138. 遠い昔、恋の始まり ②
その夜は、眠れなかった。
昼間会ったあの美しい少年のことが頭から離れなかったから。
……あの人、名前は何と言うのかしら。
あそこに行けば、また会えるかしら。
でも、わたくしはすごく感じが悪くて、意地悪な女の子だと思われてしまったかもしれない。
明日こそは、あの人にちゃんと謝りたい。
あの少年にまた会えることを期待して、昨日と同じ時間に領境にある林檎の木に登って、どきどきしながら待っていた。
婆やにお願いして髪を綺麗に巻いてもらったし、お気に入りのリボンも付けた。
誂えたばかりのドレスで、なるべく優雅に上品に見えるように枝に座り、少年を待っていた。
彼の為に選んだ真っ赤な林檎を持って。
「彼に林檎を分けて欲しいって言われたのに、わたくしが木から落ちてしまって、昨日は取ってあげられなかったから。今日こそはちゃんと渡すのよ」
少年が、自分の食べかけの林檎を食べたことを思い出して、わたくしはちょっと恥ずかしくなってしまった。
「……あれ、今日も林檎みたいな顔をしているね」
彼の声だ。……また会えた。
心を弾ませながら声のする方を見ると、あの少年が昨日と同じように領境に立っていた。
「……君って何だか、すごく気合の入った格好で木に登るんだね」
その言葉に、どれだけ自分が再会を心待ちにしていたか見透かされたような気がして、急に恥ずかしくなったわたくしは、手に持っていた林檎を彼の顔面目掛けて全力で投げてしまった。
あっと気づいた時にはもう遅かった。
わたくしの手から離れた林檎は、あの美しい顔目掛けて飛んで行った。
……ああ、もうダメ。もう終わり、もう嫌われてしまった。
わたくしが両手で顔を覆って絶望しかけた時、パシッという音が聞こえた。
彼が顔面を目掛けて飛んできた林檎を片手で受け止めていた。
「ありがとう」
笑顔でそう言うと、彼はガリッと林檎を齧った。
……不思議な人。
この人は昨日、わたくしのことを変わっていると言ったけれど、あなたの方が変わっていると思うわ。
普通の人なら、昨日もそうだけれど、こんなことをされたらきっと怒るはずよ。
「ねえ、君はいつまでそこに居るつもりなの?」
林檎を食べ終わった彼が、木の上にいるわたくしに声をかけてくる。
「あ、あなたがそこに居るから、降りられないのよ!」
「……そうなの? 早く降りておいでよ」
素直になりきれずに、食って掛かってばかりいるわたくしに、彼が優しく微笑む。
……ああ、なんて素敵な微笑みなの。目眩がしそう。
その美しい微笑みに魅せられてしまったわたくしは、ついふらふらと木の枝から彼に向かって飛び降りてしまい、はっと気が付いた時には体はもう宙を舞っていた。
「きゃあああっ」
悲鳴を上げるわたくしを両手で受け止めた彼は、目を見開いて驚いたように零した。
「……まさか飛び降りるとは思わなかった。君って、大胆だね」
「あ、あなたがいけないのよ。あなたがわたくしを誘うから。あなたのせいでわたくしは変になってしまうのよ。あなたが悪いのよ」
高い所から飛び降りた恐怖と、またやってしまった、もうダメだという思いで、わたくしは彼の腕の中でまた泣き出してしまった。
「何を言っているのか、よく分からないけど、私のせいなら謝るよ」
わたくしがこんなに泣いているのに、彼がにこにこと笑っていることが癪に触って、わたくしはまた余計なことを言ってしまう。
「謝るのか、笑うのか、どっちかにしてちょうだい!」
「ああ、ごめん。だって、君の泣き顔って可愛いから」
そんな美しい顔のあなたに、こんな涙でぐちゃくちゃの顔を可愛いなんて言われても嬉しくないわ。
「勝手に、人の泣き顔を見ないでちょうだい!」
ばっちーんっと彼の顔を平手打ちして、わたくしはそこから逃げた。
……またやってしまった。
もうダメだわ。さすがに三度も叩いてしまったら、もうダメよね。
……とても美しくて、優しくて、絵本の中の王子様のように素敵な人だった。
でも、もう嫌われてしまったわ。
きっと、もう会えない。
わたくしの馬鹿。