130. 未練
レオンは消えてしまった。
私を一人残して。
酷い人だと大声で叫んでしまいたい。
あんなに甘い思い出を私に刻み付けて、一人で勝手に決めていなくなるなんて。
今もまだこの手に、この体に、あなたの温もりが残っているのに。
耳元で私の名を囁くあなたの声が、耳から離れない。
一生私を離さないと、側にいろと言ったのは、あなたなのに。
そのあなたが、どうして私の手を放すのか。
どうしてあなた無しで生きていけと、私を突き放すのか。
……どうして、あなたばかりがいつも犠牲にならなければいけないのか。
レオン。
寝床に横たわるレオンの全身を覆っていた白い靄が少しずつ薄れてきた。
もうすぐ変化が終わる。
私は、自分の頬を数回手で叩き、それから桶に入っていた水で顔を洗った。
……こんな顔でリリアナ様に会う訳にはいかない。
レオンがしたことは私の心を切り裂いたけれど、それでも私はレオンを愛していて、その気持ちに変わりはない。
ほんの僅かな時間しか共に過ごしたことの無い両親を見捨てられないという、そんなレオンに私は惹かれたのだ。
そのレオンの願いを、私は叶えてやりたい。
……リリアナ様を連れて、王都のグランブルグ家に戻る。
「……クロード?」
リリアナ様が目覚めた。
ゆっくりと体を起こして、山小屋の中を落ち着かない様子で見回している。
「……ここは、何処なの? わたし、どうしてこんな所にいるの?」
「リリアナ様、……これを着てください」
私は目を閉じながら、自分の上着をリリアナ様に差し出した。
レオンが着ていたような、シャツ一枚という格好ではリリアナ様にはあまりにも薄着過ぎたからだ。
かと言って、リリアナ様が着ていたドレスは、レオンがこの山小屋と交換でウィレムに渡してしまってもう無い。
山を下りたら真っ先に、リリアナ様の着替えを買わなければ。
だがその前に、まずリリアナ様に事情を話さなければならない。
今目覚めたばかりのリリアナ様には、ギリエル男爵に襲われた所までしか記憶が無いはずだ。
いきなり、私が王都に戻ると言っても理解出来ないだろう。
……それに、レオンは旦那様と奥様に必要なのは自分では無いと言って身を引いたが、実際に王命に従ってエリオット王子と結婚しなければならないのはリリアナ様なのだ。
いくらレオンが望んだことでも、それをリリアナ様に無理強いするわけにはいかない。
私は、すべてをリリアナ様に話した。
リリアナ様は、王命に逆らっても謹慎すれば済むと思っていたが、そうではないこと。
旦那様はすべてを覚悟してリリアナ様を逃がし、そして今は屋敷に私兵を集めて立て籠もり、国王の兵に包囲されていつ攻め込まれてもおかしくない状況であること。
両手で口元を覆い、驚いた様子で私の話を聞いていたリリアナ様は、やがてぽつりと呟いた。
「……わたしは、何も知らなかったのね」
……旦那様がリリアナ様を思い、何も伝えなかったのだから仕方ない。
唇を噛みながら俯いているリリアナ様を、私は黙ってい見ていた。
「こんなに愛されて守られていたのに、それを当たり前のように思っていたなんて。お父様にすべて押し付けて、自分だけ逃げ出したなんて、……わたしって酷い娘ね」
……旦那様はあなたを溺愛し、あなたを傷つけるもの、苦しませるもの、不安を感じさせるもの、すべてを排除していた。
ずっとそういう世界で生きてきたあなたが、それを当たり前に思うのは仕方の無いことだ。
だが、そのひたすら甘く優しい世界は終わってしまった。
……あなたが、それでもやはりその世界で生きていきたいと望むなら、私はそれに従わねばならない。
ただの護衛でしかない私が、主に強要するなど許されるはずがない。
それが、レオンの意志に背くことであっても、リリアナ様に従わねばならない。
「……帰りましょう、クロード」
意外な言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「……どうしてそんなに驚くのよ。……クロードの中のわたしって、そんなに冷たい?」
「いえ、そんなことはありません。……ですが、帰るとなると、王命に従わなければなりません。……リリアナ様は、エリオット王子が御嫌いでは?」
リリアナ様は天を仰ぎながら溜息を吐いた。
「……そんなこと言ってられないでしょ」
正直言って、私はリリアナ様が帰ると言い出すとは思わなかった。
出発前にグランブルグ邸で、エリオット王子との婚姻を絶対に嫌だと泣き叫んだリリアナ様。
あの時は、王命に逆らったらどうなるかを理解していなかったとはいえ、こうあっさりと帰ることを受け入れるとは意外だった。
「分かりました。では、帰る支度をします」
私はわずかな荷物をまとめて、王都に戻る支度を始めた。
「ねえ、クロード。……もし、わたしが攫って欲しいって言ったら、どうする? あなたは、わたしを攫って逃げてくれる?」
帰り支度をしている私に、ふとリリアナ様が寝床から身を乗り出して、声をかけてきた。