131. 役目の終わり
「自分を攫って逃げて欲しい」
これがもしレオンの言葉なら、どれほど嬉しかっただろう。
強く抱きしめて、どこまででも攫って逃げて、絶対にこの腕から放さないのに。
でも今、私の前にいるのはレオンではない。
リリアナ様だ。
私は何と答えたらいいのか考えあぐねていた。
「……それは、命令でしょうか?」
私の言葉に、リリアナ様が自嘲気味に笑った。
「いいえ、違うわ。最後に聞いてみたかっただけ。……答えは、分かっていたけど」
そう言うとリリアナ様は、手をついて寝床から立ち上がった。
「帰りましょう、クロード」
荷物をまとめて、私とリリアナ様は山小屋を後にし、ひたすら山道を歩いた。
ここに来た時に乗っていた馬車は、御者も馬も射られてもうないし、こんな山の中では馬車が掴まるはずもない。
うっそうと木が覆い茂る薄暗い森の中を、麓を目指して下りながら、私はレオンのことを思い出していた。
こんな暗い森の中を、毎日私の為に薬草を取りに来ていたのか。
……大切にしたかったのに、つらい思いばかりさせてしまった。自分が不甲斐ない。
旦那様と奥様の為に身を引いたレオンは、私がどんなに呼びかけても、きっともう現れるつもりはないのだろう。
もっと色んな所に連れて行って、色んな物を見せて、喜ばせてあげたかった。
思い切り好きなことをさせて、甘やかしてあげたかった。
……未練が残る。
「あっ」
小石や木の根だらけで歩きにくく、慣れない山道にリリアナ様が足を取られていた。
咄嗟に私は手を差し出して、リリアナ様を抱きとめる。
「……ありがとう」
「……歩きづらいようなら、私が抱えて行きましょうか?」
私を見上げたリリアナ様は、軽く目を伏せながら首を振った。
「あんまり、わたしを甘やかさないで。これ以上は、かえってつらくなるわ。お城へ行ったら、こんな風にわたしを甘やかす人は誰もいなくなるのよ」
リリアナ様は気丈に前を見て、また歩き出した。
それに続いて私もまた歩き出す。
リリアナ様にお仕えして十年になるが、今にして思えば、あっという間だった。
ただの使用人の子の私が、伯爵家令嬢のリリアナ様の護衛に選ばれたあの日。
嬉しくて、はしゃいでいた毎日。
いつかこの命を捧げることがあっても、必ずお嬢様をお守りするのだと鍛錬に励んだ日々。
余計なことなど何も考えなかった。
ただひたすら強くなって、リリアナ様をお守りすることだけ。
十年間、目の前を歩いているリリアナ様が私のすべてだった。
山を下りて王都へ戻れば、私の役目は終わる。
リリアナ様の護衛としての私の仕事は終わる。
何とも言えない寂しさが、胸の中に広がるのを感じていた。
やがて麓に辿り着き、町並みが見えてきた。
ここまで来れば、やと馬車が捕まえられる。
「リリアナ様、馬車を探してくるので、少しだけここで待っていて頂けますか」
「……もう、くたくたで歩けないわ」
歩き疲れた様子のリリアナ様が、力のない返事を返す。
「だから私が、抱えて行きましょうかと言ったのに」
「強がって断ったことを、本気で後悔しているわ。……甘えるべきだったわね」
立っているのもきつそうな顔でリリアナ様が空笑いをする。
「それならたまには、私にも甘えてみないか?」
何処かから響いてきた声にリリアナ様と顔を見合わせていると、それはエリオット王子だった。
道の脇に停めてあった馬車から優雅に降りてきたエリオット王子は、リリアナ様に手を差し伸べた。
「そろそろ現れる頃だと思っていたよ。屋敷に帰るのなら送ろう」
「……どうして、あなたが、ここに?」
表情を硬くしたリリアナ様は、エリオット王子の手を取ることも無く、一歩二歩と後ずさった。
「簡単なことだよ。あなたとあなたの父上の心情を考えればね」
エリオット王子はにっこりと笑って言葉を続けた。
「あなたの心が私に無いことは知っているし、あの娘を溺愛する伯爵が素直に王命に従うとも思えない。ましてや立て籠もって愛する娘を死なせるなんて有り得ないし、むしろ逃がすだろうとね」
軽く肩を竦めたエリオット王子はさらに続けた。
「財力のあるグランブルグ家なら、危険な国内ではなく国外へ逃がすだろう。国境を越えるには、オーランド領かここを通らなければならないが、真っ先に追手が向かうオーランド領は避けるはず。となれば、残るはここだ」
震え出したリリアナ様の顔を覗き込みながら、エリオット王子は微笑む。
「私の配下をこの辺りに送り調べさせたら、それらしき者が国境を越えた気配はないが、こんなド田舎には有り得ないほど豪華なドレスが売りに出されたというじゃないか。これは恐らくあなたの物だと当たりをつけて待っていたら、あなたが現れた。こういう訳だよ」
……ああ、レオンが私の為に山小屋と交換したあのドレスから足が付いたのか。
そこまでは考えが及ばず、迂闊だった。
「……わたしを、捕らえるのですか?」
震える声でリリアナ様がエリオット王子に尋ねた。
「あなたを? まさか。屋敷まで送ると言っただろう?」
「わたしは王命に逆らって逃げました。……許されるとは思いません。ですが、どうか父と母は見逃して頂きたいのです。罰は、どうかわたしだけに与えて頂けませんか」
リリアナ様は地に膝を付いて、すがるようにエリオット王子を見た。
「……変わったね。ほんの数日前とは別人のようだ」
目を見開いてリリアナ様を見たエリオット王子は、再び手を差し伸べてリリアナ様を立たせた。
「心配しなくていい。父上にお願いして王命は取り消して頂く。グランブルグ家を包囲している兵たちも撤退させよう。あなたやあなたの家族を罪に問うこともしない」
「……え?」
「知っているだろう? 私は美しくないことは嫌いなんだ。他の男を思うあなたを権力で無理やり妻にするなんて、そんなこと、おぞましくて私には出来ないよ」
さも嫌そうに呟いたエリオット王子が、ちらりと私を見た。
……何も気づかなかったのは、私だけか。
道理で、マリアに鈍いだの、無神経だの言われるわけだ。
「あなたのことは私が必ず守るから、何も心配せずに屋敷に帰りなさい。さあ、馬車で送ろう」
「……でも、宜しいのですか? わたし……」
躊躇いがちに見上げるリリアナ様に、エリオット王子が大したことでは無いと笑いかける。
「今はあなたの心の中に私はいないが、先のことは分からないでしょう? 私達はまだ若いのだから」
「それは無いと思います」
空気読んで、リリアナ様。
「あなたのそういう所、結構気に入ってるんだよね」
リリアナ様の素っ気ない返しを嬉しそうに受けるエリオット王子は、やはり変わっていると思う。
だがこのエリオット王子は、思い返してみれば、不思議といつもリリアナ様が困っている時に現れて助けてくれる。
恩着せがましくすることも無く、さりげなく助けて去っていく。
何やら独自の美学があるようだが、根は良い人なのかもしれない。