りの金鎖は髪で隠れて見えないが、それが今は、髪が短いために露わになっていた。


 私は貴人に勝手に触れる無礼を承知しながら、その金鎖をそっと引っ張った。

 しゃらりと音を立てて出てきた金鎖の先には、お嬢様が祖父君から与えられた虹色貴石の指輪があった。



 …………間違いない。



「……あれは、冗談では無かったのか」


 信じられない信じられない信じられない。

 夢では無いのか? これは現実なのか? 信じられない。


 確かに、何度も旦那様や奥様から聞かされてはいたが、……正直言って、冗談だと思っていた。私をからかっているのだと。

 まさかこんなことが本当に起こるとは思わなかった。


「……旦那様と奥様は、真実を語っていたのか……」


 目の前で起きていることに大いに動揺し混乱しながらも、私は自分の務めを思い出して、どうにか冷静さを取り戻した。

 ……今は、余計なことを考えている場合ではない。


 私は、濡れて自分の背中に張り付いているマントを外した。

 流されている時に岩にでも引っ掛けたのだろう。

 マントはあちこち破れてボロボロだったが、それでも無いよりはマシだと、私はそれを軽く絞ってから岩の上に広げた。


 そして、周囲をよく見回して誰もいないことを確認してから、意識の無いその方を抱き上げてマントの上にそっと下ろし、丁重に包んで再び両手で抱き上げた。


「……急がねば」



 ……とは言え、土地勘も無いまま、当てもなく歩き回って迷子になるわけにもいかない。

 見た限りでは、森や川の様子から、狩場からはだいぶ離れた所のようだ。


 多少は人が行き交っているのか、森の中に道のようなものが見えるが、その東西のどちらに行ったものか判断がつかない。


 考えあぐねていると、……ふと何かがひらひらと揺れているのが目に入った。

 近づいてみると、木の枝に布切れが結んであり、よく見ると少し離れた所にも、その先にも同じような布切れが結んであった。


「……誰かが、道標に付けたものだろうか? それとも、何かの目印か? ……もしや、アンリエッタ嬢の罠では⁉」


 私は、はっとして身構えながら、周囲を見回した。

 辺りはただ川の流れる音が聞こえてくるだけで、人のいる気配は無い。


 ……狩場からここまではかなりの距離があるはず。

 アンリエッタ嬢の手の者が、まさかここまで追ってきているとは思えない。

 それにもし本当に追いかけてきたのなら、私が気を失っている間にとっくに襲われているだろう。


「アンリエッタ嬢とは関係無さそうだな」


 その布切れの道標は、川下の方に向かって付けられていた。


「……右も左も分からないなら、これに賭けてみるか」


 私は意を決して、その布切れの道標を頼りに歩き出した。


 少しでも早く、何処かこの方をゆっくりと休ませられる所に着きたいと、早足で歩いているうちに、少しずつ道幅が広くなり、ちらほらと建物も見えだした。


 ……ありがたい、こんなに早く町に着くとは。

 あの道標のお陰だ。

 誰が付けたものかは分からないが、助かった……。


 


 その時、何やら腕の中のマントの中が微かに動いた気がした。

 マントの中で体を動かしている感覚に、私が立ち止まって様子を見ていると、その方がもぞもぞと手を動かしてマントの端から顔を覗かせた。


 きょとんと小首を傾げて、まるで見知らぬ者を見るように、その方はその大きな青い目をぱちぱちと瞬かせた。


「誰?」


 聞き慣れた、か細く可愛らしいお嬢様の声とは違う、凛と澄んだ声。

 私は一瞬息を呑んだが、それを悟られぬように努めて優しい声と笑顔で答えた。


「私の名はクロード。あなたのお父様から、あなたをお守りするよう仰せつかっています。決して怪しい者ではないので、心配しないで下さい」


 まったく表情を変えずに、黙って真っ直ぐにこちらの目を見てくる。


 ……澄んだ大きな青い瞳。

 ……何て美しい。……吸い込まれてしまいそうだ。


 何も言わずに、ただじっと私を見つめるその瞳に、私は心を激しく揺さぶられていた。


 ……何を話したらいいのか、どう接したらいいのか、分からない。

 ……どうして、何も言わないのだろう。

 ……こんなに長く見つめられると、恥ずかしくて目のやり場に困る。 


 そして、とうとう長い沈黙とその視線に耐えられず、私はさりげなく目線を逸らし、そっと顔を逸らした。


 すると、その方は私の腕の中でもぞもぞと動いて体を起こしたかと思うと、するりと伸ばした両手を私の首に巻き付けてきた。


 呆気にとられる私を気にする様子もなく、鼻先がくっつきそうな距離にその美しい顔を近づけて私の目を覗き込むと、ふふっと蕩けるような甘い微笑みで私を撃ち抜く。


「クロード」


 私は声も出せずに、至近距離にいるその美しい人に圧倒されていた。

 私の首に腕を絡めて、私の頬に息のかかる所に、柔らかそうな赤い唇がある。


 その状況に激しく動揺し、全身の血液が逆流しそうになるのを感じながら、泳ぐ目をどうにか抑えて、私は必死に冷静さを取り戻そうとしていた。



 ……むにっ。



 何か、柔らかいものが、私の頬に触れた。


 恐る恐る目線を向けると、さっきまでは確かに私の視界に入っていた赤い唇が、無い。

 代わりにそこにあったのは、鼻筋の通った綺麗な鼻と、長い睫毛に縁取られて閉じた瞼だった。


「…………え?」

「ん? もう一回?」


 ばさっと音がしそうな長い睫毛に縁取られた青い大きな瞳が、目の前できらきらと輝いている。

 その輝きに声も出せずにいると、悪戯っぽく上目遣いに私を見たかと思うと、その赤い唇を軽くすぼめて、ちゅっと私の頬に触れた。




 …………え?




 一瞬、何が起きたのか分からずに、目の前にあるその顔をまじまじと見てしまった。




 …………え? ……え? ……頬に、キス、した? ……え⁉




 思わず目を見開いてのけ反り、声にならない叫び声を上げた。



 何だ⁉ 何で⁉ どうして⁉

 えええええーーーーーー⁉


 私のその驚く顔が面白かったらしく、その方はけらけらと笑い出して、また頬にキスしようと顔を近づけてくる。


 そう何度もやられては堪らないと、私は必死に体を反らして逃げる。

 それがまた面白かったらしく、笑いながら唇を尖らせて迫って来る。


 何なんだ、この子は⁉


 こんな所を祖母に見られたら殺される。


「クロード! お嬢様を好きになってはいけないと、いつも言っているでしょう!」


 違う! 誤解だ!

 私じゃない! 私がキスしたんじゃない! この子がしてきたんだ!

 それに、この子はお嬢様だけど、お嬢様じゃない!

 この子は、レオン様だ!






 私は、かつて旦那様から繰り返し聞かされた話を思い出していた。

 それは、十年前にグランブルグ伯爵家で起きた事件のことだ。


 その日は朝から雲一つない快晴で、ちょうど薔薇も満開だったことから、伯爵夫妻とまだ五歳だったお嬢様は庭でお茶を楽しんでいた。

 すると突然の雷鳴と共に激しい雨が降り出して、傘を用意する間もなく、御一家はずぶ濡れになってしまった。


 急いで屋敷の中に入ろうと旦那様がお嬢様を抱き上げた時、ふっとお嬢様が意識を失い、その体から靄のようなものが出てきた。

 ゆらゆらと出てきたそれは次第に濃くなってお嬢様の全身を包み、しばらくして消えたかと思うと、そこにいたのはお嬢様と同じ顔をした男の子だった。


 夫妻は驚き、戸惑い、何かの悪戯かと、屋敷中をお嬢様の姿を求めて探し回ったが、いつまで経ってもお嬢様は見つからず、やがて同じ顔のその子が恐らくお嬢様なのだと、訳が分からぬまま受け入れた。


 どうしたら元のお嬢様に戻るのか、そもそも戻れるのかすらも分からない。


 理解が追いつかないまま、その男の子にレオンという名前を付けて過ごし、もうこのまま元のお嬢様に戻ることは無いのかもしれないと諦めかけた時、突然お嬢様の姿に戻ったらしい。


 周囲が目を離したわずかな間にレオン様は姿を消し、屋敷中を探し回ってやっと見つけた時には、もうお嬢様の姿に戻っていて、どうやって元に戻ったのかは分からないまま。


 レオン様からリリアナ様にどうやって戻ったのかは分からないが、リリアナ様からレオン様に変化したきっかけが雨でずぶ濡れになったことだったので、雨が引き金になるのではないかと思われたが、それを確認することは許されなかった。


 元に戻す方法が分からないまま試して、二度と娘に会えなくなることを旦那様が受け入れられなかったのだ。

 それ以来、旦那様は目の中に入れても痛くないと溺愛するお嬢様を失うことを恐れて、お嬢様の一切の外出を禁じた。


 そして万が一に備えて、護衛として私が選ばれた。


 再びレオン様に変化することがあれば、決して人目に付かないように守り、密かに屋敷まで連れ帰ることが、私に与えられた務め。


 何よりもリリアナ様、そしてレオン様の身の安全を優先し、常に側にいて我が子を守って欲しいと、まだ子供だった私に頼む旦那様の顔は今でも忘れない。




 ………そして、そのレオン様は今、私の目の前にいる。


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