149. 再会
馬が駆ける度にその衝撃が伝わり、背中が裂けるように痛んだ。
それでも、わたくしは馬を止めなかった。
……少しでも早く会いたかった、アシュランに。
ただひたすら彼に会いたかった。
背中が裂けてもいい。
着いた途端にわたくしの命が絶えてしまってもいい。
それでも、彼に会いたかった。
アシュランがそこにいるかどうかは、賭けだった。
もしかしたら彼はまだ前線にいて、そこには居ないのかもしれない。
それでもいい。
少しでも彼の近くに行きたかった。
わたくしがそこに着いたのは、夜更け前だった。
ひたすら馬を走らせて、背中の痛みと疲労でふらふらになって何度も倒れながら、それでもわたくしが目指したのは、オーランド領とマカロフ領の境にある林檎の木だった。
わたくしとアシュランが初めて出会った場所。
アシュランがわたくしにプロポーズしてくれたのも、そして、アシュランと無理やり引き離されたのも、そこだった。
……一目でいい。アシュランに会いたい。
……会えなくてもいい。
息絶えるなら、せめてあの林檎の木の下でアシュランを思いながら死にたい。
鞭で打たれた背中が焼けるように痛む。
よろけながら、倒れながら、地面に手をつき這うように歩きながら、何とか林檎の木に辿り着いて顔を上げると、そこにはアシュランがいた。
まるで幻でも見ているかのように、呆気に取られた顔で、アシュランはわたくしを見ていた。
懐かしい蜂蜜色の髪は月の光を浴びて、柔らかく輝いていた。
あの澄んだ綺麗な青い瞳は見開かれて、真っ直ぐにわたくしを見ていた。
元から背が高かったけれど、さらに高くなった。
すっと前線で戦っていたからか、柔和だった顔立ちは、とても凛々しく精悍になっていた。
「……ナスターシャ? ……どうして、ここに?」
懐かしい声。
いつもいつも頭の中でこだまして、耳から離れなかった声。
わたくしは堪らずに、背中の痛みも疲れも忘れて、アシュランに抱きついた。
「アシュラン! アシュラン! アシュラン!」
まるで熱に浮かされるように、何度も何度も彼の名を呼んだ。
涙が堰を切ったように溢れてくる。
わたくしは子供のように、アシュランに抱きつきながら泣き続けた。
アシュランはとても驚いていたけれど、何も聞かずに、わたくしが泣き止むまで優しく髪を撫で続けていてくれた。
やがて高ぶっていた気持ちが収まり、わたくしの涙が落ち着くと、アシュランは胸のポケットからハンカチを取り出して涙を拭ってくれた。
「ごめんなさい」
「どうして君が謝るの?」
「……だって、こんなぐちゃぐちゃの顔で……」
「私が君の泣き顔を好きなこと、忘れたの?」
「……わたくしの泣き顔が可愛いって」
「とってもね」
変わらない優しい言葉に涙がほろほろと零れてくる。
城でずっと罵られ虐げられていたわたくしは、アシュランの優しさに飢えていた。
そんなに優しい目で見つめられると、また涙が止まらなくなる。
次から次に溢れてくるわたくしの涙をハンカチで拭いながら、アシュランが不思議そうにわたくしに尋ねた。
「……ナスターシャ、君のこの髪はどうしたの?」
わたくしは完全に忘れてしまっていた。
自分の髪が王妃様に鋏で切られて短いままだということを。
アシュランと会うときは、いつも長い髪を丁寧に巻いてリボンで結んでいた。
それが、今のわたくしの髪は肩までしかなかった。
わたくしは王妃様に髪を切られた時のことを思い出して、屈辱と恐怖で震えながら、アシュランを見上げた。
「……切られた、の。……王妃様に」
「何て酷いことを!」
アシュランは息を呑み、そして眉根を寄せてその美しい顔をしかめたかと思うと、わたくしを強く抱きしめた。
「ナスターシャ! ナスターシャ!」
何度もわたくしの名を呼びながら、アシュランは強くその腕の中にわたくしを抱いた。
あの頃よりもずっと逞しくなったアシュランの胸に抱かれて、わたくしは幸せだった。
それは夢のようで、もうこのまま死んでもいいと思った。
けれど。
「……痛いっ!」
鞭で打たれた背中がズキズキと痛んだ。
アシュランの男らしく逞しい腕に力強く抱きしめられて、背中が激しく痛む。
「……ナスターシャ?」
わたくしの叫び声に驚いたアシュランは腕を緩めて、わたくしの顔を覗き込む。
苦痛に顔を歪め、背中に手を当てて崩れるわたくしを、アシュランが受け止めて支えてくれた。
「ナスターシャ! 背中をどうした?」
「……王妃様に、……鞭で、打たれて……」
「……何と、惨いことを!」
顔を歪めてギリッと歯噛みをしたアシュランは、腰帯に付けていた小さな筒状の容器を取り、わたくしに差し出した。
「ナスターシャ、これを飲みなさい。回復薬だ。痛みが和らぐはずだ」
アシュランに支えられて回復薬を飲んだわたくしは、そのまま彼の胸にもたれた。
彼に触れていたかった。
少しでも離れたら、また引き離されてしまいそうで怖かった。
これが夢ではないのだと、彼の温もりを感じていたかった。
アシュランは背中には触れずに、わたくしの両肩に優しく手を置き、顔を傾けて頬をわたくしの頭にくっつけていた。
回復薬が効いてきたのか、やがて焼けるようだった背中の痛みが和らいできた。
アシュランの胸に埋めていた顔を上げて彼を見ると、そこには以前と変わらない包み込むような温かい微笑みがあった。
堪らずにわたくしはアシュランの首に両手を回して、彼にしがみついた。
「アシュラン、もう離れたくない。何もかも、もうどうなってもいい。このままずっとあなたと一緒にいたい」
アシュランにしがみついたまま頬を寄せる。
「……お願いよ、わたくしと逃げて。あなたを愛しているの。もう離れたくないの。お願い、アシュラン」
懇願するように何度もアシュランの頬に口づけるわたくしに、彼は何も答えなかった。
「どうして、何も言ってくれないの? もうわたくしのことを愛していないの? わたくしのことが嫌いになったの? わたくしが王太子妃になったから? 他の男に抱かれたから? ねえ、アシュラン、答えて!」
無言のままのアシュランに耐えられず、わたくしは思わず泣き叫んでしまった。
あなただけがわたくしの心の支えだった。
この手を振り払われたら、もう生きていけない。
何も答えてくれないアシュランに、わたくしは抱きついていた手を離し、その場に泣き崩れてしまった。
たった一人、心の支えだったアシュランまでを失い、わたくしにはもう何も残っていなかった。……もう何もない。もうこれ以上、独りで生きていけない。
「ナスターシャ」
アシュランが座り込んだわたくしの手を取って立たせた。
もはや手遅れで、すべてを失ってしまったという絶望に、わたくしは涙を止められなかった。
アシュランに手を貸してもらって立ち上がっても、もう体に力が入らずに顔を上げることすら出来なかった。
「ナスターシャ」
アシュランがわたくしの顔を両手でそっと挟んで、上を向かせた。
泣きじゃくり、涙で目が開けられないわたくしの頬に温かいものが触れる。
アシュランが唇でわたくしの涙を拭っていた。
涙でぐちゃぐちゃになったわたくしの頬に、アシュランの唇が優しく触れる。
それを見て更に溢れる涙も、アシュランは優しく微笑みながらすべて拭ってくれた。
そして泣き疲れて放心状態のわたくしに、アシュランが口を開いた。
「ナスターシャ、私の気持ちは今も変わらない。君を愛している」