145. 夢なら醒めて
アシュランと引き離されて、屋敷に無理やり連れ戻されたわたくしは、そのまま部屋に閉じ込められてしまった。
バルコニーに出る窓には厳重に鎖をかけられ、その下には見張りを置かれた。
廊下に出る部屋のドアは外側から鍵と鎖をかけられて、もう勝手には出られない。
部屋の中には婆やと二人の侍女がいて、絶対にわたくしから目を離さないようにとお父様から厳命されていた。
「逃げようなんて、これぽっちも考えないで下さいましね。ナスターシャお嬢様」
婆やが寝台に俯せになっているわたくしに声をかけてくる。
怒られてばかりだけれど、わたくしのことを思ってくれる優しい婆やだと思っていた婆やの、アシュランに対する無礼な態度に衝撃を受けたわたくしは、以前のようには婆やに接することが出来なかった。
「……わたくしに構わないで。もう放っておいて。婆やの顔なんて見たくもないわ」
「まああ、ここまでお嬢様をお育てした婆やに、何て言い草でしょう! いくら侯爵家の子息とはいえ、まだ無位の子供との駆け落ちなんて、馬鹿馬鹿しいったら。お止めした婆やに感謝の言葉くらい下さってもいいんじゃありません? いい加減に目を覚ましてくださいまし」
……婆やがこんなことを考えていたなんて、こんな人だったなんて、ちっとも気づかなかった。
お父様も弟のオレグもそう。
確かに気が合わなくて、いつも喧嘩ばかりしていたけれど、まさかお父様がわたくしを自分の出世のための駒としか見ていなくて、オレグまでわたくしを利用しようと考えていたなんて思いもしなかった。
……それに、……アシュラン、あなたを傷つけてしまった。
あなたはいつもわたくしを優しく包んでくれていたのに、お父様と婆やがあんな酷い言葉をあなたに投げつけて傷つけてしまった。
あなたに謝りたい。
アシュラン、あなたは今、何をしているの?
何を考えているの?
あの不思議な光景は何だったの?
わたくしは夢を見ていたの?
……アシュラン、どうか、わたくしのことを諦めないで。
あなたは、生涯わたくしだけを愛すると誓ってくれた。
どうか、お願い。
わたくしの手を放さないで。わたくしを見捨てないで。
わたくしをここから連れ出して、攫って逃げて。
アシュラン。
本来ならば一年という期間が設けられるはずの婚約が、王太子様の強い希望で二カ月に短縮されると知らされたのは、それからしばらく経ってからだった。
「よほどお嬢様がお好きなんですね、王太子様は。こんなにもご成婚を急がれるなんて、聞いたことありませんよ」
部屋の中で忙しなく動き回りながら、婆やがぶつぶつと零す。
たった二ヶ月ですべての準備を終わらせなければならないと悲鳴を上げているのだ。
仕立て屋を屋敷に呼んで、ドレスとヴェールを大急ぎで誂えて、それに合わせたネックレスやイヤリングも期限に間に合わせなければならなかった。
マカロフ伯爵家の威信にかけても豪華な花嫁支度で送り出してみせると、お父様の鼻息は荒い。
……どうでもいいわ、そんなこと。
わたくしは、きっとアシュランが迎えに来てくれると信じていた。
彼はわたくしを愛していると言ってくれた、わたくしだけだと。
アシュランがわたくしの手を放すはずがないわ。
きっと彼はわたくしを攫いに来てくれる。
その時を、ひたすらに信じて待ち続けていた。
アシュランがわたくしを攫いに来たら、お父様が用意するどんな豪華なドレスも調度品も、すべて無駄に終わるのよ。
その時のお父様の顔を思い浮かべると、ほんの少しだけ胸のすく思いがした。
……アシュラン、いま何処にいるの? 何をしているの?
あなたに会いたい。
やがて、王太子様との結婚の儀が行われる日になった。
儀式は城の中の教会で行われる。
婆やの手によって純白のウェディングドレスに着替えさせられたわたくしは、お父様に腕を無理やり掴まれて、まるで引き摺られるように教会に連れて行かれた。
睨みつけるわたくしを横目で見ながらお父様が呟く。
「ここまで来て逃がさんぞ」
無遠慮にお父様に掴まれた腕が痛い。
……諦めないわ、きっとアシュランは来る。王太子妃になんかなるものですか。
教会の中にはすでに大勢の貴族が参列していて、その剝き出しの好奇の目の中をお父様に手を引かれて歩く。
極彩色の宗教画で彩られた教会の中央奥には金色の祭壇があり、その手前に司祭様と王太子様が立っていた。
最後にわたくしに無言の圧を加えたお父様が、薄気味悪い笑顔を王太子様に向けてわたくしの手を王太子様に渡す。
こんなこと嫌で嫌で仕方ないけれど、アシュランが迎えに来てくれるまでは我慢だと必死に自分に言い聞かせて、わたくしは王太子様と共に祭壇に向かって一礼し位置に着いた。
司祭様の挨拶の後、わたくしの意志を無視して儀式はどんどん進んでいく。
……アシュラン、まだなの? 早く来て! 儀式が終わってしまう!
わたくしは泣きそうな思いで、ただひたすらアシュランを待っていた。
その時、背後から誰かが音を立てて駆けてくるのが聞こえた。
……アシュランだわ! アシュランが来てくれた!
喜び勇んで振り向いたわたくしの目に入って来たのは、一人の兵士だった。
「報告いたします! 隣国ガガリアが攻め入って来たと国境より伝令が参りました!」
「何っ⁉」
参列していた国王陛下が声を上げ、貴族たちがざわめきだした。
「ガガリアが停戦協定を一方的に破って攻めてきたというのか」
「これはもう結婚の儀どころでは無い、マカロフ伯爵も気の毒に」
「国の慶事を狙って攻めてくるとは、あくどい真似をする」
……もしかして儀式が中断されるの? 結婚しなくて済むの?
隣国が攻めてきたという兵士の言葉に驚きつつも、もしかしたら儀式が中断されるかもしれないという期待に、わたくしは不謹慎にも頬が緩んでしまった。
そんなわたくしの淡い期待を、鋭い声が打ち砕く。
「静まりなさい! 結婚の儀の最中ですよ!」
……王妃様だった。
険しい顔で辺りを見渡した王妃様は、声を張り上げて更に続けた。
「何の為にわたくしの母国セルヴィナと同盟を結んでいると思っているのです。直ちに兄に援軍を頼み、ガガリアなど挟み撃ちにしてくれるわ。……世継ぎである王太子の結婚の儀をこのようなことで中断したとあっては、王家の威信にも関わる。儀式を続けなさい!」
王妃様の声に、ざわついていた貴族たちが一斉に静まり返った。
大国セルヴィナの第一王女である王妃様は非常に気性の激しい方だと聞いていたけれど、国王陛下でさえ、その迫力に圧倒されて言葉を飲み込んでいた。
司祭様が声を上ずらせながら儀式を続けようとすると、またもや兵士が駆けてきた。
「報告いたします! オーランド軍が出陣いたしました! オーランド侯爵御子息アシュラン卿が、最前線にて一個中隊を率いて迎え撃っております!」
……何ですって⁉ アシュラン! どうしてアシュランが⁉
「……嘘よ、そんな、アシュラン」
急に目の前が真っ暗になり、足がもつれて体に力が入らないわたくしを王太子様が支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
……アシュラン、どうして。
きっと迎えに来てくれると思ってた。
戦なんて、最前線なんて、どうして。
どうして、あなたがそんな危険な所に行かなきゃならないの。
体が震えて立っていられない。
目が涙で霞んで、頭がぼうっとする。
気分が悪い。
吐き気がする。
誰か、助けて。
夢なら醒めて。
アシュラン。