128. 最後の夜
「明日、ここを発つから」
レオン様は、寝床に座る私の左脇腹の傷の様子を確認しながら、淡々と話す。
私はそれを黙って聞いていた。
……旦那様は、何があっても決して戻るなと私に命じた。
本来ならば、レオン様を連れて国境を越えなければならないのに、私の弱さのせいで、旦那様の言葉に逆らい、明日王都へ戻る。
国王の兵が取り囲んでいるグランブルグ家へ帰る。
自分が情けなくて仕方がない。
命懸けでレオン様を逃がした旦那様の覚悟を無下にしてしまった。
どんな顔をして戻ればいいのか。
「……良かった。少し赤みが残ってるけど、ちゃんと傷は塞がってる」
私の脇腹に触れながら、レオン様が嬉しそうに笑う。
……王都に戻れば、もう会えなくなる。
レオン様はラリサ王女の夫君となり、私は一人残される。
……こんな風に近くにいることも、この髪に、この頬に触れることも出来なくなる。
目の前にあるレオン様の頬に触れようとそっと伸ばしかけた手を、私は握りしめて、そして引っ込めた。
こうなったのは私の弱さのせい。
私のせいでレオン様は戻ると言い出したのに、その私がいつまでも未練がましく出来るわけがない。
……諦めなければ。
もうこれ以上我儘を言って、レオン様を困らせるわけにはいかない。
レオン様に、もう薬も包帯も必要無いと言われて、私は沈んだ気持ちのまま自分のシャツを取り、腕を通そうとした。
それを、レオン様が制する。
私が腕を通そうとしていたシャツを取り、椅子の背もたれにかけた。
「……レオン様?」
私が首を傾げながら見上げると、レオン様は自分が着ているシャツのボタンに手をかけて、一つずつ外していた。
そして、すべてのボタンを外し終えるとシャツを脱ぎ、同じように椅子の背もたれにかけた。
私は慌てて目を閉じて、顔を背けた。
それからさらに衣擦れの音がして、ぱさりと床に落ちる音がした。
……レオン様は、何をしているのだ……?
「クロード、目を開けて。僕を見て?」
静かな空間にレオン様の声が響く。
「いけませんっ。出来ませんっ。早く服を着てください!」
私は決してレオン様を見ないように、強く固く目を閉じた。
「これが最後だから、クロードには僕を覚えていて欲しいんだ」
「……こんなこと、する必要は無い。……こんなことをしなくても、あなたのことは絶対に忘れないっ。あなたは私にとって、たった一人の人だから……絶対に忘れない」
「……クロード、お願い。……最後なんだ。……僕を見て」
レオン様の声が近づいて来る。
その声は泣いているのか、時折かすれていた。
「あなたが好き」
固く目を閉じて顔を背ける私の首に、レオン様がそっと手を回して抱きついてきた。
触れた頬が濡れていた。
レオン様の滑らかな肌が、私の肌に触れている。
その体は小さく震えていた。
「お願い」
……こんなに細く華奢な体で、どれほどの勇気を振り絞っているのか。
私は心を決めて、固く閉じていた瞼を開けて、レオン様を見た。
レオン様の赤い唇は小刻みに震えて、大きな目の淵には涙がいっぱい溜まっていた。
瞬きをするたびに、ぼろぼろと流れ落ちるその涙を、私は唇で受け止めた。
そして、私に抱きつきながらも震えているレオン様の体を、そっと両手で抱きしめた。
「あなたを愛している」
夜も更け、辺りは静まり返っている。
もはや暖炉の火も消えて、蝋燭一本だけの薄暗い小屋の中に、レオン様の透き通るような白い肌が浮かび上がる。
その頬は上気して薔薇色に染まっている。
目を閉じて眉根を寄せているレオン様の顔にかかる髪を、下から手を伸ばしてその耳にかけ、その柔らかな頬に触れる。
親指でそっと撫でると、レオン様が私を見下ろして、はにかむようにふふっと微笑む。
「……綺麗だ」
微かに吐息の漏れるレオン様の赤い下唇を親指でなぞる。
「……触れたい」
この唇に触れたい。唇を重ねたい。
その体を自分の方に引き寄せて、唇を重ねようとする私を、レオン様が目を閉じたままゆっくりと首を振って制する。
「ダメ、だよ」
レオン様が、唇をなぞっている私の親指をかぷっと噛んだ。
「……どうして?」
レオン様がうっすらと目を開けて、うっとりとした顔で私を見下ろす。
「……最後まで、僕でいたいんだ。……こんなに幸せなのに、……誰にも譲りたくない」
レオン様が探すようにしてそっと私の手に触れて、その指先を絡めてくる。
私はレオン様が絡めた指を深く絡めて、強く握った。
「……ねえ、クロード。……名前を、呼んで。僕の、名前。……声が、聴きたい」
目を閉じたレオン様が、息を漏らすように囁く。
「……レオン様」
「違、う。……レオンだ」
「……レオン」
「……そう。ねえ、もっと、名前を、呼んで」
「……レオン、……レオン」
「……ん、……もっと」
「……レオン、……レオン」
疲れたのか、レオンは私の胸の上でぐったりとしている。
私は、そのままレオンの背中に手を回して抱きしめながら、その髪を撫でていた。
そして少しだけ頭を持ち上げて、レオンの柔らかい髪にキスをする。
「……レオン、愛してる」
レオンが私の胸の上でむくっと顔を上げ、恥ずかしそうにこちらを見ている。
そのもじもじと恥じらう様子が、堪らなく可愛らしくて、私は思わずレオンを抱き寄せてその顔中に口づけた。
「愛してる。愛してる」
くすぐったそうに私の口づけを受けていたレオンが、そっと目を開けて私を見た。
その大きな青い瞳を見つめ返しながら、私はレオンの頬にもう一度口づける。
私をみるレオンの甘い眼差しに、胸が震える。
「……幸せだ」
「……僕も」
レオンが私の首に両手を絡めて、そっと私の頬に唇を寄せた。