27. 聞いてないぞ、マリア
「このまま順番に林檎を受け取って帰るだけ」と簡単に考えていた私は甘かった。
特に急ぐわけでもないので、混雑を避けた後ろの方で私はリリアナ様を抱えて、他の者の様子を見ていた。
すると、両脇にいる神官たちが、足元に置いてあった壺のような物を手に取り、一斉に声を上げた。
「穢れを払い、身を清めて、神に近づきなさい」
そう言うと神官たちは手に持った壺の中身を、広場に集まった若者たちにバシャーッと思い切りかけた。
……え、何だこれ? ……水? 聖水か!
おい、聞いてないぞ、マリア!
広場にいた若者たちはずぶ濡れになりながら前へ進み、一人ずつ順番に階段の上にいる女性神官から林檎を受け取っている。
そうして無事に目的を果たした者たちは、静かに私とリリアナ様の横を通り過ぎて帰って行った。
……これは、もしかして聖水を受けて身を清めないと林檎が貰えないのか?
無理だ。リリアナ様にはこれは無理だ。
こんな所で、こんな公衆の面前で、レオン様に変化するわけにはいかない。
「クロード、わたしたちも行きましょう」
リリアナ様のその無邪気な声に心が痛む。
……あなたは無理なんです。
……あなたは水に濡れるわけにはいかないのです。
ここまで来て、目の前にあれほどリリアナ様が欲しがった林檎があるのに、諦めてもらわなければいけない。
可哀想だが、仕方がない。
「……残念ですが、リリアナ様をあそこに行かせるわけにはいきません」
「どうして? ……クロードが嫌なら、わたし一人で行くから降ろして」
「ダメです。……どうしてもと言うなら、林檎は私が行って受け取ってきますから、リリアナ様はここで待っていてください」
信じられないという強張った顔で私を見るリリアナ様をそっと降ろして、わたしは一人で林檎を貰いに女性神官の元へ歩いた。
「待ってっ、わたしも行くっ」
「穢れを払い、身を清めて、神に近づきなさい」
リリアナ様のその声と、男性神官たちの声が同時だった。
振り返ると、私の元へ走ってくるリリアナ様の頭上には、神官たちがかけた大量の聖水が弧を描いて落ちてくるのが見えた。
……ダメだ!
私は急いで駆け寄ってリリアナ様を側に引き寄せ、マントを広げてリリアナ様が濡れないように覆い隠した。
バシャアーッと大量の聖水が、私の頭や背中に降り注ぎ、ずぶ濡れになる。
……かけ過ぎじゃないのか、これ?
私はぶるぶるっと軽く頭を振って聖水を払い、そっとマントをめくって中のリリアナ様の様子を見た。
リリアナ様はぷうっとむくれた顔をしていたが、濡れてはいないようで、変化もしていない。
……良かった、間に合った。
私がほっと胸を撫でおろしていると、リリアナ様がむくれた顔のままマントの下から出てきた。
「クロード、どうして邪魔をするの? 聖水を受けて身を清めないと、林檎が貰えないのよ?」
……そんなこと言われても、濡れたらあなたはレオン様になっちゃうんですよ。知らないだろうけど。
こんなとこでレオン様に変化したら大騒ぎになるんです。言えないけど。
「……う~ん、……だって、濡れて風邪を引いたら困るでしょう?」
「それくらい我慢するわ」
……う~ん、そういうことじゃないんだよなあ。
何と言えば諦めてくれるのか。
「ああ、そうだ。ほら、こうすれば清めたことになりますよ」
聖水で濡れた私の手で、私はリリアナ様の小さな手を包んだ。
濡れた手で触れられたリリアナ様の手にも幾つか水滴がつき、これなら多少は清めたことになるんじゃないだろうか。
むくれた顔をしていたリリアナ様は、うろたえながら、それでも納得いかないようで途切れ途切れに反論してくる。
「……これじゃあ、ダメよ。……だって、他の人は、もっといっぱい濡れてるもの。これじゃあ、神様に認めてもらえないわ」
これじゃ足りないと言われても、リリアナ様の手に触っていたら私の手は乾いてしまって、もう水気が無い。
聖水を浴びず、ずぶ濡れにならず、濡れる方法?
どうしたらいいのか考えていると、ずぶ濡れになった私の前髪からぽたぽたと水滴が滴り落ちてきた。
その滴り落ちる聖水が自分の顔を伝わるのを見て、私はそっと腰を屈めて、濡れた自分の右頬をリリアナ様の右頬にくっつけ、反対側も同じようにした。
「これなら、いっぱい濡れましたね」
まだ他に人がいたのか、突然きゃああっという甲高い声があちこちから聞こえてくる。
リリアナ様は顔を真っ赤にして、ぽかんと口をあけたまま瞬きもせずに立っていて、何も返事が無いので、とりあえず女性神官にこれで清めたことになるかと確認すると、何故か周りから拍手が返ってきた。
……これで大丈夫らしい。
固まったままのリリアナ様を再び抱き上げて、そのまままっすぐ歩いて階段を上がり、女性神官から下げ渡しの林檎を受け取る。
……よし、これで帰れる。
他の者たちは、これから神殿の外で踊ったり飲んだりするらしいが、最初から「下げ渡しの林檎を貰うだけ」という約束だったので、これ以上ここに長居はせずに、このまま屋敷に帰ることにする。
私は馬車を呼んで、リリアナ様を抱えたまま乗り込んだ。




