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148. 逃亡

 やがてわたくしは王太子様の子を産んだ。男の子だった。


 産みの苦しみよりも、やっと務めを果たした、これでもう辛い日々から解放されるという喜びしかなかった。


 王太孫誕生という報告を受けた王妃様と王太子様が、大喜びで部屋に入って来た。

 子を産んだばかりで疲れ切っていたわたくしは、体を起こすことも出来ずにいた。


「ああ、そのままで良い。王太孫を産んでくれたのだ、ゆっくりと体を休ませよ」


 いつも鞭で容赦なくわたくしを打ってくる王妃様の言葉とは思えなかったが、それでも、王太子妃としての役目を果たして、これからはきっと穏やかな日々を送れるのだろうと、わたくしは安堵していた。


 産湯を終えた赤子が女官の手に抱かれて来た。

 顔をほころばせた王妃様が、生まれたばかりの赤子の顔を覗き込む。

 しばらくして王妃様は顔をしかめて、赤子から目を背けた。


「あの、王妃様?」

「……何と醜い赤子だ。とても、わたくしの血を引いているとは思えぬ。やはり、お前のような醜い女が母では、子もこのように醜くなるのか」


 まるで汚らわしいものでも見るような目つきで、王妃様がわたくしを見下ろす。


「……そうだ、お前はアシュランを知っているか? あれは実に美しい。アシュランが女であったら、お前などではなくアシュランを王太子妃にしたものを。さすれば、どれほど美しい王太孫が生まれただろう。今更ながら惜しくてならぬ」


 わたくしは王妃様の言葉に唇を噛んだ。

 ……わたくしとアシュランを権力で引き裂いて、無理やり王太子妃にして子を産ませておきながら、このうえ更にアシュランが良かったと?

 ……悔しい。

 わたくしを、アシュランを、何だと思っているの。


 怒りに震えるわたくしの様子に気づいたのか、王太子様が王妃様に駆け寄る。


「まあまあ、母上、そんなことは言わずに。……そうだ、子の名前を考えて下さい。母上ならきっと良い名を与えて下さるでしょう?」

「……そうだな。せめて名前くらいは良いものを与えてやらねばな」


 気を取り直したように王妃様が女官たちと赤子の名前について話しながら部屋を出て行った。

 残された王太子様は、女官の手に抱かれた我が子の顔を改めて見ていた。

 優しい言葉でもかけてくれるのかと、わたくしはその様子をぼんやりと眺めていた。


「……赤子と言うのは、その、猿みたいだね。……私には、あまり似ていないような」


 へらへらと笑いながらわたくしに平気でのたまう王太子様に、わたくしは耐えかねて枕を投げつけてしまった。


「出て行って! あなたの顔など見たくもない!」


 もう限界だった。

 これ以上は耐えられない。

 わたくしは、王太子妃としての務めは果たした。

 もう、許して欲しい。

 わたくしを解放して欲しい。

 ここから出して。

 わたくしを逃がして。




 赤子にはすぐに乳母が付けられ、わたくしの手元から奪われた。

 乳をやることも、この手に抱くことも許されなかった。

 ただ世継ぎを産むだけ。嫡子を産むだけ。

 王太子妃としてのわたくしに求められていたのは、ただそれだけだった。


 ……その為だけに、わたくしはアシュランと引き離された。

 そう思うと、虚しくて、情けなくて堪らなかった。


 帰りたい。


 領境の林檎の木の下。 

 いつもアシュランと会っていた、あの場所へ。

 アシュランと共に過ごした、あの時に帰りたい。



 隣国との戦はまだ続いていた。


 同盟を結んでいた王妃様の母国からの援軍は来ず、同盟に胡坐をかいていたこの国にはまともな中央軍がおらず、国境の最前線で戦うオーランド軍に対して寄せ集めの兵しか送れない有様だった。


 「オーランド軍がいなければ、とっくに敵が王都に攻め入って来ていただろう」


 今ではわたくしの耳にさえ、こんな貴族たちの言葉が入るようになっていた。


 圧倒的に不利な状況で、アシュランは自分の隊を率いて陽動作戦を続けているらしい。

量も質も敵わない相手に対して正面から向かって行くのではなく、攪乱して武器を消耗させて兵力を削ぐことに尽力しているのだとか。


 一年経っても攻めきれないことに苛立ちを募らせた隣国は、無理な攻撃を繰り返すようになり、それを待ち構えたオーランド本軍に討ち取られているのだそうだ。


 オーランド軍頼みの国王陛下は、戦功を挙げ続けるアシュランに惜しみなく褒賞を与えていると聞いた。


 そんなアシュランに対して、娘を持つ貴族からの結婚の申し込みが殺到しているのだそうだ。


 名門侯爵家の嫡男で、戦功を挙げ続けて陛下の覚えもめでたい。

 その上、あれだけの美貌ともなれば娘の方も大喜びで、戦が終わったらすぐにでも、いえ戦が終わらなくてもと押しかけているらしい。




「こうなってみると、お前もなかなかに男を見る目があったのかもしれんな」


 他人事のようにお父様が漏らすのを、わたくしは腹立たしく思いながら聞いていた。


 王太孫が生まれてから、お父様は頻繁に外祖父気取りで登城するようになっていた。

 わたくしを王太子妃にして、ゆくゆくは外戚として力を持つというお父様の目論見通りに事が進んでいるのが、嫌で嫌で堪らない。


 あの日、土砂降りの雨の中、アシュランの首に剣を突き付けて、彼とわたくしを引き離したのは誰だったか。

 お父様は自分がしたことを、もう忘れてしまったのか。


「男にしておくには惜しい美形だとは思っていたが、近頃はますます磨きがかかって、儂ですら時折心を奪われることがあるからな」


 国王陛下の覚えのめでたいアシュランとオーランド軍に、兵は出せないものの、今のうちに少しでも恩を売っておきたいと、お父様は領地から食料などの物資を送っているそうだ。

 あわよくば褒章のおこぼれもと思っているらしい。


 抜け目のないお父様らしいと呆れながらも、そんな些細なことでもアシュランの近況が得られるのは嬉しかった。


 アシュラン、あなたはもうわたくしを忘れてしまったかしら。

 あなたはわたくしだけを愛すると誓ってくれた。

 その言葉だけを支えに、わたくしは生きている。


 会いたい。

 もう一度、あなたに。

 あの時のように、わたくしを抱きしめて欲しい。

 あなたの腕の中に戻りたい。



 

 王太孫を産んで一ヶ月ほど経った。

 

 産んですぐに取り上げられて、乳をやることすら許されなかったわたくしには、母になったという実感は無かった。


 ひたすら「務めを果たせ」と虐げられた日々が、やっと終わったという感慨に、わたくしはただ浸っていた。

 

 もう王妃様や女官たちの前で辱められることもない、鞭で打たれることもない。


 それだけのことが、そんな当たり前のことが幸せだった。




「……ナスターシャ」


 夜、寝床の中で王太子様がわたくしの名を呼んだ。


 もう夜も更けたのに何事かと、明日にしてもらえないだろうかと、半ば寝惚けながらわたくしは寝返りをうち王太子様に体を向けた。


 すると、強くわたくしの体を引き寄せたかと思うと、王太子様が耳元で囁いてきた。


「ねえ、いいよね?」


 その瞬間に恐怖で身を固くしたわたくしに気づく様子もなく、王太子様はわたくしの体をまさぐり出した。


「やめて!」

「ナスターシャ?」


 わたくしは両手で強く王太子様の体を押しやった。

 怪訝そうに王太子様がわたくしの顔を見ている。


「……お許しくださいませ。わたくしは自分の務めを果たしました。……これ以上は、もう耐えられません」


 驚いたように王太子様は目を見開いてわたくしを見ていた。


「どうか、お褥下がりをさせてくださいませ。……側妃を迎えてくださって構いません。……どうか、もう、お許しください」

「……ナスターシャ、……そこまで、私を?」


 悔しそうに顔を歪めた王太子様は、そのまま何も言わずに、わたくしに背を向けて横になった。


 それ以上何もしてくる気配のない王太子様にほっとして、わたくしも王太子様に背を向けて、そしてそのまま眠ってしまった。



 翌朝、わたくしは久しぶりに王妃様からの呼び出しを受けた。


 王太孫を産む前は毎日のように呼ばれて罵られていたが、産んだ後はめっきり絶えていた。

 きちんと務めを果せばそんなものだと、わたくしは気が緩んでしまっていたのだ。

 王妃様がどういう方か、わたくしは忘れてしまっていた。


「お前は、王太子に対して無礼を働いたそうだな」


 黒く長い鞭を手に、王妃様は跪いているわたくしを見下ろしていた。

 

 蘇る鞭で何度も打たれた痛みに、わたくしは震えあがった。


「な、何もしておりません。わたくしは、何も。誤解です」

「黙れ!」


 王妃様が高く振り上げた鞭の先が、わたくしを目掛けて飛んでくる。

 逃げようとするも、恐怖で足がもつれて転んでしまったわたくしの背中に、バシィッと大きな音を立てて鞭が当たる。


「きゃあああっ!」


 床に俯せになって倒れているわたくしに、王妃様が容赦なく何度も鞭を振るう。


「きゃああっ! あああっ! ……やめて、……許してっ! ああっ!」


 痛みで動けないわたくしを、それでも王妃様は鞭で打ち続けた。


「お前ごときが、褥下がりだと。無礼な! 王太子に向かって何てことを! 許さぬ! 思い知らせてやる!」


 怒りに任せてわたくしを鞭で打ち続ける王妃様の形相に、身を挺して止められる者は一人もいなかった。


 鞭で打たれ続けて意識が朦朧となったわたくしの耳に最後に聞こえてきたのは、「捨て置け。手を貸したものは同じ目に遭わせる」という王妃様の言葉だった。




 それからどれほど経ったのか、気がついた時には部屋の中はもう薄暗くなっていた。

 

 「同じ目に遭わせる」という王妃様の言葉に震えあがった女官たちは、そのまま命令どおりにわたくしを捨て置いたらしく、わたくしは冷たい床の上に俯せになったままだった。


 ズキズキと背中が焼けるように痛む。


 こんな床の上に長時間捨て置かれた屈辱に唇を噛みながら、わたくしは体を起こした。


 鞭打たれた体よりも、心が痛い。

 わたくしの心はもうズタズタだった。


 何の為に、わたくしはここにいるのだろう。

 いつまで耐えなければならないの。


 ……もう無理。……もう嫌。……もう耐えられない。







 …………逃げよう。




 今なら、王妃様に怯えて誰もここに近づかない。

 今なら、誰もわたくしがこんな体で逃げ出すなんて考えていない。


 今なら、……逃げられる。


 アシュラン、……会いたい!



 わたくしは焼け付くような背中の痛みを堪えて歩き出した。


 こんな痛みなど耐えてみせる。

 負けるものですか。


 カツンカツンと歩くたびに音を立てる靴を脱ぎ棄てて裸足のまま部屋を抜け出し、人目を避けながら厩舎へ行く。


 こんな時間に馬を必要とする者がいないのか、有難いことに誰もいなかった。


 馬房から馬を引き出してきて、その背に乗るや否や、わたくしは一気に馬を駆けさせた。



 アシュラン! あなたに会いたい!

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