5. 男爵令嬢の企み
オリヴィエ様の言葉で、やっと自分がアンリエッタ嬢に謀られたと察した私は、急いでお嬢様の天幕に引き返した。
広い森の中のあちこちに天幕は張られていた。
大勢の使用人達が忙しなく働いていたはずが、いつの間にか不思議なほど人影が無く、ひっそりと静まり返っている。
その不気味な静けさの中を駆けてお嬢様のいる天幕に戻った。
「お嬢様! マリア!」
天幕の外から声を掛けても返事がない。
嫌な予感に天幕の中に入ると、私はあまりの惨状に声を失ってしまった。
中はめちゃくちゃに荒らされて、荷物は地面に散らばって泥だらけで、獣に踏み荒らされたような跡があちこちにあった。
……何があったのだ? アンリエッタ嬢は何をしたのだ? お嬢様は何処に?
……!
その時、何処からか微かな悲鳴が聞こえた気がした。
急ぎ天幕を出て森の中を見回すと、エリオット王子達の天幕のあるのとは反対方向の、人気の無いはずの方向から微かに声が響いて来るが、それがお嬢様とマリアのものなのかまでは判断が付かなかった。
どうしたものかと、ふと下を見ると、天幕の中からその方向へと向かう獣の足跡が残っていた。
……あそこにいるのはお嬢様だ!
私は急いで木に繋いであった手綱を取って馬に飛び乗ると、何度も鞭打ちながら、必死にお嬢様とマリアの元へ駆ける。
どうか、どうか間に合ってくれ!
近づくにつれて、微かだった声が次第に大きくなり、はっきりと人の叫び声と犬の吠える声が聞き取れるようになった。
「お嬢様! 誰か! 誰か助けてえっ!」
……マリアの声だ。
馬で駆けつけながら声のする方を見ると、お嬢様とマリアが猟犬に囲まれて、川岸に追い詰められていた。
お嬢様は助けを求めるように胸の前で手を合わせて泣いていて、マリアはお嬢様を守ろうと長い木の枝を振り回して、猟犬を追い払おうとしている。
「あっちへ行けっ! 来ないでっ!」
飛びかかってきた猟犬をマリアが木の枝で殴り落とした。
殴られた猟犬は情けない声を上げて引っ込むが、代わりに別の猟犬が飛びかかって来る。
「お嬢様! マリア!」
二人を取り囲んでいる猟犬達を、私は馬に乗ったまま飛び越えた。
すぐに馬を降りて手綱をマリアに任せて、私は剣を鞘から引き抜き、猟犬達に対峙する。
「マリア、馬に乗れるか? 乗れるなら、お嬢様と一緒にここから乗って逃げろ」
「……ダメよ、足が震えて乗れないわ」
マリアは恐怖で足がすくんで馬に乗れる状態ではないらしい。
その髪は乱れ、服は所々破れて汚れている。
お嬢様を守る為に気丈に振舞っているが、可哀想に、どんなに怖かっただろう。
「マリア、ここまでよくお嬢様を守ってくれた。後は私に任せろ」
私は二人を背にして、唸り声を上げて飛びかかってきた猟犬に向かう。
最初の一頭につられるように次々に襲い掛かってくる猟犬を、私は容赦なく斬っていく。
斬られても、地面に叩きつけられても、執拗に襲ってくるその猟犬の姿は異様だった。
数が多いだけでなく、手負いでふらついていても、それでも退かない。
まるで最初からお嬢様を狙うようしつけられているような不気味さすら感じる。
斬っても斬っても、キリが無かった。
「……しつこい」
ピイィイ――――ッ!
突然、何処からともなく口笛のような音が響いて、途端にあれほどしつこかった猟犬達が一斉に退いて行った。
……近くに猟犬を操っている者が隠れていたのか。
……なるほど、猟犬がしつこかったわけだ。
べったりと付いた血を振り落としてから、剣を鞘に戻しながら私は辺りを見回す。
猟犬達は遠くへ走り去り、これ以上襲ってくる気配も無かった。
「……もう大丈夫だ」
お嬢様とマリアのいる後ろを振り向くと、安心して気が抜けたのか、マリアがへなへなとその場に座り込んだ。
「マリア、大丈夫か?」
「……怖かったっ……! 噛み殺されるかと思った……」
「一人にして、すまなかった」
泣いているのか笑っているのか良く分からない顔で私を見るマリアに、手を貸そうと差し伸べた時に、後ろにいるお嬢様の体がゆらりと大きく揺れるのが私の視界に入った。
恐怖で張りつめていた糸がぷつりと切れたようにお嬢様は意識を失い、慌てて駆け寄った私の手も間に合わずに、そのまま後ろに倒れて川に落ちた。
その大きな水音と水飛沫に驚いて振り向いたマリアが、叫び声を上げる。
「きゃあああっ! お嬢様っ!」
今朝方までの激しい雨で水量が増しており、川の流れが速かった。
気を失って意識の無いお嬢様は、その激しい川の流れに抗えずにどんどん流されて小さくなっていった。
私はすぐに馬の手綱を引いて飛び乗り、流されていくお嬢様を追いかける。
「マリア! お嬢様は私が必ずお守りして屋敷へお連れする! 後のことは頼んだ!」
「クロード! お嬢様をお願い!」
遠く離れて行くマリアの声を背に、私は馬に鞭打ち全速力で駆ける。
「お嬢様っ! お嬢様っ! リリアナ様っ!」
馬で駆けながら、何度大声で呼びかけても、お嬢様は気が付く様子は無かった。
白波と共に大きな音を立てて流れる川に、お嬢様はどんどん運ばれていく。
……急がなければ。
馬の腹を蹴り鞭で打って、私は急いでお嬢様の先回りをする。
流れの先にある大木の所で馬を降り、鞍につけてあった縄の端を急いで木にくくり付けて、その縄の反対側の端を自分に巻き付けて、私はお嬢様を待った。
そうしているうちに、こちらに流されて来るお嬢様が見えた。
……失敗は許されない。
呼吸を整え、タイミングを合わせてお嬢様めがけて川に飛び込んだ。
押し寄せる水の勢いに跳ね返されそうになりながらも、必死に手を伸ばして何とかお嬢様を掴まえることが出来た。
決して離すことの無いように、意識の無いお嬢様を強く抱きしめる。
「絶対に離さない。必ずお守りする」
お嬢様を腕に抱いたまま、どうにか体を岸の方へ傾けようとするが、水の勢いが強く、どんどん流されてしまい、巻き付けていた縄がぴんと張りつめて体を締め付ける。
「うっ……」
そのまましばらく耐えていると、縄をくくり付けた木を支点にして、次第に体が岸の方へ寄っていった。
「……よし、岸までもう少しだ」
腕の中にお嬢様を抱えたまま、もう少しで岸に着くとほっと視線をやると、何処からか小柄な男が出てきた。
何処かで見た覚えのあるその男は、右手に持ったナイフをまるで私に見せるように軽く振ってから、私が木にくくり付けた命綱をそのナイフで切ろうとした。
「やめろっ!」
男は笑い声を上げながら、私の制止を無視してザクッと縄を切った。
すぐ目の前にあった川岸が一気に遠ざかって行く。
「……あっ、あいつ、アンリエッタ嬢と一緒にいた男だ!」
流れに流されながら、すべてはアンリエッタ嬢の仕業だったのかと悟ったが、もはや手遅れだった。
頼りの縄を切られて、どうすることも出来ずに流されていく。
水の勢いは衰えることなく、お嬢様の意識も戻らないままだ。
ガツッ!
何かにぶつけたらしく、頭に激痛が走る。
……必ずお守りすると、奥様に誓ったのだ。
……何があってもお嬢様だけはお守りせねば。例え、この命に代えても。
意識が朦朧とする中、私はお嬢様を抱き締めた。
……お嬢様だけは。
…………ひか、り……?