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144. 雷鳴

 先程から降り出した雨がぽつりぽつりと髪に、顔に当たる。

 

 わたくしとアシュランは、雨に濡れることも厭わずに唇を重ねていた。

 ……離れたくない。

 このままずっとこうしていたい。


「……ん」


 ふいにアシュランが苦しそうに声を上げた。


 アシュランの首に手を回してしがみついていたわたくしは、その声に異変を感じて、重ねていた唇を離して彼を見た。

 アシュランは眉間に皺を寄せて、額にびっしょりと汗をかいていた。


「……どうしたの? アシュラン?」

 

 苦しそうに呻き声をあげながら、アシュランは抱き上げていたわたくしをそっと降ろし、地面に両膝を付き、そしてそのまま倒れた。


「きゃああっ、アシュラン!」


 地面に横たわり苦しむアシュランに駆け寄ると、彼の体から白い霞のようなものが出てくるのが見えた。


「……何なの、これは……?」


 やがてそれは濃くなり渦のように彼の体を飲み込み、包んだ。

 何が起きているのか分からずに、わたくしが呆気に取られていると、しばらくしてアシュランの体を包んでいた白い霞のようなものが次第にほぐれ、崩れていった。


 そして、霞がすべて消え去った後、そこには意識の無いまま横たわるアシュランがいた。


「アシュラン、しっかりして。大丈夫?」


 わたくしは倒れているアシュランに駆け寄り、声をかけた。

 そして、彼の腕に触れた時に、ふと異変に気づいた。

 ……柔らかい?


 日頃から鍛えているアシュランの腕はとても筋肉質だった。

 それなのに、今わたくしが触れている彼の腕は、ふわふわと柔らかい。

 腕だけではなかった。

 横たわる彼の体はなだらかな曲線を描いていて、短かったはずの髪は腰まである。


「……う、ん……」


 意識が戻ったらしいアシュランが、額に手を当てながらゆっくりと体を起こした。


「アシュラン!」


 わたくしの声に振り向いたのはアシュランではなく、美しい女性だった。


 潤んだ瞳に長い睫毛。薔薇色の頬に濡れた赤い唇。

 国を滅ぼすほどの美女とは、きっとこういう女性のことを言うのだろう。

 その美しさに圧倒されたわたくしは一言も声が出せなかった。


 頭が痛むのか、かすかに顔をしかめたその女性は、やがて驚いたように自分の手や髪や体を見ていた。


 いつしか雨は大粒に変わり、その女性の髪や白い肌を濡らしていく。

 雨に濡れた女性は壮絶な美しさだった。

 その女性の雨露がからむ長い睫毛の下の澄んだ青い瞳は、真っ直ぐにわたくしを捉えていて、ぽってりと赤い唇が震えながらわずかに開いた。


「……ナスターシャ」


 女性に名前を呼ばれて、わたくしは思わず言葉を失くしてしまった。

 ……もしかして、……まさか、アシュランなの?


 わたくし達は互いにあまりの衝撃に言葉が出て来ずに、ただ目を見開いて見合っていた。


 雨が次第に激しくなってきていた。

 何処か遠くで雷が落ちた音がした。

 

「……うっ」


 眉間に皺を寄せて呻き声を上げたアシュランが、ふっと意識を失くして地面に倒れると、彼の体から再びあの不思議な白い霞が現れた。

 

 さっきと同じように彼の全身を包んだその霞は、しばらくするとほぐれて消えて、後には意識の無いアシュランが残された。


 わたくしはアシュランに駆け寄り、その体を起こして自分の膝の上に寝かせた。

 そこにいたのは、今度こそ間違いなくアシュランだった。


「アシュラン、しっかりして。アシュラン、起きて」


 わたくしはアシュランの頬をさすりながら、必死に声をかけ続けた。


 ……さっきのは何だったの? アシュランに何が起きたの?

 わたくしは何を見たの?


 わたくしはもしかして寝惚けているのか、悪い夢を見ているのか。

 あれが夢なのか、それとも現実なのか、わたくしには分からなかった。

 頭の中がぐちゃぐちゃに混乱して、何が何だか分からなかった。


 ただ分かっているのは、自分の膝の上に意識が無いままいるのは間違いなくアシュランで、自分が心から彼を愛していること。

 彼は自分にとって掛けがえの無いたった一人の人だということ。


「アシュラン、起きて。お願いよ」


 わたくしもアシュランも雨でずぶ濡れで、彼の頬に流れ落ちたのが、わたくしの涙なのか、それとも雨なのか、もはや分からなかった。


「……ナスターシャ」


 わたくしの膝の上でうっすらと目を開けたアシュランは、しばらく混乱したように目を彷徨わせて、それからゆっくりと体を起こしてわたくしを見た。

 彼のその目は深い絶望に沈んでいた。


 わたくしはアシュランが口を開くよりも先に、彼に抱きついて懇願した。


「お願いよ、アシュラン。このままわたくしと逃げて。わたくしを攫って逃げて」

「……ナスターシャ」


 声を絞り出すようにアシュランがわたくしの名を呼ぶ。


「あなたを愛しているの! あなた以外の人は嫌! あなたじゃなきゃ嫌なの!」

「……ナスターシャ」

「……お願いよ、アシュラン!」


 しがみつくわたくしを、アシュランは抱きしめ返さなかった。

 アシュランは眉根を寄せて固く目を閉じ、ぎゅっと唇を噛んでいた。


 叩きつけるような雨の中、わたくしはいつまでもアシュランにしがみついて泣いていた。





 ふいに誰かがわたくしの腕を強く掴んで、無理やりアシュランから引きはがした。


「……お父様」


 そこには憤怒の表情をしたお父様がいた。


「この、馬鹿者がっ! 勝手に屋敷を抜け出しおって!」


 お父様が手を高く振り上げてわたくしの頬を殴りつけ、わたくしはそのまま地面に倒れてしまった。


「ナスターシャ!」


 アシュランがわたくしを助け起こし、そっと体を支えてくれる。


「何をなさるのです! 無体な仕打ちはおやめください!」

「他人に余計な口出しをされる筋合いはない。泥棒が偉そうな口をきくな」

「やめて、お父様! アシュランに失礼なことを言わないで!」


 優しいアシュランを、わたくしを守ろうとしてくれているアシュランを、お父様が侮辱することに耐えられず、わたくしはお父様に向かって声を上げた。


「娘のくせに、いちいち親に逆らうな! 婆や!」


 お父様がアシュランの腕の中からわたくしを奪い取り、後ろにいた婆やに向かってまるで投げるように押しやる。

 お父様に力づくで投げ出されて、倒れるように婆やの腕に抱かれるわたくしに、婆やが上から呆れたように溜息を吐く。


「まったくもうお嬢様ったら情けないこと。王太子妃と侯爵夫人の格の違いがお分かりにならないとはねえ」


 想像もしなかった婆やの言葉に、わたくしは呆然とした。

 ……何を、言っているの?


「わたくしがお育てしたお嬢様が王太子妃になられるなんて、夢のようですよ。お嬢様はゆくゆくは王妃様に、そして国母様におなりになるんですよ。婆やは誇らしいったらありません。まあ、侯爵夫人も悪くはありませんけどね、王太子妃には敵いませんよ」 


 にやにや笑う婆やの後ろから弟のオレグが出てきて、わたくしの腕に自分の腕を絡めてきた。


「そうだよ、姉さん。姉さんのお陰で僕達がいい目を見られるのはこれからなんだから。勝手なことされちゃ困るんだよね」


 ……婆やもオレグも、何を言っているの?

 ……わたくしを、何だと思っているの?

 お父様やこんな人達のために、王太子と結婚させられるなんて絶対に嫌よ!


「アシュラン、お願い! わたくしと逃げて! 王太子妃なんてなりたくない!」


 わたくしはオレグの腕を振りほどいて、アシュランの元へ駆け寄った。

 躊躇いながらも、それでもアシュランは自分の背中にわたくしを匿ってくれた。

 わたくしを背にお父様と対峙するアシュランに、不敵に笑ったお父様が腰に下げていた剣を抜いた。


 おもむろに鞘から抜いた剣をアシュランの首に当てたお父様は、まるで恫喝するように言葉を吐いた。


「王命で王太子妃になることが決まっている娘を攫えばどうなるか、君なら分かるだろう。侯爵である君の父上といえども連座は免れないだろうねえ。君と父上だけで済めばいいけどね、どうだろうなあ」


 笑うお父様の剣が、アシュランの白い首に強く押し当てられて、一筋の血が流れる。


「やめて、お父様! アシュランを傷つけないで!」


 アシュランとお父様の前に飛び出したわたくしを、婆やが捕まえる。


「いつまでも聞き分けの無いことを言っていないで、大人しくなさいませ! これ以上、手間をかけさせるんじゃありません!」


 わたくしを怒鳴りつけた婆やは、アシュランに向き直ると吐き捨てるように言った。


「お嬢様とあなたとではもう身分が違うのです。今後は弁えて下さいませ。無礼は許しませんからね。……ああ、そう。こんなものお返しします。王太子様に勘違いされては困りますからね」


 婆やはわたくしが首から下げていた虹色貴石の指輪の鎖を引きちぎると、アシュランに向かって投げつけた。


「何をするのっ⁉」

 

 アシュランがわたくしにくれた大切な指輪。わたくしの宝物。


 お父様に首に剣を突き付けられたまま、アシュランは地面に落ちて泥にまみれた虹色貴石の指輪を見ていた。


「お嬢様、王太子様に上手におねだりなさいませ。大切なお嬢様の為なら、王太子様はきっともっと高価な指輪を下さいますよ」

 

 オレグと婆やが二人がかりでわたくしを引きずり、そこから連れ去ろうとする。


「嫌よ! 放して! アシュラン、助けて! アシュラン! お願い!」

「さっさと連れて行け!」


 土砂降りの雨の中、アシュランはお父様に首に剣を突き付けられたまま、ぎゅっと唇を噛んでわたくしを見ていた。

 瞬きをすることなく、あの青い瞳を見開いて、ずっとわたくしを見ていた。


 彼を求めて伸ばしたわたくしの手を取ることも無く。

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