136. 誘惑
「レオンが欲しい」
王太后の言葉に、私は呆然としたまま声を出せずにいた。
グランブルグ家があれほど隠していたレオンの存在を知っていて、さらに「欲しい」とはどういうつもりなのだろう。
王太后は何が狙いなのだ? 何を考えているのだ?
「……レオンを、どうするおつもりですか?」
警戒しながら王太后を見る私を、ユーリが跪けと言わんばかりに睨みつけていた。
その視線に気づいた私は、慌ててリリアナ様を抱えたまま膝を床に付けた。
「ラリサと妻合わせる」
……エリオット王子ではなく、ラリサ王女と。
感情の無い冷たい目で私を見下ろしながら、王太后が言葉を続けた。
「……あの時、アンリエッタに襲われて川に流された後にレオンが現れたとユーリから聞き、妾がラリサをあの町にやった。ラリサを狂言で刺客に襲わせたのも妾だ。……すべては、ラリサをレオンと出会わせる為」
……ああ、そうだ。確かに、あれは妙な刺客だった。
私とレオンが現れるのを待ち受けていたような素振りで、奇妙に感じたのを覚えている。
あれは、王太后の仕組んだ狂言だったのか。
ラリサ王女とレオンを出会わせる為の。いつか妻合わせる為の。
「クロードと言ったか。お前がレオンと恋仲なのは知っている。お前との口づけでレオンがリリアナに変化することもな。……だから、お前をここへ呼んだのだ」
「……どういう意味でしょうか?」
ユーリにすべてを見られ、王太后にすべてを報告されている気恥ずかしさを感じながら、私は王太后を見上げた。
「お前、レオンの為に死ぬ気はないか?」
皺だらけの指で王太后が、跪く私の顎を掴んで持ち上げた。
「お前が死ねば、レオンを貴族にしてやろう」
「……どういうことですか?」
私は王太后の真意を測りかねていた。
ラリサ王女と妻合わせるには恋仲の私が邪魔だとでも考えているのだろうか。
そんな私を王太后が鼻で笑う。
「お前、気づいていないのか? お前が死ねば、レオンは一生レオンのままでいられるのに」
「…………え?」
「お前がいるから、レオンはその体を保てずにリリアナに変化するのだ。お前は、レオンにとって邪魔なのだ」
……私が、レオンにとって邪魔?
「だから、お前は死ね」
……私が、いなければ、レオンは、ずっとレオンのまま?
これまで一度も考えが及ばなかったそのことに、私は激しく動揺していた。
だが、言われてみればそうだ。
私以外の人間が口づけても、レオンは変化しなかった。
レオンを変化させられるのは私だけ。
ならば、私がいなくなれば、レオンは二度と変化することも無く、レオンのままでいられる。一生、レオンのままでいられる。
……私が死ねば。
腰を屈めていた王太后はゆっくりと体を起こし、気怠そうに私に背を向けた。
「お前がいなければ、レオンはリリアナに変化することも無い。そして、リリアナの代わりに生きられる、貴族としてな」
「……レオンが、貴族として生きられる? ……ですが、今更どうやって?」
グランブルグ家の御子はリリアナ様だと周知されていて、だからこそ旦那様はレオンの存在を隠していたのだ。
今更、実は男の子でしたなどと言えるはずもない。
今更、グランブルグ家の御子だと名乗れない。
「グランブルグ伯の息子としては難しいかもしれぬが、アシュランの血筋としてオーランド侯爵家を継ぐことは出来る。あれほどアシュランに生き写しなのだ。その血を疑う者はおるまい。アシュランの血筋であれば、ゆくゆくはグランブルグ家をも継ぐことが出来よう」
私に背を向けている王太后の声が、心なしか弾んでいるように聞こえた。
だが、そんなことよりも私の頭の中は、今しがた王太后が言った言葉でいっぱいだった。
……レオンが、貴族として生きられる?
……レオンが、オーランド侯爵になれる?
「ただし、お前が自ら死ねば、だ」
ゆっくり振り向いた王太后の目が私を射すくめる。
「……私が、自ら?」
「妾が手を下して、レオンに恨まれでもしたら堪らんからな」
私は自分の腕の中にいるリリアナ様を見た。
……私がいなくなれば、レオンはレオンとして一生を送ることが出来る。
オーランド侯爵として、貴族として生きることが出来る。
私のせいで、レオンはすべてを失くしてしまった。
私がレオンからすべてを奪ってしまった。
十年前の自分の行いをどれほど悔いたことか。
どれだけ悔やんでも、自分を責めても、取り返しのつかないことを私はしてしまった。
……だが、すべて返せる。
十年前に私がレオンから奪ってしまったものを、すべてレオンに返せる。
……ああ、こんな奇跡があるなんて!
……レオン! ……良かった!
この命で、すべて償える。……奇跡だ!
「王太后様。そのこと、アシュラン様に誓って頂けますか?」
私は目の前に立つ王太后を見た。
私が死んだ後に前言撤回されては堪らない。
王太后は、ずっと繰り返しアシュラン様の名を口にしている。
アシュラン様に誓ってもらえば信じられる。
忌々しそうに舌打ちしながら王太后は私を見下ろす。
「……疑り深い男だな。……分かった、アシュランに誓おう」
「もう一つだけ、お願いがあります。どうか、私の死はレオンには伏せて頂けませんか?私達は決して離れないと、先に逝かないと誓い合ったのです」
「分かったから、さっさと死ね」
……ああ、レオン! 良かった!
私の腕の中で眠り続けるリリアナ様の目尻をつーっと涙が流れる。
……泣かないで、レオン。
私は幸せなのだから。
ずっと悔やんでいた。自分の過ちを。
だが、すべてあなたに返せる。この私の命一つで。
こんなに嬉しいことは無い。
……リリアナ様、勝手な私をどうか許してください。
レオン、どうか、幸せに。
あなたを愛している。
私はリリアナ様の体をそっと床に寝かせて、自分の腰につけていた剣を引き抜いた。
そして、目を閉じて剣を頸に強く押し当てた。
「……クロード! 嫌だ! やめてぇ!」
……レオン?
レオンの声が聞こえたような気がしたその瞬間、強い光が現れた。
目も開けられないような眩しい強烈な光が辺りを照らす。
私は突然のその強い光に視界を奪われて、意識が遠くなりかけてしまった。
どれくらい経ったのか、やがて光は和らぎ、何とか目が開けられるようになった。
頭がぼんやりとしたまま見ると、淡い光の中に一人の若い男が立っていた。
それは、柔らかな蜂蜜色の髪をした目の覚めるほどの美しい男だった。
……レオン?
いや、違う。
レオンよりはだいぶ年が上だ。二十五くらいか?
背も高い。私とさほど変わらないくらいだ。
堂々としていて、その眼差しは凛々しく、息をするのも忘れるほど美しい。
……誰だ、この男は?
「……アシュラン」
王太后が目を見開き口に手を当てて、驚愕の表情で呟いた。
……アシュラン? レオンの祖父君のアシュラン様? この方が?
「……ナスターシャ」
アシュラン様が王太后を見ながら呟いた。
……ナスターシャ? ……何処かで聞いた名だ。確か、何処かで。
ずっと昔に何処かで聞いた覚えのあるその名前に、私は首を傾げた。
……そうだ! 虹色貴石の指輪の台座に彫られた名前だ。
リリアナ様が誤って虹色貴石を落としてしまった時に、台座に名前が彫られていることに気づいて、お祖父様の秘密の恋人とか言っていた、その名前がナスターシャだった。
私は、震えながら光の中のアシュラン様を見つめている王太后を見た。
では、この王太后がナスターシャなのか?
アシュラン様の恋人の?