151. 媚薬
やがて月日が流れて、王太子様が即位して国王陛下になり、わたくしは王妃になった。
隣国ガガリアが一方的に停戦協定を破って攻め込んできたことで始まった戦は、意外な結末を迎えた。
王太后様の母国である大国セルヴィナが、何年も続いた飢饉と度重なる反乱で国王の力が衰え、幾つかの国に分裂して国が消滅したのだ。王太后様の兄にあたる国王一家は国を捨てて逃げたらしい。そして王太后様は失意のまま亡くなった。
セルヴィナが参戦することは無いと高を括っていた隣国ガガリアは、そのセルヴィナが崩壊したことで逆に背後が危うくなり、慌てて停戦を申し込んできた。
もともと戦を望んでいなかった我が国はそれを受け入れ、恐らく一時的にではあるが、とりあえず今は停戦による平和がもたらされている。
しかし、一方的に停戦協定を破って攻め込んできたガガリアを完全に信用する訳にはいかない。
隣国との戦が長期戦になることを見越していたアシュランの指揮の下、戦時中もこちらから攻めることはせずになるべく武器や兵力の温存に努めていた。
停戦協定を結んだ現在は、いずれまた起こるであろう長期の戦に耐えうる体勢を構築するために、ひたすら国力の増強に努めている。
集村化や機械化による食料の増産を図り、食料の備蓄を増やすようにした。
ずっとオーランド軍頼みだったのを改めて、中央での兵士の確保に努め、実戦で使えるよう兵士たちに訓練を施すようにした。
そして他国との同盟を進めて、王太子の婚姻が決まった。
アシュランは今も独身のままだった。
既に侯爵位を継ぎ、多くの戦功を挙げて、たくさんの褒賞を手にして、しかもあれほどの美貌で、何故未だに独身なのかと皆が不思議がった。
『生涯、君だけを愛する』
私達の恋は終わったとアシュランは言ったけれど、わたくしには彼がまだわたくしを思っていてくれている証のような気がして嬉しかった。
もはや添い遂げることは叶わなくても、心だけは側にいる、そんな気がしていた。
そんなある日、アシュランが瀕死の重傷を負ったとの報告があった。
国境付近を視察に行った王太子が、誤って隣国に足を踏み入れてしまい捕らわれたのを、アシュランが救出に向かい重傷を負ったのだそうだ。
何故、王太子がそんな所に⁉ 何故、わたくしに黙って⁉
聞けば、取り巻きの若い貴族達と度胸試しのつもりで、停戦中だから危険は無いと安易な気持ちで訪れて、軍事境界線を勘違いして越えてしまい、敵軍に捕らわれたのだそうだ。
馬鹿な子! なんて馬鹿な子なの! なんて愚かな真似を!
陛下にもアシュランにも告げずに、勝手にそんな所に行くなんて!
共に報告を受けた国王陛下が青ざめた顔でわたくしに何かを言っているが、それどころではないわたくしの耳には届かなかった。
……アシュランが、瀕死の重傷?
……アシュランが、死ぬ?
わたくしを残して? アシュランが、いなくなる? そんな!
目の前が真っ暗になったわたくしは、ふらふらと歩き出した。
……ダメよ、いなくなるなんて、そんなこと。
例えもう添い遂げられなくても、恋が実らなくても、生きていてくれればそれで良かったのに。
あなたがいると思えばこそ、ここまで耐えて生きて来られたのに。
わたくしを置いてあなたは一人で行くの?
足元がおぼつかないまま何とかそこに辿り着き、入り口を守る兵士にその重たい扉を開けさせて、わたくしは中へ入った。
……それが、そこにあることは知っていた。
めったに出回らない、死にかけている怪我人ですら治すと言われる効力の強い薬。
それは厳重な警備が施されている王家の宝物殿に置かれていた。
それが王の為の薬だからだ。
……これがあれば、アシュランは助かるかもしれない。
わたくしは箱に収められ棚に置かれていた王の為の薬、キオウを手に取った。
「ナスターシャ」
声に振り向くと、陛下がわたくしの後ろに立っていた。
「……それを、アシュランの為に使う気か?」
わたくしはキオウの入った箱を胸に抱きしめて、陛下を睨む。
「ええ。王太子の為に重傷を負ったのですもの。彼はこの国にとっても必要な人。決して失う訳には参りません。……そうでしょう?」
静かにわたくしを見つめていた陛下は、やがてゆっくりとその口を開いた。
「好きにしなさい。ただし、一つだけ条件がある。アシュランにそれを飲ませたら、彼が助かったら、……あなたはここへ戻ってきて欲しい」
「もとより、わたくしは彼の元へ行くつもりはありません。届けさせるだけです」
わたくしの言葉にほっとしたように陛下が頷いた。
「……そうか、それなら良いんだ」
陛下の許可を得たわたくしは、そのキオウを急ぎアシュランの元へ届けさせた。
大切なキオウを委ねる相手は既に決めていた。
以前からアシュランの元へ送り込んでいた密偵から、礼儀作法を身につけるためにオーランド邸に来ている地方貴族の娘が、そのまま何年も親元に帰らずに居座り続けているいう報告を受けていた。
わたくしは、アシュランを慕っているらしいリディアと言うその地方貴族の娘を使うことに決めた。
密偵に命じて、そのリディアにキオウを届けさせた。
……媚薬を使うことを条件に。
キオウで命が助かっても、傷が癒えればアシュランはきっとまた戦地へ行くだろう。
そしてその度に、わたくしは彼を失うかもしれないという恐怖に怯えることになる。
わたくしはアシュランを失くして、独り残されるのが怖い。
……それなら、あの日アシュランに願ったように、彼の子が欲しい。
独り残されるくらいなら、アシュランの子が欲しい。
通常であれば、アシュランを欺くのは難しい。
けれど、キオウで何とか命を取り留めた後なら、まだ体が完全に回復していない時なら、あるいは。
……今しかない。
わたくしは媚薬を使うことを条件に、リディアにキオウを届けさせた。
…………リディアという地方貴族の娘は、媚薬を使うだろうか。
アシュランを慕って、何年も家に帰らずにオーランド邸に居座り続けていると聞く。
きっともうアシュランの目が自分に向くことは無いのは分かっているはず。
アシュランに見向きもされず、今更家にも帰れず、そんな娘がこの機会を逃すとは思えない。
まさかキオウだけ飲ませて、媚薬を使わないなんて、そんなことはない、はず。
祈るような気持ちで、わたくしは密偵からの報告を待っていた。
媚薬をリディアに届けさせたのはわたくし。
そうすると決めたのもわたくし。
それでも、アシュラン、あなたがわたくし以外の女性に触れると思うと心が張り裂けそう。
あなたの側にいるのは、わたくしだったのに。
あなたの妻になるのは、わたくしだったのに。
アシュラン、あなたが意識を取り戻したら、わたくしのことをどんなに怒るだろう。
優しかったあなたを、どれほど怒らせるか、思い浮かべただけでもつらい。
それでも、わたくしは独り残されることが怖い。
恨まれても、罵られても、あなたの子が欲しい。
しばらく経って、王都中の若い娘が嘆き悲しむ事件が起きた。
国中の女が一度は恋をすると言われた美貌のオーランド侯爵が結婚したのだ。
それも、聞いたことの無い地方貴族の娘と。
オーランド候ならどんな高位貴族の令嬢でも望めたはずなのに、何故、そんな田舎の弱小貴族の娘を妻にしたのか、皆が不思議がった。
「……重傷を負った彼の看病を続けた娘らしい。アシュランも、その健気さにほだされたのだろうね。……ナスターシャ。あなたには、その、残念なことだろうが」
どこかほっとしたように陛下がわたくしに語り掛けてきた。
「いいえ、陛下。わたくしは心から喜んでおります」
もうすぐアシュランの血を引く子が産まれるのだ。
大切な大切な、アシュランの子。
これでもう独り寂しく残されることもない。
そう思うと、自然と笑みが零れていた。
「……そうか、それなら良い。ああ、それと王太子を軍事境界線まで連れ出した貴族の子弟達は、今日全員処刑されたよ。王太子も厳しく叱責しておいたから」
度胸試しで王太子を軍事境界線まで連れ出し、その結果アシュランに重傷を負わせた愚かな貴族は外患誘致罪に問い、全員処刑した。
これまでアシュランが命懸けで国を守り、停戦でやっと平和になったというのに、再び戦を招くような真似は許さない。
アシュランに害を為すものは許さない。