143. あの日に帰りたい
「ナスターシャお嬢様ったら、旦那様に逆らってはいけませんと、いつも婆やが言っているでしょうに」
お父様に叩かれて赤くなったわたくしの頬を冷やしながら、婆やが呆れたように言う。
「……嫌なものは嫌なのよ」
「王太子妃なんて、誰でもなれるものではありませんよ。未来の王妃様じゃありませんか。夢のようなお話ですよ」
「……婆やには分からないわ」
王太子だろうが、国王だろうが、わたくしにとってアシュラン以上の人はいない。
わたくしが好きなのはアシュランだけよ。
妻になりたいと願うのはアシュランだけ。
……こんな所にいたら無理やり王太子妃にさせられる。
逃げよう。
アシュランと一緒に何処か遠くへ。
アシュランと一緒なら何処でもいい。
二人でいられるなら、どんなことでも耐えられる。
痛む頬を冷やしながら、わたくしは心を決めた。
家も家族も、何もかも捨てて、アシュランと共に逃げるのよ。
「疲れたから、ちょっと休むわ」
「そうなさいませ。ゆっくり休んでよく考えたら、どれだけ有難いお話かがお嬢様にも分かるでしょうよ」
婆やはお父様が激怒した際に机の上から叩き落した花瓶や本の片づけを終えると、ぶつぶつと小言を言いながら部屋を出て行った。
婆やが部屋を出た後に、ドアの向こうでガチャガチャと妙な音がした。
わたくしが逃げ出さないように、外側から鍵をかけた上にドアの取っ手に鎖を巻いているらしい。
……実の娘にそこまでするの、あのお父様は。
何が何でもわたくしを王太子妃にする気らしいお父様に対して、改めて沸々と怒りが湧いて来る。
……負けるものですか。こんなことじゃ絶対に諦めないわ。
わたくしは部屋を見渡した。
出口は、見張りのいる廊下に出る部屋のドアとバルコニーに出る窓だけ。
わたくしは音を立てないようにそっと窓を開けてバルコニーに出た。
さすがのお父様もまさか二階から逃げ出すとは思わないらしく、見張りらしき者はいなかった。
バルコニーの横にある木の枝が伸びすぎて伐らなければいけないのを、お父様が放置していたお陰で、いい具合に枝がバルコニーに張り出していた。
いつも登っている領境の林檎の木とは違い、さすがに手すりを越えて二階の高さの枝に移るのは勇気がいる。
それでも、ここしか逃げ道が無いのだと自分に言い聞かせて、アシュランの顔を思い浮かべながらどうにかありったけの勇気を振り絞った。
恐怖で手足が震えながらも、少しずつ枝を移動して幹に近づいて行く。
何とか幹に辿り着いたら、今度は枝の根元に足を乗せて少しずつ降りて行った。
最後には足を乗せる枝が無くなり、自分の背丈ほどの高さから芝生の上に飛び降りた。
じんじんと痛む足に耐えながら、わたくしは誰にも見つからないように、そこから必死で走って逃げた。
アシュランのいるであろう領境の林檎の木まで。
果たして彼はそこにいた。
息を切らして全力で駆けてくるわたくしに驚きながら、アシュランは林檎の木の下に立っていた。
「ナスターシャ! どうしたの、そんなに息を切らして」
「アシュラン! わたくしと逃げて! お願い!」
わたくしはアシュランの腕の中に飛び込んだ。
その勢いに驚きながらも、彼はわたくしを抱きしめて優しく髪を撫でる。
「何があった?」
穏やかにわたくしを見つめるアシュランに、一気に感情が溢れてきてしまったわたくしは泣きながら、堰を切ったように話し始めた。
遠くでゴロゴロと雷の音が聞こえる。
ぽつりぽつりと小雨が降り始めていた。
「お父様がわたくしを王太子妃にって! わたくしは嫌だって言ったのに、王命だって! 部屋に閉じ込められて逃げ出してきたの! 王太子妃になんてなりたくない! アシュラン、お願い! わたくしと一緒に逃げて!」
驚いた様子でわたくしの話を聞いていたアシュランは、おもむろに自分の着ている上着を脱ぐと、そっとそれをわたくしの肩にかけた。
「雨が降り出した。君が濡れるといけない」
優しくわたくしを見ながら微笑むアシュラン。
……でも、わたくしが欲しいのは上着なんかじゃ無いの。
わたくしをここから攫って逃げて欲しいの。
「上着なんていらない! アシュラン、わたくしを愛しているなら、お願い! 一緒に逃げて!」
わたくしはアシュランの首に両手を回して抱きついた。
彼が肩にかけてくれた上着がぱさりと地面に落ちる。
目を見開いてわたくしを見ているアシュランの唇に、わたくしは自分の唇を強く押し当てた。
はしたないことをしているのは自分でも分かっている。
アシュランとの初めての口づけ。
ずっと夢見ていた。憧れていた。
それがこんなことになるなんて、想像もしなかった。
でも、アシュラン以外の人とは考えられない。
そんな、わたくしからの無理やりの口づけをアシュランは拒まなかった。
アシュランの首に抱きつきながら口づけるわたくしを、彼は両手で抱き上げた。
そして、ただ固く尖らせた唇を強く押し当てるだけのわたくしとは違って、まるで小鳥がついばむように何度も優しく唇に触れてきた。
それはとても柔らかくて甘く、夢のような時だった。
彼に愛されていることを実感して、嬉しくて涙が出そうだった。
アシュランの綺麗な青い瞳が真っ直ぐにわたくしを捉える。
「ナスターシャ、愛してる。君だけだ」
わたくしを左手で抱き上げたまま、右手でわたくしの顎を軽く掴んで唇を開かせると、アシュランは少しだけ顔を傾けて、そのまま深く唇を重ねてきた。
アシュランの右手がわたくしの頭の後ろに回されて、もっと強く深く唇が交わる。
堪らずにわたくしは彼の両肩に乗せていた手を、彼の首の後ろに回してしがみついた。
アシュラン、わたくしを離さないで。