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47. 初めての恋

 急いで階下へ行き、宿の女将にリリアナ様の着替えと言伝を頼む。


 夜も遅いので今夜はこのまま眠ってほしいこと、明日の朝、朝食を終えてから私がリリアナ様の部屋に挨拶に来ること。

 そして、私はずっとドアの前で番をしているので心配しないようにと。


 リリアナ様と同じ部屋で夜を過ごすわけにはいかない。

 もう一部屋借りようかとも思ったが、別室にいる間にリリアナ様の身に何かあってはいけないので、宿の主人に断って、ドアの前で一晩過ごさせてもらうことにした。


 ……リリアナ様は、きっと不審に思うだろう。

だが、今は、リリアナ様には会えない。

 こんな、レオン様のことで頭の中が一杯の、こんな状態では、会えない。

 私のせいで、レオン様は伯爵家子息としての未来を失ってしまったのに、自分だけのうのうとリリアナ様の側には居られない。

 ……私は、どうしたらいい?

 どうしたら、自分のしてしまったことを償えるのか。


 リリアナ様のいる部屋のドアを背にしたままずるずると滑り落ちて、その場に座り込み、レオン様と初めて会ったあの日を思い出す。



 ……10年前のあの日、伯爵邸にて仕事中のはずの祖母が突然、離れで他の使用人の子供達と遊んでいた私を迎えに来た。

 「遊んであげて欲しい子がいる」と言う祖母に、それなら皆一緒に行こうと私が言うと、私一人だけでいいと、私だけが連れられて行き、初めて伯爵邸に足を踏み入れた。


 普段は外から見るだけだった屋敷の中は広大で、壮麗で、自分がいる世界とのあまりの違いに圧倒されて言葉を失くしている私を、祖母は笑いながら奥へと連れて行った。

 隅々まで装飾が施され飾られた長い廊下を祖母と歩いていると、血相を変えた女性がやってきて、何かを祖母に耳打ちし、それを聞いた祖母の表情が変わった。


 祖母は、急な用が出来たから遊びは中止だと、一人で離れまで戻るようにと私に言いつけて、その女性と急いで何処かへ行った。


 初めて訪れた屋敷はあまりにも広すぎて、そしてその豪華さに圧倒されっぱなしだった10歳の私は、手を引く祖母についてくるのが精いっぱいで、何処を通って来たのかすら覚えていなかった。

 何かを、誰かを、せわしなく探す様子の使用人たちに、声を掛けて帰り道を尋ねることもさえ躊躇われて出来ずに、広い屋敷の中で子供だった私は迷子になってしまった。


 何処まで続くのか分からない長い廊下、数え切れないほどたくさんある部屋、歩いても歩いても辿り着かない玄関。

 ぐるぐると迷路のように同じところを歩き続け、疲れ果てた私が迷い込んだのは、使われていない暗い部屋だった。

 そこは家具には埃が被らないように大きな布が掛けてあり、窓のカーテンはすべて閉められていた。

 見知らぬ初めての場所を歩き続けた私は、気疲れと空腹で、ほんの少しだけのつもりで部屋の隅で横になり、そのまま眠ってしまった。


 ……つんつんと誰かが、眠っている私の頬をつついた。

 気持ち良く眠っていたのに、執拗につんつんと頬をつつかれ続けて、少しいらつき気味に目覚めた時には、もう夜になっていた。

 薄暗かった部屋は真っ暗になり、自分が完全に眠りこけてしまったことに気づいた私は慌てて飛び起き、その時初めて横に誰かがいることに気づいた。


 ……子供のようだった。

 目を凝らしてよく見てみると、その子はシーツに包まって、黙って私を見ていた。

 ずっとつんつんしていたのはこの子らしく、私が起きてもまだつんつんし続けていた。


 眠りを邪魔されたいらつきと、ちょっとからかってやれという悪戯心で、つんつんつついてくるその子の指をぱくっと軽く噛んだ。

 私にいきなり指を噛まれたその子は、驚いた様子だったが、すぐにきゃっきゃと笑い出してもう片方の手でつついてきた。


 その反応に、あまり関わらない方がいいような気がした私は、早く離れに帰らなければいけないことも思い出して、つんつん続けるその子を残し、立ち上がってそこを去ろうとした。


 するとその子は、包まっていたシーツの中から手を伸ばし、私の手を掴んだ。

 振り返ると、まるですがるような目で私を見上げていた。

 ここに長居したら祖母に叱られるのは分かっていたが、そんな目で見られて、その子を一人残しては行けなかった。


 もう少しだけ。あと少しだけ一緒にいてあげよう。

 そんな軽い気持ちだった。


 ぎゅっと私の手を握るその子の手をぽんぽんと軽く叩いて、横に座りなおすと、深く被ったシーツの間から嬉しそうに笑うその子の顔が見えた。

 暗闇に少しずつ目が慣れてきていた。


 どきっとした。


 私が普段離れで遊んでいたのは男の子ばかりで、女の子とは接点が無く、慣れていなかった。

 つんつんつついてくる変な奴と思っていたけど女の子だったのかと、ちょっとドギマギしながら、よし、せっかくだから何か面白いことを言って楽しませてやろうと妙に気合が入った。


 私がずっと歌ったり、大袈裟な仕草で話したりしているうちに、その子は声を上げて笑うようになった。

 自分が迷子になったことも、早く帰らなければいけないことも忘れて、自分だけに向けられる笑顔が嬉しくて、私は話し続けた。


 どれくらい時間が経っただろう。

 閉じられていたカーテンの隙間から、月の光が差し込んできた。

 暗闇の中、すうっーっと入ってきたその光は、私の話に声を上げて笑うその子の顔を照らした。


 今まで見たことも無いほど美しい子だった。

 

 透き通るような白い肌、吸い込まれそうな大きな青い瞳、長い睫毛は瞬きするたびにバサバサと音がするようだった。

 世の中にこんなに綺麗な子がいるのかと、幼い私は息を呑んだ。


 急に言葉を失くして黙り込んだ私を、その子は瞬きもせずに黙って見ていた。

 私は、その大きな青い瞳に吸い寄せられた。


 まっすぐに私を見るその子に少しずつ、少しずつ近づいて、そっと唇を重ねた。

 その子が見開いていた目をゆっくりと閉じるのを見て、私も瞼を閉じた。


 いつも離れの庭を泥だらけになって走り回っていた私が、今日初めて会った女の子にこんなことをするなんて想像もしなかった。


 その子の唇はとても柔らかくて、甘かった。

 自分の胸の鼓動が強く早くなっているのを感じながら、唇を重ねていると、急にその子の体が力なく崩れた。


 驚いて目を開けると、その子が床に倒れていた。

 声を掛けても、揺さぶっても何の反応も無く、その様子にこれは只事ではないと感じて、誰か大人を呼びに慌ててその部屋を出た。


 走り回ってやっと見つけた大人に、その子のことを話そうとしたが、こんな遅い時間に何故、使用人の子が屋敷をうろついているのかと叱られ、そのまま話も聞いてもらえずに屋敷から叩き出された。


 どんなに叫んでも中には入れてもらえず、しつこいと追い払われ、泣きながら離れに戻った。

 帰り着いた離れでも、遅くまで無断で出歩いたことを叱られて、罰として夕食を食べさせてもらえず、その日は泣きながら眠りについた。


 一夜明けても、その後あの子がどうなったのか気になったが、名前も知らない女の子のことをどう尋ねたらいいものか分からず、自分があんなことをしてしまったことも恥ずかしくて、祖母にも誰にも話せなかった。


 それからしばらくしてリリアナ様の護衛に選ばれた。

 一目リリアナ様の顔を見て、あの時の子だと思った。

 その後無事だったこと、また会えたことが嬉しくて、胸が高鳴った。


 私のこと、覚えているだろうか。

 あの時のこと、覚えているだろうか。

 あの夜の、二人だけの秘密。


 あの時のことを密かに思い出して顔が赤くなっているのは自分でも分かっていたが、私を見て、リリアナ様がどう反応するのか、どんな言葉を掛けてくるのか、どきどきしながら待っていた。


 「クロード…」


 初めて名前を呼ばれて、天にも昇る気持ちだった。

 ……あの夜、あなたと一緒にいたのは私です。

 覚えていますか?


 期待を込めた目で見るが、リリアナ様の目は私が期待していたものとは違っていた。

 何の感情も無い、初対面の人間を見る目だった。

 ……覚えて、いないのか? それとも人違いなのか?


 戸惑う私に祖母が言う。


 「お嬢様を好きになってはいけませんよ。身分をわきまえなさい」


 ……あの時の子はリリアナ様だと思った。

 けれど、リリアナ様は覚えておらず、祖母からはリリアナ様に恋してはいけない、身分をわきまえろと言われ、子供だった私はあの子を探すことを諦めた。

 リリアナ様だったのかもしれない。人違いなのかもしれない。

 だが、最早探すすべもなく、探すことを諦め、そうして、いつしかそんなことがあったことも忘れてしまった。



 ……あれは、レオン様だったのか。

 女の子だと、リリアナ様だと、ずっと思っていたが、あれはレオン様だったのか。

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