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147. それでも涙は尽きずに

 頭ががんがんする。胃がむかむかする。目眩がして、吐き気がする。


 

 アシュランが出陣して以降の戦況は、わたくしには知らされなかった。

 王太子様も、お父様も婆やも、女官たちも、尋ねても誰も教えてくれなかった。

 

 アシュランは無事だろうか。怪我などしていないだろうか。

 彼にもしものことがあれば、わたくしは生きてはいけない。

 どうか無事でいて、アシュラン。



「……わたくしの前でうわの空とはいい度胸だ。何を考えている?」


 呼び出しを受けたわたくしは、王妃様の前で跪いていた。

 

 あの夜、婚儀の後に王妃様や女官たちの面前で無理やり「王太子妃としての務め」を果たさせられたわたくしだったが、それはその後も毎夜続いた。


 どんなに頼んでも王太子様には「そのうち慣れる」と取り合ってもらえず、婆やには「婆やのためにも是非、男の子を」と言われ、お父様は前科のあるわたくしを疑い、逃げ出せないように見張りの侍女を送り込んできた。


 ……何処にも逃げ場がない。逃げられない。


「……何も、考えてはおりません」


 憂鬱な心持で、それでも何とか答えるわたくしに王妃様は畳みかけるように続ける。


「何も考えていない? よくもそんな言葉が口に出来たものだ。ひと月も経つのに、まだ懐妊する気配も無いとは情けないとは思わぬのか」

「……子は、授かりものです。わたくしの意志でどうにかなるものではありません」

「何だと?」


 王妃様は口調を荒らげて、椅子から立ち上がった。


「まだ理解しておらぬようだな。お前のような卑しく醜い女が王太子妃になれたのは、誰のお陰だ? ……それを己の立場も弁えず、務めも果たさぬとは、呆れたものだ。お前のような性悪には体で分からせねばならぬようだ」


 何かがひゅうっと空を切りバシッと床を叩く音に驚いてわたくしが顔を上げると、王妃様が手にした黒く長い鞭をしならせていた。


「……ひっ、な、何をなさるおつもりですか?」


 恐怖で後ずさるわたくしの問いには答えずに、王妃様はわたくしを目掛けてその長い鞭を振るった。

 逃げるわたくしの背中に鞭が当たる。


「きゃああっ!」


 容赦なく鞭で打たれたわたくしは前のめりになって床に倒れた。

 倒れたわたくしを更に、王妃様の鞭が打ちつける。


「あああっ!」


 背中が痛い。焼けるように痛む。


 ……誰か助けて。……助けて、アシュラン。

 ……わたくしを、連れて逃げて。ここから連れ出して。

 アシュラン。





「……やっと気がつかれました?」


 わたくしは寝台に俯せになっていた。

 背後から聞こえる婆やの声にぼんやりしていると、背中に激痛が走った。


「痛いっ!」

「当たり前ですよ、お薬を塗っているんですから。これだけ酷けりゃ、そりゃあ沁みるでしょうよ」


 ……お薬?

 ……そうだった、わたくしは王妃様に鞭で打たれたのだわ。

 いつの間にか気を失って、そのまま部屋に運ばれたらしかった。


「ナスターシャ様、婆やの話をちゃんと聞いてますか? 王妃様は恐ろしい方ですから、決して逆らってはいけませんよ。これ以上怒らせたら、どんな目に遭わされるか、考えただけでも恐ろしい」

「……分かっているけど、王妃様は最初からわたくしがお嫌いなのだから仕方ないわ」


 わたくしのことを卑しく、醜い女と何度も罵る王妃様。

 王太子様に頼まれて仕方なく王命を出したと仰った。

 その肝心の王太子様も、王妃様には逆らえずに言いなりで、わたくしの味方になってはくださらない。


 王太子妃になんて、なりたくなかった。

 アシュランと無理やり引き離されて、力づくで嫁がされて、こんな目に遭わされるなんて思わなかった。

 鞭で打つ程わたくしのことが嫌いなら、王命など出さずに放っておいて欲しかった。

 ……悔しい。


 ふいに涙がぽろりと零れた。

 それを見つけた婆やが心配そうにわたくしの顔を覗き込んでくる。


「ナスターシャ様、傷が痛むでしょうが、しばらくは我慢してくださいね」

「大丈夫よ、婆や。しばらくは王妃様も務めを果たせとは言わないだろうし、安静にしていればすぐ治るわよ」


 鞭で打たれた背中はヒリヒリと痛むけれど、このお陰でしばらくは夜の務めから逃げられると思うと嬉しかった。

 あの苦痛から逃げられるのなら、こんな痛みくらい耐えられるわ。




 そんなわたくしの淡い期待を打ち砕くように、その夜も王妃様が女官たちを連れて寝室に現れた。


 戸惑うわたくしを当然のように女官たちが取り囲む。


「あ、あの、王妃様。わたくし、まだ背中の傷が治っていなくて」

「それがどうした」


 王妃様が威圧するようにわたくしを見下ろす。


「傷が癒えるまでは、その、お務めは、辞退させて頂きたいのです」

「お前が鞭で打たれたのは、お前が至らぬからだろう? それなのに務めが果たせぬとは、どういう了見だ?」


 取りつく島の無い王妃様にうろたえたわたくしが、助けを求めて王太子様に視線を向けると、王太子様は軽く肩を竦めた。


「終わったら薬を塗ってあげるから」

「妻のわたくしが鞭で打たれたのですよ! 何故、助けて下さらないのですか?」

「私が母上に逆らえないのは知っているだろう?」


 ……この人たちは、頭がおかしい。皆、おかしいわよ。


 こんな所にいたら、わたくしまでおかしくなりそう!




 それは、わたくしが懐妊するまで続いた。


 やっと懐妊した頃には、わたくしは既におかしくなりかけていた。

 夜毎繰り返される王妃様や女官たちの面前での苦痛でしかない務めに、王妃様からの罵りの言葉。そして、気に入らないとすぐに振るわれる鞭。


 城の中には、味方なんて一人もいない。

 誰もわたくしを助けてくれない。


 わたくしには、自分のお腹の中に新しい命が宿ったことよりも、やっとあの苦痛から解放されるのだという喜びしかなかった。


 ……この子がもしアシュランの子だったら、どんなにか嬉しかったでしょうに。


 今更考えても仕方のないことを、それでも考えてしまう。


 隣国との戦争はまだ続いていた。

 一進一退で状況は拮抗しているらしく、それまで固く口を閉ざしていたお父様が、わたくしの懐妊で気が緩んだのかアシュランのことをぽろりと漏らした。


 アシュランは最前線で何度も敵の斥候部隊を討ち取り、陽動作戦で敵の兵力を削ることに成功し、幾度も戦功を重ねているらしかった。


 ……そんな危険な所にあなたがいるなんて。


 会いたい。

 何もかも捨てて、あなたの所へ飛んでいきたい。





「お前の役目は、王太孫となる男の子を産むことだ。女は要らぬ、分かっておろうな」


 いつものように呼び出されて跪くわたくしに、王妃様が無茶を言ってくる。

 

「……それは、生まれてみなければ分かりません」


 ……産み分けなど、出来るわけがない。

 人を無理やり懐妊させておいて、女は要らないなど、良くも言えたものだ。

 子供を、わたくしを何だと思っているのか。


 ……あなたが王命など出させなければ、わたくしはこんな所にはいなかったのに。

 きっと今頃はアシュランの妻になり、彼の子供を身籠っていたはずなのに。

 わたくしの人生を滅茶苦茶にしておいて、何を偉そうにしているのか。


 我慢に我慢を重ねて必死に耐えてきたことが、少しずつわたくしを蝕んできていたのかもしれない。

 やっと懐妊して、地獄のような日々から解放されると、勘違いしてしまったのかもしれない。


 お腹に王太子の子を宿したわたくしに、まさか再び鞭を振るうようなことは無いと高を括っていた。


「……鋏を持て」


 ……え?


 椅子に座っていた王妃様はゆっくりと立ち上がり、跪いているわたくしの元へ来ると、女官が手渡した大きな鋏をわたくしの頬に当てた。

 ひやりとした鋏の冷たさが頬に伝わる。


「ひっ、な、何を、なさる、おつもりですか?」

「身分の卑しい女と言うのは、すぐに付け上げる。何度でも体に分からせねばならぬようだ」


 そう言うと王妃様はわたくしの髪を鷲掴みにして、鋏でざくざくと切り始めた。


「嫌あっ、やめて! 許して! やめてえ! お願いっ!」


 わたくしの髪が王妃様の手で切られて、無残にも床に散らばり落ちる。

 それを足で踏みつけた王妃様は、吐き捨てるようにわたくしに言った。


「懐妊したら鞭で打たれないとでも思ったのか。愚かな」


 ……わたくしの髪。

 アシュランが綺麗だと言ってくれた、リボンが似合うと言ってくれた、わたくしの髪。


 床に切り捨てられた自分の髪を拾い集めて、わたくしは一人で泣いた。

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