31. トルゥクさんとキオウさん
「……馬鹿だな、死にかけたくせに」
レオン様が小さな声で何か呟いた。
その声があまりに小さくて聞き取れず、きょとんっと見る私に、レオン様がきらきらした笑顔で尋ねてくる。
「ねえ、あちこち赤くなってるけど、これ何?火傷したの?髪も焦げてるし」
…あ、忘れてた。
でも、これは変化する前のリリアナ様の時のことだし、何と説明したらいいのだろう。
返事に困って、つい目線があちこち彷徨ってしまう。
「僕には言えないこと?」
うわっ、きらきらが増してきたっ。
「…まあ、いいけどね。トルゥクとキオウなら大丈夫だろうし」
「…トルゥクさんとキオウさん? 誰ですか?」
今日二度目の出来の悪い子を見る目で見られた。
「……あーあ、クロードと話をしていたらお腹が空いてきちゃった」
私の腕の中で、ぐーっと伸びをしたレオン様はもぞもぞとマントの中から何かを取り出して、がぶっと噛り付いた。
それは、リリアナ様が気絶し、号泣し、それでも欲しいと望んだ神殿の下げ渡しの林檎だった。
男に襲われて恐怖で震えていたのに、あの火の中でも、川の中でも手放さなかったのか……。
何という執念。
だが、そのリリアナ様の林檎が今、私の目の前でレオン様に食べられている。
……どうしよう。
恋が叶うとかいう林檎。確か、祭りは年に一度とか言ってたな。ということは次は来年。……そんなに待てない。すぐに替わりが要るのだ。
店で買ってくると言ったら、めちゃくちゃ泣かれたし。どうしよう。
……そうだ。レオン様に、半分残してもらうとか?
私の視線に気づいたレオン様が、食べかけの林檎を私の前に差し出した。
「食べたいの?」
いやいや、私じゃなくて、リリアナ様です。
「それは、あなたのおやつじゃなくて、リリアナ様の大切な物だったんです」とは言えず、しどろもどろになっていると、レオン様は大きく口を開けて林檎を一飲みし、一気にガリガリボリボリと食べてしまった。
…リリアナ様の大事な林檎を一飲み。
あれだけ欲しがっていた林檎をレオン様に全部食べられてしまって、リリアナ様に何と言い訳したらいいのだ?
下手なことを言うと、またマリアに無神経とか言われて首を絞められるか、それとも平手打ちされるか、どっちかだし。
……あ、でも、レオン様はリリアナ様なわけで。
レオン様が林檎を食べたのなら、それはつまりリリアナ様が食べたのと同じこと。
実際には林檎を食べているのだから、きっとリリアナ様にご利益があるだろう。
…ならば、店で買ってきて、これがその林檎ですと言ってもいいんじゃないだろうか。
よし、後で林檎を買っておこう。
絶対に忘れないようにしないと。
レオン様を抱えたまま、川沿いの道を流れに沿って歩き、しばらくして町が見えてきた。
奥様に、もしレオン様にまた変化することがあれば寄り道して構わないと言われているので、とりあえず宿を探して着替えることにした。
通りを歩いて目についた宿に入ると、私の顔を目にした瞬間、宿の主人が大声で笑い出した。
「はははははっ、何だその顔っ」
レオン様がそっとマントの中に引っ込む。
「気づいてないのか?あんた、顔に歯形が付いてるよっ。ははははっ」
レオン様っ‼
**
部屋を借りてレオン様の着替えを待っている間、私の顔を見る度にぶっと吹き出しながら宿の主人が、薬の話をしてくれた。
若い頃に薬屋で働いていたことがあるらしく、多少は薬の知識があるのだそうだ。
「歯形は残ってるけど肉は切れてはいないから、このまま放っておいても大丈夫。でも、あちこち火傷の痕みたいな赤くなってる所があるから、こっちは悪化しないように薬を塗っておいた方がいい。…え~と、確か火傷にはトルゥクだ」
「…トルゥクさん?」
…確か、レオン様がそんな名前を口にしていたような。
トルゥクさんと、キオウさんだったか。
「…トルゥクさん? 人の名前じゃねえよ。薬草だよ。白い花が咲く薬草でな、これが火傷に良く効いて、痕も残らない」
…レオン様が言っていたトルゥクとは薬草のことか。では、キオウは何だろう?
「キオウ?あんた、キオウを知ってるのか?もしかして、金持ちのお貴族様か?」
宿の主人が驚いた顔をして私を見る。
…どういうことだ?
「キオウってのは、どんな怪我でも直すって言われている万能の回復薬でな。あんまり強いから普段使いは出来ないんだが、死にかけてるような怪我人でも直すらしい。ただ、とてつもなく高価だから大金持ちのお貴族様しか買えない代物だ。キオウを扱ってる薬屋なんてそうそう無いから、俺もまだ一度も実物を見たことは無い」
…高価な、万能の回復薬。
「あんた、キオウなんてよく知ってるなあ」
私ではない。レオン様が知っていたのだ。
レオン様は、私の顔を舐めて「不味い」と言った。
すごく傷ついたけど、あれはもしかすると薬のことだったのか?
ひょっとして、私の顔に薬が塗られていたのか?
「もしかして、私のこの火傷の痕にトルゥクが塗ってあるかどうか、分からないか?」
宿の主人の前にずいっと顔を差し出して見せると、いちいちぶっと吹き出しながら、主人は私の顔や首元を覗き込んだり、匂いを嗅いだりして確認する。
「…あ~、顔は所々取れてるけど、首にはちゃんと残ってる。これはトルゥクだよ、独特の癖のある匂いがする。何だ、ちゃんと自分で塗ってたんだな」
…いや、違う。私ではない。私は意識を失っていたし、レオン様もだ。
では、誰が?
誰が私にトルゥクを塗って火傷の手当てをしたのだ?
もしや、その誰かは、私にキオウまで与えたのか?
とてつもなく高価だという万能の回復薬を、リリアナ様の護衛とはいえ平民の私に?
一体、何故? 誰が? どうして?
あそこには誰もいなかったはず。私はちゃんと確認した。
…私の意識の無い間に、火傷の手当てをし回復薬を飲ませて、去ったのか?
誰が、そんなことを?
…まさか、あのアンリエッタ嬢の乳兄弟が?
いや、宿の主人はキオウは大金持ちの貴族しか買えないと言っていた。
それならばあの男には手に入れられないし、もし所持していたとしても、私には与えないだろう。
あれほどリリアナ様を恨んでいたのだ。
私に毒を飲ませることはあっても、回復薬を飲ませるなど絶対にない。
「お連れの方の着替えが終わりましたよ」
宿の従業員がレオン様の着替えが終わったことを知らせに来た。




